地蔵さまの「正体」を探る                     サイトの歩き方」も参照してください

毎朝、陽が昇るのも待ちかねて、まだ暗いうちから夕ぐれまで、大声コンクールを連日繰り返していたセミたちの饗宴にようやく幕が下り、長く、ずっと続いて欲しい夏休みが後一週間で終わろうとする頃、地区のお年寄り達が、いつものように集まり、当番の一人が毎年お菓子を購入している馴染みの店屋に注文の電話をかけた。集会場となっている公民館の一室に集まる人の数は年々少なくなってきてはいるが、それでも皆、準備の忙しさを楽しんでいる。車一台がやっと通れるほどの道端から数メートルほど入った所に小さな祠が蹲るように佇んでいる。一年を通して、その祠を訪れる者は極限られているが、この日だけは、沢山の子供達の声が広くもない庭のような空間に響きわたる。飾りつけの提灯の火が揺れ、闇が訪れる。

お地蔵さまの本名は『クシティ・ガルバハ』(梵語)と言い、仏典の「地蔵十王経」によれば、あの鬼より怖い閻魔大王の化身なのだそうですが、地蔵菩薩(別名・妙幢菩薩)は元々、釈迦が亡くなり56億7千万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、衆生を救う(一切衆生を教化する)ことを主な役目とした菩薩さまだと言うことになっている反面、仏教の生まれ故郷であるインドに縁の有る方ではないという解釈もあるようです。また「地蔵」という漢字表現からは「クシティ」が「大地」を表すことから、農耕民族にとって最大の恵みを齎してくれる「土地」への素朴な信仰と密接に結びつき「地霊・田の神」とも無理なく融合して民衆の間に地蔵信仰が浸透していったものと思われますが、時代的には、平安期に広まった末法思想に深い関わりがあるとも解釈されています。つまり、閻魔さまの化身だとも言われるほどの方ですから、亡くなった者が冥途に旅立ち、地獄の閻魔様の裁きを受けなければなくなくなった時、強い味方になって頂けるという訳です。

 末法思想=お釈迦さまが亡くなってから、一定の期間が経過
 すると社会に混乱が起こるという考え方で、平安時代の中頃
 では釈迦の入滅後2,000年に当たる1052年(永承7年)に
 「末法」を迎えるという説が広く信じられた。






優しい表情に特色があります。  お地蔵さまは庶民の味方なのか?

そんなお地蔵様の「縁日」(えんにち)が二十四日であることから、子供達の夏休み期間に合わせて八月二十四日に「地蔵盆」の行事が近畿各地で行われているのですが、勿論、この催しが、元々から地域の子供達のために始められたものだった訳ではありません。末法思想は人々の浄土への憧れを増幅しました。そして失うモノが沢山有る貴族階級の間で広まったのが地蔵信仰だったのです。人々は、毎月二十四日を「縁日」として、お地蔵様の名前を念仏のように唱えて、ひたすら西方浄土への往生を祈願するために集い、それを地蔵会・地蔵講と呼んだようですが、既に十二世紀の中頃には京都の六波羅密寺で地蔵会が行われたという記録(仁安二年、1167年10月)もあり、中世になると現世利益をもたらす仏とも見なされてゆくようになったようです。十二世紀半ばの成立と言われる『今昔物語集』巻十七の前半は、全て地蔵菩薩に関わるお話で構成され「尾張の前司」の段では、

  殊に地蔵菩薩を帰依し奉りけり。

  毎月の二十四日には酒肉を断ち女境を留めて、専らに地蔵菩薩念じ奉る

とあり、続く物語の中で『月の二十四日、地蔵菩薩の御日なり』とも記されています。つまり当初、地蔵は仏教的な心の救済者としての位置づけがなされており、一部の富裕層を中心とした信仰集団の「本尊」だった訳ですが、それが、いつの間にか人間様の側に立ち、守ってくれる存在にまで成長?したのは何故でしょう。その手掛かりになりそうなモノが見つかりました。(なお『今昔物語集』巻十七には「月の二十四日に六波羅密の地蔵講に参りて」という一文があり、これが六波羅密寺の地蔵会を指すものだとすると、今昔物語集の成立は通説の十二世紀半ばより、更に二十年ばかり遅れることになります。今昔物語集の画像は、このページの一番下にあります)

 縁日と聞くと「あぁ、露天が出るお祭りのことですね」と答える方が居るようですが、これは、その字の如く仏様に「縁のある日」のことで、地蔵以外にも薬師如来・八日 
 と十二日、阿弥陀如来・十五日、観世音菩薩・十八日など、沢山の縁日があります

青面金剛童子と彫られています 地域の子供たちを見守ります PR

時代はかなり下りますが江戸期、全国的に盛んになった信仰の一つに「庚申(こうしん)」さんがあります。これも地蔵様の場合と同じように庚申講が結成され、庚申の日(60日ごと)に集うのですが、お地蔵様に念仏を唱える代わりに「庚申待ち」と称して夜が明けるまで、眠らずに居なければならないのです。それには理由があります。

