峯ケ塚古墳と阿蘇ピンク石、そして継体天皇                                                  「サイトの歩き方」も参照してください

近畿日本鉄道・南大阪線の古市駅は急行電車が停車する。大阪天王寺から約二十分、線路を跨いで設けられている駅舎の改札を出て階段を下りると、直ぐ目の前に踏み切りがあって、四方に道路が通じている。ヤマトタケル所縁の白鳥神社前を抜けて東へ向かうと石川の堤に突き当たり、更に進むと飛鳥の地に至る。日本書紀、推古天皇二十一年十一月条に『掖上池・畝傍池・和珥池作る。また難波より京に至るまでに大道を置く』と記された古代の官道、竹内街道が時を超え今に姿を留めたもので、反対に西へ1qばかり進むと軽里に着きます。その軽里二丁目にあって南北を清寧天皇陵と仁賢天皇陵にはさまれて、五世紀末から六世紀初めに築造されたと思われる峯ケ塚古墳は、江戸期には日本武尊陵ではないかとする根強い伝承が地元にはあったようです。周囲を含めた「公園化」整備が進められる中、平成四年の調査の結果、金銅製の冠、馬具、捩り環頭太刀などを初めとする3,000点以上もの豪華な副葬品に混じり、阿蘇溶結凝灰岩の岩石片が見つかりました。しかも、その石棺材と思われる阿蘇産の凝灰岩は通称「阿蘇ピンク石」と呼ばれる物と、そうではない灰色の物の二種類が確認されたのです(下の画像参照)。

従来、この阿蘇ピンク石が近畿地方に石棺用の素材として持ち込まれたのは、市野山古墳(允恭天皇陵)の倍塚・長持山古墳(五世紀後半の築造、円墳、墳径約40m)から出土した二号舟形石棺が最初であると考えられてきました。それは「棺の身の部分のみピンク石を含む」石材で造られていることから、

  石棺用の石材を切り出す時、普通の凝灰岩の層が途中からピンク石質に変化した部分が「たまたま」棺身として使用された

ものを、古墳築造に関わった誰かが石材そのものの珍しさに目をつけ、大王など権力者専用の石棺材として以後、特別に「注文」したのではないかとする見方が一般的だったのですが、大王級の副葬品であふれる峯ケ塚古墳から、全く同じ二種類の阿蘇凝灰岩の石材が見つかったことは、それとは別の見方をすることも可能になりそうです。と言うのは、ピンク石の層に「たまたま」出会ったのが最初であったとしても、石棺用に石材を切り出すのであれば相当「幅」に余裕をもたせて作業を行うと考えられますから、その「後から」阿蘇馬門産の石材を使う場合、二種類の凝灰岩が「たまたま」混じる確率は極めて低くなるでしょう。むしろ、蓋と身が異なる素材になるように発注元から「注文」があったと考えた方が自然だと思うのです。それはさておき、阿蘇ピンク石の石棺は継体帝の墓だとされる今城塚古墳でも見つかっています。誰かが、九州から近畿へ運び込んだ訳です。それが誰なのかは、もう見当が付いています。日本書紀の次の記述が大きなヒントになります。

長持山2号棺  峯ケ塚古墳出土  

  夏五月の辛丑の朔に、詔して曰く「食は天下の本なり。黄金満貫ありとも、飢を療すべからず。白玉千箱ありとも、何ぞよく冷を救わん。(中略)
  胎中之帝(応神)より、朕が身に至るまでに、穀稼(もみいね)を収蔵めて、儲粮を蓄え積みたり。遥かに、凶年に設け、厚く良客を饗す。
  国を安みする方、更にこれに過ぐるはなし。故、朕、阿蘇仍君(未だ詳らかならず)を遣わして、また、河内国の茨田郡の屯倉の穀を運ばしむ。

これは継体安閑に続いて帝位を継いだとされる宣化が、大王としての仕事始めとして行った「那津(博多)の官家」作りにかかわる詔(みことのり)の一部で、海外からの賓客も頻繁に訪れる「筑紫国」は都から見て遠方にあるので緊急時に、すぐ援助物資を十分届ける訳にはゆかない。応神帝の昔から、凶作に備えて「穀(もみ)」を蓄えておく知恵が我々にはある。『私も、阿蘇の君を運搬責任者に任命して茨田屯倉で収穫した穀を』那津に運ばせるから、大臣たちもそれぞれ、

