滅多な事では家から出ない(つまり、何処にも出かけない)物ぐさな男が、つい最近、どうした風の吹き回しか、急に旅を思い立ったのはスサノオの本拠地である須佐神社をどうしても、この眼で確かめたかったのと、もう一つ理由がありました。それは、別にどうでも良い事と言ってしまえば、それまでの事なのですが…。不確かな記憶では、オオクニヌシの出雲大社には狛犬が居なかったように思え、それも確かめておきたかったのです。
出雲大社には、やはり狛犬は居ませんでした
やはり、曖昧な記憶に間違いはなく、出雲大社の本殿そして沢山ある摂社の何処にも狛犬は見当たりませんでした。しかし、熊野川を挟んで東隣に位置する北島国造館の敷地内に祀られている天穂日命たちの神前には、古色蒼然とした、とても「良い顔」をした狛犬さんがデンと構え、ご主人さまたちを守っていたのです。北島国造家について語りだすと、これまた新しいページを書く位の場所が必要になるのですが、極、簡単に言い切ってしまうと、南北朝時代にお家騒動があり、その結果、オオクニヌシをお祀りするお家が「二つに分裂」し、一方が千家さん、そして、もう一方が北島さんになったのです。だから、どちらもアマテラス直系の天穂日命(あめのほのひのみこと)の子孫であることに変わりはありません。では、そのご先祖をお祀りしてある社を紹介してみましょう。三つ並んだ左側にお稲荷さん、右側に荒神さんが併祀されています。
真ん中が天穂日命のお社です
すぐ隣、西側にそびえる大社さん(一番初めの画像)と比較して、なんとも素朴で可愛らしい神社、というのが第一印象でした。もっとも、この神様は母親であるアマテラスの命を受け、出雲の地にやってきてオオクニヌシと最初の国譲り交渉を任されたにもかかわらず、オオクニヌシの懐柔策に取り込まれ、その使命を果たすことが出来なかった(「古事記」は3年の間、一切報告をしなかった、と記述しています。でも、不思議なのは他の神様が罰を受けているにもかかわらず、この神様は何のお咎めも受けていません)、暗い過去を持つカミサマだったのです。ただ、記紀神話を初めから読んだことのある方ならお分かりのように、天穂日命というカミサマは天照大神とスサノオが天の安河で宇気比(うけい)誓約をしたときに生まれた次男で、その子供(つまりアマテラスとスサノオの孫)の建比良鳥命(たけひらとりのみこと)が出雲国造などの祖神とされているのです。では、その神社を悪霊たちからお守りしている狛犬くんたちの勇姿を見ていただくことにしましょう。
いい面構えです
今回、旅を思い立った理由の一つがスサノオさんの生まれ故郷訪問にあったことは冒頭でも書きましたが、その場所というのが、山また山の奥、島根県佐田町大字宮内という所です。出雲市からすぐの近接した町だとばかり思って車を走らせたのですが、少し油断をすると川底へ真っ逆さま、という表現が大げさではない幅2メートル余りの山道が数キロ続く、正に神の古里と呼ぶのに相応しい山間の地に須佐神社は鎮座されていました。途中、いかにも格好の良い杉林があり写真に収めたかったのですが、その余裕さえありませんでした。運転するのが精一杯、それが本音です。そして、思っていた通り、須佐神社はいかにも土地に根ざした神様らしく、こじんまりとした、それで居て気品のある姿のお社でした。
凛々しさを感じさせる須佐神社
七五三のお参りに来ていた家族の他には参拝する者もなく、社務所で手持ち無沙汰にしておられた神職の方に件の疑問をぶつけてみたのです。実直を絵に描いたような彼は、一瞬、首をひねり、宙を睨むような仕草をした後で、おもむろに、こう答えてくれたのです。
『狛犬というものが、必ず、神社の境内に設置されている訳ではありません。
また、設置しなければならない、というものでもないのです。
確かに、須佐神社にも狛犬はありませんが、その代わりの役目をされる神様はちゃんとおられます』
更に彼はオオクニヌシに関して、こちらの「妄想」に近い考えについても『何分、神々の世界の出来事ですから、いろいろな解釈が成り立つ素地はあるのでしょうね』と思いもしなかった受け答えをしてくれたのです。そして意外な展開が管理人を待っていました。須佐神社の正面にある小さな社が気にかかり近づいてみると、そこには天照社の立て札があり、なんと立派な狛犬までが出迎えてくれたのです。スサノオの本拠地に、しかも真正面にアマテラスの社があったとは…。4月の例大祭の折には須佐神社からスサノオの神が、天照社を訪ねる儀式が執り行われるのだといいます。神職の方が、遠慮がちに渡してくれた一枚の案内書には、次のような文面が認められていました。
須佐国造家の事を付け加えるならば、須佐大宮司家が国土開発に功ありし
国つ神の末裔であるというので国造に命ぜられたのは、二十四代益成宮司の時で
政務天皇三十年(160年)今より千八百年前のことである。
それより出雲太郎、出雲次郎を名乗っていたが、永享年中(1434年)出雲国司にはばかり出の字を除き、
代々交代に雲太郎、雲次郎として今日まで連綿七十八代、二千六百四十年を経ている。

日本書紀は出雲大社の修造について、斉明天皇が亡くなる二年前(659)出雲国造に命じ、霊亀二年(716)に完成したと伝えています。そもそも大社の造営を始めた年代が、一体いつの頃なのか今となっては知りようもありませんが、七世紀の中頃に「修理」が必要になっていたのだと仮定すれば、その築造は更に二、三世紀ほど遡ることになるのでしょう。また「古事記」中巻・垂仁天皇の項にある、本牟智和気命(ほむちわけのみこと)への祟り神が『出雲の大神』とされている点にも注目して良いのかも知れません。それでは、出雲大社境内にある天穂日命の社を紹介して、このページの締めくくりとします。
