息長氏と「河内」と継体天皇のえにし                     サイトの歩き方」も参照してください。

安閑の父・継体帝(450?〜531)はヤマト朝の跡継ぎが途絶えそうな緊急事態を憂いた有力豪族たちの「要請」に応え、近江あるいは越の地から重い腰を上げ大王の位に就いたとされてきました。にもかかわらず彼は20年もの長い期間ヤマトの地に入ろうとはせず、先ず都を置いたのが河内樟葉(大阪枚方、下左・中央の画像)の地で、その後も山背筒城(京都,511)、弟国(長岡京,518)と遷都を繰り返し、彼が最終的に大和磐余(桜井)に移ったのは継体20年のことでした。継体の生年や没年などに異なる伝承が幾つかあるのを割り引いてみても、その「実像」はとても見えにくいというのが実感なのです。ところで、このヤマト入りの遅れについては一つの推測があります。それは継体の出自にも大いに関わる事なのですが、果たして彼は、本当に近江あるいは越の地を治めていた王族だったのでしょうか?前回は、彼の長男(安閑)についての妄想に近い推論を紹介しましたが、実は次男についても河内との深い繋がりが窺えるのです。檜隈高田皇子と呼ばれた宣化帝(467〜539)の母親は兄と同様、尾張目子媛であり「日本書紀」の記述に従えば、彼も父の支配していた国(近江か越)で成人していたはずなのですが、皇后(仁賢帝の娘・橘仲皇女)の他に妃として名前が知られるのは凡河内稚子媛ただ独りで、母方の尾張氏から妻を迎えた形跡がありません。そして宣化と皇后との間に生まれた皇女三人は「全て」欽明帝(509〜571)の許に嫁いでいます。うがった見方をすれば「欽明(以後)のための」血脈創りに貢献しただけの大王とも言えるのです。閑話休題、大和橿原に蘇我氏ゆかりの神社があることは、これまでに何度も紹介していますが、その一つ宗我都比古神社(下右の画像)には、とても興味深い言い伝えが残されていました。

樟葉宮跡の石碑   蘇我氏を祀る「宗我都比古神社」

「真菅よし 宗我の河原に 鳴く千鳥 間なし我が兄子 吾が思ふらくは」と万葉集(巻12−3087)にも歌われた橿原市の旧真菅村は、元々「宗我(そが)村」と呼ばれた蘇我氏所縁の地域で、神社の敷地周辺を人々は近世『入鹿宮(いるかのみや)』と称したとも記録されているのです(『大和志』『神名帳考』)が、その「由緒略記」は、概要の中で、

  孝元天皇の御子彦太忍信命の孫にあたる竹内宿禰の第三子石川宿禰が
  蘇我の大家を賜って大阪河内から移り住み、姓を蘇我と改めた

と伝えています。つまり自分達の祖先は河内からやって来たと謂うのです。果たして、そんな事が在り得るのでしょうか?宣化帝については、その直系子孫によって上殖葉王子(恵波王)−−十市王−−多治比古王と順調に家督は引き継がれ、七世紀から八世紀にかけ左大臣・嶋(624〜701)、池守(?〜730、大納言)、三宅麻呂(催鋳銭司)などの人材を輩出、朝廷内で一定の地位を占めるに到ったのですが、その一族の「姓」を冠した地域(丹南郡、丹北郡)が属しているのは紛れもなく河内の中央で、現在は堺市美原区となっている多治井の地には丹治比氏の祖神を祀る丹比神社(下左の画像)が鎮座していますが、主祭神は宣化でも継体でも、ましてや応神でもありません。なんと、そこで祀られているのは火明命(ほあかりのみこと)と瑞歯別命(ミズハワケ、反正帝)そして凡河内倭女姫命、大山祇命などの神々なのです。これは、どう解釈すべきなのか?管理人も些か面食らったのですが、一応、次のように理解することが出来そうです。

先ず主祭神についての疑念ですが、元々、河内辺りに勢力を持っていた尾張・物部系の氏族があり、その先祖(ホアカリ、ニギハヤヒ)を祀ったものだと考えれば良いでしょう。我々は、八世紀意図的に編集された記紀の記述内容を先に知った上で、各地に残されている伝承や個々の神社の由緒書きに接するので、ある種の違和感を感じてしまいますが、この河内・丹比の地においても、古くからの先住民としての「丹比」氏があり、その一族が大王家の勢力拡大にも大いに貢献した結果、王家の子弟の「育て親」のような役割をも担うようになり、遂には元々「臣下」の姓に過ぎなかった「名」を、王子たちが独立した時に公の姓として名乗る様になったのでしょう。また、丹比氏については第18代反正帝(336?〜410)との繋がりを強調する傾向がありますから、宣化帝の子孫が直接支配するようになる前から、反正帝の河内丹比宮の伝承地等を管理する役割(名代の管理か?)を負った丹比一族が居たとも思われます。(もっと単純な見方をすれば、元々その土地に根ざしていた土着の大小豪族が大王家に服従した結果、土地も名前も奪われたのだと考えられます。河内は物部氏や大伴氏の支配地でしたから、彼等の資産が全て接収された訳です)では、その丹比氏とは、一体どのような一族だったのか?黒姫山古墳が我々に事実を教えてくれます。

