大田南畝の「江戸方角分」奥書のについて                         「サイトの歩き方」も参照してください。

謎の浮世絵師として名の知られる東洲斎写楽の実像を探す、いわゆる「写楽追い」を実践している者の一人として敢えて言うのですが、普通、何事かに関する評論解説などを読む場合、その文章の中で引用されている資料の真贋についてあれこれ頭を悩ませることはありません。そこに「何々という書物の中で誰それが、このように言っている」とか「この資料には、何々の名前が記されている」とあれば、その文献資料そのものについて、先ず疑ってかかる読者は皆無ではないにしても極少数に留まるでしょう。何故なら、引用された、或いは参照されている文献の「正しさ」を前提にしない推論など本来在り得ないからです。もっと別な言い方をするなら「それが著者と読者の間の最低限の暗黙のルール」だからなのです。余り良い例えではありませんが、探偵小説の「探偵自身が犯人であってはならない」という条件に相当すると考えて良いかも知れません。一般の読者は凡そ専門家が公刊した書物の中で披露している考えの基になっている文献を疑うことなど夢にも思いません。まして、写楽探しの基本資料と言うべき「諸家人名江戸方角分」の奥書(下左の画像)を記し、その信用度を百パーセント保証しているはずの大田南畝には「半ば公然」の代筆者が居て、南畝の書体を真似た書き物を多く残したとか、或いは南畝の書体に似せて書く蜀山流の書き手が複数おり、その流れは江戸期に留まらず昭和にまで及んでいる、といったような事実を知らされていない素人探偵は、識者が「方角分」にある奥書や所付(地名一覧・下中央と右の画像)の文言が南畝自身の手によるものであると言えば、そう信じるしかないのです。ところが、若しも「方角分」の信憑性を裏打ちする南畝の奥書等に偽筆の疑いが持たれるとするとどういう事になるのか−−、今回は、そんなお話になります。

奥書の部分  所付の部分

写楽という絵師の正体が「四国阿波藩の能役者・斎藤十郎兵衛」その人であるという説の根拠は、凡そ、

  @ 江戸期の能役者名簿に斎藤親子の名前が掲載されており、阿波藩お抱えの斎藤十郎兵衛が写楽の活躍当時に存在していた事実が明らかなこと。
  A 江戸期に編集された「方角分」という文化人名鑑の「八堀」の項に「写楽斎」という名前の浮世絵師が掲載されていること。
  B 江戸期の国学者・歌人であった村田春海の養女が、隣家に住む阿波藩の能役者の子供を養子にした事実が伝えられていること。
  C 江戸末期の八丁堀切絵図に「村田治兵衛」の住む家が掲載され、その北隣に「斎藤与右衛門」の家も存在していた事が明らかなこと。
  D 江戸の町名主・斎藤月岑が著した『増補浮世絵類考』という書物に「写楽は阿波の能役者斎藤十郎兵衛」との記述があること。

などの要件によって支えられたものですから、その内の一つ、中でも直接「写楽」に結びつく唯一の情報である「方角分」の記述そのものの信憑性が揺らぐのであれば、当然『写楽斎が写楽であり』『八丁堀に住んだ斎藤十郎兵衛こそ写楽である』という論理は根底から崩れることになります。飽く迄も推定ですが、斎藤月岑の写楽情報自体が「方角分」の内容を前提としたものであったなら、能役者説は全ての論拠を失うことにもなりかねません。実は、この「方角分」偽書説とでも言うべき疑念の提示は今に始まったことではありません。『総校日本浮世絵類考』という大著の作者である哲学者・由良哲次によって既に三十年以前に批判の対象となっていたのです。ところが、その由良自身が写楽別人説の提唱者であったことから、方角分の「マイナス評価」も自説の障害になるものとして不当になされたものだとする「解釈」が主流を占めていたため、筆者のような追っかけ人の目に中々触れる機会がなかったのです。写楽を論じるのであれば、彼の絵画を、役者の芸の一瞬を筆先に捉えた版画そのものを対象にするべきで、こんな些末で非生産的な事柄を取り上げるべきではないのですが、事は写楽について(正確には写楽斎について)江戸期に書かれた唯一の文献資料の信用にかかわる問題ですから、後ろ向きの作業であることは十分承知の上で書き進めることにします。ただ、書体が本人のものであるのか、それとも「他人が似せて書いた」ものであるのかの鑑定は出来かねますので、問題点の提起にとどめて当否の判断は皆さんにゆだねます。(また、南畝の真筆とされる資料についてはWEB上に相当数見られますが、ここで取り上げるものは誰でもが自由に目にすることが可能な国立国会図書館収蔵の画像資料だけに限ることにしました。「方角分」や「一話一言」の中味に興味を持たれた方は、是非、一度、国会図書館のサイトを訪ねてみてください。同じ資料なのに背景色が異なったものがあるのは、掲載時に画像を見やすくするための処理を施したためです。勿論、字そのものに加工は一切加えてありません)

先ず、上に掲げた画像の説明から始めます。いずれも国会図書館が収蔵し公開している「諸家人名江戸方角分」の画像データで、所謂「所付」の表記を見てもらえば直ぐ分かると思うのですが、文字から得られる「印象」は十人十色なので筆者の感想は後回しにして、書かれてある内容の事実を取り上げてみます。

  @ 中央の画像で「橋」のつく場所が五か所あるが、そのいずれもが異なった書体を示している。中でも「鍛冶橋」「中橋」に至っては「橋」と読むのも困難なほど「崩して」ある。
  A 同じ字なのに、書かれた場所によって書体が微妙に異なっているケースは「橋」だけではなく「込」「町」「本」「川」のいずれも違う書き方になっている。
     (奥書と所付が同一人の書いたものだとするなら「竹本」「日本橋」「本所」に含まれる「本」の字体は明らかに異なって見えます)
  B わずかな文字数の言葉であるにもかかわらず筆の運びが全体にぎごちなく、文字を書きなれた古希の人の筆跡に似つかわしくない。

