大神神社と大物主神、そして少彦名神                                  サイトの歩き方」も参照してください

ウサギ、ワニ(「神様はワニに乗って」)、カラスと書いてきて、さて、その次は何かというと、前に出雲大社のところで話をした「竜神」さんを思い出してください。この神様は、出雲のオオクニヌシの代理を務めるほど位が高かったですよね。そして、竜神さまはらしい。その竜神さまが、何をするのかと言えば

    海からやってくる神様たち

を、お迎えする訳です。「海の彼方からカミサマがやって来る」という考え方は、相当古いものらしく、外国などにも例がありますが、記紀神話にも、その典型がみられます。日本というクニが、周り中を海で囲まれた島国であることを思えば、このような神話・伝説があることも当然だと考えられます。最近では、遺伝子解析の研究が飛躍的に進み、日本人のルーツ探しも盛んに行われるようになりましたが、アジア大陸と繋がっていた時期をも含めて、相当な数の人々が様々なルートで、長い時間をかけ、このクニに移動(行き来)してきたのでしょう。その、遥かな子孫たちの間で、海の彼方から訪れる人たち(大昔のことなので人もカミも同様に捉えられていた)についての言い伝えが守られたのです。

 海の彼方からやって来る神様。  大鳥居と三輪山の遠望

興味のある方は直接、記紀や風土記などの原文に目を通してもらうのが一番いいのですが、漢字だらけの文章など、見るだけでもイヤ、という方のほうが多いでしょうから、或る訳文の、そのまた略文を紹介することにします。神話は古事記では次のような内容になっています。

    オオクニヌシが、自分と協力して国づくりを行ってきた少彦名神(スクナヒコナ)が居なくなり、
  独りでどうしようかと悩んでいた時、海を明明と照らしてやってくる一人の神様があった。
  そして、その神様がオオクニヌシに『わたしのことを大切にお祭りしてくれるのなら、国つくりに協力しても良い』
  と言われたので『どの様にして御祭りすればよいのでしょうか?』と訪ねた。
  すると、その神様は『自分を倭の国の東の山の上に祭れ』と言われた。
  これが、いま御諸(みもろ)山の上に座す神である。

スクナヒコナという神様は神皇産霊神(カミムスビ)の子供とされる古い世代の神様で、余りにも体が小さかったため親神様の指の間からすり抜けて葦原中国(日本)に、零れて落ちてしまい、アメノカガミノフネで漂っているところをオオクニヌシに発見され、国づくりに協力するのです。この二人の神様の間で紹介の労をとったのが案山子(かかし)であったことから、スクナヒコナの実態が稲穂=コメではなかったのか、とも思えるのですが、それはさておき、スクナヒコナは自分たちの国づくりの結果について『よい所もあるが、良くない所もまだまだ残っている』と冷静な評価をした後、粟の茎によじ登り、茎にはじかれて常世の国に旅立ってしまいます。幾つもの異文を載せている書紀は、このスクナヒコナを高皇産霊神(タカミムスビ)の子であるとし、彼が国づくりの途中で立ち去る理由についても『深い訳があるのだろう』と謎めいた記述に終始していることも気になりますが、話の流れを素直に辿れば、スクナヒコナが協力できることが無くなった、或いは協力することが出来ない何かの事情が発生したということなのでしょう。今まで兄弟として協力しあっていた仲を裂く『深い訳』を詮索するだけなら、幾らでも理由を見つけることが可能になるでしょう。彼の親の名前「むすび」から連想されることは、やはり生産・豊穣に関るカミサマであったことは確かなのですから、管理人としては、スクナヒコナを海の彼方からやってきた稲作農耕の神様だと思いたいのですが…。もっとも丹後国風土記は逸文の中で
  『少日子命、粟を蒔きたまいしに、秀実りて離離りき。即ち、粟に載りて、常世の国に弾かれ渡りましき。故、粟島という』
と明言していますから、イネに限定しなければ、農耕神としての性質は十分にあります。この一方でスクナヒコナは医薬の始祖としての性格も持ち合わせているのですが、関東地方の人には馴染みの深い神田明神もニの宮としてスクナヒコナを御祭りしています。そして神田明神の一の宮は、お祭りしているか?分かりますか、そう、オオナムチ・オオクニヌシなのです。皆さんは、きっと将門様の神社だと受け止められているでしょうが…。尤も、江戸城の鬼門を守っていることに変わりはありません。

