息長(おきなが)と科長(しなが)と継体帝について                   サイトの歩き方」も参照してください。

大々杼王(継体天皇、450?〜531?)について書かれた文献は多く、その何れもが何かしらの「謎」について語っていますが、彼の出自を巡っては幾つもの疑問が提示され続け、研究者のあいだでも決着がつかないものも沢山残されています。六世紀初めに「実在」したと考えられている継体帝が、何故、自分の「直接の祖先」を、わざわざ「応神」に求めたのか?それは蘇我氏がルーツを孝元帝に求めたのと同じくらい不思議、というか中途半端な繋ぎ方にも思えるのです。「日本書紀」という国家の正史が編纂されたのは、二世紀も後のことなので、その気になりさえすれば、祖先神を「誰にでも」設定することは十分可能だったのですから…。懲りずに、今回も継体の痕跡を探します。


社は山の頂きを見上げる位置にあった。拝殿など主要な建物を撮り終え、背の高い鳥居をくぐって参道へ戻り、一段と高い場所にあるという「聖徳太子」時代の有名人の墓を目指し急な階段を登る。平らに整地された一角に「墓」はあるのだが、その周囲にあるテラス状の空き地から真西の方向を眺めた時『これは、彼の墓ではない』という強い思いにかられた。辺り一面は果樹園に整備されている。階段とは反対側にある農道に沿って坂を下ると科長神社の真裏に辿り着く。そこから、ほぼ東北2kmの位置には、なだらかな二上山の姿が見えている。

小川のせせらぎを聞きながら再び社の境内に入ると、社務所の横に、先ほどは無かった白い軽トラックが停まり、一人の農夫が何やら作業中であった。下ろしたてと思えるピカピカで水色の長靴を履き、胸の部分に英語を話す三匹のネコがプリントしてある上着を身に付けた彼は、建物の横に設えた水道から、軽トラの荷台に置いてある背負い式消毒機のポリタンクへ、黙々とホースで水を注いでいた。神社の人が近くに住んでいないか尋ねると、その「農夫」が宮司だった。

科長神社  穏やかな景色が広がる

様々に伝えられてきた継体帝の「系譜」を整理してみると、二つの「血筋」が浮かび上がります。先ず一つ目が応神帝の母・息長足姫尊(神功皇后)から息長宿禰王、山代之大筒木真若王、日子坐王、開化帝へと繋がる『神功ライン』であり、もう一つが伝説上の人物だとされる日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王を「祖」とする『河内ライン』です。そして応神の妻の一人が田別王の子・杭俣長日子王(くまたナガひこ)の娘・息長真若中比売なのですから、ホムタワケ応神を核として、また仲哀帝をジョイント役にして二つの「聖なる」息長の血筋が何代かぶりに収斂していることになります。息長一族の「関係者」たちを集めた簡単な系図を作ってみれば直ぐに気がつくことですが、登場する人物たちは幾つかの共通する呼称(敬称の一種かも知れない)を持っています。多くの研究家たちは、その事実から『系譜は後の世に作られたもの』だとしているようですが、へそ曲がりの管理人は、それとは逆に素朴で分かりやすい言葉で己の血脈を語り継ごうとした古代人の知恵だと解釈しています。百聞は一見にしかず!継体帝を取り巻く人々の一例を見てみましょう(例の如く、系譜を網羅したものではありません。それぞれ詳しい内容を知りたい方はWEBで検索を)

名    前 続き柄など 名    前 続き柄など
 水穂真若  開化帝の孫、日子坐王の子。母は息長水仍比売(山代氏)  山代之大筒木真若王   開化帝の孫、日子坐王の子、神功の直接の祖先 
 品陀真若  応神帝の妻・仲姫命の父親。景行帝の孫。  息長真若中比売  応神帝の妻、沼毛二俣王の母
 弟女真若伊呂弁王   若沼毛二俣王の妻、大郎子の母親。  真若郎女  継体帝の父・彦主人の妻。

この六人の王子たちに付けられた「真若(まわか)」という呼称は、何を意味していると思われますか?管理人は勝手に、この言葉は「ま=真の、本当の(実子)」「わか=子供、跡取り」であり、類似した言葉が、

