織田信長とスサノオと天津彦根命について                                  「サイトの歩き方」も参照してください。

江戸後期、一般庶民向けの名所観光案内書とでも言うべき全国各地の「名所図会」が相次いで刊行され人気を博しましたが、編集を担当していた俳諧師・秋里籠島が「摂津」版の中にある大阪箕面に鎮座する伊那都比古神社(箕面市白島)を紹介している項目で、概ね次のような解説文を掲載しています。

  天正年間、全国制覇を目前に控えていた織田信長が、部下の高山右近に命じて北摂一円の神社を破壊しようとしたが、スサノオと習合していた織田氏の信仰篤い牛頭天王を
  祀っていると称して、多くの神社が難を逃れることが出来た。

解説を加えるまでもありませんが「神仏」を尊ばなかった信長の「蛮行」を、敢えて祭神をスサノオに替えることで近畿一円の神社が存亡の危機を乗り越えたという訳ですが、この「説」は天文元年(1736)に今西玄章が著した『豊嶋郡誌』の中で述べたのが初出のようで、一部の研究家によれば実際に高山右近が摂津国内に於いて神社を壊した事実は無く、巷に流布していた稗史の類を検証せずに採録したもので信憑性は薄いとする評価もあるようです。ただ、当時、近畿の神社等が実際に被害を受けていなかったにせよ、織田信長とスサノオ(と牛頭天王)の強い結び付きが、一般に広く知られていたことは確かな様に推察されます(この俗説が広められた背景には、信長がキリスト教について寛容だったこと、更には高山自身がキリシタンであり社寺よりもキリスト教を庇護した、つまり社寺側から嫌われていた事情があるのかも知れません)。

摂津名所図会  剣神社(WEBより)

その信長の出自については様々な見解があるようですが、越前国の丹生郡織田(おた)が出身地ではないかとする研究があります。其の地には現在も剣神社が建ち、スサノオなどの諸神を祀っているのですが、この社には幾つかの不思議な伝承が見られます。先ず、一つ目の不思議が祭神に関わるもので、神社によれば当地に社を建立した人物が忍熊王と称する帝室の一員だったとしている点ですが、我が国の古代史に興味を持っておられる方なら、この言い伝えに強く違和感を覚えられるはずです。何故なら、その皇子は仲哀帝と大中姫との間に生まれた人で、神功皇后と応神帝の親子に対して「反乱」を企て、初め播磨の国明石に陣を敷き、九州から凱旋してくる応神たちを待ったのですが、菟餓野での「誓約」の折、兄弟の香坂王が猪に襲われて亡くなったことから急遽摂津の住吉に退却、更には宇治を経て近江の国へと転戦しますが、神功皇后を補佐していた和爾氏の棟梁・建振熊と武内宿禰の軍勢に破れ逢坂(大津)の地で遂に亡くなります。その、瀬田川で入水したはずの忍熊王が越前の地を訪れ、地域を平定した際、スサノオの神助があった事に感謝して剣神社を新たに織田の現在地に遷したと云うのですから、話自体がとても複雑に入り組んでいます。また同社には、

  劔神社の創祀については、第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷の北に聳える座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀り、その後、第十一代垂仁天皇の御代に、
  伊部臣という人が和泉国鳥取川上宮で造られた千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきたことが縁起として伝えられている。

との伝承も残されており、これは明らかに五十瓊敷入彦命が茅渟の菟砥宮において鍛えた「裸伴(あかはだかとも)」で、忍坂邑に一旦納められた後、石上神宮に収蔵された宝物の一部だと思われます。従って、この神剣を管理できた「伊部臣」という人物は物部氏の一族だったと推測されるのですが、新撰姓氏録などにも、この姓を持つ氏族は掲載されてはいないのです。ただ、当オノコロ・シリーズで幾度となく取り上げ検証してきた通り、ツルギヒコは取りも直さず天津彦根命の息子・天目一箇命(天御影命)に他なりませんから、剣神社の神宝を祀っていた「伊部氏」とは、天目一箇命の同族である「忌部氏・斎部氏」であったに違いありません。

記紀など正史とは全く異なる内容の社伝が意味する処は難解ですが、伝承を構成している「話」の裏側には帝室の権力基盤が変遷して行った実態がある様にも見えます。それは一方で、越前国と継体帝との結び付きを前提としたものではないかと考えられるのですが、彼の祖先でもある応神帝が越前一の宮である気比大社を詣でて「大神と名前を交換した」と云う逸話も息長系大王と日本海側地域との深い縁を象徴しているのではないかと思われます。これを「ツルギヒコ」という神様を手掛かりにして整理してみると、

