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 今は昔、こんな遊びもしないのでしょうね。

夕間暮れ、小さな庭の一角で二人の子供がボール遊びをしている。年嵩の方が四年生ぐらい、もう一人は恐らく小学校に上ったばかりではないかと思われる小柄な男の子。年長の子供が、家の二方を囲むコンクリート塀目掛けてボールを投げ、その、跳ね返ったボールを年下の子供が拾っては兄貴分に返球しようとしているのだが、ボール遊びを始めたばかりの弟分には、その返球がままならない。彼の投げた球は、真っ直ぐ前に進もうとはせず、地面に激突して、あらぬ方向へ転がったり、珠には、どういう訳か身体の後ろに飛んだりもしている。衰えた夕陽が、急ぎ足で西の山の際に沈もうとする頃、玉拾いに飽き飽きした弟分は、家に帰ろうと思った。

   『もぉ、帰るわぁ、たー君。晩になってきたし。帰らんと、怒られる』

その時、「たー君」と呼ばれた子供の心は、一瞬、魔物にでも支配されていたに違いない。彼の心の中で、訳のわからない怒りと憎しみ、そして残忍な感情が突然沸騰し、そのはけ口を、生贄を強烈に求めざわざわと蠢いていた。

   『ゆきひろ!最後の一球や、体の正面で、ちゃんと取るんやで』

どこに、それだけの力が秘められていたのか、投げたボールは一直線に十メートル余りの距離を突き進み「ゆきひろ」の心臓を直撃した。黙ったまま胸を抑え蹲る男の子、ただ、その場に立ち尽くす男の子、二人の影法師も、何時の間にか掻き消えた。

魅鬼と読めます 

我が国最古の史書『日本書紀』は、欽明天皇(きんめいてんのう、509〜571)五年(544)十二月の項で、次のように言う。

   彼の嶋の人、人に非ずと言す。また、鬼魅(おに)なりと申して、敢えて近づかず。

   人ありて占いて曰く、是の邑の人、必ず魅鬼(おに)のためにまどわされん。

さらに書紀は斉明天皇(さいめいてんのう、594〜661)七年(661)の条で、より不気味な記述をしている。

   秋七月の甲午の朔に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。

   八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徒りて、

   還りて磐瀬宮に至る。是の夕に

   朝倉宮の上に、鬼有りて

   大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ

欽明の時代に存在したであろう「人ではないモノ」としての「鬼魅」「魅鬼」を果して、今風に「オニ」と呼んでいいものなのか?(一般的には、どちらにも「おに」の訓を付けるようです)分かりませんが、ここでは明らかに日本書紀を編修した「人々」が属する世界とは「異なる(立場の)モノ(存在・人?)」を「鬼魅」と言っているわけです。その正体については色々な議論もあるようですが、まず、外国人を指した言葉だと解釈するのが一般的です。つまり、ここで云う「鬼魅」は、実在した外国の人である可能性が強い。そして「惑わされん(惑わされるだろう)」という表現からは、なんとなく『魏志東夷伝』倭人の条に出で来る「卑弥呼」の「鬼道」を想起してしまいます。また、この欽明天皇の時代背景を考えると、別な見方も生まれます。それは有名な「仏教公伝(538)」に伴う憶測ですが、半島経由で仏教を受け入れた欽明は、臣下たちにも仏教を受け入れるよう諮問しました。ところが、その考えに同調した豪族は蘇我稲目(そが・いなめ、生没年不明?〜570?)ただ独りに過ぎず、他の豪族たちは皆、押しなべて仏教の受け入れに反対したのです。ここから仏教戦争も生じたわけで、世情は今にも一触即発の様相を呈していたと云えます。そんな事情を前提にすれば、また、別様の見方が出来るのかもしれません。

 蛇足・この「嶋の人」については、書紀は前段で、次のように細かく伝えています。越国言さく『佐渡嶋の北の御名部の碕岸に、肅慎人有りて、一船舶に乗りて留まる』だから、彼等は明らかに外国からの訪問者なのです。その人を「鬼魅」と呼んでいる訳ですが、当時の漢音からすれば、その読みは当然「きみ」になるはずです。そして欽明の父・継体の出身地が「越国」だったとすれば…、これは何かの暗示でしょうか