  ホムタワケ  オキナガタワケ  ワカヌケフタマタ 

などに見られる「ワケ、ワカ」だと考えています。息長一族の例で見ると「婿入り」の事実が明らかになっている息長田別王や若沼毛二俣王には「真」の字が含まれていませんので、この推測は正しいと思われます。さて、今回は息長と科長を「つなぐ」ための旅なのですが、まず科長神社に祀られている神様たちの一覧を見て、どこに関連性があるのか考えてみましょう。(神社に冠された「科長(しなが)」は主祭神で風神の級長津彦命(しなつひこ)に因んだものですが、江戸期以降は下に列記した合祀の神々を称え、八社大明神とも称されました。お気づきのように信濃や山科の『シナ』も同じ範疇に入る地名だと考えられます)

  天照大神  速素盞嗚命  天児屋根命  武甕槌命  經津主命  建御名方命  誉田別命  日本武尊

このメンバー表を見ただけで何事かを感じ得た「貴方」は、相当のカミサマ通です、…きっと!お分かりになりましたか?ちょっと難しかったですか!ヒントはゴチックにしてある神様の存在にあります。上で見た八柱の神様たちは、次のように分けることが出来ます。

  @ アマテラスとスサノオ  A 天児屋根命・武甕槌命・經津主命と建御名方命  B 誉田別命と日本武尊

つまり、これらの神々は「勝者と敗者」を組み合わせたもので、@は帝室内の争い、Aは「国譲り神話」に登場して争った神々(天下を握った藤原氏と旧勢力の争い)−−をそれぞれ象徴していると考えられ、Bもヤマトタケルは征討の途上で仆れたのですから、大王となり帝室の基盤を作り上げた応神を「成功者」と見れば、明らかに彼は敗者の側に立つ存在だと考られても不思議ではないのです。そして又、ホムタワケとヤマトタケルの何れもが継体帝を送り出した息長一族の基点に位置する重要人物であることが明らかです。建御名方命(タケミナカタ)の所に父神のオオクニヌシをあてはめれば、河内国で息長氏と縁の深い楯原神社の伝承とも結びつきが認められます。八千矛神の異名を持つ大国主命は「国平の鉾」で国造りを行ったとされ、雷神・武甕槌命は「十握の剣」を自分の「霊の代わり」として同時に祀るようにと子孫の大々杼命に遺言したと同社の「由緒」は伝えています。これらの神々が「武力」を象徴していることは言うまでもありません。正に「剣が権力を産む」時代なのです。

「日本書紀」の安康天皇元年十月条によれば、太子であった木梨皇子が非行により臣下たちの信任を失い、皆が穴穂皇子の側に着いたため、

  ここに太子、穴穂皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。穴穂皇子、また兵を興して戦わむとす。
  故、穴穂括箭(あなほや)、軽括箭(かるや)、始めてこの時に起こりぬ。

と伝え、允恭記は「この時、穴穂王子が作った矢は、今時の矢であり、これを穴穂箭と謂う」とも解説していますが、ここで言う「(カル)」は「銅製」の鏃(やじり)を指しており「古事記」が「今時の矢」だとする「穴穂矢」は、明らかに「鉄」の鏃を用いた殺傷力の強い武器(を持った勢力)を意味しているのです。「銅鉾」「銅鏃」に象徴される古い技術集団に支えられた旧支配層と、「鉄剣」「鉄鏃」「鉄冑」などで武装した、より新しい権力者たちの生々しい戦いが、継体帝のわずか一世代前(西暦450年頃)に展開されたのでしょうか?当時(五世紀中頃、古墳時代中期)河内で武威を振るった人物の墓として知られる大阪堺市の黒姫山古墳(全長114m)の石室に、24領の鉄製鎧をはじめ、おびただしい鉄製武器、武具が納められていた事実は、この推測を補強する材料になるのかも知れません。(垂仁39年の条に、皇子の五十瓊敷入彦命が「大刀一千口」を造り、忍坂邑に蔵め、後に石上神宮に移した、という記述があるので、有力者たちが多くの武器を収蔵し、それが祭祀の対象にまで昇華したことは確かです。更に、武器庫が在ったとされる地名を冠した「忍坂大中姫」こそ、継体の祖父・大郎子の妹[大叔母]であり、木梨軽皇子の母親なのです。ただ、記紀が編集された時期、権力の中枢にあったのは、「」の地で栄えた蘇我氏を亡ぼし台頭した藤原氏であった点にも留意しなければなりません)