  @ 天孫族の太祖とでも言うべきスサノオ神は出雲の国に降臨して国造りの先鞭を付けた。その折、先進的な金属生産技術が大いに役立った(ヤマタノオロチ退治伝説)。
  A スサノオの直系である天津彦根命は天目一箇命や少彦名命などの息子たちと共に、スサノオの路線を引き継ぎ、開拓地域を更に多方面に広げ、
     息子たちの子孫は出雲国内に留まることなく、日本海および瀬戸内海ルートで全国各地に進出して勢力範囲を確実に広げた。
  B 神武帝に代表される別系統の天孫族は進出先の畿内で発展を遂げ、崇神帝の頃には前方後円墳という埋葬文化を成立させて影響力を全国各地に及ぼした。
  C 垂仁帝の子息である五十瓊敷入彦命は河内国の持つ技術力で武器の大量生産を可能にし、実力による全国制覇の可能性を高め、
     実際に、景行帝の治世において各地に点在していた同族などの協力者と共に武力平定を進め、天孫族の支配地域は一段と広がりを見せた(景行の九州巡行)。

剣神社の創建に関わる言い伝えは、このC項目に続く仲哀の死去と応神大王の誕生の時期と密接に関わっている訳ですが、同社が神宝として掲げている「剣」を、応神帝との大王位争奪戦に破れた忍熊王その人と同一視しているのであれば、記紀で詳しく語られている一つの「神話」を想起させます。それは天若日子の「返し矢」物語に他なりません。天上界に在った天若日子は葦原中国を支配するため神々によって出雲国に派遣されたのですが、その国の王であるオオクニヌシに靡き、娘婿となってしまい任務を果たそうとはしませんでした。或る日、彼を送り出した高皇産霊尊(高木神)の許に一本の矢が届きます。それは、かつて神自身が天若日子に与えた武器だった事に気付き、神様はその矢を下界に投げ返しました。その結果、返された矢によって「胸板」を射抜かれた天若日子は亡くなってしまうのですが、筆者は、この寓話は葦原中国(倭国)を支配下に置こうとしていた天孫一族間での争い事を示したもので、天若日子の実体は天津彦根命と天目一箇命親子ではないかと想像しています。

記紀神話の核心を形成しているものは「天孫一族による支配の正当性」の主張に他ならず、オオクニヌシによる「国譲り神話」はその典型だと言えるでしょう。また、同族であったニギハヤヒの「服従」物語も天若日子伝承と本質的に変わるものではありません。記紀を丁寧に読めば、天津彦根命の後裔たちがアマテラスの直裔たちに如何に服従したのかが明らかになります。この一貫した主張は応神帝(息長系)の子孫である後世の大王たちの記述にも現れ、安閑帝へ「良田」を奉らなかった凡河内氏や、允恭帝の皇后・忍坂大中姫に無礼を働き姓を貶められた闘鶏国造は何れも天目一箇命の後裔たちでした。その一方で同じ天津彦根命の後裔でありながら、少彦名命の子孫たちは帝室への従順な協力者として描かれています。この兄弟であった神々の子孫でありながら、全く正反対の評価が下されている背景には、やはり八咫烏(少彦名命の別名)として初代神武を大和へ導いた「功績」があり、積極的に協力しなかった天目一箇命は父親と共に冥界の奥底に押しやられた現実が横たわっているのでしょう。

 丹生(にう)を読んで字の如く「丹を生む土地」だと解釈すると、信長の祖先が居た越前織田は丹生=丹土(朱砂、辰砂)の産地だった可能性があります。そこで繁栄した一族なら  
 古代金属生産の神様である天目一箇命(ツルギヒコ)の子孫として、とても相応しいと言えそうです。

さて、肝心のスサノオですが、同じ越前国の或る地域にとても変わった伝承が受け継がれています。それは福井市網戸瀬町にある八坂神社の氏子たちに伝わるもので、

  昔々、雷鳴に驚かれたスサノオ尊が、あわてて近くのキュウリ畑に逃げ込まれたところ、
  その畑のキュウリ棚の柱が尊の片方の目に刺さり、スサノオは失明してしまわれた。

だから八坂の神、スサノオはキュウリが大の嫌いであられるから、地域ではキュウリの栽培をしてはならない、と云うもので実際、同地区では全くキュウリ栽培を行っていないのだとか。皆さんも直ぐ気が付かれた通り「片目」のスサノオからは容易に天目一箇命との関連が導き出されます。信長の「丹生」生誕と、剣神社の神職出身説を前提とするなら、彼は己をスサノオ・天津彦根命(ツルギヒコ)更には天目一箇命の「生まれ変わり」と信じて、平将門のように「新皇」となる未来を心に描いていた可能性がありそうです。

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