とりあえず、まぁ、下の画像を御覧になってください。判じ物ではありませんよ。この絵柄を見て、直にピンとくる方は、相当、年配の方に限られることでしょうが…。
なんで「ナマズ」達が一杯やっているのか?分かりますか!
当節余り流行りませんが、昔は、そう昭和の中ごろまでは、どこの町内近所にも一人や二人「怖いオヤジ」が必ず居て、子供たちが何か悪さでもしようものなら大声で怒鳴り飛ばしたものでした(どこから見ているのか、本当に不思議でした)。上で紹介している錦絵も、そんなオヤジ(右上)をコミカルに表現した江戸末期の作品なのですが、これまで、このオノコロ・シリーズを読んでこられた皆さんなら、直に気がつくように、この錦絵には出版元を現わす「極」(きわめ)の印も、そして何より作者の名前も一切ありません。それは何故なのか?
安政二年(1855)十月二日、夜10時頃、亀有と亀戸を結ぶ線上の江戸湾直下を震源とするマグニチュード7クラス(震度6)の安政江戸地震が発生、その時の死者は数千人(7000人以上だったという記録もある)、倒壊した家屋は約1万数千軒とも伝えられ、襲い掛かる津波と火災による破壊も加わり、その被害は特に下町で甚大なものでした。当時、唯一の情報媒体であった「瓦版」(下の画像)が、この大災害を真っ先に取り上げたことは言うまでもありませんが、それとは全く別に、地震の翌日から、とても変わった刊行物がお江戸の町に降って湧いたように現れ、瓦版よりも大きな評判をとったのです。
惨事を伝える当日の瓦版
その正体は「鯰絵」(なまずえ)と呼ばれる錦絵で、記録によると「地震発生の当日」(恐らく「翌日」の誤り)から発売され、一週間のうちに三百数拾種にまで膨れ上がり「10日後には400種類」に達した、とあります。この常識では考えられない地震直後の鯰絵大流行について史家たちは、当時、庶民の間で、普段「鯰」は、
鹿島大明神が「要石」で押さえているから暴れないが
神無月(10月)は、神々が出雲に集る慣わしとなっており
鹿島大明神も出席するため、自分の留守の間
地震鯰の見張り番を恵比寿たちに任せて出雲へ旅立つ
しかし恵比寿の力は鹿島大明神に比べて弱いので、
その間隙を縫って地震鯰が大暴れするのだ
というような「風評」が専らであり、皆、そのように信じていたからだ、と尤もらしく解説していますが『それなら、なんで、他の月にも地震が起きるのか?』と思わないのか、と考えるのは、へそ曲がりの管理人だけでしょうか?それはさておき、地震は、この安政年間に限って江戸で発生した訳ではありません(下の表を参照してください)にも拘らず、この時期に「地震鯰」君の錦絵が続々発売され、飛ぶように売れたのには、それなりの理由がなければなりません。だとしても、その鯰絵とは、そもそも、一体どのようなものか、それを先に見ていきましょう。大雑把に別ければ、次の三通りになるでしょう。
1 ナマズ、鹿島大明神、要石の三要素が全て描かれたもの(左)=信仰・迷信
2 破壊者としてのナマズが描かれたもの(中央)=災害・災難・敵対するもの
3 世直し、救いの神としてナマズが感謝されているもの(右)=救済者・味方

勿論、敢えて言うまでもなく「地震」は、正に天変地異の類であり自然災害に違いない事は、お江戸の住民全てが承知の上で、その元凶を尚、大ナマズに求めようとした背景には、恐らく当時の社会情勢が色濃く反映していたと見るのが妥当でしょう。「2」が瓦版的な事実の報道(被災者側の情報の伝達と怒り)そして、「1」が素朴な庶民感情の発露、あるいは「神頼み」の典型だとするなら、一体「3」に分類されたモノはどのように解釈すればよいのでしょうか?(画像を観る限り倒壊した家屋から住人を助け出し、女性を負ぶって子供の手を引いて避難させようとしているのは、地震を起こした張本人のはずのナマズです)やはり、ここで、少し歴史を振り返ってみる必要がありそうです。
| 西暦 | 主な出来事 | 西暦 | 主な出来事 |
