物集女(もずめ)車塚古墳と継体天皇                  サイトの歩き方」も参照してください。

オノコロ・シリーズの日本史探訪で幾度となく取り上げてきた古代史上、最大級の謎を身にまとった人物と言うべき継体天皇(450?〜531?)ですが、彼は大伴金村、物部麁鹿火、許勢男人といった六世紀の倭国を牽引する諸豪族たちの「要請」を背景に大王の位に就いたはずなのですが、何故か直ぐにはヤマトに入ろうとはせず、先ず、淀川東岸の河内国・樟葉(くずは)に都を置いた後、筒城(つつき、511年)そして弟国(おとくに、518年)と本拠地を二度も変えた後、継体二十年に至って、やっと大和国に磐余玉穂宮を営みました。これらの変則的な大王の動き方については「ヤマト域内に大王を認めない反対勢力が存在していたから」ではないかとする見方が有力なのですが、一方で「越(日本海側)から琵琶湖周辺、更には淀川・木津川など主要河川を含めた水運を得意とする集団が勢力の基盤を成していたので、あえて内陸部への進出を望まなかった」のだとする解釈もあり、長子の安閑帝が淀川水系にある摂津三嶋に屯倉を設営し、加えて大阪湾の入り口近くに公の「牧場」まで開設した点を重視すれば、彼等親子が河川・水運の持つ価値・利点を十分意識していたことは確かなように思えます。また、継体自身の陵墓が三嶋の地に造営されていることにも注目すべきでしょう。更に、彼の即位には根本的な疑問がつきまといます。

樟葉宮伝承地碑  淀川の堤  今城塚古墳

正史である日本書紀によれば『大臣・大連・将相・諸臣、ことごとくに寡人を推す』ので男大迹王は「璽符(みしるし)」を受け、大王の位に就き、大連大伴金村の、

  臣聞く、前の王の世を宰めたまふこと、維城(皇太子)の固あらずは、以って其の乾坤を鎮むること無し。
  掖庭(後宮)親非ずは、以って其の趺萼(みあなすゑ、世継ぎ)を継ぐこと無しと。是の故に、白髪天皇(清寧)、嗣なかりしかば、
  臣が祖父大伴大連室屋をして、州ごとに三種の白髪部を安置きて、後世の名を留めむとしたまいき。嗟夫、愴まざるべけむや。
  請らくは、手白香皇女を立てて、納して皇后とし、神祇伯らを遣わして、神祇を敬祭きて、天皇の息を求して、允に民の望に答へむ

と云う「奏請」を受け入れた。つまりヤマト旧勢力の象徴とも言うべき仁賢帝の娘(母は雄略の娘・春日大娘=和邇氏系)を后とすることで「平和裏」に前王朝から大王の位を引き継いだ、という筋書きは果たして「本当」だったのでしょうか?加えて、継体は自らの出自を「応神五世の孫」に位置づけ父方の血脈を息長氏を通じて応神につなぎ、母方の血筋を遠く第九代垂仁に求めることで、その血統の正しさを強調しているにも関わらず『新撰姓氏録』は、第十六代仁徳から第二十五代武烈に至る十代にも及ぶ大王たちの誰からも「子孫氏族が一切派生していない」事実を伝えています。つまり、二世紀近く時代を異にする天武帝の『八色の姓』(684年)に始まる賜姓でも最高位「真人」を与えられた氏族は、継体以後の諸帝を祖とするものの他は、応神帝の子孫を称する四氏(息長・坂田・山道・羽田)に限られているのは何故なのか?想像を逞しくすれば継体という諡号そのものが前王家との「隔絶(断絶)」をも暗示しているように見えます。では、継体の「継」が「継嗣」を意味するのではなく、逆に前政権の「権力」だけを引き継いだものだとする見方を補強する材料があるのでしょうか?あります、ありました。