  蘇我大臣稲目宿禰は尾張連を遣わして、尾張国の屯倉の穀を運ばしむべし
  物部大連麁鹿火は、新家連を遣わして、新家屯倉の穀を運ばしむべし
  安倍臣は、伊賀臣を遣わして、伊賀国の屯倉の穀を運ばしむべし。

と命じたもので、大王が政権基盤である屯倉の収穫物運搬を任せるのですから、阿蘇の君は大臣、大連そして大夫たちと並ぶ信任を帝から得ていた人物だったと見られます。この阿蘇の君について日本書紀は「未だ詳らか」ではないなどと白を切っていますが、その姓名からして九州肥の国にゆかりの深い豪族であることは間違いありません。殊更に資料を探すまでもなく古事記が情報を与えてくれます。神武帝の段、最終項を見ると、

  ここに神八井耳命、弟建沼河耳命に譲りてもうしけらく(中略)「僕は汝命を扶けて、忌人となりて仕え奉らん」
  故、その日子八井命は茨田連、手島連の祖、
  神八井耳命は、意富臣(多氏)、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家君、(中略)都祁直等の祖なり。

とあります。神様方の事情に詳しくない読者の皆さんのために解説すると、古事記は、

  阿蘇君という豪族は、多氏などと同じ神武帝の息子・神八井耳命の子孫である

と述べている訳です。「先代旧事本紀」の国造本紀は、これとは別に『火(肥)国造は神八井耳命の子孫、志貴多奈彦の子供で遅男江命に始まる』と伝え、一方「肥前風土記」には、

  肥前の国は、本、肥後の国と合わせて一つの国たりき。昔者、磯城の瑞籬の宮に御宇しめしし御間城の天皇のみ世、肥後の国益城の郡の朝来名の峯に、
  土蜘蛛、打猴・頸猴二人あり、従衆一百八十余りの人をひきい、皇命にさかいて、降服い肯えざりき。
  朝廷、勅して肥君らが祖、健緒組をやりて、伐たしめき。(中略)やがて健緒組の勲をあげて姓名を賜いて火君健緒純(タケオクミ)と云う

ともありますから、各豪族たちと大王家の祖先が「兄弟」であったのかは兎も角、火(肥)国の支配者たちが古くから帝室とのつながりを持っていた(その様な伝承があった)事を窺わせます。また、日子八井命の子孫だとする茨田連ですが、この豪族が直接管理運営していたと思われるのが先に見た茨田屯倉そのもので「新撰姓氏録」にも皇別として名前が掲載され、多朝臣と同祖であると記されています。更に、この一族から継体帝の妃である関姫(茨田連小望の娘)が出ていますから、六世紀初めに大王となった袁本杼命親子たちにとって阿蘇の君は、信頼のおける相当近しい存在であったと思われるのです。(実際に大王と阿蘇の君が姻戚関係にあったかどうか分かりませんが、多氏を媒介?として古事記が双方の血縁による古くからのつながりを伝えている背景には、何らかの根拠があったとも推測されます)

茨田堤=本題からは少し外れますが、日本書紀の仁徳天皇十一年冬十月条にある茨田堤の話を紹介しておきます。帝は難波高津宮の「北の郊原」を掘り、
南の川の水を引いて大阪湾に注ぐ水路を開いて「堀江」を造ります。この折、同時に茨田堤を築こうとするのですが、難所が二つありどうしても崩れてしまいま
す。ある夜、夢の中に神が現れ『武蔵人強頸、河内人茨田連衫子の二人を河伯に祭らば、必ず塞ぐこと獲てむ』と人身御供の案を提示します。初めに強頸が
言われるまま水に入り一つの堤が出来上がり、次は衫子の番になるのですが、ここで彼は二つの匏(ひさご、瓢箪)をおもむろに取り出し川の中に投げ入れて
河の神に対峙します。『河伯が私を犠牲に求めているらしい。真の神なら、この匏を沈めてみせろ』という訳です。勿論、空の匏が沈むことはありません。河伯
との対決に「知恵」で勝負した衫子は、己の身を犠牲にすることなく茨田の堤を完成させ、後世に名を残したのです。
また、古事記は仁徳の段において『秦人をえだちて茨田堤また茨田三宅を作り、また和邇池、依網池を作り、また難波の堀江を掘りて』と記しています。