| 1808 | 英国の軍艦フェートン号が長崎に侵入 | 1845 | 米国の捕鯨船マンハッタン号が浦賀に来航 |
| 1822 | 英国の捕鯨船が水戸領地に上陸、薪水を要求 | 1846 | 米国の軍艦コロンバス号が浦賀に来航、通商を要求 12月8日、江戸で大地震 |
| 1825 | 異国船打ち払い令が発布 | 1847 | 幕府が会津・忍藩に海防警備を命じる 3月24日、善光寺大地震、死者1万6千人 |
| 1828 | シーボルト事件が発覚 | 1848 | 5月8日、江戸で大地震 |
| 1833 | 全国的な飢饉が始まる | 1850 | オランダ船が米英の通商要求を幕府に伝える |
| 1837 | 大塩平八郎の乱 徳川斉昭が水戸藩主になる |
1852 | オランダ商館長が、翌年の米国船来航を予告する 12月17日、信州で大地震 |
| 1839 | 蛮社の獄、蘭学者らを逮捕 水野忠邦が首席老中に就任する |
1853 | ペリーが浦賀に来航、大統領書簡を提出する 2月3日、江戸と東海道で大地震 |
| 1841 | 天保の改革が始まる。 ぜいたく禁止令、株仲間禁止令 前将軍・家斉が亡くなる |
1854 | ペリー再び来航、日米和親条約を締結。下田・開港 11月4日、東海道を中心に大地震、M8.4 11月5日、西日本で南海大地震、M8.4 |
| 1842 | 出版統制令が出される。薪水給与令が発布 | 1855 | 長崎に海軍伝習所を設立。この年、安政大地震 |
| 1843 | 人返しの令、上知令が出される | 1856 | 米国総領事のハリスが着任する |
| 1844 | 開国を勧告するオランダ国王の親書が届けられる | 1857 | 幕府がハリスと下田条約を締結する |
幕末と一口に言いますが、上の表をみれば、その現実が明らかになります。19世紀前半という時代は、正に「外国」からの開国の圧力が国内の政治状況を左右し続けた動乱の季節だったと言えます。そして、庶民の生活は「大塩平八郎の乱」が象徴しているように、より厳しさを増していたのです。幕府は、この切迫した状況を何とか打破しようと「天保の改革」を推し進めますが、その中心的存在であった人物は、わずか4年で失脚、見るべき成果はあがらなかったのでした。1840年代以降は、異国船(外国文化の象徴)時代の様相を呈しています。そして、その締め括りとでも言うべき「大事件」が、安政大地震の2年前、1853年に起こっていることは注目に値するでしょう。そう、皆さんも、良くご存知の「ペリー来航」事件です。翌54年に再び来航したペリー(米国)と幕府は「日米和親条約」を締結します。「よらしむべし、知らしむべからず」の大方針で庶民を「統制」し続けてきた幕府が、庶民の鋭い生活感覚、生きた情報網を過小評価していたのかどうか、は分かりませんが、外国船の相次ぐ来航が、そして幕府の対応が、世情に与えた影響は決して小さなものではなかった、と思われるのです。
「たった四杯で夜も眠れず」
それまで、まさに磐石だと思われていた「お上」(幕府)の屋台骨が、案外脆いものかも知れないと庶民が感じ始めたとき、幕府の権威は失墜するものだとすれば、たった20年で「異国船打ち払い令」を引っ込めた時点で、お江戸の住人たちは、皆、一様に口には出さないものの『世の中のタガが外れた』ように感じていたのではないでしょうか?では再びナマズ君のお話に戻りましょう。上の表の右欄に、主な地震の発生時期を入れておきましたから、それも参考にしながら皆さんも一緒に推理してみてください。
