オオクニヌシの原像を探る                    「サイトの歩き方」も参照してください。

宋の時代、范曄(398~445)が五世紀半ば頃に著した『後漢書』東夷伝には「建武中元二年(西暦57年) 倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」「安帝永初元年(西暦107年) 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見」の記事が記録されています。この記述を信じるなら「倭奴国」の大夫を自称する使節が、西暦一世紀の半ばに後漢の都まで朝賀のために訪れ、その半世紀後には「倭国王」帥升が自ら「百六十人」もの生口を献じて皇帝の謁見を願い出ていたことになります。一方、時代的には編纂が先行している三国志『魏書』東夷伝倭人条には邪馬台国に属している多くの国々の一つである「奴国」に関して、次のような一文があります。

  東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

戸数二万と言えば、凡そ数十万人の人口を抱えた現代の都市にも匹敵する「大国」ですが、陳寿(233~297)が出先機関の報告者から受け取った書類には、そのような「数字」が沢山ちりばめられていたのでしょう、それはさておき。(註・倭人伝には『其俗 國大人皆四五婦 下戸或二三婦』の文言があり、身分の低い者でも複数の妻が居るとされ、その子供たちに奴僕などを加えると一家族の人数は少なく見積もっても十数人程度になります)これらの文献を参考にするなら、倭国の指導者たちは早くから大陸国家の許へ朝献施設を送るなど「外交」に高い関心を持っており、中でも最も早く後漢の光武帝から印綬を得ていた「倭奴国」は、時代を経て女王国の風下に甘んじる事態には立ち至ったものの、三世紀半ばの卑弥呼が活躍していた頃にも未だ「国」として存続していたことが明らかになってきます。『後漢書』にはさらに「桓・霊帝間 倭国大乱」の文言が見られ「桓帝と霊帝の治世下(146~189)倭国全体が大きく混乱していた可能性が強く、邪馬台国の卑弥呼も戦乱状況を収拾するため国の実力者たちが「共立」して誕生したと資料は語っています。

後漢書  倭人伝

一方、国内には二、三世紀の出来事を記した記録が存在していませんから、その当時の状況は記紀などに書き留められた様々な神話・伝承や、各氏族の系譜等を通じて得られる「傍証」を材料に、手探りで事実の破片と思われる物を丁寧に探し出し、パズルのように想像図を組み立てる他手段がありません。そこで先ずオオクニヌシ自身の系譜を古事記がどのように伝えてきたのかお浚いしておきましょう。兄弟八十神たちの迫害にもめげず、根の堅州国に居る須佐能男の許を訪れた大国主神は、スサノオの娘・須勢理毘売命と結ばれますが、妻を背負い元々スサノオ大神の持ち物である生太刀・生弓矢と天の詔琴を両手に抱えて「逃げ出す」葦原色許男に黄泉比良坂まで追いかけてきた大神が次のような餞の言葉を投げかけます。

  大穴牟遅神を呼びて謂いしく『その汝が持てる生太刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、また河の瀬に追い払いて、
  おれ、大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が娘・須勢理毘売を嫡妻として、宇迦能山の山本に、底津石根に宮柱布刀斯理、
  高天の原に氷椽多迦斯理ておれ。この奴』

古事記は、この前段で「天之冬衣神と刺国若比売」との間に生まれた子供が大国主神であり、またの名を「大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神」とも言うと述べ、更にはオオクニヌシがスサノオの「六世の孫」だとする系譜を載せているのですから、読む側とすれば混乱を禁じ得ない処です。「五つの名前」を持った上にスサノオ大神の「娘婿」であると同時に「六世の孫」である人など存在し得ませんから、これらの矛盾を最も簡単に解決するにはスサノオもオオクニヌシも「複数」居たと考えるしかありません。(註:余り議論の対象にはなりませんが、厳密に言えば「娘婿」は後継者の資格を持つ者であっても、あくまでもスサノオの「子」ではありません。この場合「葦原色許男」あるいは「大穴牟遅神」と呼ばれているオオクニヌシは天孫族以外の出身と見るべきです。何故なら、天孫族の頂点に立つアマテラスが、その娘婿に帝位を譲り渡すことなどあり得ないからです)また「葦原色許男」という神名は国譲りの対象となった「葦原中国(豊葦原之千秋長五百秋之水穂国)」を念頭に置いたもので「宇都志国玉神」が、天若日子の父である天津国玉神に対応した神名だとすると、オオクニヌシの本来の名前は「大穴牟遅神」「八千矛神」の二つだけだったとも考えられそうです。では次に古代氏族諸家では自分たちの祖先について、どのような系譜を伝えてきたのか、オノコロ・シリーズの中で収集し解説を加えてきたものの一部を表にしてみました。神名と続き柄などは国立国会図書館が収蔵している『諸系譜』を主な参考資料にしたものです。