健緒組(タケオクミ、健緒純)は余り聞きなれない神様ですが、多氏の始祖ではないかと考えられている武恵賀前命、また阿蘇国造や科野国造の祖である健磐龍命(健五百武命と同一?)などの神々と「兄弟」だとされ、神八井耳命の子孫・敷桁彦命(シキタナヒコ、志貴多奈彦)の子供に位置付けられている神様で、熊本市では健軍神社の祭神として祀られています。火(肥)の国、阿蘇を代表する実力者(の象徴)であったことは確かなようです。さて、今回とりあげた阿蘇ピンク石については、真の継体陵ではないかと思われる今城塚古墳から出土したこともあり、継体帝の時代に勃発した「磐井の乱」と関連付けて語られる事が多いようですが、上でも述べているように、大王陵の倍塚(長持山古墳)を筆頭に築山古墳(瀬戸内市)、兜塚古墳(桜井市)、野上古墳(奈良市)そして峯ケ塚古墳(羽曳野市)など、明らかに六世紀初め頃までに築造されたと考えられる古墳の石棺材としてピンク石が利用されていますから、管理人としてはむしろ継体等の陵墓造りに関わり、記紀の編纂過程において継体一族の事績を後世に伝えようとした人々が、何故、帝と九州火(肥)の国を関連付けようとしたのかを忖度してみたいと思うのです。つまり、いつもの妄想なのですが……。

英知或る先人として例えられた応神天皇は継体一族にとって誉れ高い「祖先」そのものでした。その応神が偉大な大王として君臨したのは継体から見て「一世紀」近くも昔の出来事だったのですが、その間「王位」は仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略から安康・賢宗・仁賢さらに武烈と目まぐるしく受け継がれ、遂には『まさに今絶えて継嗣無し。天下、何れの処にか心を繁けん』までの危機的な状況が生まれます。そして臣下たちに請われた袁本杼命は、何度も辞去した挙句しぶしぶ頼まれ大王になった、というのが書記の言い分でした。が、果たして事実はどうだったのか?!「新撰姓氏録」は応神以後、仁徳から武烈に至るまで十代にわたる王家の子孫・分家をただの一人も記載していません。まさか恐竜のように「絶滅」したのでしょうか!そうではなく、応神を「祖」と仰いで登場した継体は、恐らく応神「王朝」の正統を強く主張したのです。彼の感覚では「応神」の名跡を継ぐべき純粋な子孫は自ら以外に考えることが出来なかったのでしょう。(つまり、他の氏族が大王の末裔を名乗ることを許さなかった)

神話の中でもホムタワケは福岡宇美で誕生しているのですから、若し、そのような推理が成り立つのであれば、継体の意識の中で九州の地が自らを含めた一族たちの原点として捉えられていたとしても不思議ではありません。考古学の分野において「近畿家形石棺の祖型」とされる「中肥後型舟形石棺」である長持山2号石棺(上の画像参照)が大阪藤井寺に運び込まれたのは「5世紀後半」だったと見られています。袁本杼命が産まれた時期と同じなのは只の偶然としても、阿蘇と継体の繋がりは深い事情が横たわっているに違いありません。古事記が開化帝の系譜の中で、

  息長宿禰王、この王、葛城の高額比売を娶して生める子息長帯比売命、次に虚空津比売命、次に息長日子王。
  この王(息長日子王)は吉備の品遅君、針間の阿宗の君の祖。

と書き残している「阿宗(あそ)の君」が、これまで見てきた阿蘇の君と無関係ではないはずですが、旧播磨国揖保郡(現在の龍野市誉田町)の地に阿宗神社が建ち、息長日子王を今も祀っている事以上の裏付け資料を探し出すことが出来ませんでした。尤も、この阿宗の君は彦坐王を頂点とする丹波一族の一員で、応神の父親の配偶者とされる神功皇后の姻戚ですから、謎の解明には、まだまだ時間がかかりそうです。

・このページで紹介している峯ケ塚古墳・石棺材の画像は羽曳野市教育委員会の許可なく転載することはできません]

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