田舎中学三文オペラ                                                                 「サイトの歩き方」も参照してください

創作のページにようこそ。ここは管理人が書いた「読み物」のページです。だから、中原中也の作品とは全く何の関連もありません。 
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この物語はフィクションであり、実在しているかも知れない人、団体と思われる表現があったとしても、それらとは一切関係はありません。また、この物語に出て来る場所も、あくまで架空のもので、実際に日本や外国の何処かにある町ではありません。
また、この物語の主人公も、一応、実在する人物の姿を借りていますが、その人自身ではありません。最後に、この物語が進行している時間は、昭和30年代から昭和64年ぐらいまでの時代に設定してあります。今、このページを書いているのは平成13年ですから、そう、大体20年から40年以上前の時空間が舞台になっている訳です。ときたま、時間設定に混乱が生じたり、その当時あるはずのない物や事柄などが出てくるかも知れませんが、それは作者が未熟なためなので、大目に見てやってください。
(平成13年 夏)


プロローグある日の夕暮

  井桁模様の、煤煙と紫煙に四半世紀程の間晒され続け、薄汚れ退色し、半透明に濁った小さな硝子格子から、少し色落ちした陽の光が潜り込み、校正室の薄壁にピンで止められた一枚物のカレンダーに当ったきり、跳ね返る力を失い、うずくまっている。
 ゲラ刷りの棒原稿が十数枚、無数の小さな凹みと傷跡、伝言、メモ、落書きで埋めつくされた造り付けの干乾びた平机の上で、ボール箱の中に入れられ、窮屈な姿勢で丸くなり転がっている。桃色がかった荒れ膚の藁半紙の群は、縦横に斜めに、自在に活字を纏い、ローラーで塗り込められたインクの匂いと一緒に、降版前の緊張と熱気で溢れる植字部屋の人熱れも運んできたらしく、机に広げられ目の当たりにした一瞬、生々しくぬめった活字の密かな息使いが聞こえる。 先先週分か、あるいは先月分増刊特集だったか、ともかく、これまで紙面の中であきれるほど繰り返し使い古され、数知れない人の手垢にまみれ、こすられ、薄っぺらになったよそよそしい月並みな、血の通わない、誰も本気で読もうとはしない、投げやりで紋切り型の戯言が十三字ずつ、見た目綺麗に、行儀よく並んでいる。いつも通り、提灯記事の中身は出来るだけ読まない様心がけ、必ず何行かに一つ二つある誤植そして脱字、重複だけを捜して斜めに上下に、なるべく眼だけを文字の海で器用に泳がせる。

 金儲け、食うため生きるための仕事だと割り切ったつもりで居ながら、いつも知らぬ間に身体の何処かからじわじわ沁み出し、気が付くと頭の天辺から足の爪先まで、臓器筋骨の全てを、すっぽりとひんやり包み込んでしまう無力感にさいなまれ、時たま、帰路の途中、車窓から西の空を焦がして燃えている夕焼けを眼にしただけで、突然、訳もなく胸がざわざわと息苦しくなる程騒ぎ始め、自分が本当は今、何処に居たら良いと願っているのかを、無性に確かめてみたくなる衝動に襲われ、その場に立ちすくみ、半ば放心し、垂れ下がった右手の指は、有りもしない、行き先の駅名が印刷漏れになった、有効期限切れの片道切符を握りしめたつもりになっている。

 やりもしない、実現する当てのない居場所捜しへの苛立ちは、みぞおち辺りの内側で捉え所の無いしこりの種籾となって芽生え、日常のあやふやさと、何かにつけ理由を捜しだし、動こうとしない自らへの際限ない不信感を又と無い負の養分として歓迎し、せっせと日々取り込み、空しさの朽ち木林と蔦蔓の群を、ときめきを忘れて久しい胸郭全体にはびこらせ、如何にも人当りの良い表情を浮かべる事もできる人形をした皮膚の裏側には隙間なく、びっしりと不毛の茨が絡み着く。不断の喪失感と焦りから解き放され、望ましい、本来在るべきはずの姿形を取り戻し、意味の無い堂々巡りの袋小路から逃れ出て、心肺を埋め尽くす虚無の泥を一切合切吐き出し、再び、素足で人工舗装される前の、素の土塊の温もりを感じ取り、目的を持った方向に踏み出したい思いは事有るごとにつのり、独りよがりの脅迫観念にまで肥大した。   

