稲荷(いなり)神社と豊作祈願について                                   サイトの歩き方」を参照してください

動物シリーズの第3弾、ということでお稲荷さんのキツネくんを取り上げるつもりなのですが、彼・彼女については全くの素人。それでなくてもこの所、富に頼りなさを増す脳みそ、稲荷についての知識は皆無に近いのです。というのも、少しは読んで知っているつもりの愛読書・古事記にはキツネくんのお話しのネタが、何処を探しても載っていない…。

泣き言を書き連ねても先に進めませんから、WEBでかき集めた一級資料?を基に、知りえた範囲のあれこれと推理の一端を紹介してみることにしましょう。とにかく全国には、なんと40,000社もの稲荷神社があるとされていますが、その元締め、大本山は皆さんもよくご存知の京都・伏見稲荷大社、TVのお正月番組などでも「今年の参拝客が何万人」とか「お賽銭の総額が3カ日でウン千万円」などと毎年紹介される、あの神社が本家なのです。話は6世紀の前半に遡ります。

古事記と蘇我氏・藤原氏のページで登場する第29代欽明天皇が即位される前(西暦530年代)の頃の話として、日本書紀は次のような記述を残しています。

天皇が、まだ幼いある日「大津父(はたのおおつち)」という者を登用すれば、成長した時必ず天下を上手く治めることができるだろう、という夢を見た。目覚めて早速探してみると山背国紀伊郡深草に彼がいた。

このお話しと、皇極天皇2年(643)の11月に蘇我入鹿が聖徳太子の後継ぎである山背大兄王を滅ぼす目的で奈良の斑鳩に攻め込んだ時、王に従っていた者たちが「深草屯倉」に逃れるように進言したという記述を合わせて考えると、かなり古い時代から秦氏が深草の土地に住み着き、相当の勢力を持つ存在になっていたことが想像されます。つまり、最盛期の蘇我氏の武力に対しても抵抗することが可能な力を持っていた、そして諸豪族が蘇我氏の顔色を窺がっている中にあって、明確に反蘇我氏の旗幟を鮮明にしていたということです。秦氏は、その苗字からも分かるように渡来系の豪族で、平安時代の初めに編集された『新撰姓氏録』という書物には、秦氏の遠い祖先は「中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王」であると記されています。先祖自慢もここまでくると、流石に脱帽、と言うより他ありませんが、真偽のほどはおくとして、秦氏が古い時代にはるばる海を越えてやってきた一族であることは間違いなく、その名の通り「はた(織物)」を得意とした技術集団でもあったのでしょう。また欽明天皇が秦大津父を「大蔵」官僚に取り立てたという伝承から考えて、計数にも明るい人材を豊富に抱えていたに違いありません。当時、国際的には後進国であった日本にとって、外国から知識を携えてやってくる人々は皆、得がたい人材であった訳ですから、秦氏に限らず、国家建設の事業を助けた氏族が広く存在したと思われます。

  「うか」とは穀物を象徴する言葉なのか?  

では、例によってお祭りされているカミサマについて見てゆきましょう。神社の案内書によれば稲荷大社の主祭神は「宇迦之御魂大神」(うかのみたまおおかみ)で、アマテラスと同様に女神です。古事記が記している神々の系譜上はスサノオ系統に属しているのですが、これまで紹介してきたオオクニヌシとは、また異なる系統のカミサマです。同じスサノオ一族でも、人間的な個性を与えられている人格神の性格が色濃いオオクニヌシとは違い、素戔鳴尊と神大市比売命の子供として位置付けられている宇迦之大神は自然神の雰囲気が漂っています。その兄弟とされる神々も奥津島・市杵島・多杵島比売命の三姉妹や大年神など、自然を神になぞらえたものと考えられ、父神が「大山祇神」(おおやまつみ)であることも宇迦之御魂の本質が何であるかを窺がうヒントになるように思えます。

