江戸の能楽師たち。「武鑑」と写楽そして斎藤十郎兵衛                     「サイトの歩き方」も参照してください

写楽の実像は、阿波蜂須賀藩松平家お抱えの能楽師であった、そのような見方が世間では有力視されているようですが、当人であると見做されている斎藤十郎兵衛の名前が、江戸期を通じて出版されてきた『武鑑』には一度も掲載されていなかったという事実は、前回の記事(「武鑑と斎藤十郎兵衛」)で詳しく紹介したばかりですが、何年か掛けて収集してきた資料の中には未だ「使えそうな」モノが幾つかあるので続編代わりに、少し長めの蛇足を書き加えておこうと思います。

「武鑑」は、その名前の通り「武士」の身分を持った人々の紳士録・名鑑なのですが、そこには徳川氏を頂点とする大名や幕府の要職にある高官あるいは直参旗本、御家人といった人々だけが収録されているのではなく、体制によって「武士の身分」を与えられた者たちの名前も列記されていました。例えば「お役人衆」を収めた巻の冒頭には「諸御役 目録」という見出しが付され幕府組織内の位順に『御老中 御側御用人 御若年寄 御側衆 御高家衆』などと続き最終部分近くには「遠国分」として『京都御所司代 同町御奉行 禁裏様付』の職が記載され、最も後ろの位置に『諸国御代官 御絵師 御大工棟梁 江戸町年寄 御用聞町人 幸若音曲 御能役者』が配されています(下の画像参照)。そして「武鑑」の発売で遅れをとっていた御書物師でもある出雲寺和泉掾版では、須原屋版には見られない独特の「合印」が付けられ、江戸期の能役者たちの別な情報を知ることが出来ます。(下右の画像を参照。印それぞれの説明書きの部分です)

見出し部分  御能役者  合印の説明部  

「武鑑」の編集販売で須原屋の後塵を拝した出雲寺側としては、後発の不利益を最小限に抑えるためにも何らかの差別化が必要とでも考えたのか、先発武鑑には無かった独自の「合印」を工夫して購入希望者の眼を惹こうとしました。それが右上画像にある「御目見 ●印」「拝領地 △印」の二つ、幕府御用達の商家や御能役者たちの中で、誰が「御目見得」の資格を有しているのか、そして誰が幕府から「領地(この場合は家鋪地)」を拝領しているのかが一目瞭然になるという訳です。筆者も、写楽の追っかけをしている内に観世屋敷などの存在を知り、漠然と「各流派の家元は、それぞれ屋敷があったのだなぁ」位に捉えていただけなのですが、今回、出雲寺版武鑑を改めて見直すと、四坐一流の「太夫」たちばかりに限らず、その他にも屋敷を拝領していた役者は結構な数に上っていたことが分かりました。また、その中でも、ある能役者は写楽斎が住んでいたとされる江戸、八丁堀地蔵橋にも長らく住居があったことが判明しましたので、併せてご紹介したいと思います。

それは観世座に所属していた狂言師の鷺仁右衛門を名乗る人物で、もともと始祖とされる鷺仁右衛門宗玄(1560〜1650)が独自に編み出した猿楽芸の家元なのですが、徳川家康がとても宗玄を気に入り、わざわざ観世座の一員として組み入れ、更には幕府の狂言方筆頭の地位も与えて庇護したことから、江戸期を通じて能の世界で大きな影響力を発揮したと謂われ、一門を率いる当主が「仁右衛門」の名と芸を世襲したものです。また、分家の当主が「伝右衛門」を名乗り、本家と同様に幕府から屋敷地を拝領していますが、安永九年(1780)版の「武鑑」によると「御目見得能役者」で「拝領地」を頂く狂言師の鷺仁右衛門の住所は「八丁堀地蔵橋」と記録されています(下画像参照)。

安永九年版  同「合印」  同「鷺仁右衛門」 

少し画像が小さ目ですが、それぞれの「合印」と鷺仁右衛門の名前の上に「狂言 △● 八丁堀地蔵橋」と記されているのが分かると思います。また、一番右側に貼り付けてあるのが天保十一年に観世太夫が公儀、あるいは尾張徳川家に差し出したと考えられている「家鋪帳」に記された鷺仁右衛門拝領町家鋪の細目なのですが、そこには、

  表間口 田舎間 拾壱尺 壱尺  裏行 同 拾七間  坪数百八拾坪余  下谷長者町壱丁目
  右者 町人共エ貸置、当面 幸橋御門内 松平大隅守殿屋敷内ニ住宅仕候

と記録されています。つまり「下谷長者町(現在の上野?)」に「百八拾坪余」の屋敷地を拝領しているが、その土地は全て「町人たちに賃貸」し、自らは「幸橋御門内」にある大名の屋敷内に住んでいる、事になっていた訳です。「武鑑」を出版された年代順に追ってみると彼は安永九年(1780)の段階では「八丁堀地蔵橋」に住んでいたのですが、恐らく薩摩鹿児島藩から声がかかったため天保十四年(1836)に一旦、幸橋御門内に在った薩摩藩邸に住居を移していたものの、弘化三年(1846)には再び元の地蔵橋の家に戻り、幕末まで住み続けたと考えられます。そして、幕府からの拝領地には一度も住むことは無く、恐らく貸家を建てるなどして賃料(現金収入)を得ていた訳です。これは、鷺仁右衛門に限った事ではなく、屋敷地に住みながら町人たちに賃貸しする者を含めて、ほとんどの者が拝領地を貸して賃料収入を得る一方、別の場所に自宅を構えていたことが分かっています。ところが、それだけの副収入があり、斎藤与右衛門に比べれば遥かに裕福だったはずの彼でも、八丁堀の与力屋敷内などの表地に家屋を構えた様子が見られない(八丁堀屋敷図にも名前が掲載されていない)のは、どう考えれば良いのでしょう。また、これまでに何度も紹介してきているように文化年間に地蔵橋を住所とする観世座の能楽師は四人に上り、南北八丁堀に枠を広げれば更に多くの役者たちが生活していました。正に、八丁堀は能役者の棲む町並みだったのです。鷺家の収入に比べて格段に少ない給金しか得ていなかった十郎兵衛一家が、本当に独力で八丁堀の主要道路に面した地域一等地に家を構えることが可能だったのでしょうか?

