出雲大社の祭神オオクニヌシの末裔を探る                                                         「サイトの歩き方」も参照してください

西暦672年1月7日、近江朝の主が亡くなった。病が篤くなった事を自覚した天智帝は前年冬十月、東宮大海人皇子を病床に呼び寄せ『後事を頼む』ともちかけましたが、事前に蘇賀臣安麻呂から『有意いて言へ(発言は慎重になさってください)』との助言を得ていた皇子は誘いに乗らず、出家を宣言、天皇もこれを許したことから即座に「鬢髪をそり」沙門となって、わずかな供のみを引き連れ吉野に向かったのです。旅立ちの朝、左大臣を始めとする要人たちが山背の宇治まで見送り、都に戻った或る政府高官は『虎に翼を付けて放したようなものだ』と思わず漏らしたそうですが、半年も経たないうちに「乱」の様相が鮮明となります。舎人の一人だった物部朴井連雄君の”報告”を待っていたかのように皇子は素早く的確な行動を矢継ぎ早に起こし、短期間のうちに戦の主導権を握ります。その尖兵となったのが美濃国安八磨郡で湯沐令(ゆのうながし=支配地の管理人)の任務にあたっていた多臣品治と村国連男依、身毛君広など美濃に所縁の人物たちで、今回のお話に登場する太朝臣安麻呂(?〜723)は『壬申の乱』の功労者・多臣品治の息子だとする書き物も残されています。(久安五年多神社注進状)

その安麻呂は自らが撰録した『古事記』序文の第二段で、壬申の乱(672)の始まりを『南山に蝉蛻し、人事備わりて、東国に虎歩す』と駢儷体の文章でいささか文学的に表現していますが、実力で『天統(天つ日嗣)』を勝ち得た天武帝は、

  朕聞く、諸家のもたる帝紀および本辞、すでに正実に違い、多く虚為を加うと。
  今の時に当たりて、その失を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びなんとす。これ即ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。
  故惟れ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉に流えんと欲う。

と詔を発し舎人稗田阿禮に『勅語』したとも伝えられてきました。天武が『虚為』と言い『偽りを削り』たいと考えた事柄が具体的に何であったのか、また『諸家』が家伝としてきた「帝紀と本辞」のどこに「不実」な部分があったのか、もう今となっては探りようもありませんが、それでも安麻呂と阿禮の共同作業の結果、古事記という一つの資料群が我々に伝えられました。この安麻呂の手になる序文は基より、古事記という文献そのものが後世の偽作ではないかという見方も江戸期以降多々著されているようですが、その是非については読者の皆さんの判断にお任せするとして、ここでは古事記が伝えた文章を一つの手がかりにして古代史の謎に迫りたいと思います。ところで、唐突ですが若し貴方が神社を新たに造ることが出来るとしたら、その神社にはどの様な神様をお祀りしますか?何々、小難しい由緒・ご利益など故事来歴の細部についてではなく、祀りたい神様の第一条件とは何だろう?位の事なのですが…。

 古事記の序文  科長神社

一万年とも、それ以上とも言われる縄文時代、次に稲作文化を基盤とした弥生時代があり、その後に巨大なモニュメントを中核とした古墳時代が続く中、人々の暮らしは常に大自然と共にありました。漁労や採集が生活を支えていた時代であれ、新たな水稲耕作の技術に支えられ豊かな収穫が約束されるようになった頃であれ、四季を伴う自然は必ずしも人々にとって唯、優しいだけの有り難い存在であった訳ではありません。縄文人を語る折よく言われる出来事の一つに「九州一円の火山活動」があり、当時の日本列島で東日本が文化の担い手だったのは、大きな噴火によって九州は勿論、西日本を含めた広い地域で住環境が劣下し、食物類の生育が極端に悪化したからではないかと想像されているのです。つまり自然には二面性があり、豊穣をもたらす一方で大災害をも運んでくるのです。恵みの雨も降り続けば洪水となって田畑・家屋を一気に葬り去る恐ろしい濁流に変身します。最も分かりやすい例が台風です。農耕を営む人々にとって待ちに待った収穫の秋直前、毎年のように列島を襲う大風と大雨は誰にも止めることは出来ませんでした。そこで人々は雨、風などの自然現象や大地・森林そして河川・海原など自然そのものを「怖れ」「畏れる」気持ちを抱くようになったのかも知れません。自分たちが日々暮らしている環境のすべて森羅万象に「何か計り知れない捉えがたいモノ」の存在を感じ、その思いを大切にして共有しようとしたものが神性を帯びたとしても決して不自然ではありません。