史家たちは「安政大地震」の頃の世情について、先に見たような「風評」「迷信」の類が流布していたから「鯰絵」が爆発的に売れたのだ、と解説していましたが、表でも明らかなように、1840年代から50年代は「地震の当たり年」とも言える時期だったことは明らかで、ペリー来航の直前(1853.2.3)には嘉永の大地震が江戸を襲っており、その翌年、つまり安政元年の11月には東海地震と南海大地震が2日連続して発生、この時の津波で下田の町が壊滅しています。そして、これらの地震が発生した「月」は、何れも「10月」ではありませんでした。歴史というものに「偶然」は無い、とされていますが、10年近くの間に、立て続けに起こった大地震(大災害)、そして外国船の来航(権威の失墜、未知なるものへの恐怖)が安政二年の大地震に向けての格好の序曲となっていたのです。
10月とは言え旧暦です。今なら、差し詰め11月の半ば、そろそろ火が恋しい初冬とも言える気候だったでしょう。お天道様と寝起きを共にしていた江戸っ子たちは、もう、深い眠りに就いていたに違いありません。何物も持たない、と言うと大袈裟過ぎるかも知れませんが、生活するのにやっと、といった庶民たちの、なけなしの財産(家財・仕事道具など)を一瞬にして奪い去る大地震、それが今夜もやって来たのです。毎年のように繰返される大地震に加え、お上の「改革」が彼等の生活を締め付け、そこから来る不平不満が鬱積していた。聞くだに恐ろしい異国の蒸気船が次々と近くの港に入港し、何やらお上に要求をつき付け、お上でさえ、その対応に困り果てているらしい、という社会不安も蔓延していた。つまり、何かがきっかけになれば、彼等の心理的なアンバランスさにつけ込むだけの条件は十分に揃っていた…。
そこまでは理解できたとしても、この、余りのタイミングの良さは気になります。鯰絵の発行は、まるで『地震が起きるのを待っていた』かの様に、町のあちこち(多くの版元)から湧き出したのです。そこに「何かの意図」を観てしまうのは、管理人の独りよがりなのでしょうか。ここからは、いつも通り、全くの想像の世界です。
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安政二年(1855)正月、恒例の年始挨拶に町内の主だった顔なじみが集った。時節柄、派手な飲み食いは慎まなければお上の眼が、どこで光っているか分かったもんじゃない。とは言え、正月くらい少しは奮発しましょう、ということで三の膳まで付いている。宴も半ば、物識り顔の世話役が切り出した。『つい、こないだ、土佐で、又、地震があったらしい』どこの寄り合いの話題も、誰言うとはなしに去年の大地震の噂話がもっぱらになるのも当節、当たり前と言えばそうなのだが…。
「何でも、掛川のお城まで崩れ、そりゃあ大変な騒動だったらしいぜ」
「三島や沼津、そいから甲府あたりじゃあ、そこいらじゅうの家が倒れたらしい」
「いやいや、下田の港は、もっとひどいことになったって聞くぜ。なんせ大波が粗方浚っちまった」
「西国のことは詳しく知らねえが、土佐でも、お城が無くなりかけたってぇことだ」
「なんだねぇ、嘉永って、目でてぇ年号だと、お上はおっしゃってなさるが、初めの年なんざぁ、あんた、5月に二尺も雪が降ったってぇ話しだ。うそじゃない、その夏、信州から戻ったばかりの甥っ子に聞いたんだから、間違いない話しさ」
「5月にゃ、結構な地震もあったしねぇ。ほんとに、目出度くとも何ともありゃしない」
「どうも、鹿島大明神のご利益も、めっきり効き目が薄れたねぇ。こぅ、御難つづきじゃあ」
「…ところで、八代目は、一体、なんで、あんなことに?」
「新さん、よしなよ、縁起でもねぇ」
「あぁ、いやぁ、そんなつもりじゃ」
新さんは、秋口から出始めた数十枚もの八代目の死絵を自慢したかっただけなのだが…。
「それはそうと、最近、とんと久しく、遠山の大旦那の噂をきかねぇが、誰か、しらねぇかい?」
訊かれた仲間も知らない様子で、皆、一様に首をふった。
人気絶頂期に亡くなった団十郎