先入観を持っている管理人には以上のように「見えて」しまうのですが皆さんの眼にはどのように映りましたか?尤も、一人の人物であっても字体が時により微妙に変化することは有り得ると思いますので、わざわざ下手な字に『似せて』書いたなどという穿った見方は、あらぬ妄想のなせる業だと片づけて頂いても構いません。また、幾つもの「そっくりさん」をこれ見よがしに並べてみても余り意味がありませんから、写楽に直結する一事、一字に限って検討を加えてみたいと思います。それは「」です。(下左二つが方角分のもの。その次にあるのが「一話一言」巻八にある町名の部分と八丁堀の部分です。右の画像も「一話一言」のものです)

方角分  堺町  八丁堀  日本 

それぞれの「違い」が分かりますか?分かりますよね!つまり「方角分」に書かれた「町」の字は「田」の部分が比較的「四角い」形に象られており「丁」のつくりも綺麗に独立して書かれているのに対し「一話一言」に見られる「町」の字は、見た通り「田」の横棒が「そのまま丁の横棒」につながる書きざまになっています。『それは、たまたま、その様な書き方の所を選んだのだろう』とお考えの方は、一度、ご自分で南畝の筆跡を調べてみてください。そして、より重要なのは、方角分の所付が「八町堀」と表記している点にあります。勿論、この書き方そのものが間違っている訳ではありません。また、当時は「町」も「丁」も同じように使われていた事を否定するものでもありません。要は、南畝は「はっちょうぼり」を、どのように書いていたのかという点に関心があるのです。上の画像で見る限り彼は「はっちょうぼり」の役人を、明らかに「八丁堀与力」と書き表しています。それだけではありません。以前取り上げた狂歌のページ(「方角分」と古希)でも照会したように、天明期の交わりを記した文章の中でも南畝は「八丁堀地蔵橋」と明記していますし、随想録『一話一言』『半日閑話』の中でも「八丁堀」「本八丁堀」という記述を残しています。それは狂歌師・紀束(伊勢屋清左衛門)に関する文章であったり、また江戸の名物にも数えられた出火記録の中に記された文言として残されたもので、彼の全著作を探索した結果ではありませんが、少なくとも大田南畝は「はっちょうぼり」という場所を「八町堀」ではなく「八丁堀」と書いた可能性の方が高かったとは言えそうです。(南畝の著作の中に出てくる八丁堀という言葉は決して多くありません。但し八丁堀の文言については上で見たものの他、画像として直接参照できるものが無く刊本の活字に依りました。その意味で正確さに欠けます)

奥書については別な疑問もあります。それは、

  「此書歌舞伎役者瀬川富三郎所著也」と「文政元年七月五日竹本氏写来 七十翁蜀山人」の短い二条の文言が何故別々の頁に記されているのか?

普通、常識的に考えて、知り合いの役者から贈られた多くの知己が名を連ねる「当時としては珍しい」名簿録を手にした南畝が、忘備のつもりで(手許に取り置く考えで)日付などを書き加える場合に、わざわざ見開き左右別々の紙に一条ずつかき分けるだろうか?そんな気がしてなりません。署名をする空間が無いのならまだしも、広いページがそこにあるのですから…。とにかく一旦「疑念」を懐いた者の目には「方角分」に残された南畝の書付そのものが全て「偽物」のように見えてしまいます。これ以上、非生産的な文章を書き連ねても読者の皆さんが退屈するだけだと思いますから、奥書の画像の一部と八丁堀の記述例を貼り付けてお開きに致します。(筆者の目には二つの『此書』が同じ人の手になるものとは到底思えないのですが…)[付け足し]=資料探しの終わりころ南畝が古希を記念して著し、一部は販売もしたという『蜀山百首』の画像を見つけました。この書き物についても代筆者による贋作の疑いを完全には払拭できないのですが「方角分」の奥書日付を信用するなら、最も近い時期に書かれた筆跡なので字体の参照には最適だと思います。国会図書館の収蔵品ではありませんが、下の段に貼り付けて皆さんの判断材料の一つにしたいと思います。

「方角分」(此書)  「一話」(此書)  「一話」(八丁堀)  「半日」(八丁堀)

「百首」(此一帖)  「百首」(此本)  「百首」(冨、町、神)


楽屋話を打ち明けると「方角分」については全く異なる筋書きの小説を考えていました。と言うのも、この書き物が南畝の許へ届けられた時期が彼の古希の年、春先に顛倒した怪我からも回復して公務に復帰した頃だと思われますので、南畝の長命を狂歌仲間の連中が「祝う」つもりで拵えた「贈り物」だったのではないかと考えていたからです。人名録に含まれる狂歌師や浮世絵師更には戯作者といった分野の作者が多数含まれている「珍しい」書物が、本好き人間、取り分け奇書には目の無かった南畝への贈り物として、これ以上の品物は見つからないでしょう。また、狂歌で結ばれた愛弟子たちが大先生に贈呈する記念品なのですから、何より「粋で洒落た」ものでなければなりません。つまり、書物のあちこちに当人たちにしか分からない「仕掛け」が施されていたのではないか?そんな遊び心の一つが「八町堀地蔵橋」に住む「写楽斎」ではなかったのか!という次第です。そう考えれば、南畝が己の「蔵書」として認めなかった(蔵書印が無い)ことや、様々な誤記を彼が訂正もせずにいた事の説明もつきます。更には「代筆」者の存在を考慮に入れれば、奥書なども親しい誰かの「遊び心」の表現の一部であった可能性すら出てくるでしょう。

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