一方、雄大で底なしの威力を発揮する自然に立ち向かう人々の姿が常にありました。遥か昔、未知の列島を目指して何処からか初めて漕ぎ出した祖先のように、深山に分け入り巨木と格闘し、暴れ狂う河川に一抱え以上もある杭を打ち込むことで流れを制し田畑に水を導き、日々の糧を生む大地をより効率的に耕すために必須な鋤鍬を得るため大槌を振るって鐡(くろがね)の塊を何日にも亘って鍛え、更には海の幸を確実に得るための舟や銛、網などあらゆる道具類をも拵えたのです。また、それらの作業に危険はつきもので、勇敢で力自慢腕自慢の大人たちの幾人かに一人は、自らの命を捨てることで神々の威力に立ち向かわざるを得ませんでした。平均寿命が30歳前後とも言われる厳しい時代の中で次々と生まれたであろう”英雄”たちは地域の又一族の誇りとして代々子々孫々に語り継がれたに違いありません。少しく婉曲な言い回しになりましたが、普通の人々にとって「お祀り」の対象となる神さまとは山や海そして風、水、火などの自然神や、暮らしの実体験から導き出された生命・食物・鉱物等々に関わる神々、そして自分たちの英雄あるいは祖先たちだったのではないでしょうか。ところが神様の専門家?たちは異論を唱えます。神々の中で最も強力なカミサマが「祟り神」であり、その典型が出雲のオオクニヌシだというのです。何故か、それは「古事記」にそう記されているから…、なのです。

天孫たちとオオクニヌシ親子の間で繰り広げられた「国譲り」神話についてはオノコロ・シリーズの各ページを参照していただくとして、確かに大国主神は、

  僕が子等、二柱の神の申すまにまに、僕は違えまじ。この葦原中国は、命のまにまに既に献らん。ただ、僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らしめすとだる、
  天の御巣なして、底津岩根に宮柱ふとしり、天原の原に氷木たかしりて治め賜わば、僕は百足らず八十くま手に隠れて侍いなん。

つまり、己の『住所=すみか』を天孫たちの住む宮殿と同じように大きく立派に建ててくれたら、という交換条件で葦原中国を譲ったことになっています。そして、その約束は誠実に守られ実行されたはずなのに天孫一族には次々と災難が降り注ぎます。「ハツクニシラス」という最上級の称号を贈られた崇神帝は、国中に「役病」が蔓延し「人民」の多くがバタバタと倒れる事態を大いに憂い、身を清め床をも清めて神意を問うと、ある夜、大物主大神が夢に現れ、

  これは我が御心である。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめば、国安らかに平らぎなん

と告げます。帝は急ぎ河内の美努村にいた彼を探し出して「神主」とし、御諸山に「意富美和の大神」を祭らせたところ国家安らかに平らいだのです。また崇神帝は、物部連の祖、伊迦賀色男命に天の八十毘羅訶を作らせて天神地祇の社を定めて祭る体制を整えたとも記されており、この大王が祭祀をとても重視していたことが明らかになっています。ただ、厳密に言えば、ここで出現している神の実体は「大物主(オオモノヌシ)」であって、三輪山の主である彼は、既に少彦名が去った後の国造りを心配していた大国主に、