  名も無い新興の大学に敢えて浪人してまで入ったのも、働くことを免れる方便の一つであったし、高校時代からの文学志向も、とどのつまり現実逃避の隠れ蓑に過ぎなかったかも知れない。就職難を口実に、卒業後の身の振り方を、一向に真剣に考えない振りをしている様子を見兼ねた先輩の引きで今の職場に転がり込んだのも、体のいい逃げ場捜しの揚げ句であったと言える。

 考えてみれば、この二十余年、いつも後ろめたさの陰法師を引きずりながら、その時その時の状況次第で、自分にとって都合の良い言い訳を思いつき、安易に、クラゲの様に、時間の波間をのらりくらりと流され続けてきただけではなかったのか。そして己は、今まで一体何から逃げ出し、何処に行こうとしていたのか。 ボールペンの赤い文字と記号が、半ば反射的に余白に次々と書き込まれる。 版に組まれて、ようやく新聞記事らしく見えてきた試し刷りを片手に、部屋に戻り、最終の校正にかかる。

  見出し、写真の向き、写真説明、囲み記事の署名、人物名、肩書き、日付など、最低限の範囲で文字と生原稿をつきあわせてみる。見間違えようのないはずの、幾つかに、まだ誤殖が残っている。煙草の火が落ちた焦げ跡の凹みを避けて書き込む文字がかすむ。眼鏡を掛ければ近くが見にくいし、掛けなければ遠くが見辛くなった。

 頭の上で両端が黒ずみ、時折、光の量を間違える螢光灯が鈍い音をふるわせ、揺れる。燻ぶるアルミニウムの、座りの良くない灰皿に最後の吸い殻を押しつけ、工務室の前に据え付けてある原稿用の箱に校了原稿を入れ、開いたままの扉の向こうに座って居る年配の工務主任の顔に会釈して、きしむ木の階段を昇り降りしながら、工場に隣接する本館に渡る。駅までは、そう遠くない。

 ビル通用口の重いガラス扉を押し開け、街路まで出た時、正面にそびえるビル群の彼方には、見覚えのある、大きな灰色のマントを着た静脈血色の太陽が沈みきれずにゆらゆら揺らめき、懐かしい金木犀の甘い香りが街の喧躁に溶け込んでいた。

 大正半ば、職業軍人だった祖父の、六人の子供の長男として生まれた父親は、希望する高等教育の場に一度は足を踏み入れたが、在学中に武家の商法を地で行く祖父が家業を潰し、仕送りを断たれ中退、外資系の会社勤めを経験した後、応召、中国大陸に送られた。歩兵部隊の一員として戦闘中に負傷、後方に送られ、そのお陰で靖国神社に英霊として祭られることもなく、復員後、安定した職場を求め公務員として再出発した。

 山陰地方の典型的な自作農の四女として生まれた母親は、昭和初期に農家の子女が受ける、極当り前の初等教育を終えた後、頻りに希んで看護婦になるための学校に進み、助産婦の免許も取得、知り合いの僅かな伝を頼りに当時の大都会、神戸に働き口を求め代用職員の身分を得た。空襲があるたび、居候していた知人の家から飛び出し、その昔、源九郎義経が一族郎党と騎馬で駆け下った、鵯越の坂道近くに掘ってある防空壕を目指し、飯盒抱えて逃げ回ったらしい。

 両親の仲を誰が、いつ、どのように取り持ったのか、その間の事情については誰からも詳しい話を聞かされた記憶は無いが、先妻との間に生まれた四つになる長男を連れ、父が母と再婚したのは、敗戦後間も無くのことで新居は元町にある小さな屋根裏部屋だった。 戸籍上、二人目の長男として八月末に生まれた赤ん坊は、誕生日を迎えても全く歩くことが出来なかった。お座りをさせても、すぐゴロリごろりと寝転んでしまう様子を怪しんだ両親は、どこがどう悪いのか見当もつかず医師の元を幾度となく訪れ、長い時間待たされた後、小児麻痺の病名を告げられた。