年嵩の世話役に遠慮したのか、その話題は続かなかったが、仲間内では1等年の若い「新さん」が話しの接ぎ穂に持ち出した「八代目」とは、市川団十郎(いちかわ・だんじゅうろう。1823〜1854)のこと。五歳で初舞台を踏み、僅か十歳で八代目を襲名した彼は、お江戸だけでなく上方でも大人気の大看板、まさに千両役者そのもの、女性ばかりでなく男性にも好かれた稀代の役者。天保の改革で、お上からお咎めを受け、江戸追放となっていた父・七代目(五代目・市川海老蔵。1791〜1859)が、嘉永三年(1850)やっとのことでご赦免となり、その年の五月興行では『勧進帳』で父子競演を果たして大向こうを唸らせた。滅多に芝居を誉めない堅物で口やかましい新さんの親爺が、しきりに誉めた『地雷也』が大当たりしたのは嘉永五年七月の河原崎座の夏興行だった。誰もが大成を期待していた、その八代目が、去年の七月、名古屋の舞台を済ませた後、大坂に向かい、公演準備の仕上げをしていた8月5日夜、宿の小部屋で三十二歳の短すぎる生涯を自らの手で閉じた。契約がらみ、金がらみの噂が飛び交ったが、真の理由は謎とされている。
八代目の死絵、数百種も発売された 
上で紹介している画像のうち右側のものは、明らかに市川家の紋所を意識した「鯰絵」です。勿論、出し物(「暫(しばらく)」を演じている人物は八代目だと考えられます。このように、歌舞伎を題材とした「鯰絵」は他にもあり、当時の大看板だった市川団十郎の根強い人気を、出版する側(版元)が十二分に意識していたことが伝わってきます。歌舞伎・鯰絵と、暫を演じている団十郎の錦絵を紹介しておきます。下の鯰絵の題目は『雨には困り□(マス)野宿、しばらくの外寝』とあり「桝」の紋所と「しばらく」が二重に「団十郎」への掛詞となっています。また、この鯰は「人」の顔に仕立ててあり、当初の鯰絵とは、大きく変化していることが分かります。中央の錦絵は豊国が描いた「暫」そして右側の鯰絵は、このページの冒頭で紹介した「地震・雷・火事・親爺」の歌舞伎版で、こちらも鯰の顔が「人」として描写されていますが、吉例「暫」の役が「火事」に割り振られています。

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ここから再び「鯰絵」推理に戻ります。安政二年という時期の江戸の事情を考えるとき、やはり、何度も触れて来た「天保の改革」の中味、それも出版に関連する実態を見ておく必要があるでしょう。幸いWEBで見つけた格好の資料がありますから、ご紹介しておきます。(「たばこと塩の博物館」のページより『天保の改革と出版物』)
出版物への統制は寛政年間にも行われましたが「天保十三年(1842)六月」に実施された出版統制令は、寛政のものよりも「はるかに厳しい」内容のものだったようで、
浮世絵に人気商売の人物を描くことが禁じられ
小説の登場人物を歌舞伎役者に似せて描く事や、ぜいたくな風俗を描く事が禁じられた
このため、見せしめとして当時の流行作家である柳亭種彦(りゅうてい・たねひこ)や為永春水(ためなが・しゅんすい)などが「風紀を乱す」ものとして罰せられ、八代目の実父は「江戸十里四方追放」の処分をうけています。そして幕府は「物価抑制」を名目に「株仲間」(同業者で作る組合組織)を解散したため、出版物を取り扱っていた版元たちの組合である「地本問屋」も同じ運命を辿ることになったのです。浮世絵の価格は「十六文まで」と決められ色数までもが制限された上、「遊女の絵」が厳しく取り締まられるようになった結果、美人画そのものも大きく変質し、
古典になぞらえたものや、教訓・賢女・童女
などを題材としたものが多くなっていったのです。役者の似顔絵や役者の名前そして紋所などを記すことが禁止される中、絵師たちも大変難儀したわけですが、或る者などは「登場する人物をすべて雀」にしたり、また「猫」の姿に置き換えるなどして、お上の追及を免れようと随分苦心しています。「改革」の影響が強かった1840年代には、役者の似顔絵の代わりに「人間ではないもの。魚、亀、あるいは道具類」に置き換えて表現していた絵師もあったようです。下の三点は、その見本です。