さて、話を戻し、この託宣(お告げ、予言も含む)をした神様こそ三輪の神、大物主大神(オオモノヌシ)なのですが、これが、日本書紀になると記述が微妙に異なってきます。お話の趣旨はほとんど同じなのですが、書紀によればオオクニヌシではなく、オオナムチ(記紀の編集者たちはオオクニヌシの別名だと説明している)が国づくりの主役とされており、海を照らしてやってきた神様は、

    オオナムチ自身の幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)

であり、その神様の方から『日本国(やまと)の三諸山に住みたい』と申し出た、ことになっています。これはオオナムチが、すなわち大物主であると言っているわけで、先にイズモのページで見てきたオオクニヌシをオオナムチと同一視させたやり口と全く同じ論理です。恐らく、倭(やまと)の三輪地方にも古くから住民の信仰対象になっていた神様が居たはずで、記紀の編集人たちがイズモと出雲地方の二つをイメージの上で重ね合わせ、カミサマたちの擬似的な血縁関係を系譜上で意図的に作り上げたように、ここでも『後からやってきたカミサマ』の辻褄あわせが行われたのでしょう。ただ、神話の原型とも言える「海からやって来る神様」の部分は核心として残されたわけで、彼方からやってくるモノ、そして、それが土地(イコール住民たち)に有益なものをもたらす、という言い伝えには根強いものがあったのだと考えられます。管理人としては、その一番有益だったものが「イネ」の伝来だと考えています。

  スクナヒコナが大昔にイネを日本に伝えたのか

今、考古学や比較言語学、あるいは遺伝子工学などの学問世界ではどのような解釈が成されているのかは知りませんが、もともと狩猟・採集生活を基盤としていたはずの原日本に稲作という『文化』がもたらされたことは、日本史を考える上で大変重要な出来事、事件であったと筆者は考えています。一つの土地に定住する新しい暮らし方が可能になったことで、人々は計り知れない恩恵を得たに違いないのです。今でこそ日本というクニは農耕的な基盤のもとに発展した社会だと考えられてはいますが、原日本というクニに初めから稲作文化が存在していた訳ではないのですから、はるばると海を越えてイネ(栽培食物文化の象徴)を伝えた人々が、豊穣を齎すカミサマとして祭られたのは至極当然のことに思えるのですが、皆さんはどのようにお考えですか?

では、話を神話に戻しましょう。三輪地方の神様が何故「古い」のか、それがどうして分かるのか?それは大神神社には神様が鎮座するべき本殿がなく、拝殿の奥にある三輪山そのものがご神体になっている、つまり『神社形式以前の祭り』方がなされていることが証となっているのです。日本には八百万(やおよろず)の神々がいる、と言われていますが、原始信仰の段階では、当然、社などの構造物はなく、例えば、そして木、岩などがお祭りの中心であったはずなのです。その意味で、三輪山そのものをご神体として残したままで今日まで来ている大神神社の神様の起源が、かなり古いものであると推察される訳なのです。また、出雲のカミサマが「出雲大社」という建物の中に祭られたような形にはならず、古代の形式をそのまま残した事実は、この地方のカミサマが、出雲以上に実力のあるカミサマだったことも暗示しています。いままで見てきた古代史の流れの中で考えれば、

    オオナムチオオクニヌシであり、かつオオモノヌシである

という図式的で強引な位置付けが記紀の編集者たちによって示され、そのことが当時の権力構造の実質的な裏づけになっていた、言葉を代えて平たく言えば『われわれが一番偉い神様の直系なのだ』というお墨付きになっていた訳なのですが、地域にはそれぞれ固有のカミサマが存在し、そのカミサマたちの実力(地域の人々との結びつきの強さ、信仰の固さ、加えて軍事力・経済力)によって、それぞれ微妙に異なった形で中央の神体系に組み込まれていった事情があるのでしょう。また、もっと言えば、当時の政権との位置関係(婚姻なども含む)も、記紀神話の記述の仕方、ひいては神々とのつながりの濃淡となって記述に影響を与えたのではないでしょうか。いま大神神社の祭神をオオモノヌシと書いてきましたが、正式には「やまとのオオモノヌシくしみかたまのみこと」と言い、この神様がもともと『』(やまと)固有の神様であったことを神名に国名を冠することによって伝えています。(因みに、出雲大社の祭神を『やまとのオオクニヌシ』とは言いませんし、出雲風土記にオオクニヌシという名の神様は登場していません)