丹比神社  黒姫山古墳  PR

河内平野を東西に流れ古代の物流にとても大きな役割を果たした河川の一つが旧大和川で、百舌鳥(もず)と古市(ふるいち)の著名な古墳群も当然、この河の南流域に造営されています。そして、それら二つの古墳群に挟まれた中央の地域には何故か古墳が少なく、大きな古墳の真空地帯のようになってるのですが、黒姫山は丁度、百舌鳥と古市の中間点に東西を向いて造られた全長114メートルの方円墳です。年代的には「倭の五王」たちが活躍した五世紀の中頃に相当すると考えられている同墳からは四百体余りの円筒埴輪(下左の画像)も出土していますが、考古学的に最も注目を集めた物が武具類の多さで、鉄刀(14)、鉄剣(10)、鉄せん(56)に加え、一箇所の埋納としては国内最多とされる24領の甲冑が、正しく二領ずつ並列した形で見つかったのです。これらの副葬品は、ここに眠っている丹比氏の首長が明らかに武力で地域を支配した人だったと語りかけています。雄略(418〜479)ではないかと推定される大王の一人が宋の昇明二年(478)五月、順帝に「上表文」を提出して広範な支配権の正統性を訴えていますが、その当時にあって、24領もの甲冑を埋納出来た彼は、正に機甲軍団長とも言える存在だったのではないでしょうか!河内を巡る不思議は未だあります。古代戦士の墓・黒姫山の北北東約3キロ、近鉄恵我之荘駅のすぐ西に河内大塚山(下右の画像)と呼ばれる古墳があります。六世紀の半ばから後半の築造だと考えられている同墳は、全長が335メートルもあることから「陵墓参考地」に指定されているのですが、その方円墳の形状は専門家たちから「剣菱形」と呼ばれています。そして、剣菱形の方円墳は高槻今城塚(継体陵?)、河内大塚山(?)、見瀬丸山(蘇我氏?)の順に造営されたのだとか…、皆さん、ここは想像力の働かせ場所です。是非、被葬者について逞しく脳細胞を活性化させて推理してみましょう!

大和川=この河川は元々、志紀郡柏原村(今の柏原市)で南から流れて来る石川と合流した後、西北に折れ曲がり久宝寺川(長瀬川)と玉櫛川(玉瀬川)に分かれて流れ、各地の川や池などと合流しながら、最後は、それぞれ淀川に注いでいました。柏原市役所の辺りから真西に向けて付け替え工事が行われたのは江戸期、宝永元年(1704)のことです。つまり古市古墳群の築造に必要な巨石などの資材も大阪湾−−淀川−−大和川−−石川のルートを通じて行われた訳で、継体が淀川を睨む樟葉に都を定めた理由の一端は物流の要衝という地理的な条件を満たしていたからだと考える事もできます。また、継体の嫡子・欽明が殊更に持ち上げた渡来系・秦氏の勢力圏が京都山背であったことも関係しているのかも知れません。近江、日本海ともつながる地点であることは言うまでもありません。

さて、前回から、ここまでの推理をまとめてみましょう。

  1 ヤマトの後継者として、有力豪族たちの合意の許、継体が迎え入れられた。彼は都を河内の樟葉に置いた。
  2 継体には大王になる前に生まれていた二人の息子たちが居た。彼等の母は尾張氏(旧勢力)の娘だった。
  3 継体の長男・安閑は蘇我氏(新勢力)と縁の深い土地(軽の里)に都を置いた。そこは彼の育った場所である可能性もあった。
    更に、蘇我氏自体が「河内」から移り住んだという伝承も残されていた。
  4 継体の次男・宣化は凡河内(大河内)氏から妃を迎え入れ、子孫は河内で繁栄していた。彼の都は飛鳥に近い檜隈だった。
    また、丹比「氏」は倭の五王の時代から大王家に従い、勢力の拡大に武力で貢献していた。
    飛鳥時代に起源を発するという「宮城十二門」を護衛する氏族の一つに「丹治比氏」があることも繋がりの深さを証明している。

ここまで「状況証拠」が挙がってきたのであれば、兄弟の「父」継体の出自(応神五世孫)についても考え直す必要がありそうです。それは冒頭でも述べたように、彼がヤマトに迎え入れられる以前、本当に「近江か越」に勢力圏を持ち、支配していた王であったのか、という疑問に応えうる資料を見つけ、検討することなのですが…、読者の皆さんは、果たして、そんな都合の良い文献があるのかと疑いの目で見ていますね?!あるのです、ありました。

復元された石室  

同じ「河内国」内だったのですが、行政改革?のお蔭で摂津国に編入された住吉郡内に杭全(くまた)郷、喜連(きれ)村という場所があります(現在は大阪市平野区に属する)。地元の人以外にはほとんど知られることも無い、さして大きくも無い社が地下鉄・谷町線、喜連瓜破駅東北0.6キロの所に建てられているのですが、その『由緒』が少し変わっています。楯原神社の言い伝えによると、