ついでと言っては何ですが、この欽明天皇について蛇足の蛇足を付け加えます。それは、彼が、一つの時代の大きな節目の中で誕生しているからです。と言うのも、彼の父親である継体天皇(けいたいてんのう、450〜531頃)という人は、宇佐神宮のページでお馴染みの「応神天皇」の「五世の孫」とされ、先帝・武烈(ぶれつ)に後継者がいなかったため、仁賢天皇(にんけんてんのう)の皇女、つまり武烈の妹にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)の婿となることによって皇位継承した人物で、天皇にはなったものの、余程の事情があったのか二十年もの間大和国に入ることが出来ず、その間、近畿周辺の各地を転々としていたと伝えられているのです。つまり、父親である人そのものが、書紀の言う「その嶋」の住人だと中央では考えられていた(天皇になるには、相応しくない)可能性のある存在であったのです。更に云えば「継体」という漢風の諡号そのものが、全てを物語っているとも…。都人は、案外『今度の大君は、どこか、他所の嶋で育った人らしい』なぞと噂したのかも知れませんね。(五世の孫といっても、中々実感がわかないでしょう。例えば、貴方のお祖父さんのお祖父さんから数えて貴方が五世にあたる、と言えば分かり易い?かな)

それから凡そ120年、斉明天皇の葬儀に現れた「鬼」は、何を「視て」いたのでしょう。その前に、少し触れておかなければならない事があります。それは蘇我氏の台頭に関わることなのですが、いつもお断りしているように、このオノコロシリーズは「研究」のためのものではありません。だから、当然、管理人の想像が多分に入っています。そのつもりで読んでください。

モデルは赤鬼? 継体天皇稜  今城塚古墳

歴史上、悪役の元祖とも言える扱いを受けている蘇我氏は、一応「武内宿禰(たけうちのすくね)」を始祖とする葛城氏・紀氏などと同様の所謂「古い豪族」の一派であるとされていますが、歴史関係のWEBを散見すると、その素性は明確なものではなく、六世紀の前半、突然、権力の中枢に登りつめた新興勢力だという見方が有力です。また、系図に見られる父・祖父の名前が、それぞれ「高麗(こま)」「韓子(からこ)」であることから秦氏などと同様に、半島あるいは大陸からやってきた渡来系の一族ではないかとも考えられています(この「韓子」という名前については日本人と韓人の間に生まれた子、という意味合いもあるそうです)。その新参者が宣化天皇(せんかてんのう)の即位に伴い一躍「大臣(おおおみ)」に抜擢され、従来から権力の中心を占めてきた物部氏(稲目の時代では物部尾輿[もののべ・おこし、生没年不詳])に対抗出来るまでになったのか、と言えば、欽明天皇との連携以外に納得のゆく理由を探し出すことは出来ません。つまり蘇我稲目は娘である堅塩媛小姉君の姉妹を欽明の妃として差し出し、天皇家の外戚としての地位を確立し、さらには外来の新しい神・仏教を旗印にすることで、その先進性を誇示しようとしたのです。彼の戦略は大成功を収めたと言えるでしょう、二人の娘が三人もの天皇(崇峻用明推古)を生んだのですから。政権基盤というべきものを全く持たずに即位した父・継体の「苦難」を詳しく聞かされていたであろう欽明が、旧豪族たちとは一定の距離を置き、新興の蘇我氏に接近しようとした心理は理解できそうに思われます。ただ、大きな誤算は蘇我氏の暴走でした。西暦587年、稲目の子・蘇我馬子(そが・うまこ、?〜626)は政敵の物部守屋(もののべ・もりや)を武力で倒し、その余勢をかって592年には甥に当たる崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺、姪の推古を即位させ権力中枢を牛耳るまでにのし上がります。それから半世紀、正に蘇我氏の時代が続きました。所謂『大化の改新』の遠因がここに芽生えた、とも言えるでしょう。

 蘇我氏の出自・歴史学者の門脇禎二さんは、蘇我氏について『百済の高級官僚が渡来し、日本に定着した』と考え、その人物を木満致であると推察しています。この満致が来日した時期については西暦475年の半島動乱の頃とも推理されています。所謂、蘇我氏渡来人説ですね。

