もう一つの白鳥伝説、悲劇のホムワケ                              サイトの歩き方」も参照してください

景行帝の息子・ヤマトタケル(倭建)のお話ほど有名でも、また感動的でもありませんが、記紀は大王の王子にまつわる、もう一つの「白鳥伝説」を伝えています。その主人公が垂仁帝と佐穂姫(佐波遅比売=記)との間の一粒種ホムツワケ(品牟都和気、誉津別)で、極めて特異な出生譚を始め、記紀は彼の数奇な前半生を物語り風に記録しています。母・佐穂姫は王族の一員である彦坐王の娘であり、彼女自身皇后の立場にあったのですが「権力」という魔物に摂りつかれた兄・佐穂彦にそそのかされて帝位の奪取、夫の殺害計画に加担します(『吾と汝と天の下治らさん』古事記)。目論みは直前になって露見、身重だった姫は兄と稲城(いなき、砦)に立てこもり、王子は陣中で産まれたのです。力士(ちからびと、優秀な兵士)たちの尽力によって、独り、砦から助け出された王子の命名について帝が、

  およそ子の名は必ず母の名づくるを、何とか是の子の御名をば称さん

と敵陣の中に留まっている皇后に問いかけると佐穂姫は、

  今、火の稲城を焼く時にあたりて、火中に生れましつ。故、その御名は本牟和気の御子と称すべし

と言ったので、彼の名前が決まったのだというのです。記紀神話に親しんでおられる皆さんの事ですから、この「火中」生誕のお話には「前例」があることをご存知の事と思います。それが天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と大山津見神の娘・コノハナサクヤヒメとの婚姻に関わるお話しで、わずか一夜を共にしただけで懐妊した姫は、

  妾は妊身めるを、今、産む時になりぬ。是の天つ神の御子は、私に産むべからず。故、請す。

と天孫に打ち明けますが、彼が『サクヤヒメ、一宿にや妊める。是れ我が子には非じ、必ず国つ神の子ならむ』と疑心を顕にしたため姫は、憤慨、戸の無い八尋殿を作り、その中に入り、土をもって建物全体を塗り固めて『天つ神の子なら傷一つ負う事もないでしょう』と言い放ち、

  産む時にあたりて、火をその殿に点けて

三人の息子(火照命、火須勢理命、火遠理命=穂穂手見命)を無事に出産したのです。言うまでも無く火遠理=ホホデミは神武の祖父であり、天つ神の象徴として記紀が特別扱いしている存在なのですから、同じような環境の元で生まれたホムツワケもまた「特別な」王子であったと考えるべきだと思います(極、単純に考えて、実は彼が『火の国』うまれなのだと示唆しているかも知れません)。妻の生家の反乱にも関わらず、垂仁帝は王子を『愛みたまいて、常に左右に在きたまう』可愛がりようでしたが、彼は生まれつき大きな問題を抱えていました。記紀は言います。

  帝は御子を連れて、小船を市師池や軽池に浮かべて遊ぶなど大変可愛がったのだが、八拳髭心の前に至るまで真事とはずの有様だった。
  だが、或る日、空高く行く鵠(くぐい、白鳥)の声を聞いて、初めて言葉(『あれは何だろう』)を発した。
  王子が話し始めた事を喜んだ帝は「誰か、その鳥を捕らえることが出来るか」と下問、是に鳥取造の祖・天湯河板拳が応じて、
  遠く飛び続ける鵠を追い、やっと出雲に至って捉えることが出来た。又、或る人は但馬国で鵠を得たとも言っている。

鳥取造の祖が献上した鵠を「もてあそぶ」ことで王子は言葉を自在に操ることが出来、湯河板拳は沢山の褒美と姓(かばね)を頂くこととなり目出度しめでたし、の大円団を装う書紀に異論を差し挟んだのが古事記の編者たち。確かに山辺に住むオオタカという人物が「紀伊−−播磨−−因幡−−丹波−−但馬−−近江−−美濃−−尾張−−信濃−−越」とひたすら鵠を追いかけ捕獲して帝に献上したのだが、

  王子は思うように話すことが叶わなかった。帝は、落胆し憂いていたが、或る夜『我が宮を御舎(宮殿)の如く修理めたまわば
  御子、必ず真事とはん』のお告げを夢に見た。そこで占なってみると『その祟りは出雲の大神の御心』であることが分かったので、
  曙立王、菟上王兄弟を介添えとして王子を出雲の地に向かわせ、大神を鄭重にお祀りしたところ、忽ち、言葉を発せられた。