 五人扶持とは=一日当たり五合の米が支給される。つまり五合×30日×12カ月=1.8石×五人=九石の米が支給される。現金に換算すると凡そ十両強程度の金額
 になる。 この扶持米は毎月支給されることになっていましたから、毎日の食事に最低限必要な米の他は味噌、塩、薪、副食などの必需品と交換していたのではないかとも
 考えられます。

良く知られているように斎藤家の受けていた給金は「五人扶持判金弐枚」に過ぎません。江戸期には歌舞伎役者が人気を背景に数百両あるいは更に高額の年俸を得ていた事から、能役者も高給取りだったのだろう等と思い違いをしている人も有るようですが、彼が一年間に受け取る給与は「米が九石」と「現金が二両」だけなのです。彼一人が生活するのなら、裕福とは言えないまでも「そこそこ」の暮らしは出来たでしょう。しかし、十郎兵衛には母、妻そして子供たちが有って養わねばなりません。寛政期から少し時代が下った文化の頃、江戸の裏長屋(九尺×二間=広さ六畳、約三坪)でも一か月の家賃は1,000文(一分、約二万円)程度であったと考えられます。つまり「一か月一分」として年に最低12分の現金が住まいに掛る必要経費として否応なく支出される訳ですね。では「12分」とは何両になると思われますか?江戸期に関東では「金貨」が関西西日本では「銀貨」が主な通貨として流通していたそうですが、それはさておき、一両は「四分」に相当します。であるなら、長屋住まいでも家賃として「年三両」のお金を家主に支払わねばならないのです(八丁堀の奉行所同心が自らの敷地内に建てた表長屋の二階建て延べ床面積八坪[16畳]の貸家になると一月の家賃が1,800文でした。また、1820年当時、日本橋の道路側に面した表地代は15坪で月一両でしたから、その半額としても八丁堀で30坪程度の表地を借りるだけで月に一両の地代が掛かったことでしょう)ここで、時間を寛政初め頃に戻します。

地蔵橋周辺  斎藤家  分限帳

寛政三年六月、十郎兵衛の父・与右衛門が七十一歳で亡くなります。それまで「二人分」だった一家の収入は半減、幼い子供たちの居る斎藤家の家計は緊縮財政を余儀なくされたはずです。元服の頃から十数年間、親子二人の給金で賄っていた暮らし向きは極力出費を控えたものになっていたことでしょう。そこで皆さんに質問です、阿波藩邸内の長屋に住む限り家賃は一切払う必要がありません。世帯収入が半減しました。そんな時、貴方は「月に一両」ちかくも支払が発生する貸家に移ろうと思いますか?また収入をも上回る家賃が払えますか。東洲斎写楽を能楽師の仮の姿だと主張する研究家から、彼の収入面を取り上げて論じた文章を見た事が無いのですが、誰の眼にも十郎兵衛の地蔵橋表地転居は「無謀」な行いに見えます。「武鑑」で調べて分かった斎藤与右衛門も各地を転々とした後、七軒丁の長屋に落ち着いています。一部の拝領地持ちでさえ出費面の大きさから敬遠した表地の借家住まいを、喜多流の謡要員に過ぎない分際の十郎兵衛が、自らだけの資力で実現出来ると考える方がどうかしています(筆者は、十郎兵衛の子供を養子に貰い受けた村田春海親子が支度金を用意し、かつ家賃の一部も負担したのではないかと想像しました。そうでもしない限り八丁堀での暮らしが成り立ちません)。

  文政の分限帳より抜粋(右から四人目に斎藤与右衛門の名)  

東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

安政生まれの国文学者・関根正直によれば、八丁堀に居を移す前(寛政六年以前)から村田の教えを乞う者が既にあり、地蔵橋に転居した後は「門弟」の数も多かったようです。更に白河侯松平定信の扶持米に加え「長岡侯、棚橋侯」などからも「出入扶持」を頂いていた彼の懐具合は次第に良くなったと見え、最晩年の文化七年(1810)には住宅を新築するまでになっていました。このような経済力を背景に、斎藤家の子弟を養子に迎え更には養子の実家の面倒まで見ていたのではないかと云うのが筆者の憶測なのですが、皆さんはどのように判断されるでしょう。従来述べてきた事の繰り返しになりますが、斎藤十郎兵衛は東洲斎写楽ではないと思われます。『阿波徳島藩蜂須賀家家臣・無足以下分限帳』の文政年度版によれば「江戸住」のお抱え御役者は十五人いました。斎藤与右衛門は前から四人目に記録されています。皆が皆、南八丁堀の藩邸内に住んだとは限りませんが、是だけの同僚たち家族の耳目から完全に逃れて、十か月もの間「密かに役者絵を画き続ける」生活を送ることが果たして可能だったのでしょうか?更に、同分限帳には今までに見たことのない「手木小頭」「手木之者」という謎めいた人たちにも扶持米と現金が渡されていたことも明らかになりました。「手木之者」の正体は次回、明らかにしたいと思います。

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