一寸法師」とは誰のことなのか?                         サイトの歩き方」も参照してください。

小槌を置いて逃げ出す「鬼」たち  打出の小槌

その昔、余りの美貌に惚れ込んだ仁徳天皇(にんとくてんのう、五世紀初め頃に活躍。応神天皇の子で難波の高津宮で即位)が、吉備(岡山県地方)の豪族であった海部直(あまのあたひ)の娘・黒日売(くろひめ)を宮中に呼んだのですが、大后の逆鱗に触れた彼女は大慌てで直ぐ、国許に逃げ帰ってしまいました。その慌ただしい旅姿を遠く眺め、愛おしく思った天皇が、

  沖へには 小船連らく くろざやの まさづ吾妹 国へ下らす

と感情たっぶりに歌ったのですが、その歌の中味を伝え聴いた皇后・磐之媛(いわのひめ、葛城襲津彦の娘)は再び大激怒、側近の者を呼びつけ、

  『あのような者に船を出してやる必要は無い。自分の足で歩いて帰らせなさい

と命令を下し、皇后の使者は慌てて黒日売を乗り込んでいた船から追い出したのだ、とか。さて、そうなると堪らないのは天皇さんの方で、何とか理由をつけて淡路島まで行幸、次のように心情を吐露したのです。

  おしてるや 難波の崎よ 出て立ちて 我が国見れば 淡島 自凝島

  檳榔の島も見ゆ 放つ島見ゆ

上のニ首は何れも古事記で紹介されている歌なのですが、二つ目の歌の冒頭に置かれている『おしてる(や)』という言葉が「難波」の枕詞で、その意は「陽の光が海原と空一面を明るく照らす」という程のことのようで、なんとなく「あまてらす」とも似通った情景を思い浮かばせる大和言葉です。ところで、大阪湾ひいては大阪の地をどうして「難波(なにわ)」と呼ぶようになったのかと言えば、あの神武天皇がまだ即位前、『皇師遂に東に行き、まさに難波崎に至』ろうとした時、

  奔き潮ありて、はなはだ急なるに会い

それで「浪速国(なみはやのくに)」と名付け、近辺の地域も「なみはな」が訛って「なにわ」と云うようになったのだと日本書紀は伝えています。記紀が言うような「物語」が史実をどれだけ反映したものなのかどうかは分りませんが、大阪・浪速が古くから開けた土地であり、国内外からの訪問者を受け入れる重要港として繁栄していたことは間違いありません。(「古事記」は秦人たちを使役して「難波の堀江」を掘って海に通したのも仁徳天皇だと記しています)

浮世絵に描かれた住吉の風景   一寸法師が漕ぎ出した?住吉の浦

前置きが随分と長くなりましたが、今回は、その難波出身の男が主人公のお話です。幼い頃に見聞きした事物の実像が、記憶の片隅に仕舞われている「記憶像」とは、時にかけ離れている−−そんな経験は珍しくもありませんが、断片的に覚えている幾つかの「御伽話」を今になって読み返すと、かえって新鮮に感じるのは何故でしょう。以下に紹介する「一寸法師」も、子供向けに語られた、単純至極な立身出世譚だとばかり思っていたのですが、物語には「それなりの」背景が見え隠れしています。お話しの筋書きについては皆さん、もう、良くご存知かと思いますので「意外」に感じた場面・事情を中心に綴って行きましょう。

まず「一寸法師」(以下「彼」と略します)の出生までの序章があったのですが、これは初耳でした。また、ここに物語の大切な一つの要素が含まれていました。

  難波の里にすむ夫婦には「うば」(老媼)が四十歳になるまで子宝に恵まれなかった

  そこで住吉に祈ったところ、翌年、目出度く男の子が生まれました

当時(中世)の寿命が一体何歳だったのかは良く分かりませんが、四十一歳といえば現代でも相当な高年齢出産?になります。それだけ住吉さんの霊験があらたかだった、と云う事に他なりませんが、この住吉さんは摂津一の宮の住吉大社のことで、祭神は住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と神功皇后(じんぐうこうごう、息長帯比売命、応神帝の母親)の四柱です。当然、子供を得た夫婦は『喜び限りなし』だったのですが、生まれた時の「せい(背の高さ)」が「一寸(3センチ)」しかなかった男の子は、

