思い出せない「思い出」                                                  サイトの歩き方」も参照してください。

小学校の正門は電車道から一筋西に入った細い通りに面していたが、門を出て右へ真っ直ぐ百メートルほど進むと、自然と市電の走る大きな通りに突き当たる。その丁度中ほど位、右に折れる少し広めの道があり、そのまま百数十メートルも進めば公立の幼稚園があるのだが、その丁度角っこに、店はあった。不鮮明な記憶の断片が正しければ、間口奥行きとも3間(5〜6メートル)ほどの、さして大きくも無い店なのだが、公道を三分の一くらい占拠した縁台のような商品棚に、流行のお宝物が処狭しと並べられ、通りかかる子供たちをいつも誘惑している。

のさ言葉」というものをご存知の方はいるだろうか?小学校の校区内には幾つかの「施設」があり、戦後を引きずったままの家庭の事情などから両親家族の許を離れざるを得なかった児童生徒たちが集団生活を送っていた。家から、まだ更に徒歩数十分も山奥に入った辺鄙な場所にも一つの「施設」があって「何々学園」という牧歌的な名前とは裏腹に、児童たちの扱いに関する良くない噂も絶えなかった。同じ学年に一体何人の「施設」児童が居たのか全く知らなかったが、六年生のとき一人が同じクラスに入っていた。学校内でも「施設」の児童たちは大概群れて遊び、一般児童たちとの間に意識的な距離を置いていたように思う。つまり、余り皆とは遊ぼうとはせず、周囲との間には目に見えない深い溝が掘られていた訳です。

木造の校舎は、こんな風  PR

登校時だったのか、下校時だったのか、もう忘れたが、唯一の通学路であるA街道を何人かで一緒に歩いていた時、後から派手なクラクションを何度も鳴らしながら大型の外国車が近づき、あっという間に追い抜いていった。全開の後部座席の窓ガラスから身を乗り出すように顔を出し、嬌声を上げて道傍を歩く児童たちを小馬鹿にしたような表情で見下していた、如何にも品の無い小娘が、その学園の理事長の子供だと知ったのは、M君がぼそぼそ話し始めた時だった。今では見かけることも稀になったボンネットバスが朝夕を中心に何往復かし始めたのが小学校4年の春だったと思うのだが「施設」の子供たちは無論、利用することが無かった。登校時は下りだが、下校の道は上りに代わる。坂は急である、子供の足で、彼らの「施設」まで一時間やそこらでは到底辿り着けなかったと思う。

  『理事長のお嬢さんや。二番目のお嬢さんや』

学校が終わったら、直ぐに戻らなければならない「規則」になっていると言う。だから、寄り道は出来ない、そう言うM君を、無理やり家まで引きずるようにして連れて来たとき、彼の口から直接聞いた。「施設」に戻れば日課として割り当てられた作業が待っているという。ほんの一時、しきりに時間を気にする彼を引きとめ、裏庭でビー玉、面子遊びをしながら話を聞いた。その時、M君が得意の「のさ言葉」を披露してくれたのが、そもそもの聞き始めであった。他愛も無い言葉遊びで「言葉の音と音の間に」「のさ」という二文字を挟み込んであるだけの単純極まりない代物なのだが、これを早口で、しかも文節毎にではなく二つか三つの言葉毎に挟み込んで抑揚をつけながら話すと、何やら外国語のようにも聞こえてしまうから面白い。何より「のさ言葉」で語るとき、M君の顔から、いつもの仮面のような冷静で他人行儀な表情が消え、得意げで誇らしげな笑みが漏れた事を嬉しく思った。

店の名前は『へんこつや』で、子供心にも下手くそ極まる文字が、大きな白地のトタン看板でのたうっていた。大柄で、声が大きく、客あしらい、と云うか子供のあしらい方が乱雑横柄で、いつも苦虫を数匹は口の中で噛んでいるに違いない、と思わせるほど「へんこ」なオヤジは、決まって小さな店の中央辺りに仁王立ちで陣取り、辺りを睥睨していた。今にして思えば、下校時に雲霞の如く飛来し、商品を弄繰り回し、買いもせず、店の中、店先、道路上あらゆる処で煩くはしゃぎ回る餓鬼集団に立ち向かうには、あれ位の「演技」は是非とも身に着けておかなければ、店の存亡にかかわったのかも知れない。