  よく我が前を治めれば、吾よく共に相作りなさん。…吾をば倭の青垣の東の山の上に斎き奉れ

と声をかけた神様ですから「同一」ではありません。日本書紀の一書第六は、この辺りの事情を『吾は是、汝の幸魂奇魂なり』と何やら言い訳とも取れる苦しい表現で糊塗していますが、やはり大己貴神(オオアナムチ)自身ではなく「日本国の三諸山に住む」大三輪のカミサマであることに変わりはないのです。従って、記紀ともに大国主と大物主を意図的に融合混同させようと試みているわけで、系譜上その「つなぎ役」を務めているのが息子とされる事代主命(コトシロヌシ)に他なりません(父とされる大国主に国を譲るよう助言したのも彼でした)。それはさておき、次の帝・垂仁の時、出雲神の祟りが再び帝室の最深部を襲います。皇后の兄の反乱を平定したものの、息子の本牟智和気王(誉津別王)は成人に達しても言葉が不自由で帝の患いは一向に晴れません。そして夢の中で得た、或る神の、

  我が宮を天皇の御舎のごとく修理めたまえば、御子必ず真事とわん(話すことが出来るだろう)

を太占で占ってみると『その祟りは出雲の大神の御心』であることが明らかになります。そこで帝は更に占いを続け曙立王、菟上王の二人を介添えに選んで出雲に送り出し、やっと王は言葉が話せるようになったのです。垂仁が喜んで「神の宮」を造らせたことは言うまでもありません。確かに出雲のカミサマは祟るようです。ただ、出雲大社の祭祀の在り方には根本的な疑念が横たわっているのです。それは、斎祀の原点に関わる事柄で、先に見た崇神と大物主との「やり取り」でも明らかな様に「A(オオモノヌシ)」という名の神様をお祀りするのに最も適しているのは「A」の子孫にあたる人物(オオタタネコ)なのです。崇神帝が「倭大国魂(やまとのおおくにたま)=大物主」を祭らせようと選んだ娘の渟名城入姫命の『髪が落ち體痩せて』どうしても祭ることが出来なかったのも彼女が大物主の「一族」ではなかったからと言えます。日本史探訪の読者である皆さんは、もうお分かりの様に、出雲国造として大社の祭神オオクニヌシを祭っているのは、かつて高皇産霊尊こよって葦原中国を平定する役目を負わされた、そして何より、その役目を全く果たせなかった(はずの)天穂日命の子孫なのです。加えて「出雲風土記」にはオオクニヌシという名の神様は登場せず、スサノオのヤマタノオロチ退治の場面も記述されていないのですから謎はいよいよ深まります。

 出雲国造が新任の折、朝廷に出て出雲の神からの祝辞を述べます。それを『出雲の国の造の神賀詞』と言いますが、その中にも大国主という神名は用いられず
 出雲の国の青垣山の内に、下つ岩根に宮柱太しり立て、高天の原に千木高知ります、いざなきの日まな子、かぶろき熊野の大神、くしみけのの命、国作りましし
 大穴持命(オオナモチ)二柱の神を始めて−−と述べられています。

百八十度真っ向から対立しているようにしか見えない「混乱し転倒した」出雲大社の祭祀の在り方を無理なく説明できる方法は無いものでしょうか?太安麻呂の古事記で始まったページですから、手がかりは、やはり古事記の文中に探すしかありません。周知のように庶兄弟八十神の迫害を逃れ根国の須佐能男の許を「葦原色許男」として訪れた大穴牟遅神(オオナムチ)は、大神の娘・須勢理毘売と結ばれ岳父であるスサノオから『おれ、大国主神となり、また宇都志国魂神となれ』と励まされ国作りに努めます。古事記は大国主が「出雲の御大の御前」に居た時日本海の波の彼方から現れた神産巣日神の子・少名毘古那神と「兄弟」となって国を作り固めたという段の前に、わざわざ『大国主の神裔』という一文を差し挟み研究家たちが「名義不詳」とする八島牟遅能神の子孫名を淡々と書き連ねています。そして管理人は、その中の幾人(神)かの名前に注目して、幾つかの記事を公表してきました。それが、近江の古族・三上氏と大国主との不思議なつながりに関するもので、次に、古事記と「三上祝家系」(『諸系譜』より。国立国会図書館収蔵)を並べてみます。[大国主神の子孫は八島牟遅能神の娘・鳥取神との間に儲けた神様たちです](御上神社・下右画像)