  十ニ、三歳になるまで育ても、人並みの大きさに成ることはなかった

ため、夫婦は彼のことを『只、化け物風情』の様に感じるようになり、遂には、

  一寸法師めを、いづ方へもやらばや

つまり、どこかに放り出してしまおうか、とまで思いつめるようになったのです。その背後には『我等、いかなる罪の報いにて』『斯様の者をば住吉より賜りたるぞや』『あさましさよ』といった切実な思い(仏教思想の影響が濃く感じられる)が横たわってはいたのですが、思春期に達した彼にも両親の「思い」は敏感に伝わり、彼は独立の方向を探ります。そして、先ず『刀なくては如何』と考え、母から「針」を一つ貰いうけ、麦わらで鞘を拵え、更には『都へ上がるには船も必要』と思いつき、御器(飯を盛る器、お椀)と箸を申し受け、住吉の浦から漕ぎ出したのです。

姫と一寸法師     PR

鳥羽の津に無事着いた彼は、迷うこと無く「三條の宰相殿」の屋敷を訪ね、宰相は彼の立ち居振る舞いを「一興なる者」「げにも面白きなる者」として評価し、屋敷に住まうことをも許したのです。そして宰相殿には年頃の娘がいました。その姫を一目見たときから好きになっていた彼は、

  如何にもして案をめぐらせ、わが女房にせばや

と思い「謀事(はかりごと)」を廻らせるのです。その手口は正に子供だましの稚拙なものだったのですが、純朴な?宰相殿は、自分の娘が他人の物を「盗んだ」とばかり思い込み、更には家を取り仕切っていたのが「継母」だったことも悪影響し、

  かかる者を都に置きて何かせむ、いかにも失うべし(死んでしまえ)

とまで大いに怒り出したのでした。そうなることを見越していた彼は『元はと言えば私の物を巡る出来事ですから、私に全てお任せ下さい』と仲裁者よろしく立ち回り、姫を連れて宰相殿の屋敷を後にしたのです。そして、この後に所謂「鬼退治」のお話しが続くのですが、彼が元々目指していたのは故郷である難波の浦。ところが生憎の大風で船が流され『興がある』島に流れ着き、二人の鬼に接近遭遇したのです。鬼の一人が「打出の小槌」を持ち、もう一人が一寸法師を「呑み込み」ますが、彼は目から飛び出し跳ね回ります。余りの異常さに鬼たちは、

  是は、只者ならず。ただ地獄に乱こそいできたれ。ただ逃げよ

と「極楽浄土の戌亥」の、いかにも暗い方へと去っていったのです。打出の小槌を手に入れた彼は、先ず『我がせい、大きくなれ』と激しく打つと程なく背が大きくなったので、次には「飯」を打ち出し、その後「金銀」を次々と打ち出してから都へと舞い戻ったのです。この後、噂を聞きつけた時の帝から呼び出しを受けるのですが、一寸法師の両親の素性も、そこで明らかになります。つまり、彼の両親は只の老夫婦などではなく、

  おうぢは堀河の中納言の子供。うばは伏見の少将と申す人の子

だったのです。そして父は『人の讒言により流された人』であったと書かれていますから、この物語りは単なる出世話などでは無かったことが分ります。どちらかと言えば貴種流離譚の分野に含めるべきものなのかも知れません。また「大きくなった一寸法師」は「殿上に召され、堀河の少将」に取り立てられた後、程なく祖父と同じ「中納言」にも任じられ帝の覚えも「いみじく」一門は目出度く栄え、世間では、

  住吉の御誓いに末繁昌に栄たまふ。これに過ぎたる事はあらじ

と噂したそうですが「小人」と聞いてオオクニヌシと共に国作りに励んだ少彦名命スクナヒコナ)を思い出された方もあるのではないでしょうか。また、彼が鬼から得た(正確には「鬼が打ち捨てていった」)「打出の小槌」で「金銀」(財宝)よりも「飯」(穀物)を先に「打ち出した」(生産した)という伝承が、この物語の、より古い形(仏教的な色彩を帯びる以前の原型)を示唆しているように感じてなりません。今度、この物語りを読み直して彼が中々の「策士」であったことも分りましたが、何よりも「昔話」「お伽噺」と言われる「物語」が、ただ人の口伝えに語り継がれてきたのではなく、中世から江戸期にかけての長い年月の間、何らかの意図を持った人々が「筋書きのある話」に脚色を加え「物語り」の形式に整えて、後世に伝わるよう様々な工夫を凝らしたのではないか(もっと勘ぐれば、特定の話しが世間に広く流布するように仕向けたのではないか。ゑびすと関わりの深い傀儡子なども一役買っていたのではないのか)そんな風に思えてなりませんでした。だとしたら、「興のある島」から「極楽浄土の戌亥」の暗い彼方へ消えたたちとは一体何者だったのか?そちらの方が気になりますね。

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