書紀の記述からは見えてきませんが、もう少し想像を逞しくすれば、大和朝廷内が混乱する中、政権を支えていた旧勢力を代表する豪族達が連携して、一見「無難」な候補である継体天皇を擁立した時から四半世紀後に大和入りを果たすまで、継体一族を支えていたのが蘇我氏そのものであった可能性が浮んできます。若し、その想像が許されるのであれば、書紀が伝えている蘇我氏の「横暴」も、彼等の側からすれば「当然の報酬」と考えられていたかも知れないのです。下世話な言い方をすれば稲目や馬子には『一体誰のお蔭で天皇になれたと思っているんだ』という思いがあったと考えられるのです。余り人名ばかりを列記すると混乱しかねませんが、馬子の立場からすると用明・推古・崇峻の三天皇は甥と姪であり、歴史上最も著名な人物の「聖徳」太子はその用明の子供にあたるのです。そして、ややこしいですが太子と崇峻・舒明のお妃が馬子自身の娘なのです。だから、血筋・血縁という意味で聖徳太子は全くの蘇我一族の代表者と言う見方ができます。

一方、斉明天皇は、蘇我入鹿(そが・いるか、馬子の孫、?〜645)との醜聞説を除けば、太子のように蘇我氏一族とは密接な血縁関係のある天皇ではありません。その血統が推古などと同様に欽明天皇から出ている点は同じなのですが、系図的には敏達天皇(びだつてんのう)の孫にあたる舒明天皇(じょめいてんのう)の皇后だった人物で、夫の死去に伴い皇極天皇(こうぎょくてんのう)となった後、大化の改新(蘇我入鹿・暗殺、645)で一旦退位、そして9年後に同母弟の孝徳天皇(こうとくてんのう)が59歳で没したため急遽、再び即位した複雑な経緯があります。その波乱万丈の生涯を知りたい方はWEBで検索してみてください。

ここで「オニ」のお話しに戻りたいのですが、その斉明天皇の葬儀に現れた「おに」は、欽明時代に記された「鬼魅」とは明らかに異なっています。それは、葬儀に参列した「衆」すなわち皆の眼にも「大笠」を着た姿が見えていた、という点でも明らかです。また、この「おに」の出現を暗示するかのような文章が斉明即位(655年)の最初の記述として残されています。

   夏、五月の庚午の朔に

   空中にして龍に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。

   青き油の笠を着て、葛城の嶺より、馳せて生駒の山に隠れぬ。

時代が下り『扶桑略記』(ふそうりゃっき、成立は十二世紀初頭頃、編者は皇円とされる)は、この書紀本文を引用して、わざわざ「時の人言う、これ(蘇我)豊浦大臣の霊なり」と注釈しているように、当時から、そのような「噂」話しが宮廷内では流布していたと思われます。『唐人に似たり』という書き方は、如何にも書紀の編者が見てきたような表現ですが、勿論そんなはずもなく、これも「仏教」を強力に推進した特定の人物像が念頭にあっての描写だと考えられるのです。天皇の即位という晴れがましい最高の国家事業を「空」の高みから、しかも「龍」に乗って見下す人物が若しも居たとすれば、それは蘇我氏一門以外には考えられません。その「人」が葬儀には「鬼」の姿となって斉明の最期を見届けに来ていたのでしょうか?更に『龍に乗って』を、その言葉どおりに解釈すれば、蘇我氏こそ「龍」つまりは天皇だった、との見方も出来ることになります。

    『扶桑略記』に見える「豊浦大臣霊」の文言

扶桑略記を編纂したとされる皇円という人は、関白・藤原道兼(ふじわら・みちかね,961〜995)を祖先とする藤原氏一族の出身で、比叡山延暦寺の高僧として知られる、十二世紀を代表する天台宗の大立者。仏典ばかりではなく歴史の分野でも非常に優れた知識を持っていた彼は、神武天皇から堀河天皇の嘉保元年までの編年体の史書として略記を残したと伝えられています。ほぼ、同時代の人として、あの「此の世をば」の歌で有名な藤原道長がいます。

 オニと「籤引き」をする金太郎、何が当たるのかな?