ここまで書いてきて思うことは、人の歴史を振り返ってみると、極々大雑把に、

    石の時代、土と木の時代、銅の時代、鉄の時代

に区分されるのではないでしょうか?勿論、これらの大きな区分ではくくりきれないモノも沢山あるでしょうが、石器から土器へ、そして青銅器・鉄器へと変遷する道具(の素材)の流れが、その都度ヒトの生活・文化を激変させたことは確かな事です。そこで思い出すのは出雲・オオクニヌシのページでも少し触れた荒神谷遺跡の存在です。この遺跡は、もう十数年以上も前に発掘されたものなのですが、青銅器(銅剣や銅鐸など)が一箇所に整然と、極めて多数埋蔵されていた点に、大きな特色のある遺跡なのです。丁寧に埋められていた銅剣は、実に300本を越える数に達しました。誤解を恐れずに言うと、これらの青銅器を埋めたヒトは、やはり鉄器文化を持ち込んだ新しい権力に従わざるを得なかった、より古いタイプの支配層の人々でなかったのか?クニ譲り神話とは、異なる文化、もっと言えば新しい文化を広めた集団による歴史的な事実−征服−を反映した『神々の話』ではなかったのか。元来、夫々一つであるはずの、独りであるはずのカミサマの名前が、幾つも重複して語られるのは、カミサマそのものが時代ごとに入れ替わった証拠ではないのか、と考えてしまうのですが、深読みしすぎですかね。(銅器に関しては、崇神帝の陵墓と比定されている古墳の近くに黒塚古墳が存在します。纏向遺跡ほどには有名ではありませんが、ここから菁銅鏡が多数まとまって出土して考古学者の注目を集めました。下の画像参照)

荒神谷遺跡       

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また、出雲に関連して神話の流れを振り返ると、スサノオが退治したヤマタノオロチの尻尾から『剣(草薙の太刀)』が現れたという記述は、ごく素直に考えれば「ヤマタノオロチという名前で一くくりにされた実力集団」をスサノオが服従させた−武器を取り上げた−ということになるでしょう。話は少し横道に入りますが、三輪と出雲の双方には、つながりが無い訳ではありません。電話帳か郵便番号簿をめくってみれば直ぐに分かることですが、オオモノヌシを祭る三輪山の近くには「出雲」という地名が今も残っており、スサノオ神社も存在しています。記紀の系図から言えば、出雲国造が、もともとアマテラス直系の天穂日命(アメノホノヒノミコト)の子孫であるのに対して、三輪氏の方がオオモノヌシ(オオクニヌシ)からスサノオにつながる家系であることになっている事も合わせて推理すると、オロチ神話も、もともと三輪地方−広く考えて大和地方−にあったお話しではなかったのか、だから三輪山のご神体もヘビなのではないのか、そんな思いが湧き上がります。

 オオモノヌシはタタリ神、崇神帝を大いに悩ませた

もう一つ大切な点は、オオクニヌシが神話の世界だけにとどまっている静かなカミサマであるのに対し、オオモノヌシは大いにタタルことによって存在感を誇示する活発なカミサマである、という面です。第10代崇神天皇の時代のこと、疫病が大流行し、人民は大変な苦難におちいるのですが、その時、天皇の夢枕に立ったのがオオモノヌシであり、カミサマは『この病の流行は私のタタリによるものである。オオタタネコ(三輪氏の始祖)に自分を祭らせたら、この疫病も治まり、世の中は平穏になるだろう』と告げたのです。そこで、天皇は彼を河内の国で探し出し、三輪の神を祭らせた、というお話しなのですが、勿論、これが三輪氏のルーツを裏付ける自慢話であることも確かなのですが、神話時代から人の時代まで長期間にわたって影響力を維持しつづけるオオモノヌシの存在が浮かび上がります。そして、この神話が書かれた時代に三輪氏の持っていた経済力・軍事力の大きさが推察されるのです。(大神神社のすぐ隣にオオタタネコを祀る若宮社があります)