周辺図  全景  石室  PR

京都府の南部、旧くは乙訓郡の一部で、現在は向日市(むこうし)と呼ばれる地域を南北に貫く府道67号線が走っています。今回、皆さんにご紹介する古墳も、この通称・物集女街道沿いの一角にあって『天皇の柩を運ぶ車が納められている』との民間伝承をもとに車塚古墳の名称を与えられています。向日市で「唯一、東西方向を軸として築造」された古墳時代後期(6世紀中頃)と見られる物集女車塚古墳(上の画像参照)は、

  前方部2段、後円部2段(前方後円墳) 墳長約48メートル 高さ約7メートル 

の小規模なものですが、副葬品として「玉類」「武器類」多数が馬具などと共に出土し「金銅製ガラス玉付冠」が合わせて見つかったことから、当初は旧乙訓郡在地の「実力者」のものではないかと考えられていました。ところが調査を進める過程で、

  1 古墳の平面設計が継体の今城塚古墳のものと同型であること(つまり応神陵とも同じ技術集団が造営した)
  1 より古い時代の石棺材を「破壊」した上で、己の石室の材料として再利用している(旧勢力を実力で駆逐した?)
  1 石棺は二上山産のものと播磨高室石を混用している(埋葬するため、急いで石材を集めた、上右の石棺の蓋に注目)
  1 出土した土器類には紀州的な淡輪技法による跡が認められる

などの事実が判明したため、最近では、この古墳の主が継体大王と極めて近い関係にあった人物ではないかとする分析が成されています。つまり、車塚古墳で眠っている人は「元々から物集女を支配していた」のではなく、6世紀の前半に継体帝の淀川両岸支配と同時に「外部から」乙訓の地に入って地域を「新たに支配した(乙訓宮を運営した)」人物であった可能性が高いという判断です。若し、このような想像が許されるのであれば、これまでヤマト勢力への「入り婿」だったと考えられてきた男大迹王の実像を描き替える必要性に迫られそうです。


以下は、いつものオマケ・蛇足になります。考古学的な研究によればヤマト地方において古墳時代が花開くのは三世紀になってからの事なのだそうですが、それには全国各地から様々な技術や文化が取り入れられました。良く言われるのが九州、吉備そして東海地域などとの関係です。前方後円という形式そのものも各地の埋葬文化を「合体」したものだとも言われますが、棺を納める石室の様式や古墳に置かれる埴輪などもヤマトに元々在ったものではなく外部の知識・技法を取り入れて成立したのだとされています。中でも今回取り上げた向日市の物集女車塚古墳を例にとると、その横穴式石室そのものが九州発の様式であるとされる他、石棺の石材も吉備と縁の深い播磨国産のものを使用、副葬されていた土器に紀の川周辺で編み出された技法の痕跡が認められているのです。つまり乙訓の主を葬るために全国各地から人や物が集められ、紀州・播州とのつながりが明確になっている訳です。

横穴式石室(物集女古墳)  冠の一部分  大田神社(茨木)

ここで思い出すのが土師の元祖であった野見宿禰と播磨国(を通して出雲、吉備ともつながる)とのつながり。「播磨風土記」によれば、現在「竜野」と呼ばれている播磨国揖保郡立野の地で、出雲の国に通う途中で「土師弩美宿禰が病を得て亡くなった」そうなのですが、同記には別に、

  大田と称ふ所以は、昔、呉の勝(すぐり)、韓国より度り来て、始め紀伊の国名草の郡の大田の村に到りき。其の後、分れ来て、
  摂津の国三嶋の賀美の郡の大田の村に移り到りき。其が又、揖保の郡の大田の村に遷り来けり。

と言う地名伝承を掲載しており、事実、摂津三嶋にある「継体天皇陵」のすぐ西側には太田神社(上右の画像)があって、古くから渡来系の氏族が生活を営んできたと思われるのです。似た地名は全国に散らばっていますから、この「大田」にまつわる伝承を鵜呑みにすることは危険ですが、それでも古墳時代を通じて広範な交流が全国規模であったことだけは確かなようです。

     
     
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