 母は勿論、聖人君子と云うには程遠い普通の人間であり、幾つもの短所を持ってはいるが、特に義理の息子に悪意を抱いていたとは思わない。何処にでもある平凡な農家に生まれ、やや行き遅れはしたものの、標準的な男の許に祝福されて嫁ぎ、月満ちて母親になった満足感にひたる間も無く、我が子が障害者になるかも知れないと宣告された女性なら、誰しもするように、母親は自分が産んだ子供の看病を生活の最優先事項とした。連れ子の世話は、当然後回しにされた。

 身体の麻痺は左上半身に及び、大学病院の医師は治癒の可能性について明言を避けたらしいが、他に頼る所など無く、母親は元気のない赤ん坊を抱き、継子の手を引き、自宅から数キロ離れた病院に日参し、医師から勧められるあらゆる治療を赤ん坊に施した。そして母親は、治癒までの経過について成長した息子に話すことはなかった。 赤ん坊の病気は誰のせいでもなかったが、母にとって理不尽な仕打ちに違いなく、何の落ち度も無い、無垢な我が子は、疑いようもなく完全な被害者であり、保護されてしかるべき存在だった。

 いつ満足に歩けるようになったのか、言葉は人並に話せていたのか、何も覚えがない。自宅近くの坂道で兄と三輪車に乗り、遊んでいる内弾みがつき、坂道を独りで転がるように突き進み、祇園神社裏参道の脇に置かれていた車避けの大岩に激突、頭を数針縫うことになったのが何才の出来事だったのか、それも曖昧だ。兄にまつわる記憶は限られているが、この事件が母親に与えた衝撃は想像するに余りある。何故なら、この後、六才違いとはいえ兄弟で、何かを一緒にした、一緒に楽しく遊んだ思い出らしいものが完全に欠落しているからだ。(下右の画像が大石です)

 仕事場と家との往復が日課の全てとも言える父親の、唯一といっても良い趣味が庭いじりで、家を取り巻く三方の庭には、花と木が植えられ、時分には菊、バラの香りが家を包み、柿、イチジク、イチゴが実を結んだ。

 山が一番の遊び場  祇園神社   坂の大石  PR

 樹木に囲まれた、川沿いの静かな町と言えば、いかにものどかな住宅街を思い浮かべるが、有体に言えば、家のぐるりは全て山また山の峡谷で、谷間を流れる大して広くもない川の両岸にへばり付くように、幾つかの家の塊が点々と散らばっていた。小学校のある、町の平坦部からは凡そ二キロの道程で、交通手段は小学校四年生の頃になって、公営バスが開通するまで、自前の両足だけが頼りであった。朝夕四キロの通学は、小学生にとって決して楽なものではなかったはずだが、辛い思いをした記憶は余り残っていない。

  近くに掛けられていた鉄製の橋脚は、とうの昔に塗料は剥げ落ち、盛り上がった錆に包まれ、無理やり引きずられるのを嫌がり後退りする犬の足の様に、不自然な歪みをそこここに残していたが、いつも見える、渇いた川床からは、かつて猛威を振るったらしい有名な台風の実力を想像することは難しかった。今、思い返してみれば、住んでいた地域の名称が、何故『天王』だったのか、判然としない。それはともかく、家の前では、せいぜい数メートル足らずの川幅しかない天王川は下流に向けて大きく左右に蛇行し、数百メートルも下れば、子供たちが自由に遊べる位の川原を湾曲部に残してくれていた。

ケ・セラ・セラ事件  

 『三歳の記憶』という作品の中で、詩人の中原中也は《隣の家が空に舞い上がった》と明確に歌っているが、凡人にとって幼年期の出来事の殆どすべては、家人などから後になって聞かされた話の内容が、不確かな記憶とそうであって欲しいと願う思い込み等が複雑に入り混じり、一体どこまでが本物の体験に基づく純粋なものなのか、実際には極めて怪し気なものばかりである。その例に漏れず、幼稚園での左腕脱臼事件、シャボン玉事件、ジャングルジム事件などは、人伝に聞いた話の焼き直しに過ぎず、自信を持って、正真正銘の記憶だと言える、最も古い日付は小学校の四年生にまで繰り上がる。 ラジオを唯一の情報源として成長した者なら、音の遺産をかなりな質量で受け継いでいてもおかしく無いはずなのだが、余りにも不名誉な出来事に直接結び付いた歌の存在が大きすぎたことが、他の残像を掻き消してしまう結果となったのかも知れない。