  武甕槌大神は大国主の教えに従い、国平の鉾を持って天下を巡行した後、喜連の地に留まっていたが、
  御孫・大々杼命に「十握の剣を私の霊の代わりに」「国平の鉾を大国主の霊代として」祀りなさいと言い残して天昇りされた。
  子孫の大々杼彦仁は神武天皇に祖神のお告げにより「剣」を献上、天皇は大熊を切り伏せることが出来た。
  子孫の大々杼名黒は崇神天皇の命に従い二つの神殿を造り十握の剣を「楯の御前社」として鎮めた。また、名黒は、
  神功皇后が親征される時、神のお告げを伝えた処、軍事が大変うまく行ったので皇后は住吉行幸の折、神籠を立てて祭られた。

らしいのですが、少しでも歴史・古代史を齧った経験のある、つまり、このオノコロ・シリーズの読者である皆さん方は、書き出しの二人?のカミサマの組み合わせがオカシイ事に気づかれたでしょう。何故なら、この二神は記紀の『国譲り神話』において敵対した天孫と出雲族の代表選手であり、正に「仇同士」の間柄と言って良い関係にあるからです。又、この由緒そのものが「神武、崇神、神功」などの登場人物名から日本書紀が記した「神話」を下敷きにして創られたものだと考えられるのですが、注目すべきは「大々杼(おおど)」と名乗る一族を武甕槌命(タケミカヅチ)の後裔であると記している点だと云えそうです(つまり「大々杼」家の本質は武神と謂う事になります)。やっと肝心の「河内」に辿り着きました。次回は「おおど」の核心に迫ってみることにします。その最大の手がかりになりそうなのが「息長(おきなが)」と名乗った一族の存在です。果たして息長氏は「近江」の豪族なのか、河内に伝わる異色の資料が教えてくれるものとは?そんな内容になります。

古代「豪族」と、良く耳にしますが、では、その実態は?となると、まるで雲をつかむような話しで皆目見当がつきません。でも、良くしたもので世の中には実に様々な資料が残されているものなのです。その一つを、今回のオマケ話にしてみましょう。小説や随筆の分野で独特な歴史観を披露、今でも多くのファンが居る小説家・海音寺潮五郎が作品の中で『聖徳太子伝暦』(下右の画像)からとして引用していたので調べてみたのですが、見つからない。彼ほどの人物が資料名を間違えるはずがない、と思いつつ更に調べを進めると、見つかりました!

「崇仏・廃仏」両派による戦闘(587年)で馬子連合軍に敗れた物部氏の財産である「奴婢と田所」は全て没収され、半分は四天王寺に寄進されましたが、残りの半分は蘇我氏が主張した相続権が認められ、馬子が在り難く頂戴したのです。その内訳を見ると『奴婢273人、田186,890代、家屋3軒』となっていますから、物部守屋の資産は、これの二倍あったことになり、私有していた田所は凡そ623ヘクタールだった訳です。これだけの耕地から得られた米はどの位あったのか、古代の収穫量を「5俵/反当たり」と仮定すると三十万俵を超えるのですが、どうでしょう。−−尚、この資料は『四天王寺縁起』から引用したもので、海音寺は何か勘違いをしていたようです。(下左の縁起の画像は奈良女子大学が収蔵しています)

四天王寺縁起   聖徳太子伝暦(部分)

先に黒姫山古墳の主は、当時(5世紀中頃)にあって最大級の武力を有していたと想像されるのですが、其の頃の「河内」国内に、

  長方形や三角形に切った大きめの鉄の板を、皮や鋲で止めたヨロイ

を「量産」できる技術が既にあったとも思われません。であれば、丹比の首長は何処から武具を「輸入」していたのか?また、その際、彼は何を「対価」として輸出先に渡していたのか?食糧と交換したとも考えられますが、直ぐに思い浮かぶのが「倭王」たちの朝献外交です。特産物、名物、鉱物などを持たなかった倭の国王・帥升は160人もの「生口(奴隷?)」を大陸の皇帝に献じていますし、卑弥呼の「宗女」壱与も、西暦248年頃、30人の「生口」を貢物として差し出しています。上でも見たように6世紀末、戦に破れた豪族の使用人たちは全て「奴婢」とされています。同様の事が5世紀に行われていたと考えることは決して不自然ではないでしょう。だとするなら、黒姫山の「王」が鉄製武器・武具の提供者に、戦利品として得ていた「生口」を対価として渡していた可能性が高いのです。更に、河内の首領が思慮深い人物であったなら、輸入先の責任者に次のような要望も伝えたことでしょう。

  こちらで広い土地を用意するし、無償で労働力や食糧を提供することも出来る。誰か、有能な人材を送り込んでもらえないか?!

飽くまでも想像に過ぎませんが、文化の流入は「一方向」に限定されたものだったと考えるよりも、必要に迫られていた地域の住人(支配者たち)が、より積極的に先進地の人々に働きかけたと考えるべきなのではないか?誤解を恐れずに云えば、ヤマトという何も無い文化の後進地に全国から様々な「異文化」が流入した理由の一つが少し見えてきた様に思うのですが、如何でしょう。

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