仲良しの子供たちが数人集まり、川原に出来た、さして大きくもない州の中で遊んでいる。秋の日暮れは早い。少し離れた人家からは夕食の支度の進み具合を示す、柔らかく暖かい仄かな匂いが、ひんやりとした風に乗って漂い、彼等の鼻孔をくすぐっている。

『なぁ、かくれんぼ、しょうか?!』

言い出しっぺの「マー坊」が、とりたてて意地悪という訳でもなかったのだが、下級生には、どういう訳か余り人気がない。じゃんけんで「マー坊」がオニに決まったとき、最年長の「たー君」の脳裏に一つのアイデアが浮んだ。

『マー坊、今日は50まで数えるんやで。ここらには隠れるとこ、あらへんからな』

『えぇーっ、そんなぁ…。50も数えたら、どこまででも行けるやんか!』

『そんなことあらへんて、みな、ちっこい子ばっかりやから、大丈夫や、じき、つかまえられる』

ふくれっ面の「マー坊」が、渋々、地面に屈み込み「いち、にー、さん、しー」と数え始めた時、素早く川岸の一角に皆を集めた「たー君」は、ひそひそ声で作戦命令を伝えた。

『ええか、初めの50数えるまでに、皆、道路の上まであがるんやで』

『そんなんしたら、マー坊、誰も見つけられへんやんか?』

『それで、ええねん。今日は、みな、そのまま家に帰るんや、分かったか?』

それでも、突然のルール変更に納得がいかないという怪訝な面持ちの下級生たちを、急いで道路上に追いやると「たー君」は最期に崖を駆け上り、道路端の川原から死角になった山側の場所に陣取り、オニの呼びかけに声の調子を少しずつ変えながら移動してゆく。

『もー、いいかい?』『まーだだよ!』

『もー、いいかい!!』『……まーだだよぉ』『もーおー、いい、かーい』

5分たっただろうか、10分が過ぎた頃だろうか「マー坊」の呼び声が突然消えてしまい、あわてた「たー君」は中州に戻った。

『なんや、いてるやないか?声がせぇへんから心配するやないか、マー坊』

薄暗がりの中でしゃがみこんだままの「マー坊」に話しかけた途端、背後から「マー坊」の大声が響いた。

『たー君、みっけ』

眼の前から「マー坊」の姿は掻き消えた。

  三十六歌仙の一人・源順   後醍醐天皇(右)の下した綸旨(1336年)   

嵯峨天皇の子孫で、十世紀に活躍した歌人であり国学者でもある源順(みなもと・したがう、911〜983)は、母親が仕えていた醍醐天皇皇女・勤子内親王の求めに応じて、我が国最初の漢和辞典とも言うべき『和名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう)を二十代の若さで編纂しています。これは二十四部、百二十八類に細分化された百科辞典の要素も兼ね備えた大部なものですが、彼は「鬼」について、

   鬼は物に隠れて顕はるることを欲せざる故

   俗に呼びてと云うなり

と解説、その和名は「於爾」(おに)であり、かつ、その「於」は「」(おん)が訛って発音されたものだとしています。つまり十世紀現在で「おに」と称されるものの原型は「おんに」であり、その言葉を漢字の「鬼」に当てはめた、と彼は言っているわけですが、何とも分かったようで分からない「解釈」です。皆さんは、どう思われましたか?さて、オニの正体とは、一体何なんでしょう??まぁ、良く分からない処が「おに」の「オニ」たる由縁なのかも…。最後に、いつものオマケをもう一つ。日本には、今でも、鬼の子孫を自称する人たちが京都・左京区に棲んでいます。彼等は八瀬童子(やせどうじ)と呼ばれ、かつて後醍醐天皇が比叡山に行幸された折、駕輿丁役として天皇に便宜を図ったことから「年貢を免除」された、と言われる人々です。興味をもたれた方は、WEBで探してみてください。そして、この人々が住む地域で使われる独特な言葉があり、それを「八瀬ことば」と呼ぶのですが、なんと、その一部が出雲の方言にそっくり。八瀬では「あんな」「こんな」という場合に「あがな」「こがな」と話すそうです。興味のある方は出雲方言のページを一度、覗いてみてください。   

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