御寺」の位牌に隠された秘密                        サイトの歩き方」も参照してください。

はてさて、今回のお話を、何処から、どの様に切り出したものか、実は、正直言って悩んでいます。物語には、当然「始まり」がある訳で、文章は、その書き始めが何より肝心だからです。ところが、このページで紹介をする人物についての資料を一つ一つ集めれば集める程、疑念が果てしなく広がりを見せ、底なし沼の淵に足を突っ込んだまま、立ち往生しかねない……、そんな思いが脳裏を横切るのです。発端は、推理作家の松本清張が古代史に関する著作の中で触れていた一行足らずの文言だったのですが…。

京都が「平安」を願って、予め都市計画に基づき建設された「街」であることは、皆さんも良く御存知だと思います。手近にある地図を見てもらえば、東西南北に碁盤の目のように整然と道路が配置されている様子が手に取るように分かるでしょう。その京都、聞く人ごとに返ってくる答えの内容は微妙に異なりますが、旧都の領域内には何と二千を越える寺院が存在しているそうです。キツネくんと紅い鳥居でお馴染みの伏見稲荷大社の北方1キロ、京都御所から見て南南東六キロの地点に、京都で唯一『御寺(みてら)』と呼ばれる伽藍が存在しています。

瓦屋根に翻る鯱。本文と関係はありません。

天長年間(824〜834)、弘法大師・空海(くうかい、774〜835)が建立した法輪寺に源を発すると言う総本山御寺泉涌寺(せんにゅうじ)は、十三世紀の貞応三年、後堀川帝の勅旨によって官寺となったのですが、仁治三年(1242)僅か十二歳で亡くなられた四条天皇の葬儀が同寺で執り行われて以後、皇室との縁が特に深まり、霊明殿には歴代の尊牌(位牌)が安置されていることから、天皇家の菩提寺としての性格が色濃い寺院として「みてら」と称されるようになったのでしょう。ところで、その「尊牌」について、大変興味深い事実があります。やはり、お話は、そこから始めることにしましょう。

WEBで調べれば直に分ることですが、泉涌寺には「全ての」天皇の位牌が祀られている訳ではありません。尊牌は天智天皇(てんじてんのう、626〜671)以降の歴代天皇および皇族に限られているのです。尤も、我々のような下々とは異なり、神代まで連綿と連なる稀有な家系のことですから、皇祖アマテラスに始まる膨大な「全て」の牌を祀ることが大変なことは重々承知しているのですが、それにしても何故、第三十八代という中途半端な区切り方がなされているのか、不思議でなりませんでした。例え寺側が、そのような形でお祀りしたいと申し出たのだとしても、それを「許した」のには何か理由がなければなりません。答えは、複雑多岐に渡る系図の中に隠されているようです。(いつも言うように、下の系譜は、飽く迄も略系図に過ぎません。個々の関係について詳しく知りたい方は、それぞれ検索してみて下さい。なお、大友皇子には後世になってから「弘文天皇」の追号が贈られています。また、元明天皇と草壁皇子は夫婦です)

  続日本紀・巻32より

大化の改新(645)から十有余年、斉明女帝(皇極・重祚)の跡を襲った天智天皇(てんじてんのう、626〜671)を待っていたかのように半島情勢が緊迫、高句麗からの援軍要請に応えて三万余名の救援軍を派遣したものの白村江の戦いに破れ、日本は大陸への足がかりを失います。政権の発足当初から「大皇弟」であり天智八年藤原鎌足(中臣鎌足)に大織冠を授けた折には「東宮大皇弟」と尊称され、次の皇位を約束されていた大海人皇子(天武天皇,?〜686)でしたが、天智十年正月、天皇が実子の大友皇子(弘文天皇)を太政大臣に任命したことで、皇位の継承に火種を残す結果となり、天智十一年(672)六月「壬申の乱」へと歴史が激しく動くことになったのです。実力で皇位を手中に収めた天武は飛鳥浄御原で即位しますが、この時、正妃(皇后)となった菟野皇女(持統天皇)が天智の娘であったことは皆さんも、既によく御存知のことだと思います。