やっと心の閊えが降りた帝は、とても喜ばれて菟上王を再び出雲に派遣して「神の宮」を造らせたとあります。「姓氏録」右京神別の鳥取連の項目には先祖が「出雲国宇夜江」という所に詣でて「鳥を捕らえて献上した」とあり、この「宇夜江」が出雲風土記に云う「出雲郡健部郷(現在の簸川郡斐川町字宇屋谷)」であるとするなら、記が詳述している「祟り」云々はイリ政権の始祖・崇神帝と大物主神との伝承を下敷きにした創作である可能性もあります。ただ管理人としては、この宇屋谷(正しくは斐川町神庭宇屋谷)が、三百五十八本もの銅剣など(銅鐸6個、銅矛16本)が埋められていた斐川町の荒神谷遺跡と僅か数百メートルしか離れていない点に着目して、古代出雲の実像に迫りたい誘惑に駆られるのですが、ここは、ぐっと我慢して先に進みます。(些細なことですが書紀は垂仁二十三年秋九月条において『誉津別王は、是、生まれ年既に三十』と書き起こしていますから、書紀の言い分が正しければ、彼は父親が即位する6年前には誕生していなければなりません)

これだけの「伝説」の持ち主であれば、さぞや立派な王族に成長し、青史に残る様々な業績があるだろうと考えるのが普通ですが、この王子ホムツワケが次に表舞台に現れるのは三百年ほども経過した七世紀になってからの事で、しかも正史ではなく私史の引用文という曖昧な形での登場の仕方でした。

釈日本紀  垂仁陵  成務陵  

オノコロ共和国の主役でもある継体帝について古事記は『品太王の五世の孫、袁本杼命、伊波禮の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき』と書き記し、日本書紀も『男大迹天皇(またの名は彦太尊)は、誉田(応神)天皇の五世の孫、彦主人王の子なり』とだけ記して応神以降の詳しい系譜を一切記録していません。そこから「継体は武烈までの王統とは全くことなる血筋の大王」であるといった見方が勢いを得ることにもなる訳ですが、継体の研究で特に注目を集めた中世の資料が存在しています。卜部兼方が十三世紀末頃に編纂したものと考えられている『釈日本紀』(上左の画像)がそれで、述義九第十七には『上宮記曰く、一云』と前置きした後、

  凡牟都和希王−−若野毛二俣王−−大郎子−−于斯王(彦主人王)−−乎富等大公王(継体)

の系譜が綴られ凡牟都和希王が「誉田天皇(ホムタワケ)」であると明言しています。(『上宮記』そのものは専門家たちの内容分析により、記紀に先行する七世紀頃に書かれたものであると評価されています。兼方は、その上宮記に引用された別の資料を孫引きしている訳で、上宮記そのものが上記の系図を伝えている訳ではありません)さて、ここまで読んで頂いて何か「おかしい」と感じた貴方!は明晰な頭脳の持ち主です…閑話休題。

「釈日本紀」が「上宮記」に引用された系譜に見える「凡牟都和希王・ホムツワケ」を応神帝だとするのであれば、記紀が伝説的人物だと持ち上げている垂仁王子「品牟都和気・ホムツワケ」とは一体誰なのでしょう?つまり、こう云う事です。

  @ ホムツワケが垂仁の王子であれば景行(オオタラシヒコ)や五十瓊敷入彦(イニシキイリヒコ)と同じ世代
  A ホムツワケが応神そのものであれば仁徳(オオサザキ)や額田大中彦(ヌカタオオナカツヒコ)の親世代

に生きた人物になり、その時間差は凡そ50〜60年、二世代分にも及びます。恐らく記紀の編纂時に「同じ人物を二つに分けた」と考えられるのですが、佐穂姫が名付けた男の子の名は「本牟智和気・ホムチワケ」であって「ホムツワケ」ではありませんから、元々別の人格であったものを系譜上の操作で結びつけたとも考えられます。また、冒頭で見た「佐穂彦・佐穂姫」兄妹の謀反劇も、王統に最も近い「彦坐王の息子と娘」が反乱を企てたのであれば、春日氏を含めた和邇一族が六世紀まで后妃を王家に入れ続け得たはずもありませんから、ここにも記紀編者たちによる「創作」の臭いを嗅ぎ取らざるを得ません。恐らく彦坐王の血統に占める和邇氏の存在価値を相対的に貶める目的があったのではないかと推測されます。その直接的な動機が何であったのかは想像するしかありませんが、炎の中から佐穂姫が自らの「後任者」について、