国忍富  彦伊賀都   PR

  古事記  大国主神----鳥鳴海神----国忍富神----速甕之多気佐波夜遅奴美神----甕主日子神----多比理岐志麻流美神----美呂浪神----布忍富鳥鳴海神
              ----天日腹大科度美神----遠津山岬多良斯神

  三上氏  天津彦根命----天御影命----天麻比止都禰命----意富伊我都命----彦伊賀都命----天夷沙比止命----川枯彦命----坂戸毘古命
              ----国忍富命----天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)----鳥鳴海命----八倉田命----室毘古命

煩雑になり過ぎるので系図の中に入れていませんが、三上氏の血族はニギハヤヒに始まるとされる物部諸氏とも深いつながりを持ち、その一端を紹介すると、およそ次のような勢力圏を形成しています(註・物部氏などが伝えている系譜と異なる部分もあります)。

  @ 彦伊賀都命の兄弟が凡河内直(彦己曾根命)および山背直(阿多根命)の祖先となっている。
  A 川枯彦の姉妹・川枯比売命が穂積氏の祖である大禰命に嫁いで出石心大臣命と大矢口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・御食津媛命は
     恩地神主の祖である御食津臣命に嫁ぎ伊賀津臣命を生んでいる。
  B 坂戸毘古命の姉妹・坂戸由良都媛命が物部氏宗家の出石心大臣命の妻となり内色許男命、内色許売命(孝元皇后、開化帝の母)を生んでいる。
  C 国忍富命の姉妹・新河小楯姫命が采女臣の祖である内色許男命に嫁いで大水口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・富炊屋姫命は
     中臣連の祖である梨迹臣命に嫁いで三名の男子を儲けている。
  D 天加賀美命の兄弟・筑箪命の子・忍凝見命(オシコロミ)が筑波を始め各地の国造九家の祖となっている。
     また姉妹である息長水依比当スが日子坐王の妻となり丹波道主王を生んでいる(孫娘の日葉酢媛命は垂仁帝の皇后)

説明の必要も無いと思いますが記紀が天照大神の三男に位置づけた天津彦根命の一家は紛れもなく天孫族の一員であり、神武帝に擬せられた帝室の祖先よりも「早くに」天降ったニギハヤヒたちとほぼ同じ時期に近畿圏に勢力基盤を築いた最古の部類に属する豪族だったと想像されます。垂仁帝の息子が「出雲の大神」の祟りを鎮めてもらうために出立する際、占いによって介添えとなった曙立王の父親が日子坐王と山代(山背氏)之荏名津媛命との間に産まれた子供であったことも合わせて考えると、三上氏が娘たちの嫁ぎ先に選んだ相手の多くが初期ヤマト政権を支え中枢を占めていた祭祀氏族(穂積=物部、中臣、采女)や王族であったことが分かります。二つの系譜に現れた同じ名前を持つ複数の神々の存在をどう見るのか、一つのヒントがオオクニヌシの系図にあります。それは国忍富神の親神として挙げられている「日名照額田毘道男伊許知邇神」という一風変わった名前の神様です。そして、ここからは管理人の、いつもの妄想になります、ので他言無用。

