文字の伝来するまで縄文の芸術家たちの生活               「サイトの歩き方」も参照してください。

無文字の文化を現代人は決して実感することが出来ませんが、そもそも「文字」の無い世界とは一体どのようなものだろう。実は、こうして或る一つの考えを表そうとする時、私たちは既に「言葉」を無意識のうちに脳内の何処かで知識として自己の内部に蓄積している文字(表示のための記号)に転換しながら文章を書き進めているはずなのです。詩人の中原中也は詩論の中で「言葉になる前の原初的なイメージ」を「認識以前・名辞以前」という独特の言い回しで人々に伝えようとしましたが、凡人の筆者には勿論「純粋なイメージ」だけの世界など構築すること自体不可能です、それはさておき。余り難しく考えることは止めて、文字の無い時代に古代人たちがどのような日々を送っていたのか想像してみましょう。

 縄文時代 約15,000年前から約2,800年前ころまで           草創期 1.5萬年前~1.2萬年前
  早期 1.2萬年前~7千年前  前期 7千年前~5.5千年前  中期 5.5千年前~4.5千年前  後期 4.5千年前~3.3千年前  晩期3.3千年前~2.8千年前  

実は今回のテーマを思いつく原因となった「もの」が二つあります。一つは青銅器の銅鐸で、もう一つが縄文時代に造られた遮光器土偶です。日本の縄文時代は長く、既に一万数千年も前に始まっていたと考えられていますが、縄文人たちが採集・狩猟生活から稲作(陸稲)を取り入れた定住型の暮らしを形成してゆく過程で、様々な土器が次々作られました。勿論、当初はすべてが生活に必要不可欠な「実用品」だったと思われるのですが、彼らはその一方で生活とは一線を画した「余技」も楽しんンでいたのです。縄文土器は小学校や中学校の教科書などでも紹介されていますから、縄文中期を代表する火焔型(深鉢型)土器をご存知の方も多いことでしょう。この形の土器は新潟県域とりわけ信濃川中流域に集中して作成され、見つかった時、器の外側に黒ずんだ焼け跡が付着していることから、食べ物を煮炊きする日用品だったと考えられていますが、その外縁に取り付けられた過剰とも思われる装飾の実体が、本当に「火焔=激しく燃え上がる炎」だったのか疑う研究家もいるようです。

 火焔型土器  人面装飾付土器片  土面

 遮光器土偶  つがる市出土品 

深鉢型の「火焔」が何かを象徴するものであったのか、或いはめらめらと燃え盛る炎の写生であったのかの議論は置くとしても、上段中央で紹介している「人面」装飾は明らかに「非実用的」で意図的な表現であり、縄文人作家の遊び心?を感じさせる作品の一つです。これが右側の土面(亀ヶ岡遺跡出土)になると、明らかに「ヒトの顔」を形どった造形物として「何者」かの存在を暗示しているようにも感じられるのですが、この「面」が「目・鼻・口」といった顔の造作を忠実になぞっているのに対し、ほぼ時代的に変わらないと考えられている遮光器土偶では、未来を見通す全能の存在を暗示するかのような「目」だけの表現に変化しているのです。土面と土偶の作者たちの間に「面識」はあったのでしょうか?目に最大の特色がある点を重視するなら、これらは同じ作者か或いは造形集団に属した人々の手によって生み出されたものだと考えられます。ただ、筆者には素朴な疑問が一つあります。それは土偶や土面の作者たちの生活に関わる事柄です。

学者たちの研究によれば縄文時代を通じて人口は激しく変動しました。ピーク時は凡そ四千年前ころで縄文人は東北関東を中心に約二十六万人程度だったと考えられています。それが晩期に入ると急激に減少に転じ、十万人にも満たない水準にまで落ち込んだと専門家は推定しています。気候的な変動要因だけでは到底説明のつけようがありませんが、そのような困難な非常時に遮光器土偶は生まれているのです。一部では陸稲などの栽培も取り入れ、狩猟と焼き畑農業を行っていたとも見られていますが、当時の食糧事情はなかなか厳しいものだったに違いありません。そのような「冬の時代」に、彼らは何故、非生産的な土偶の製造に精力を傾けたのか、不思議でなりません。存亡のかかった正念場であったからこそ「豊穣=多産」を象徴する健康的な若い女性の姿に将来の望みを託したという解釈は分からなくもないのですが、それでもなお「目」を巨大化させた縄文人の真意が今一つつかみきれないのです。像の作成は片手間に仕上げられるものではなく、土の匠たちは食糧生産や狩猟活動には一切参加せず、ひたすら土偶の製造に明け暮れていたのだとすると、その生活を所属していた集団(の長)が保障していたと考えるしかありません。

最後になりましたが肝心の「情報」伝達に目をむけてみましょう。遮光器土偶は主に東北地方の各地で生み出されましたが、その特異な姿を真似たと見られる土偶は海を渡った先にある北海道でも出土し、遠く関東・中部・近畿にまで匠たちの作品は影響を与えています。無文字の文化ですから材料探しから粘土づくり更には焼成の温度管理など、製造に関わる全ての必要な事柄は「現物見本」と口伝に頼るしか無かったでしょう。重い土偶を背負い、幾日も幾日も歩き続けて彼らは遠くの住民たちの許に届けました。その「見返り」が何であったのかは、もう知るすべがありませんが、何かしらの使命感のような心持が縄文人の行為を促していたのかも知れません。今からほぼ3000年前、お隣の大陸では殷王朝が倒れ、中原を離れた三星堆では異様な古蜀文化が終焉を迎えようとしていました。「山海経」は『東方の海中に黒歯国があり』『黒歯の国に俊帝の子孫がいる』(巻第十四、大荒;れ東径)と意味深長な文言を伝えています。果たして幾つものパズルの断片は一つの「絵」に組み合わさることがあるのでしょうか。

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