井上内親王は「呪詛」の罪に連座したのか

動乱の年から丁度一世紀、光仁天皇の宝亀三年(772)三月二日の出来事を『続日本紀』は、次のようにいとも簡略に伝えています。(従って、続紀の言う「罪」の具体的な内容も分りませんし、どのような詮議が何時、誰によって行われたのかも不明です。たった一行で時の皇后の地位剥奪を記すことは余りにも不自然なので、元々続紀中にあった文章が、後に何らかの理由で削除された可能性が濃厚です)

  皇后・井上内親王は呪詛の罪に連座して、皇后の地位を廃された

悲劇の内親王は聖武天皇と県犬養広刀自との間に生まれ、一時期は伊勢斎王を務めていた女性で、弟の安積親王が亡くなられたことで斎宮を退かれた後、施基皇子の子・白壁王(のちの光仁天皇)に嫁ぎ他戸親王(おさべしんのう)を産んでいます。『続紀』は宝亀三年五月、皇太子の他戸親王を廃して庶人とした、とする記述の中で、

  井上内親王が呪詛により大逆を計っていることは一度や二度ではない

と、証拠めいた事実には一切触れず、何やら予告めいた文言を連ねていますが、天皇の同母姉が死去した宝亀四年十月十四日から一週間も経たない同月十九日、今度は、

  天皇の姉、難波内親王を呪詛した

として井上内親王と息子の他戸親王を大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の邸宅に幽閉したのです。それから一年半、宝亀六年四月二十七日、内親王親子は「共に(同じ日に)」亡くなったと言います。『霊安寺御霊大明神略縁起』は、内親王の「巫蠱」(ふこ、呪詛)の内容を記し、一方『類聚国史』という文献は他戸親王が「暴虐甚だしく」「父帝とは不和」であったと伝えていますが、ここで、素朴な疑問が首をもたげます。それは、内親王の履歴を見てきた、自然な感想が齎すものです。(「霊安寺・略縁起」は内親王が「雷神」を産んだとも伝えています。雷神は古来、祟り神とされています)

聖武天皇(しょうむてんのう、701〜756)の皇女であったとは言え、母方の実家が宮廷実力者の一員ではなかったことから、井上内親王(いかみないしんのう)は僅か五歳の時に、その生涯を占いにより決定されていました。伊勢斎王が皇女たちの進むべき途の一つであったにせよ、彼女の未来は、既に、周囲の大人たちの手によって描かれてしまっていたのです。十一歳で一生仕えるべき神々の社に向かった内親王が都へ戻ることになったのは、実の弟・安積親王(あさかしんのう、728〜744)が「脚病」によって急逝したからに他なりません。皇太子(母は藤原光明子)が夭折した時点で唯一の皇子であった彼が、数え年十七歳の若さで「脚病」で急死した事自体、怪しげな出来事だと言わねばなりませんが、弟の死は、皮肉なことに姉・井上に新たな人生を踏み出させる結果を生んだのです。(記録によれば安積親王は難波行幸の際、桜井の地で「脚病」にかかり恭仁宮に引き返したのですが、二日後に亡くなっています)

  日本紀略より   暗雲漂う  

新版 古寺巡礼京都〈27〉泉涌寺

新品価格
¥1,728から
(2016/10/29 11:31時点)

三十を目前にするまで「無位」(朝廷内での位を持たないこと)だった白壁王(しらかべおう、後の光仁天皇、709〜781)は、天平九年、従四位下を授けられますが、その翌年、二十一歳になった阿倍内親王(あべないしんのう、母は光明子、718〜770)が異例の女性皇太子に冊立され、彼女は天平勝宝元年、父の譲位を受けて即位します。この方が孝謙天皇(のち重祚して称徳天皇)で、何かと話題の多い有名人物なのですが、お話しの本筋からは外れてしまうので、興味のある方は別のページを御覧になってください。天智天皇の子、施基皇子の六男だった白壁王に帝位が転がり込んだのは、大変失礼な表現ですが、正に「棚からぼた餅」とでも言うしかありません。