値の張る商品の一群だけは決して店晒しにせず、外から良く見える雛飾りもどきの硝子ケースの中に収められ、優雅に陳列されている。肥後守は最も標準的な小刀として家庭科の教材でも使われていたように記憶しているが、高学年ともなると別な物に目が移る。白木の鞘拵えのそれは、長さが20センチばかりの小刀なのだが、本物に似せ微妙な反りも入れてあり、大寺院のお坊さんが大切な法要の時にだけ座る、豪華絢爛な座布団にも似た敷物を詰めた木造の箱に鎮座する、その様は、正に垂涎の的と言えた。勿論、買い手が居るから態々目立つ一等地に麗々しく飾ってあるのだが、10円のお小遣いに手放しで感激するような小学生たちに手の届くモノでは決してない。夕間暮れ、沈みかけた夕陽を全身に浴び、抜き身の波紋が妖しい光を放っていた。

『あと五分』『あと五分』何度も引き止め、M君の帰宅時刻は大幅に遅れた。その「罰」として二重三重の「作業」が課せられることになった事を、随分後になり知ったのだが、彼自身の口から非難めいた言葉が発せられることはなかった。しかし、M君が家に立ち寄ることは二度と無く、学校での会話も途絶えがちになり、いつの間にかM君は、元通りの無口で無表情な彼に戻っていた。冬でも素足にお仕着せの半ズボン、一張羅の上っ張りの下は肌着だけ、指が太く丈夫そうに見えたのはシモヤケがひどかった性だった。その彼の姓名や坊主頭の丸顔を鮮明に覚えているのに、ほぼ、同じ時期に遊んだ玩具の名称をどうしても思い出すことが出来ない。

 子供たちの万能刀「肥後守」  昭和30年代に活躍したボンネットバス

思い出したからどうなるものでもないが、それを買い求めるだけのお金もなく、級友の誰かが持っていたモノを見せてもらい、その構造を確かめ(と言っても複雑なものではありません)、工作の要領で堅めの紙を材料に、ほぼそっくりな形に拵えたことまで覚えているにもかかわらず、肝心の商品の名前も、そして、その構造も殆ど覚えていないのは一体何故なのか?自問するが答えは見つからない。そもそも、それが「へんこつや」で売っていたモノなのかすら疑わしい…。

夕方三時頃になると、いつも決まって何処かから、一人の少なからず怪しげな人物が校門近くの場所に現れ、道端に白っぽい大きめの風呂敷のような布を広げ、その上に、色とりどりの「商品」を並べ、徐にタバコなぞふかしながら、通りかかるカモたちの群れを値踏みしている。大抵の児童は先生のいいつけを守り、逸る好奇心を抑えつつ横目で睨みながら通り過ぎてしまうのだが、たまに規則違反の「お金」を学校まで持ってきている、跳ね返りの子供などが餌に食いつくことがある。そんな「おっちゃん」の売り物の一つだった可能性も十分にある。

思い出せないモノの構造を説明できる訳も無いが、要は子供が喜ぶ手品、それも、タネが直ぐに分る程度の玩具。トランプや四角い面子ほどの大きさの堅紙が幾つか、折り畳みが出来るように拵えてある。その面の上に硬貨など、薄く小さな物を置き、一端閉じて再び開くとあら不思議、今置いたばかりのモノが煙のように消えている、といった類の仕掛けなのだが、その「商品」の特許を侵害し、複製が次々と子供たちによって生み出されたことにより、人気は急落。可笑しなもので、誰もが持つようになると、たちまちブームは去った。

M君は口笛も得意だった。家から道路端に出るのには、小さな橋を渡らねばならない。帰り支度を始めた彼が、いきなり甲高い音で口笛を吹き始め、短い同じフレーズを何度か繰り返した。その、物悲しい旋律が、戦前の兵隊歌謡(戦後、『ネリカンブルース』としてリメークされた)だと知ったのは、中学生になってからのことだった。M君は、修学旅行にも参加しなかった。

     
     
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