 三輪氏   大己貴神   味鋤高彦根命   大物主神   事代主神   奇日方命   飯肩巣見命   建甕尻命 
 鴨県主  天神玉命  天櫛玉命  賀茂建角身命  玉依彦命  五十手見命   麻都躬乃命  弥加伊支命 
 田使首  伊久魂命  天押立命  陶津耳命  玉依彦命  剣根命  夜麻都俾命  久多美命
中島氏 伊久魂命 天押立命 陶津耳命 玉依彦命 剣根命  夜麻都俾命 久多美命
 大王家  天照大神  天忍穂耳尊  ニニギノミコト  彦火火出見  神武天皇    
出雲国造 天照大神 天穂日命 武夷鳥命 伊佐我命 津狭命 櫛瓱前命 櫛月命
 三上祝 天照大神  天津彦根命  天目一箇命 
天御影命
 意冨伊我都命   彦伊賀都命  天夷沙比止命   川枯彦命
 物部氏      ニギハヤヒ  ウマシマチ  彦湯支命  大祢命
 尾張氏        ニギハヤヒ  天香語山命  天村雲命  天忍人命
 忌部氏  天底立命  天背男命  天日鷲翔矢命   大麻比古命  由布津主命  訶多々主命  
 斎部氏  天底立命  天背男命  天日鷲翔矢命  天羽雷雄命      

随分と意外に感じられるかも知れませんが、千数百年もの間出雲大社でオオクニヌシをお祀りしてきた出雲国造家の祖先はオオクニヌシその人ではなく、国を譲らせたアマテラス大神の息子・天穂日命(天菩比神)なのです。そして彼は、当サイトが天津彦根命と同神だと推測している天若日子より前に葦原中国に使者として遣わされ「大国主神に媚び付きて三年に到るまで復奏しなかった」とされる神様でした。事後の天菩比神の動向や賞罰に関して古事記は全く触れていませんが、スサノオ・アマテラスの「誓約」段の末尾に『故、この後に生れし五柱の子の中に、天菩比命の子、建比良鳥命』と記され、その子神が出雲国造や无邪志国造、遠江国造などの祖であると註文を付けています(つまり天菩比命の名前を避けている)。ところが国造の代替わり毎に上奏される「出雲国造の神賀詞」では、

  高天の神王、高御魂の命の、皇御孫の命に天の下大八島国を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ神、天穂比命を国体見に遣わしし時に、
  天の八重雲おし別けて、天翔り国翔りて、天の下を見回りて返事申したまわく「豊葦原の水穂の国は、昼は五月蠅なす水沸き、夜はほべなす光く神あり、
  石根、木立、青水沫も言問いて荒ぶる国なり。然れども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめん」

自らの祖神を「天穂比命」であるとし、更には葦原中国視察の報告も恙なく済ませたと明言しています。古事記の妙に持って回った様な後裔氏族の書き方や、出雲国造家の記紀とは全く異なる「主張」は多くの謎を生む結果となりそうですが、筆者は五柱の内、子孫を持つとされる二柱の神々が同神ではないかと考えるようになりました。祖先の名前「A」が明確なのに、自分たちは「その子・B」の子孫だと公言する者がいるでしょうか?古事記が微妙に「建比良鳥命(武夷鳥命)」の名前を避けたのには相応の理由があったはずです。それは恐らく九州や出雲、紀ノ國更には大和を含めた全国各地で行われた国譲りに伴う騒乱を糊塗し、加えて討伐の対象になったオオクニヌシの神格をも変貌させる目的が背景になっていると思われます。大国主は「譲る側」「譲らせる側」双方に幾人も居たに違いありません。

 出雲大社の素鵞社  大国主像  PR

オノコロ・シリーズでは古代天皇の系譜調べを入念に行い「崇神天皇」などの諱(名前)をヒントに各大王たちの続き柄に関する検討し、その推理を「瓊玉渟」「観松」理論と名付けて幾つかの頁で公表してきました。それらの詳細は省きますが、五十瓊敷入彦命から初代神武までの想定家系図は下のような形になります(ここで、直系ではないと推測された大王たちが全て架空の存在であったとは思いません。恐らく傍系の近親者、兄弟たち等が系譜作りに総動員された結果だろうと考えています。ただ「○○」という名前で登場している大王でも、複数の存在を合成加工したものであったり、或いは別の人格に移殖変身されたりしている可能性は十分残されていると言えるでしょう。また丸数字は大王の即位順を示したものではなく、世代数を表したものです。従って、神武から見て五十瓊敷入彦命は『六世代』離れた子孫に当るという意味です。一世代を二十年とすれば百二十年、二十五年とすれば百五十年ほどの時間差になるでしょう。崇神天皇の時代を西暦300年前後と推定するなら神武のヤマト入りは西暦175~200年頃という事になります)

  ⑦五十瓊敷入彦命--⑥崇神--(開化、孝元)--⑤孝霊--(孝安)--④孝昭--③懿徳--②安寧--(綏靖)--①神武

この年代は上で見た「倭国大乱」の時期とも重なり合います。天若日子(天津彦根命と同神)や天穂日命(天菩比命)は初代神武から三世代上ですから、彼らが使者として葦原中国に遣わされたのは「200-(25×3)」=125年から「175-(20×3)」=105年に近い頃だった可能性があります。若し、この想像が正しければ「倭国王」帥升が天孫族に「国を譲った側の」オオクニヌシその人であった確率が高くなると思うのですが…、如何。

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