大神神社  若宮社   崇神天皇陵

そして、更にもう一つ、オオモノヌシは神話時代から人の時代への変わり目にも登場してきます。初代神武天皇が、お后にするべき女性を探していた時のこと、側近であったオオクメノミコトが耳寄りな情報をもたらします。それは『オオモノヌシと三島勢夜陀多良比売(ミシマセヤタタラヒメ)との間に生れた比売多々良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)という素性の正しい娘がおりますが、如何でしょうか』といった具体的な人名・神明を告げた内容だったのです。二人が結婚したことは言うまでもありません。神武に、最も関り合いの深い二人の女性の名前を、もう一度ゆっくりと見つめてください。わざわざゴチックにした部分が、その女性(の所属していた集団)の素性を明らかにしているはずです。そう「たたら」とは、製鉄に欠くことのできない、あの「たたら」のことです。神武は、全国を統一するためにも高い製鉄の技術を持った人(集団・一族)を是非とも味方につける必要があったのでしょう。

 初代天皇ハツクニシラスは、何故二人いるのか PR

もう、皆さんお気づきになっているでしょうが、今、お話した二人の天皇は、それぞれ「始馭天下之天皇」「御肇国天皇」という漢風の表記がなされ、その称号はいずれも『はつくにしらすすめらみこと』なのです。二人の天皇が、一体どの時代に存在していたのか、その年代は、実在していたのか、といった詮索も必要なのかも知れませんが、ともかく、記紀の編集者たちにとって、この二人の天皇が実質的な国の創始者と考えられていた訳で、初代天皇の称号に『かむやまと』『いわれひこ』の言葉が付けられている点に注目すれば、原日本国となる少し前の地域国家として成立した時の初代が神武であり、地域国家が全国レベルに発展した時期の統一初代が崇神であったのではないか、という解釈が出来るのかもしれません。ただ、管理人としては、第10代とされる崇神の名前はもとより(山冠を出冠に替えるだけで、タタルかみ=オオモノヌシですよね)、かれの和風の諡号が「みまきいりひこいにえのすめらみこと」と表記され、明らかに、それまでの各天皇とは異なる呼ばれ方をしていることが気になっているのですが、これ以上お話しを進めて行くだけの資料を持ち合わせていないので、最後に三輪山伝説の触りを紹介して、このページを閉じることにします。

    むかしむかし、活玉依毘売(いくたまよりひめ)という美しい女性がおり、彼女のもとに毎夜訪れる男性がありました。
    自然のなりゆきで姫は身ごもり、そのことに気づいた両親が子供の父親は一体誰なのかと訪ねますが、
    通ってくる男性が、何処の誰なのか姫にも分かりませんでした。そこで姫は親の教えに従い、ある日、
    帰ろうとする男の衣の裾に糸の先を刺し通しておきました。そして、朝になり糸を辿ってゆくと
    三輪山の神の社まで続いていたのです。姫の部屋には、残りの糸が三勾(みわ)しか残っていませんでした。

おまけ−出雲国造と藤原氏    先の出雲国造・千家尊統氏 

見出しを読んでも、一体なんのことなのか、想像がつかないと思います。勿論、どちらも古い家系であることは皆さんもご存知のことでしょう。では、国譲り神話の舞台で、古事記の作られた8世紀初頭、政治的な権力を手に入れていた藤原氏(当時は中臣氏)の祖先が一体、どんな活躍をしたカミサマだとされていたのか、ご存知ですか?ヒントになるような文章は、余り書いていないので分からなくても仕様が無いですね。

藤原氏が、自分たちの祖先としているカミサマは、イズモの国譲り神話の場面で、あの竜神さまをお迎えする聖なる場所だとされいる伊那佐の浜で、剣を突き立てて強引な談判を行った武甕槌神タケミカズチ)そのものなのです。では、再三名前の出てきているオオクニヌシを祭る出雲国造とは、どんなカミサマの子孫なのか?どの系統のカミサマなのか、わかりますか。国を譲ったのだからオオクニヌシつまりスサノオ系だと思いますか、違いますよね。国譲りは無かったし「オオクニヌシ」も居なかったのですから、国造家の祖先がスサノオにつながる訳がありません。

その通りです。古事記にも、出雲国造系譜にも、その祖先が天穂日命アメノホノヒノミコト)であることが明記されています。そして、このカミサマは国譲りを求めたアマテラス直系の神様であり、実際にアマテラスから葦原中国に行くことを求められた邇々芸命(ニニギノミコト)の叔父に当たる人物なのです。何か、よく解らなくなってきましたね。そんな混乱を古事記の編集者たちは意図していたのでしょうか。皆さんも古代史のパズルに挑んでみては!おまけついでに、もう一つ、実力者藤原氏の祭神タケミカズチは、鹿島神宮のカミサマとしても有名です。

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