このようにして見てくると、統制の厳しさが、作者側の意識を変え、その結果として「戯画」化が錦絵の世界で急速に進んだことが分かります。また、一旦、解散されていた地本問屋の組合(仲間)も嘉永四年(1851)に復興しますが、解散時に29名だった仲間の数が再興時には125名に急増、十年余りの間に版元が4倍に膨らんだ訳です。お上による取締りが厳しさを増し、絵師たちが描く題材選びに苦心惨憺している最中に、何故、出版物を扱う仲間(業者)が増えたのか?疑問ですが、江戸商人の直感が、来るべき新時代(に求められる情報の大切さ)の到来を予見していた証なのかも知れません。
業者・仲間が4倍になったからといって、技術集団それも高度な職人技を持っている彫り師や刷り師が都合よく増えるはずもなく、嘉永年間の出版業界は『絵師や作者や職人たちの取り合い』(「たばこと塩の博物館」『地本問屋仲間の再興』)の状況だったと考えられているのです。ここまで来ると、なにやら、朧げに見えてきたとは思いませんか?そこで、これまでに分かった事実を一つずつ並べて、鯰絵を解剖してみることにいたしましょう。
1 地震が頻繁におこり、人々は常に不安を抱いて生活していた。安政元年の大地震の記憶は尚、生々しく残っていた
2 天保の改革により、厳しい統制があり、世間も萎縮し、庶民は不満の捌け口を求めていた
3 外国船の来航が相次ぎ、国そのものが揺れ動いていた
4 庶民の人気者が謎の死を遂げ、追悼の「死絵」が爆発的に売れた(役者絵の復活)
5 役者絵・美人画が禁じられ「戯画」を描くものが多かった
6 地震は「地震鯰」が騒ぐからだという「迷信」のようものが流布していた
7 地震鯰を鹿島大明神が「要石」で押さえつけている、という風評が昔からあった
8 出版業界は過当競争の時代に入り、出版できそうな(売れる)「画題」が求められていた
鹿島大明神への信仰は、江戸初期から存在していたようで、未見ですが1662年に発行された『大極地震記』という書物の中に「揺らぐとも よもや抜けじの 要石 鹿島の神の あらむ限りは」と謂う歌も紹介されています。ですから、そのような風評・俗信の類があったのは確かですが、その反面、安政大地震の後で纏められた地震の前兆記録(庶民からの聞き取り)には、
鯰が異常に騒いだ(本所)
雀が2,3カ月まえから群れをしていたのに、前日には一羽も来なくなった(牛込)
4,5日前からミミズが庭中に出てきた(巣鴨)
茶店で竹を土の中に立てたら水が湧き出た(浅草)
路地から急に水が湧いて出た(神田)
地下から一面に火気が発生して、すぐに消えた(下谷、池の端)
という各地の住人が役人に述べたと思われる文章が残されていますから、当時の人々も「鯰が騒ぐ」ことと地震発生との間に、何らかの因果関係があることを生活の知恵として知っていたと思われるのです。若しそうだとすれば「大明神の要石」は、江戸っ子一流の洒落、と言う事になるでしょう。その傍証を詳しく挙げておきます。それは地震から数年後、恐らく1860年に刊行されたと考えられている『安政見聞誌(あんせいけんもんし)』(編者は仮名垣魯文、かながき・ろぶん。1829〜1894、挿絵は歌川国芳、うたがわ・くによし。1797〜1861)が伝えている次のような逸話です。
本所・永倉町に住んでいた篠崎という男は、漁が好きで、10月2日の夜も数珠子で鰻を捕え様と川筋を漁っていたが
鯰がしきりに騒ぎ、鰻は一匹も獲れず、ただ鯰三匹だけを得ることができた。
そこで「このように鯰が騒ぐ時は必ず地震が起きる」という風聞を思い出し、漁を止め
家に帰り、庭に筵をしいて家財道具を取り出し、異変に備えた。
その様子を男の妻は訝り笑っていたが、果して、その夜、地震があり、持ち出していた家財は無事だった。
この、お話しには「隣りの家の主も、鯰が騒ぐの見たが、そのまま釣りを続けているうちに大地震が起こり、家も土蔵もつぶれ、家財も全て失った」という続きもあるのですが、皆さんは、鯰君の予知能力を信じますか?さて、そろそろお開きの時間が近づいてきました、大胆?な推理を紹介して、このお話しを締め括ることにしましょう。
