仁徳天皇と石上神宮の神宝について                                     「サイトの歩き方」も参照してください。

『新撰姓氏録』は西暦八一五年、時の嵯峨天皇の勅命により編纂された官製の氏族名鑑ですが、千百八十二氏の中に含まれる布留宿禰(フルスクネ)には、次のような註文が記されています。

  男木事命 男市川臣 大鷦鷯(仁徳)天皇御世 達倭 賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地 以市川臣為神主 四世孫額田臣 武藏臣 齊明天皇御世 
  宗我蝦夷大臣 号武藏臣物部首并神主首 因茲失臣姓為物部首 男正五位上日向 天武天皇御世 依社地名改布瑠宿禰姓 日向三世孫邑智等也

布留宿禰は柿本人麻呂の生家である「柿本朝臣と同祖」であり「天足彦国押人命(孝昭帝の皇子)の七世孫、米餅搗(タガネツキ)大使主命の後」を称する皇別氏族の一つなのですが、その祖先である米餅搗大使主命は、神功皇后の海外遠征と応神天皇の大和入りの際大いに活躍したとされる和邇氏の宗家、難波根子武振熊命の子供の一人で、その姪である宮主矢河枝姫、袁那弁姫の二人は何れも応神帝の妃となって後宮に入り、姉の宮主矢河枝姫が産んだ八田皇女が後に仁徳天皇の皇后となった女性なのです。つまり五世紀頃、応神を頂点とした新たな帝室にもっとも近しい姻戚関係にあった有力豪族だったことは間違いないのですが「物部首」を称してはいても、ニギハヤヒを祖神と仰ぎ武威を誇った所謂「物部」氏の一員ではありませんでした、閑話休題。石上神宮と言えば半島から贈られた「七支刀」で知られた神社ですが、日本書紀が垂仁天皇時代の事績を記録した文書の中でも朝廷の有力拠点として取り上げられています。

  三十九年の冬十月に、五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮に居ましまして、剣一千口を作る。因りて其の剣を名づけて川上部と謂う。またの名は裸伴という。
  石上神宮に蔵む。この後に、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主らしむ。

書記は、この本分に続けて、更に別伝の形で以下のようにも詳しく述べています。

  一に云はく、五十瓊敷皇子、茅渟の菟砥の河上に居します。鍛名は河上を召して、太刀一千口を作らしむ。この時に、楯部・倭文部・神弓削部
  神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部、合わせて十箇の品部もて、五十瓊敷皇子に賜う。その一千口の太刀をば、
  忍坂邑に蔵む。而して後に、忍坂より移して、石上神宮に蔵む。この時に、神、乞して言はく『春日臣の族、名は市河をして治めしめよ』とのたまう。
  よりて市河に命せて治めしむ。これ、今の物部首が始祖なり。

石上神宮  「姓氏録」  日本書紀

神々の祭祀については既に崇神天皇の治世下で様々な方策が打ち出され、三輪の大物主大神を「大物主の子、大田田根子(母親が陶津耳の娘・活玉依姫)」に祀らせる一方「物部連の祖、伊香色雄命(いかがしこお)」を「神班物者(かみのものあつかいひと)」として「天神地祇の社を定め奉る」(古事記)体制が整えられたと記紀が記しています。崇神帝自身が物部氏出身の伊香色謎命を母に持ち、また天孫族の一員でもある天津彦根命後裔の山代縣主(山代国造)の二人の娘を妃として迎え入れていますから、彼の元では物部氏が祭祀分野に占める重要度が極めて高かったのではないかと思われるのですが、垂仁から景行にかけての時代に大きな変化があったことが推測されます。記紀の記述に従えば当初、石上神宮の太刀を含む「神宝」は皇子が直々に監督していましたが、高齢に達した五十瓊敷皇子は自ら管理することが難しくなり、垂仁八十七年の春二月、妹の大中姫に自らの窮状と代行を訴えたのです。しかし彼女は『女性であること』を理由に兄の申し出を拒み、

  而して遂に大中姫、物部十千根大連に授けて治めしむ。故、物部連ら今に至るまでに石上の神宝を治むるは、是その縁なり。

物部氏の一員に管理を委ねることになったと書紀は記録しています。上で紹介した異伝は、後に朝廷内部で重きをなした和邇氏の伝承が「一書」の形で書き加えられたのだと見られますが、そこからは「女性による祭祀の終焉」と「石上神宮そのものの性質の変化」が見て取れるようです。大正三年に公刊された『大和志料』が収録している「石上振神宮略抄」という資料には、