  @ 「日名照(ひなてる)」は「天照(あまてる、全土)」に対する「地方」を意味する概念で、国譲りに登場した出雲臣の祖先の名も「天の夷鳥命」であった。
  A 「額田(ぬかた)」も古くから出雲に在住した豪族の姓であり、額田臣は物部氏・伊香我色雄命の後裔(新撰姓氏録)であり、額田部湯坐連および額田部河田連
     いずれも天津彦根命の子・天御影命および三世孫である意富伊我都命の後である(姓氏録)。額田部連の遠祖は天津彦根命(日本書紀)
     [参考・ネット上で古樹紀之房間を主催されている樹童氏は一歩踏み込んで額田毘道男を三上氏・坂戸彦命そのものだと判断されています。]
  B 天の夷鳥命が記紀の言う建比良鳥命であるのは明らかなので、その親神の天穂日命と天津彦根命は正しく「兄弟」ということになる。
  C 出雲大社も、他の氏神と同様国譲りの結果「祟り神」となった地方の地祇ではなく、己の祖先(に近い)神を祀っているのではないのか。
  D ヤマト朝を開いたと後世まで伝えられてきた大王親子に祟;れる存在としては、実際に神話に登場している神々の中で「誰が」最もふさわしいのか?言葉を代えれば
     ヤマト朝を開いた天孫族が「負い目」を感じ続けなければならなかった存在とは誰なのか?

等などと思いを巡らせれば、その先に一条の光?が見えてきませんか。出雲国造は『神賀詞』の中で、自分たちの遠祖である天穂日命は、国譲りに際して、

  おのれ命の兒、天の夷鳥の命に布都怒志命をそえて、天降し遣わして、荒ぶる神どもを撥い平げ、国作らしし大神(大穴持命)をも媚び鎮めた

と明言しています。この「賀詞(よごと)」は、国造が出雲の地で私に唯読み上げるものではなく、壱年の潔斎を経て朝廷つまり大王・天皇の臨席する場に出向き「公の行事」の一環として行われる性質のものですから、その文言の中に事実とは異なる部分(朝廷にとって不都合な部分)があれば、即座に「変更」されて然るべきものなのです。だとするなら、出雲臣の祖先は、やはり別の場所から「出雲」の地に乗り込み「平定」した側に属していたのです。ところが記紀は別の筋書きを用意していましたね!

  天菩比神(天穂日命)を遣わしつれば、乃ち大国主神に媚びつきて、三年に至るまで復奉さざりき。 (中略)
  ここに天若日子、その国に降り到る即ち、大国主神の女、下照比売を娶し、また其の国を獲んと慮りて、八年に至るまで復奏さざりき。

疑念を抱いた天照大神・高御産巣日神は「鳴女」という名の糾問使を下界に送りますが、天佐具売(天探女)の進言を信じた天若日子は「天つ神から与えられていた弓矢」で使いの雉を射殺してしまいます。そして不思議なことに、雉を射た「天之加久矢」は高木神(古事記は高御産巣日神の別名だとする)の御所に逮ったのです。彼が『もし、邪き心有らば、天若日子この矢にまがれ』と言いながら矢を衝き返すと、天若日子の胸に中り亡くなってしまいました。高天原に集う神々の降した結論は正しかったのでしょうか?!古事記は、この段の文章の中にも気になる微妙な表現を紛れ込ませています。同じ段の文中で高御産巣日神と高木神の「亦名」を使い分けているだけでなく、高天原から天降る折に天若日子に与えられた武器(天孫族の証)は、

  天之麻迦古弓(あまのまかごゆみ)と天之波波矢(あまのははや

だったはずなのに、天若日子が鳴き声が大変悪い「鳴女」を射た後、高木神の御所に届いた弓矢は、

  天之波士弓(あまのはじゆみ)で放った天之加久矢(あまのかくや

だったと言うのです。しかも、ご丁寧に高木神は『この矢は、天若日子に賜えた矢である』と念押しまでしています。一方、日本書紀本文でも高御産巣日神が天稚彦に渡した武器は、