当時の世相、庶民の暮らしぶり、そして天保の改革による出版統制などの諸条件をすべて並べてみても、初めにお話しした「何故、安政大地震の時、鯰絵が大流行したか」という問いかけに満足の行く答えを引き出すことは出来ません。それは、浮世絵・錦絵が出回るには、それ相応の時間(と制作に携わる多くの職人)がどうしても必要だからです。
例え「運良く」神無月10月2日に大地震が起こった、としても「その日(翌日)のうちに」大量の鯰絵を市場に持ち込むことは物理的に考えて「不可能」なのです。ただ一つ、それを可能にする方法があります。なになに、そんなに難しいことではありません。問屋仲間の誰かが音頭をとって、少しはお金もかかりますが「その時」のために、絵師に頼んだ様々な図柄の「鯰絵」を、大量にストックさえしておけば、後は、簡単に事は進みます。そんな仕掛が見え隠れしてなりません。
前に見た、地震の元凶がどうして「世直し鯰」に変身するのか、という疑問ですが、これには明快な答えがあります。つまり、地震が多くの物を破壊する恐ろしい災害であることに間違いはないのですが、その後には、必ず「復興」という事業が行われます。そこで発生する「建築・工事」を実際に担当するのも、また災害で苦しめられた一般庶民、江戸の職人たちなのです。それが現実なのです。だから「鯰絵」にも、職人たちと思しい人々が鯰の元へ挨拶に出向いている図柄が登場する訳なのです。その辺りから「世直し」と鯰を結び付けた構図が生まれたのでしょう。
「鯰絵」を解説しているWEB上のページを見ると、幕府は「鯰絵が広く世の中に出回ることにより」「世直しの気風で高まることを恐れ」先ず「鯰絵の販売を禁止」し、次いで版元を「捜索し版木を没収」したため、ほぼ2カ月間続いた鯰絵の流行は終焉を迎えた、らしいのですが、それとは別に、当時の「版木」の扱われ方、と言うよりも「出版業界の実態」を暗示している一枚の鯰絵を皆さんにも見ていただき、仕掛け人推理の判断材料にしてもらおうと思います。まず、鯰絵の方を見てください。
掌には「百両」のお金、これも鯰のお蔭?
「あれっ、この絵、どこかで見たような気がする」と思うのは管理人だけではないでしょう。恐らく、多くの読者が、何かの読物の挿絵で、あるいは浮世絵のページか何かで、同じような「人物」を観た経験があるはず。それもそのはず、次の錦絵と、良く見比べてください。
これを180度反転させると
正に瓜二つですね
「鯰絵」では男の掌に「お金」を載せ、着物の柄を変えるために、その部分を刷るために必要な版木を新たに取り替えたため、元の錦絵にあった独特の「丸み」が失われていますが、人の体そのもので「顔と手」を描いた部分は全く同一の版木が使われています。そして、この「本絵」の作者を、当時、江戸っ子で知らない者はいなかったでしょう。その人物は、先に『安政見聞誌』の挿絵作家として紹介した歌川国芳その人で「金魚・猫・蛸」などの戯画を描いていた人気絵師なのです。若し、言われているように、鯰絵について幕府が神経をとがらせ、その探索、版木の没収を行っていたのなら、この国芳(そして版元)などは、直にでもお上からお咎めを受け、何らかの処分がなされたはずなのですが、そのような記録はありません。講談なら、ここで「庶民の味方・遠山の金さん」こと南町奉行・遠山左衛門尉景元(通称・金四郎)が颯爽と登場し「温情」判決で人気絵師たちを護る一場面が展開するところなのでしょうが、そのご当人の金さんは、確かに天保11年(1840)から3年、北町奉行を務め、弘化2年(1845)から嘉永5年までの7年間にわたり南町奉行の職にあったのですが、大地震の発生した安政二年、二月に亡くなっていますので、鯰絵を彼が見ることは出来ない相談だったのです。ただ、嘉永六年(1853)に幕府に提出された『市中取締類集』という文書には国芳の日常生活や仕事振りが細かく記載されていたようですから、お上の情報網が、相当密度の濃いものだったことは確かです。