道教の言うところでは、人の身体には三匹の蟲が棲んでおり、

  庚申の日の夜、人々が眠っている間に身体を抜け出し

  天に昇って、その人の善悪を天帝に告げる

  それを聞いた天帝は罪の内容に応じて人の寿命を縮める

のだそうで、それなら『その日は寝ないでいれば』大丈夫と考えるのが凡人の常。その通り「庚申さん」にお花や、ありったけのご馳走を用意しておいて、寝ずの番をしながら無病息災を願ったのでした。今では誰でも、病気になれば医者に診てもらい、治療を受けることが出来ますが『恙無く(つつがなく)』という言葉が未だ残っているように、つい最近まで、江戸期以前であれば尚更、病を得ることは「死」に直結しかねない一大事であったのです。だから、健康で普通に暮らせることは実に「有り難い」ことであり、市井の人々は何よりも「達者(たっしゃ)」で居られることを一番に望んだのです。庚申の、誰にでも出来る、そして分り易い「教え?」が人気を独り占めにしたのも無理はありません。

上で紹介している石碑のような画像(左)は「文字塔」(庚申塔)と呼ばれる庚申さんの象徴ですが、そこには「青面金剛童子」の名前が記されています。「青面金剛(しょうめんこんごう)」については、大阪・四天王寺に伝わる『庚申縁起』に、

  文武天皇(もんむてんのう,683〜707)の御世に疫病が流行り、天王寺の僧が救いを求めて念じたところ

  正月七日、庚申の刻に、帝釈天の使いと称して青面金剛童子が現れ

  厄除け無病の方便を与えると告げた

とあるそうです。若し「縁起」の伝える通りであれば庚申信仰の原点は江戸期から一千年も遡ることになり、宮廷貴族の間から始まった「庚申」への信仰が時代を経て武家そして一般民衆の間にも広がり、分り易い方向に変質したのでしょう。庚申と地蔵を並べて見る時、一つの共通項が浮かび上がります。それが「治病・無病息災」という現世での利益(りやく)です。そして、この「無病」という要素が地蔵や庚申に、もう一つの重要な役目を与えることになりました。

農耕を主体とした社会は、言うまでも無く「土地=農耕地」を基盤として成り立っています。そして人々は血縁や地縁によって結びつき一つの「集落」を作り上げ維持してきたのです。仏教以前、つまり奈良時代より先の時代には、その土地土地にまつわる神々が住み、人々の日常を支配していました。田の神は人々に豊穣を齎し、塞の神は邪悪な物を防ぎ止めてくれたのです。そのような下地のある社会に地蔵や庚申の「思想」が入ってきたとき、彼らに「外部からの侵入者・疫病・悪霊」の防波堤の役割が与えられたのは自然の成り行きでした。村落の出入り口や峠、そして町々の境界に地蔵堂や地蔵が祀られているのは、外界から来る疫病などを集落に入り込ませないためのものだったのです。本来「二十四日」である地蔵の縁日に因む地蔵盆の行事を、あえて二十三日の夜から行う慣わしとなっている所が多いのも「庚申待ち」と「地蔵会」が合体した証だと思うのですが、皆さんのお国では、どのようなお盆行事がありますか?!

最後に、いつものオマケを一つ。古い土俗の神々をも取り込み、仏教の地蔵信仰とも融合するなどして日本国内に基盤を広げた庚申の本尊・青面金剛童子は、古く飛鳥の時代に渡来系の有力氏族の長であった秦河勝(はた・かわかつ)が招来したと伝えられています。お稲荷さんといい、庚申さんといい、秦氏の影響力には底知れないものがありそうです。それから、邦楽の分野で名前の知られている雅楽師の東儀秀樹(とうぎ・ひでき)さんの遠いご先祖が、その秦河勝なのだそうです。

ここで紹介している『今昔物語集』の画像は、全て京都大学が収蔵しているものです。

    「二十四日、地蔵尊の御日なり」    「月の二十四日に六波羅密の」   

お地蔵様(中)

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本文でも触れましたが『今昔物語集』は、凡そ十二世紀の半ば頃に成立した、というのが研究家の判断です。ところが、その中に上の様な文章が見つかりました。この「六波羅密」が、若し京都の補陀洛山・六波羅密寺を指したものであれば、今昔物語の成立時期をずらす必要があります。何故なら、鎌倉時代に編集された『濫觴抄(らんしょうしょう)』という文献に「仁安二年、1167年十月に六波羅密寺で初めて地蔵会を行った」という記述が残されているからです。因みに、この西国三十三カ所第十七番の札所としても知られるお寺は、踊り念仏で知られる空也(くうや、903〜972)が創建した西光寺を、弟子たちが伽藍などを増築して寺名も改称したものと伝えられています。自らの出生・生国など一切を語らず、

  腰に獣の皮衣をまとい、一本の杖を持ち
  市中に出向いては物乞いをしなが庶民に念仏を広めた

という逸話が残る空也、その姿を想像して仏師が後に創り上げた彼の像は、心なしかお地蔵さんに似ていなくもありません。

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