  天鹿兒弓(あまのかごゆみ)および天羽羽矢(あまのははや

であったと伝え、管理人も「かごゆみ」「ははや」のセットが正規のものだと考えています。何故なら、この後で神武が長髄彦と対峙した時に自分が「君」として仕えてきたニギハヤヒも天神の子である「表物(しるしもの=証)」として即位前の神武に提示した物が『すなわち?饒速日命の天羽羽矢一隻および歩靫』(靫は矢を入れる容器)であり、天若日子と間違われた阿遅志貴高日子根神が怒りの余りに「喪屋」を切り伏せなぎ倒した十掬剣の名が「大量(おおはかり)」(書紀は大葉刈とする)だからです。つまり、天孫族を代表する勇者であるスサノオが「出雲の簸の川上に在る鳥上の峯で、人を呑む大蛇」を斬った刀の名が「天蠅斫剣(あまのははぎり)」(書紀神代上第八段、一書第四)である如く、征服されるべき葦原中国の旧支配勢力の象徴である「大蛇=はは」を斬る剣が「ははきり」であり、天孫の証でもある武具はあくまでも「ははや」でなければなりません。岩波古典文学大系の解説者は神名・武器の名称が変化している事に関して『資料を異にした伝承を接合したため』だと言っていますが、刊本にして僅か十行足らず、写本でも恐らく同じページ内に収まる範囲の記述、それも天孫一族にとって恥とも云える身内の「反乱」に関わる微妙な部分で、そのようなミスを犯すものでしょうか?それに、いつも言及しているように成文化の段階で記述者以外の「校正」作業が丹念に行われているはずで単純ミスが見逃される可能性は極僅かなのです。また、日本書紀は葦原中国に留まった天稚彦が、

  われ、また葦原中国を馭らんと思う

と言って久しく「報告に来なかった」ことを怪しんだと記し、高皇産霊尊の前に飛んできた矢を投げ還す時も神代第九段本文では、ただ、

  この矢は、昔、わが天稚彦に賜いし矢なり。血、その矢に染れたり。けだし国神と相戦いてしかるか

とのみ述べているだけで、天稚彦に「邪心」があったから死んだのだとは断言していないのです。また「葦原中国を馭らん」という言葉も、彼が謀反を起こしたと考えるより、その国を制御したい、つまり(天照大神たちの意に沿って)平定したいとの意志表明だったと見ることも出来ます。歴史に「もしも」は禁句なのですが、若し、そうであれば天若日子(天稚彦)は派遣先で「誤って」殺されたのではないか。それも、同じ天孫族の誰かの「讒言」を信じた本国の権力者によって葬り去られたのではなかったか!豊かな国造りに励み、鉄器の普及を促進するための鉱山開発を進め「大穴持」と讃えられ、知恵と技術に優れた弟(少彦名)と協力して国家の基盤整備を進めて数年、先住者たちとの直接的な「衝突」もようやく収まり、さあこれからという時、身内のゴタゴタから高天原の尖兵は「背後から」飛んできた矢によって不慮の死を迎えます。その後の調べで「無実」が明らかとなるのですが…。

天孫の使者に対して『大王の住む宮殿と同じ住まいを建ててくれ』と要求し、ハツクニシラス大王親子さえ「祟り」で長年悩ませることが出来る出雲の大神とは一体誰なのか?その人物像を推し量る条件を上げてみましょう。

天目一箇神はオオクニヌシだったのか、天若日子は天津彦根命と同神か

  T 出雲国造を務める出雲臣の近親である、天孫一族であること。(出雲の先住者ではなく別の地域から移り住んだ一族であること)
  U 神武帝はもとより、ニギハヤヒと同じ時期か、それよりも早い時期にヤマト入りしていること(ニギハヤヒの親と同世代であるかも知れない?)
  V 大穴持(おおあなもち)の称号を持ち、早くから鉱物とりわけ鉄資源の開発に携わり、農耕の発展に大きく寄与し全国的に知名度も高いこと
  W 医薬の神として知られる少彦名と兄弟であり、一時期共同で国造りを行ったこと(書紀一書によれば少彦名は淡島に行き、その後、常世郷に至った)

最も重要な手がかりになるのが「W」だと思われるのですが、このスクナヒコナが意外と難物なのです。記紀神話に親しんだ方なら知らない人はいない位の「有名」人?のはずが、新撰姓氏録にもその後裔が一切収録されていません。WEBで検索してみれば直ぐに分かりますが、この神様に関する情報は驚くほど少なく、子孫や系譜などについても公開された資料も極限られています。その数少ない間接的資料の一つが大同二年(807)斎部(忌部)宿禰広成が記した『古語拾遺』で、そこには、