孝謙天皇が即位されてからの宮廷の有様を『続日本紀』は、

  天平勝宝より以降、皇位を継ぐべき人が決定しなかったので、罪し廃される者が多かった

と正確に描写していますが、上の略系図でも明らかなように天武の跡を継ぐべき草壁皇子(母は持統天皇)が二十七歳の若さで没した事が最も大きく影響していたとは言え、天智・天武両帝の皇子は誰一人として天皇の位を継がない(継げない)正に異常な時空が宮廷内を支配していたのです。個々の「事件」の詳細は省きますが、要するに道鏡事件で紛糾していた称徳天皇の跡継ぎを廻って人選が進む中、消去法で選ばれた王が彼だったのです。そして何より肝心な事は、彼が「天智天皇」の血を受け継ぐ者であった、という事実です。六十二歳で天皇位についた光仁帝に井上内親王が嫁いだのは天平十八年頃、そして夫の即位に伴い彼女が皇后となったのは五十三歳になった年でした。更に、翌、宝亀二年には二人の実子・他戸皇子が皇太子に立てられたのです。

  思いがけない災難に遭遇することを用心して、酒をほしいままにして迹を晦ましていた

ほど政局から遠い存在であった夫・白壁王が「遺勅」によって天皇になり、我が子・他戸皇子が思いもかけず皇太子の位に就いたのです。その正夫人である井上皇后が、一体、何のために誰を「呪う」というのでしょう。二人の死後、日照り、飢饉、異常な風雨が続き、宝亀七年五月朝廷は「大祓」を余儀なくされますが、それでも天変地異は衰えず九月二十六日には、

  瓦や土塊が庁舎や都中のあちこちの屋根に落ちてくる

不思議な現象が起こり、二十日余りも続きました。翌年三月『宮中でしきりに奇怪な事が起こるため』再び「大祓」を行い、僧六百人を招いて大般若経を転読させたりもしたのですが、宝亀八年九月、ついに内大臣の藤原朝臣良継(ふじわら・よしつぐ、716〜777。770年頃改名するまでの名は宿奈麻呂)が亡くなり、十一月には天皇が、そして十二月には皇太子(山部親王、後の桓武天皇)までもが病気になってしまいました。井上内親王の遺骸が改葬され、その塚を「御墓」(みはか)と称して、墓守が置かれることになったのは、皇太子不例の三日後という素早さだったことが、朝廷内の関心がどの辺りにあったかを如実に物語っているようです。『日本紀略』が伝えているような藤原氏一族による謀略が存在していたのかは別としても、井上内親王親子の無実は疑いようもありません。(先に見た『霊安寺・略縁起』は「井上の皇后と他戸の親王とをば、百川の計にて、同じき宝亀三年、宇智郡へ流し奉りて」と明言しています)

完全に途絶えてしまった「天武」の血筋

白壁王担ぎ出しの張本人と目される藤原朝臣永手(ふじわら・ながて、714〜771)の思惑が何であったのか、今となっては知る術もありませんが、聖武天皇(天武天皇の曾孫)の娘・井上内親王と天智天皇の孫・白壁王の間に生まれた他戸皇子は文字通り天智・天武両帝の血を受け継ぐ理想的な皇子だったと言えます。(更に、両親の母方は白壁王が紀氏、内親王が県犬養氏で共に実力者ではありません。つまり余計な外戚による口出しの心配も無い訳です)ここで、お話しは、やっと今回の主題に辿り着きます。では、もう一度、上の略系図を見て下さい。

第四十代天武天皇から凡そ百年の間連綿と続いてきた「天武」系の血筋が、他戸皇子の死によって途絶え、光仁天皇(というより、むしろ子の桓武天皇)の即位は「天智」系の完全復活を意味する重大な出来事だった、という訳なのです。泉涌寺に安置されている位牌の謎を解く手掛かりの一つが見えてきましたか?奈良朝の政治的な混乱の全てを一つだけの物差しで推し量ることには無理があるかも知れません。しかし「天皇の配偶者」の出自が重要なヒントを与えてくれることもあります。光仁と高野新笠の子・桓武天皇(かんむてんのう、737〜806)の皇后・藤原乙牟漏は藤原良継の娘、夫人・藤原旅子は藤原百川の娘で、二人の后妃が三人の天皇を産んでいるとしたら、皆さんは、どのように思われますか?その桓武天皇の和風諡号は皇統弥照天皇でしたが、延暦十九年(800)早良親王の怨霊を鎮めるため「崇道天皇」の称号を贈った桓武は、同七月、井上内親王にも「皇后」を追称し、お墓を「山陵」と改称させています。

   
   
 人気の頁   山背大兄王と聖徳太子   スサノオ国譲り   オオクニヌシと出雲大社   大神神社と大物主   石川五右衛門の仲間たち   トランペットの正しい吹き方