また、五穀神話の主人公でありスサノオの妹でもある大宜都比売神(おおげつひめ)や、伊勢神宮(外宮)の祭神である豊受大神(とようけのおおかみ)と意図的に結び付けられた形跡があることから、食物・穀物のカミサマであることは間違いなさそうです。(五穀神話=古事記などに記されているお話で、大宜都比売の体の各部分から五つの穀物が発生した、というものなのですが、興味のある方は原典を読んでみてください。外国語との相似を指摘する「説」もあります)

     赤い鳥居のお稲荷さん   狐が銜える物は?  広隆寺

  稲荷神社のシンボルはです  

  「稲荷」がどうして「イナリ」なのか

ところで「うか」という耳慣れない言葉は、相当古いものらしい。語感から、すぐに「閼伽(あか)」(水)との関連を思い浮かべてしまうのですが「あか」は、もともとが仏教で仏に供える水を指すサンスクリット語の「argha」を音訳したものだということなので、どうも親類縁者の関係ではないらしい。(ただ、言葉の原義は『価値あるもの』ということなので、結び付けたい誘惑にかられるのですが…)唯一の手掛かりを古事記に探すとすれば、お馴染みのスサノオ・オオクニヌシ伝説の中に出で来る山の名前しかない。それはスサノオが娘を連れて逃げるオオクニヌシ(オオナムチ)に対して贈った餞の言葉に出て来るもので「宇伽能山」(うかのやま)というものです。従来、これは土地名との語呂合わせ、つまり出雲郡宇賀郷にある山だとされてきたのですが、それだと話の辻褄が合いません。恐らくスサノオが態々そこに「家を構えろ」とまで推薦しているのですから、豊穣が約束された地を意味していたに違いないと思うのです。豊受大神との関係も強ち無視する訳には行きませんから、とりあえず「うか」は豊かさ、或いは豊な実りを齎す土地を象徴するもの(穀物)だと解釈しておきます。

それでは本題にもどることにしましょう。伏見稲荷の起源については「山城国風土記」の逸文が、つぎのような興味深い話を伝えています。

      伊奈利と称えるのは、秦中家忌寸たちの遠い祖先である秦伊呂具が

      弓矢の的に餅を使っていたところ、その餅が白鳥となって飛び羽ばたき

      山の峰に降り立つと、そこに伊禰奈利生えた。

      そこで社の名前を「イネナリ」としたのである。

この話自体は「秦氏」の祭祀権を裏付ける目的で語られたものなのでしょうが、単純な長者伝説に終わっていないのは、秦氏の置かれた環境と家の繁栄が必ずしも順風満帆ではなかった事実を反映しているからなのかも知れません。引用しなかった箇所の記述もふくめ、風土記からは秦氏に関する幾つかの情報を得ることができます。まず、その財力は「稲が沢山積み重ねられ、大変裕福」であったこと。ただ、米から出来た当時としては貴重な「餅(食べ物)を的代わりに使用」するなど「慢心」しているとの評判がたっていたこと。そして秦氏の財力と技術で「山の峰」(従来、農耕に適さなかった、あるいは穀物の栽培ができなかった土地)まで耕作地が拡げられ(国家に富をもたらし)たことなどです。

また、神社に伝わってきた「口伝」によれば、深草の長者「伊呂具秦ノ公」が、

      元明天皇の和銅4年(711)2月、勅命を被って三柱の神を伊奈利山に祀った

とありますから、8世紀初頭には秦氏の祭祀権が朝廷からも改めて公に認められたのでしょう。ただ、深草の地に限らず、日本の土地土地には八百万の神々が住んでいたわけで、秦氏としても「うか」の大神を始めとする古い神々を祭神とすることで周囲との融和を図ろうとしたのではないでしょうか。もっと勘ぐれば、もともと「うかのやま」として信仰の対象になっていた山々を、そして、その地域で農耕を行っている人々を自己の支配下に置くために「イネナリ・イナリ」の神話が創られたように思えるのです。 

初めて伊奈利を祀った年とされるのが西暦711年、この数字によく似た年号を他のページで見かけませんでしたか?覚えていない読者のために、年表の一部分を抜き出してみましょう。