黒姫山古墳  楯と鎧(復元したレプリカ)  鉄製の兜

其れはさておき、歴史上心ならずも「敗者」の立場となり、その結果、現権力に「祟る」かも知れない神々を祀ることで国の安泰を図ろうとする、支配者側の心の動きは理解しやすいのですが、氏神としてではなく明らかに「敗者」を打ちのめしたはずの、つまり「祟られる」側の神をも同時に祀る理由は何処にあるのでしょう?特に科長神社の場合「大坂夏の陣」の後、藤原氏(秀郷流)が社家となったことから、上で見た「天児屋根命・武甕槌命・經津主命」三神が後に加えられた事が判明しているのですが、そこに「諏訪まで逃げた」はずのタケミナカタを配祀しなければならない「理屈」が見つかりません−。ただ、敗者と勝者の立場が入れ替わった……、つまり一度「負けた(権力の座から降ろされた)」勢力が、後に(一時的に)「復活」して再び祭祀の対象となったと考えられなくも有りません。記紀が云う様に「国譲り」が一度で完結したのではなく、数度にわたって行われたと仮定し、その間に各勢力の平衡が崩れることは十分にあったでしょうから…。(現に、継体を大王に担ぎ上げた実力者の大伴大連金村は、磐井の乱平定に功があったにもかかわらず、わずか13年後には、半島を巡る外交政策の「失敗」を理由に表舞台から消えています)

宮司はとても慎重な性格の方だったので、科長神社が「元々、二上山」山頂にあったのかどうかについては口を濁されましたが「シナ」が風を意味する古い言葉であり、社のある地区一帯が「しなが」の里と呼ばれてきた事を教えてくれました。また、同社と金属との関わりについても『本殿の裏を流れる小川が金気を帯びたものであり、川床には長年の作業の結果できたような窪みも認められる』ことから、一般に言われている通り、川の流れから砂鉄を採集し、二上山から吹き降ろす「風の力」を利用して金属の加工も行っていた可能性もあるようです。また、これだけ山深い土地でありながら、全国的にも珍しい「船だんじり」が現在まで残されているのは、古代、この地に渡来した「海人」族の伝統を受け継ぐ証しなのかも知れません。この「科長・磯長」とよばれる辺りが推古、用明そして敏達などの大王家にとって大切な地であったことは明瞭なのですが、息長一族との直接の関わりについては疑問符を投げかけざるを得ない、と言うのが旅の実感でした。


中原中也という昭和の詩人は、旧制中学校の折に落第、京都の立命館中学に転校したのですが、その頃、古本屋で見つけた一冊の本に「感激」、ダダイズムの影響を強く受けた詩を書き始めたのです。後、小林秀雄を介して知り合った評論家の河上徹太郎が『日本のアウトサイダー』という著書の中で、中也のダダ作品を紹介しています。

  ウハキはハミガキ  ウハバミはウロコ  太陽が落ちて  太陽の世界が始まつた

『ダダ音楽の歌詞』と題された第一聯は、このような「言葉」の羅列から始まるのですが、中也の意識にも「うはばみ=蛇」を「うろこ(模様)」として捉えようとしている部分があったことが分かります。つまり、あの、古墳などにも見られる連続した三角紋(▽▽▽)のことです。これは、いつものオマケ話なのですが、最近、息長の「なが」は、若しかしたら「ナガ・ナーガ」つまりは「蛇(神)」の意ではないのか?!だとしたら「神話」に語られるヤマタノオロチ(越の国からやって来る)や、神武天皇の最大の敵(であり、ニギハヤヒの妻の兄でもある)長脛彦ナガスネヒコ更には、このサイトでも度々取り上げてきた息長足姫尊オキナガタラシヒメを初めとするオキナガ一族とは一体何なのか?と思い悩む日々が続いています。

尚、冒頭ちかくで紹介した「聖徳太子」時代の有名人というのは小野妹子のことで、何故、彼の墓では無いと直感したのかと言うと、時の大王・推古の古墳を「見下す」位置に臣下の「墓」は作らないだろうという理由からです。

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