  かの丹波国に五つの婦人あり、志並びに貞潔し。これ、丹波道主王の女なり。當に掖庭に納めて、後宮の数につかいたまえ

と「遺言」していますし、和邇氏に代わり台頭したのが丹波一族(日葉酢姫姉妹)であった事は事実ですから、記紀の書き手たちは、その「事情」を最大限考慮したに違いありません。系譜などの加筆改編が一度だけだったとは限りません、大王たちの名前から親子関係を探るページで述べたように、応神・ホムタワケは仲哀(タラシナカツヒコ)と神功皇后(オキナガタラシヒメ)の子供だったとは考えられず、景行(オオタラシヒコ)、成務(ワカタラシヒコ)の世代を含む大幅な記録伝承の修正が行われたと思われます。今回のテーマに即して再考するなら、景行帝の近江遷都も、実は垂仁朝の内部で起こった政変と軌を一にするものではないかとさえ思えてなりません。それは、こういう事です。

イリ王権を継いだ垂仁帝の後ろ盾であった大和春日の和邇氏に代わって地力を着けた丹波一族が台頭、后妃を独占する勢いを示すまでになった。その背景には天日槍「伝説」に象徴される新しい金属関連技術をもたらした集団の存在があったのではないか。垂仁の後の皇后に立てられた日葉酢姫は彦坐王と息長水依姫との間に生まれた丹波道主王の娘であり、息長水依姫こそ近江の金属神として知られる天御影命の後裔に他なりません。また、息長関連で云えば神功皇后の父・息長宿禰王は「丹波能阿治佐波毘売」を母に持つ迦邇目雷王が「丹波の遠津臣の娘・高材比売」との間に儲けた子供でした。景行の跡継ぎ成務帝は近江(高穴穂宮)から動こうとはしませんでした。丹波と連動した近江の新しい金属技術を頼みにしていたと見るのは穿ちすぎでしょうか!それとも、応神の即位という事実から、既にヤマトには戻ることの出来ない状況であったと考えるべきなのかも知れません。

高穴穂宮跡の石碑  高穴穂神社・本殿

和邇氏と極めて近いと考えられていた彦坐王と息長水依姫の「婚姻」は唐突にも見えます。しかし上でも触れたように、この姫君の「原型」は天津彦根命−−天御影命を頂点とする琵琶湖東岸・近江金属神を斎祀る「巫女」的存在であったと思われ、この天津彦根命の血脈は、

  @ 天御影命……彦伊賀都命……川枯彦命……三上氏
  A           (同  上)         ……山背国造家
  B 天麻比止都命                ……山代氏(国造家の別流?或いは別伝か)
  C 天戸間見命                  ……額田部氏

など幾つかに分流し、天津彦根命から八代目に相当する国忍富命の子供たちの一人こそ「息長」水依姫なのです。また、崇神帝の兄弟でもある彦坐王の最初の妻(妃)は山背国造・長溝の娘の山代之荏名津媛(またの名・刈幡戸弁、カリハタトベ)で、この夫婦の間に『品遅部君の祖』とされる大俣王が生まれていることが応神帝との「関連」を強く示唆しています。更に、垂仁帝自身が山背国造大国不遅の娘二人(苅幡戸辺カリハタトベ、綺戸辺)を後宮に入れ、綺戸辺(カニハタトベ)が仲哀帝の母(両道入姫命)と三尾氏の祖(磐衝別命)を生んだとあることから、正史編集者たちの意図がどのあたりに在ったのかは歴然としています。(三尾氏=三尾君は継体帝の母親の里です)ヤマト王権の近江への移動の背景には、王権内部の力関係の変化があり、応神帝(及び、彼の五世孫を称する継体帝)の出現によって王統の系譜に大幅な改編が加えられた、これが今回の結論です。蛇足になりますが、ホムツワケの出雲旅行のお供をした曙立王、菟上王兄弟とは大俣王の息子たちでした。ホムワケ、ホムワケ更にはホムワケと、正に「一字違えば大違い」の巻でした。

     
     
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