      710年 平城京へ遷都      712年 古事記が完成      720年 日本書紀が完成

天武・持統・文武・元明と受け継がれた国家整備事業が進められてゆく過程で、恐らく秦氏(を始めとする渡来系の諸豪族)は、古くから培ってきた財力(武力も含む)と知識力で少なからぬ貢献をしたことが誰の目にも明らかとなったのではないでしょうか。ここまで推理してくれば、稲荷神社の創建が「たまたま古事記完成の前年だった」と考える人はいないでしょう。蘇我氏の勢力が一掃され、新たに実力者となった藤原氏にとっても反蘇我氏の立場を鮮明にしてきた秦氏は得がたい存在であったはずです。(秦氏と藤原氏とのつながりや、藤原京遷都での役割などを詳しく述べようとすれば、本家筋に当たる太秦・秦氏について語らなければならないのですが、ここでは触れません)そこで天武・元明の言う、

      帝記や旧辞を集め、その偽りを削り、事実を定める

目的で古事記が編纂されてゆく中、欽明朝から数えて二世紀にもわたり国に尽くしてきた秦氏の功績が認められ、その家の「正しさ」を証明する根拠として、アマテラスの弟であるスサノオの系統に属するカミサマをお祭りする地位が正式に与えられたのではないでしょうか。(これは、余り根拠のない推理に過ぎないのですが、日本が当初、固有の字をもたなかったため、全ての記述は漢字を利用していました。では、それらの字を用いて記録を行う仕事に携わっていたのはどのような人々であったのか?当然、それまで漢字文化圏に生まれ、育ち、渡来してきた人たちだったのです。ということは、元明朝において記紀編纂の実務に当たっていた人々の中に秦氏一族が含まれていたと考えても良いのではないでしょうか)ただ、これまで見てきたように、その地域には先住民たちが信仰の対象として古くから大切にしてきた「うか」の山があり、うかの神さまが鎮座されていた。秦氏としては、本当なら秦の神とでも言うべき自前のカミサマを主祭神にしたいところだったのですが、先の「餅」の評判・反感も考慮して、あえて「イネナリ」伝説による神社縁起にとどめたのではないか。幸いなことに、古い「うか」のカミサマと新しいイネナリの神様は、どちらも豊穣をもたらす農耕・穀物のカミサマだったわけで、イネナリの祭祀権を得た秦氏にとってみれば、祭神にこだわる必要性も薄かったのかも知れません。

 山の神さま、田の神さま  

ところで何故キツネくんなのか、というお話ですが、これには様々な説があるようです。その中でも代表格が二つあります。先ず、よく言われているのが益獣説。うかの山に住んでおられる神様が、春になると里に降りてこられて「田の神さま」になり、人々に恵を与えた後、再び秋には山に戻られて「山の神さま」になる。農耕とりわけ稲作にとって大敵とも言えるネズミを退治してくれるキツネは、人々にとって益獣であり、田の神さま・山の神さまが遣わされた有難い神の使いである−という訳です。後の一つは本地垂迹説からの解釈で、仏教の荼枳尼天(だきにてん)が狐にまたがった姿で表現されることから、荼枳尼天イコール稲荷なので、イナリも狐が象徴とされた、というもの。さあ、どちらなのでしょう?

専門家ではない語り手には、どちらが的を射た答なのかは分かりません。でも、伏見稲荷大社の祭神として「佐田彦大神」「田中大神」が祀られていることは事実です。人里近くに出没はするものの、なかなか住処を明かさない。機敏な動作で小動物を捕らえ、たまには子供も一緒になって現れるが、犬のようには決してなつかない。そんな自然児のキツネくんが有り難いカミサマのお使いであるという思いが昔の人々の心に生まれても不思議ないでしょう。

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不思議ついでにもう一つ、この神さまの名前は何とよむでしょう?「倉稲魂神」そのまま読めば「くらいねみたま」でしょうか。お間違い。これで「うかのみたま」と読むのだそうです。日本書紀第6の一書が、そう読むと伝えています。でも、そう言われて見ると、神社の本殿は、何となく米倉風の造りですよね。ネズミ返しが工夫してあり、その前には我等がキツネくんが見張り番として睨みを利かせているのかも。では、また、次の機会にお会いしましょう。

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