もう一つ、歌舞伎芝居を手掛かりに「鯰絵」を見直して、今回のお話しを締め括ることにします。それには、少し、前置きが要りますので、お付き合いください。読者の皆さんの中には、お芝居好きの方々も多いかと思いますが、管理人のような芝居オンチのための説明です。見やすく、箇条書きにしてみました。
1 七代目・市川団十郎という役者が天保3年(1832)に「歌舞伎十八番」を自ら定めた
2 「歌舞伎十八番」の一つ「暫」(しばらく)が団十郎の当り芸となった
3 人気者の八代目・団十郎が地震の前の年、安政元年になくなり、死絵が爆発的に売れた
4 歌舞伎「暫」は、鹿島神宮の社頭を舞台に演じられ、鹿島入道震斎(通称・鯰坊主)という役がある
つまり、こういうことです。八代目・団十郎はお江戸で一番の人気役者だったのですが、不明の理由により安政元年(嘉永七年,1854)八月急死します。江戸庶民にとって、これは相当、衝撃的な出来事だったのですが、人気者の「絵」を商売の種にしていた出版業界にとっても死活問題だったのです。そこで出版元たちは、八代目の絶大な人気を利用して様々な「死絵」を次々と売り出し、八代目を惜しむ江戸っ子の人情もからんで空前の売れ行きを博したのです。それらの中には、下のように風刺を利かせたものもありましたが、多くは彼の当り芸「暫」に因んだものだったと考えられます。また「鯰」と「鹿島神宮」の関係も、昔からの言い伝えという一面を否定することは出来ませんが、お芝居の「暫」に登場する悪役「清原武衡」の子分・入道震斎こそが、鹿島神宮とナマズを直接結び付ける役割を舞台上で常に演じていたからこそ、そのような「風評」も当時一般的だったのではないでしょうか。もっと言えば「鹿島の地震鯰」を、江戸の人々は「道化者」として意識していたからこそ「鯰絵」を求めたのです。
全ては想像の世界ですが、安政二年の十月、出版に関わる版元たちは十一月の「顔見世興行」を控えて歌舞伎役者の「見立絵」の準備に大童でした。もう、亡くなってから一年以上が経つというのに、八代目の死絵は売れ続けています。だから、今回も「暫」の図柄を多めに用意しておくことにしたのです。当然、そこには「鯰坊主」も脇役で登場します。また、八代目は親孝行な人物としても知られた人で、父・七代目が天保十三年(1842)六月二十二日、江戸追放となった後、毎朝、精進お茶絶ちをして、蔵前の成田不動のお旅所に日参して、父の無事と赦免をお祈りしたのです。これを理由に八代目は奉行所から「親孝行」者として表彰され「銭十貫文」を頂いたそうなのですが、その奉行が1845年に南町奉行に返り咲いた遠山金四郎であった可能性は十分あるでしょう。そして遠山こそ、天保の改革で芝居小屋が全て取り壊しになることを防いでくれた人物でもあり、芝居世界の恩人とも言うべき彼が、この年の二月他界していたのです。歌舞伎「暫」で超人的な強さを発揮して「邪悪」な権力者を打ち負かす庶民の英雄、その役名「鎌倉権五郎景政」が、遠山の金さん・左衛門尉「景元」と似ているのは、偶然なのでしょうね。そして、悲劇の二日夜を迎えます。庶民が求めた「世直し」鯰とは、一体誰のことだったのでしょう?
鹿島神宮には現在も、あの水戸光圀(みと・みつくに,1628〜1700)が大きさを調べるため家来に掘らせて見たという伝説が残る「要石」が厳かに鎮座されています。興味のある方は、一度、お参りされては如何でしょう。ところで、その鹿島神宮の祭神は「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」つまり、例の国譲り交渉で「剣」を衝きたてた強い武神なのですが、肝心の『常陸国風土記』には、このカミサマの名前が見当たりません。ハイ、おしまい。
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