  布留宿禰は春日臣と同祖にて、天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命の三子、市川臣は十三代成務天皇の御世に、
  石上振神の乞言によりて物部連に代て神宮の神宝を治しめ神府の典やくに補す。仍て物部首の氏姓を賜う。
  十七代仁徳天皇御宇、市川臣に勅して吉備神宮に祭る天羽々斬剣を石上振神宮に遷し蔵め加え祭る云々。

とあって、春日市川臣家では神宮の祭祀権が物部氏の手から離れて、同家が神主の立場を得たのだと主張しているのが分かります。そして、その契機となった出来事の一つが「吉備神宮に祭る天羽々斬剣」の移遷だった訳です。『石上神宮旧記』は「スサノオ尊が大蛇(おろち)を斬り賜いし十握剣」こそが「天羽々斬剣(アマノハハギリ)」と呼ばれる神剣で、別名を「蛇之麁正(オロチノアラマサ)」とも言い、神宮がその神気を称えて「布都斯魂神(フツシミタマ)」と崇めている神宝を、吉備神部の許から仁徳五十六年に「物部首市川臣(布留連の祖)」が勅命を受けて石上の地に遷し、それを祀ることになったと書き留めています。それではページ冒頭で紹介した姓氏録の註文にある「達倭」という文言はどのように理解すべきなのでしょう?

先代旧事本紀    播磨風土記    

この二文字について「倭(やまと)に達(いた)る」と解釈するなら、神功・応神親子の時代既に大和地方で一定の勢力を得ていた和邇の一族が、応神帝の子供である仁徳の治世下になって「吉備」の地から倭に移り住んだとは考えられないので、この時、大和に「達した」のは仁徳天皇自身だったのではないでしょうか?。応神帝が生前に後継者は皇太子の菟道稚郎子と決めていたにもかかわらず、彼が亡くなると大鷦鷯との間で「帝位」の「譲り合い」が起こります。書紀は「三年」もの間空しく時間だけが過ぎ、大山守皇子の反乱劇を経て太子が自害したと記しています。何時ものごとく真相は杳として不明ですが、応神帝を失った帝室が極度に混乱していたことだけは確かなようです。「兄弟同士で帝位を三年も譲り合う」ほどの人物が、自らの即位の後に「武力の象徴」である神剣をわざわざ吉備から運び入れ、物部一族ではない和邇春日の「族」に祀らせたりするものでしょうか?筆者には、応神帝が即位する前、先帝仲哀の遺児二人と激しく争った場面が思い起こされ、実際には二人の皇子の間でも大王の位をめぐる戦いが繰り広げられ、オオサザキが実力で帝位を手中に収めたのではなかったのかと思えてなりません。そして、従来祭祀を独占してきた天孫一族の物部氏ではなく和邇氏の一族が「神宝」の祭主に任じられたのは、何より彼らの持っていた軍事力が仁徳帝の基盤を支えていた事情を物語っていると見て間違いなさそうです。更に、この神宝だけが大和石上に遷されたのではなく、この時期(五世紀半ば頃)応神、仁徳両天皇を核とする息長系氏族も同様に大和入りを果たしたのだと想像することができます。

八世紀になって編まれた「播磨風土記」は、一つの不思議な伝承を採録しています。

  郡の南の海中に小嶋あり、名を南毘都麻という。志我の高穴穂の宮に御宇しめしし天皇(成務)の御世、丸部臣らが始祖、比古汝茅を遣りて、
  国の堺を定めしめたまいき。その時、吉備比古・吉備比売二人参迎えき。ここに比古汝茅、吉備比売に娶いて生める児、印南の別嬢、
  この女の端正しきこと、常時に秀れたりき。その時、大帯比古の天皇(景行)この女に娶わんと欲して、下り幸行しき。            [印南郡の記事より]

確かに古事記の序文には「境を定め邦を開きて、近淡海に制め」とあって成務帝を偉大な大王の一人だったと顕彰していますが、彼は景行帝の「子」ですから如何に伝聞を取り上げたにしても「物語」の域を出ない昔話としか言いようがありません。ただ比古汝茅(ヒコナンジ)は和邇氏の祖とされる難波根子武振熊命の弟とされる人物ですから、播磨国と同氏のつながりの強さを示す逸話と考えれば良いのかも知れません。九州、四国はもちろん吉備や播磨から大和を目指す者は皆、航行の技術に長けた海人族の海運力に頼らざるを得なかったはずなので、古代において和邇一族の存在感は並大抵のものではなかったでしょう。

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