鬼門について考える                                                「サイトの歩き方」も参照してください。

奈良時代の都人たちには鬼の姿が見えていたようだ。そうだとしか考えられない記事が正史に採録され、現在にまで伝えられている。それが「日本書紀」斉明紀に載せられた一連の文章であり、予兆は皇極女帝が元年春に重祚して再び天皇位に就いた同じ年五月に、既に現れていた。

  夏五月の庚午の朔に、空中にして龍に乗れる者有り。
  貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて生駒山に隠れぬ。午の時に到りて、住吉の松嶺の上より、西に向かいて馳せ去りぬ。

唐の攻勢によって百済が西暦660年七月に滅亡しますが、この半島情勢の大きな変化に大和朝廷は敏感に対応します。翌七年の春三月斉明帝は福岡の行宮に入り、五月には朝倉橘広庭宮に遷って、より半島に近い「前線」に於いて自ら百済再興の戦いに臨む構えを内外に示したのですが、その夏七月あっけなく他界してしまいます。異変は朝倉宮の造成時から既に在ったと云う、その発端を開いたのも女帝自身であったと云うのです。

  是の時に、朝倉社(麻弖良布神社)の木を斬り払いて、この宮を作る故に、神、怒りて大殿を壊つ。
  また、宮の中に鬼火見れぬ。是によりて、大舎人および諸々の近侍、病みて死れる者衆(おお)し。

皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)は、母親の喪を奉じて磐瀬宮(磐瀬行宮、現在の福岡市)まで帰り着きますが、人々が鬼の異様な姿をまじまじと見る事となったのは、行宮で執り行われた斉明帝の喪の儀式の最中でした。

  是の夕に、朝倉山の上に、鬼ありて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆(ひとびと)皆、怪しむ。

日本書紀  扶桑略記

少し時代が下りますが十一世紀になって天台宗の僧、皇円(1074?〜1169)によって編纂された『扶桑略記』は斉明が重祚した年の五月に現れた「青き油の笠を着た」「龍に乗れる者」の正体は乙巳の変で滅亡した蘇我本宗家の「蘇我豊浦大臣の霊」に違いないと「時の人」が云々したと記録していますが、平安時代には既に蘇我氏の霊の存在が広く知られていたことの何よりの証だと言えそうです。また、この「霊」が斉明帝の再登板に合わせるかの様に出現したのにも理由がありそうですが、それが中大兄皇子たちが起こした「変」に関わるものであった事も確かなように思えます。従がって、女帝の喪の儀を「臨み視」ていたとされる「鬼」の実体も蘇我氏の「霊」であったと言えるのかも知れません。更に時代は下って十三世紀の鎌倉時代になると、古代とは亦異なる鬼の存在が知られていた様子が記録されています。

  いずれの比の事にか、西の京なるもの夜深く、朱雀門の前を過ぎけるに、門の上に火をともして侍りにけり。
  この門には昔、鬼住けると聞くに、今も住み侍るにやと、恐ろしさ限りなくて過ぎぬ。                    『古今著聞集』巻十二、第十九、偸盗

この「著聞集」は公家の橘成季が十三世紀半ば頃(建長年間)に編んだものと考察されていますが、奈良平安を経た当時でも「かつては」朱雀門に鬼が住んでいたという言い伝えが巷に広く流布されていた事が分かります。もっとも、この「鬼」の正体は直ぐに解き明かされたのですが、興味を持たれた方は一度WEBで調べて見ては如何、それはさておき、珍しい鬼が居たと別の物語集が教えてくれます。それは平安貴族の紀氏の人で紀長谷雄(845〜912)にまつわる『長谷雄草紙』と呼ばれる資料に記載されている「お話し」なのですが、従三位、中納言であった長谷雄は「双六」の名人としても知られる存在でした。

 双六=今、双六と言えば子供たちの遊びの一つである単純な紙製の物を直ぐ思い浮かべますが、この当時の双六は『盤雙六』と呼ばれる複雑なルールを持ったゲームで、
 かつて白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話が「平家物語」にもあるように、中々、上達するのも難しかったようです。

とある日の夕間暮れ、長谷雄の自宅を一人の男が訪ねて来ます。その立ち居振る舞いや言葉使いが何処となく奇妙な男は、頻りに長谷雄との「双六」勝負を持ちかけました。求めに応じなければ男がすたるとでも思ったのでしょう、長谷雄が勝負を受けて立つと挑戦者の男が勝負の場に選んだのが何と平安京の朱雀門だったのです。勿論、梯子や階段などあるはずもなく彼が当惑しながら立ちすくんでいると男は、軽々と長谷雄を門の上まで担ぎ上げ、双方の全財産を「賭けた」双六勝負が始められたのです。都随一と噂されていた長谷雄の実力が如何なく発揮され連戦連勝、男は完敗、約束通りに後日「絶世の美女」を届けに来るのですが、そこから又、別の物語が始まります。結末を知りたくなった方は、ご自身で草紙を読んでみてください。更に、十世紀前半、右大臣の地位にあった藤原師輔(909〜960)も都の中で「百鬼」に遭遇しています。これは『大鏡』巻三にある記述なのですが、どうしても夜外出しなければならなかった師輔の一行が「あははの辻」に差し掛かった処、突然、彼が従者たちに牛を車から離し、皆、静かに控えるようにと指示をだします。何のことか良く分からないままお供の者たちはじっと控えていたのですが、車の中からは読経のような声が漏れていました。この時、右大臣の眼前には都に跋扈する「百鬼夜行」の魑魅魍魎たちが群れを成して屯していたと後日親しい人に明かしたそうです。つまり、鬼たちは誰にでも見えるものでは無かったようなのですが、彼が「有り難いお経」を称えることで難を逃れたと云うのですから、仏教色の濃い伝承の一つだと分かります(註:陰陽道では特に『艮(うしとら、丑と寅の間=北東)』を鬼の出入りする方角[鬼門]として忌むべきだとします)。

古今著聞集  長谷雄草紙  百鬼夜行図

大鏡より  男山の鬼門封じ

平安京は、その美しい名称とは裏腹にいつの間にか鬼たちの棲む町になっていたようです。桓武帝の願いは都の名前に象徴される「落ち着いた暮らし」が可能な街並みの実現だったと思うのですが、現実はとても厳しく上で見てきた幾つもの「鬼」の逸話が世情の荒廃ぶりを暗示しています。その都の鬼門に当る「艮」の方角に建ち、国家の安泰を日々祈る場として貴族たちの信頼を集めていたのが最澄の建立した比叡山延暦寺でしたが、その対角線上の裏鬼門を護るための存在が宇佐から勧請された石清水八幡神社でした。男山の社を訪れた方はご存知かと思いますが主祭神が鎮座する本殿を取り囲む建物の一部が、まるで切り取られたかの様な造りになっています。それが「鬼門封じ」と呼ばれる構造で、鬼たちが通り道にしている「艮」の方角にある「建物」自体を無くしてしまえば、鬼たちも近づけないだろうという訳です。陰陽道では幾つかの「方位神」が存在し、その忌むべき方角は何年か毎に「変わる」ものなのですが、我が国独自の「鬼門」については東北に限られている辺りが興味深いですね。

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