  @ 天太玉命が忌部首の祖神である
  A 同神には  1 天日鷲命=阿波国忌部氏の祖  2 手置帆負命=讃岐国忌部氏の祖  3 彦狭知命=紀伊国忌部氏の祖
               4 櫛明玉命=出雲国玉造氏の祖   5 天目一箇神=筑紫国、伊勢国忌部氏の祖

の五柱の神々が従ったとありますが、日本書紀神代上第七段一書第三には、天石窟に「日神」が籠った時、すなわちアマテラスの磐戸隠れの時に、

  下枝には、粟国の忌部の遠祖、天日鷲が作ける木綿を懸でて、乃ち忌部首の遠祖、太玉命をして執り取らしめて、広く厚く称辞をえて祈み敬さしむ。

とありますので、恐らく「天太玉命(あまのふとだま)」と「五柱」の神々は親子ないしは異名の同神、そして「五柱」の神々はそれぞれ兄弟か異名の同神である可能性が高いと考えられます(関東の皆さんには浅草・鷲神社の祭神としてお馴染みだと思います)。斎部(忌部、いんべ)氏とは言うまでもなくヤマト朝草創期にあっては中臣氏と同等あるいは同氏を凌ぐほどの存在感を誇った祭祀族で上の記事に見られるように九州から四国、山陰、近畿一円に勢力圏をもっていました。そして、天日鷲命の後裔氏族として天語連、多米連、田辺宿禰および同神と見られる天日鷲翔矢命の後裔に物部弓削宿禰、委文宿禰、美努宿禰更には鳥取部連などが確認できます。語呂合わせではありませんが、少彦名神が「常世」の国に弾かれて飛んでゆく前に居た処が「淡島・粟島」で、加太淡島神社を始め各地のアワシマ神社がスクナヒコナを祭神としていることも合わせて勘案すると、天太玉命と同じ神様ではないかと推理される天日鷲命こそが、今まで探し求めていた少彦名神そのものだったのです。さて、大詰めです。

「天日鷲命=少彦名神」であるなら「天目一箇神大国主神」である、という等式が成り立つのでしょうか!その確率は高いと考えています。ただ、出雲大社でお祀りしている大国主という「概念」は、あくまでも祟りを鎮めるために後から「オオクニヌシ」という尊称を天孫族から与えられてからのものですから、その実態は、同族の手によって事業半ばで斃された天若日子つまりは「天目一箇神の父・天津彦根命」であるべきだと思います。勿論、全国で長年にわたり何度も何度も繰り返された国譲りの途上で亡くなった数えきれない人々の霊も合わせてお祀りされていて然るべきです。ここまで書き進める過程で脳裡をかすめた疑惑を紹介して、この稿を終えます。

少彦名神の別名を天日鷲翔矢命と言います。その後裔氏族には物部弓削宿禰がいました。忌部氏が物部氏と同族であるのなら祭祀を束ねるのと同時に「武器」モノノグの生産にも携わり天孫族の機動部隊を構成していたのではないでしょうか?日本書紀が神代下第九段(天孫降臨)一書第二の中で、

  即ち紀国の忌部の遠祖、手置帆負神をもって、定めて作笠者とす。彦狭知神を作盾者とす。天目一箇神を作金者とす。天日鷲神を作木綿者とす。

と列記していますが天日鷲神は本当に「木綿(布)」作りだけに励んでいたのでしょうか?徳島県吉野川市にある種穂忌部神社には興味深い伝承が残されています。『天日鷲命の本名は天日鷲翔矢命といい弓矢の名手で、占いの矢を高天原から放ったら種穂山に突き刺さった』のだそうです。古事記も日本書紀本文も、この神様については珍しく口裏を合わせたように一言も伝えていません。天若日子暗殺の下手人を暗示していると感じるのは深読みすぎでしょうか−−。「天之加久矢」が「天香久山」に通じるものであれば、一つの答が導きだされます。

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