 夏休み前、授業開始の鐘が鳴ったのだが、級友数人と教壇近くに固まり、覚え立ての歌の一節を繰り返し調子に乗って歌っていた時入口に背を向けていたため、先生の入室に気付かず、他の児童が何故かさっと席に着いた後まで、うろ覚えの外国語混じりの歌詞をがなり立てていた。    

 いつも奇麗にパーマをかけ、身だしなみにもうるさかった、決して美人とは言い難い少し婚期を逸した担任は、怒りで顔を染め、出席簿で逃げ遅れた間抜けな児童の頭に一発気合を入れてから『反省出来るまで、廊下に立ってなさい』と、ふるえ声で宣った。

 「えらい、鈍くさい話やな。でも、なんでそんなに怒られたんや。ちょっと、ほたえとっただけやろ」

 「その頃、なんでか知らんけど、よう流行ってたんや。知らんか、ケ・セラセラゆー歌の文句」

 「知ってる。知ってる」

 「なぁ、知ってるやろ」

 「それの、どこがあかんかったんや」

 「歌の文句自体は別にかまへんのやけど、多分、一部を替えて歌うてたと思うんや。そこんところが、まぁ、先生の逆鱗に触れたんやないかと」

 先生が未婚であることは知っていたし、悪戯っ気旺盛な年頃でもあった。替歌の歌詞は失念したが、恐らく『成るように成る』の辺りを全く反対の言葉に置き換えて歌ったのではないか。無論、先生の名字は世良である。戯れ歌の中に個人攻撃、侮蔑を感じ取られた先生が、やや過剰反応を示されたのだが、反省を求められた方も級友たちの手前、すぐに白旗を掲げる訳にも行かず、結局、給食の時間を挟み三時間ほど経ってから、お許しを頂き着席することが出来た。後にも先にも廊下に佇立したのは、この時限りであった。食べ損ねた給食のパンの後始末に困り、思案したのを覚えている。家路の途中で食べ物を何処かに捨てる、などと云う事自体思いつかなかった。  

  唐突だが、小学校時代住んでいた家の川向かいの山際の小さな空き地に、年の瀬も近いある日、何本かの柱が建ち始め、一応家の骨組が出来、屋根瓦をふき、壁に荒塗りが終わった頃、慌ただしい、簡素な引っ越しがあり、大人数の一家が、早くも住み始めた。高学年にはなっていたので、昭和三十年代半ばだと思うのだが、その家は、ついにその後何年も荒壁、天井板無し、窓ガラス無しのままであった。確かに貧しい時代には違いなかったが、周囲の関心を集めるには十分の、出来事の一つではあった。     

  「要するに家の枠組だけをざっと造っただけで、人が住み出したんや。最初、近づかんようにしてたけど、同じ年の子もおったし、その子の兄弟も何人かおったから、すぐ、遊ぶようになった」

  「しかし、そんなとこで、よう暮らせたなぁ、雨も降るやろに」

  「おとなしい感じの夫婦に、品のええお婆さん、それに子供が、確か六人か七人おったと思う。みんな、ええ子やった」

  「何人おったんかも分からんのかいな」

  「いや、一番上の男の子は、来た時もう働いてたように思うし、一番上の女の子と、もう一人親戚やいう女の人もおったし、小さい女の子が一人やったんか、二人やったんか、正確には覚えてないんや」

  その家の父親は、どこからか自動三輪車を手に入れ、どこかへ働きに行く様子で、何度か登校時、麓の平坦部まで、荷台に乗せてもらったことがあった。車は自動車と言うより農耕用のトラクターに近い代物で、荷台の板も年期を感じさせる、道板のように一部は朽ち果て、地面が見える個所も幾つかあった。便乗登校は両親の反対ですぐに止めさせられたが、子供達は、やさしい彼に『バタコのおっちゃん』を愛称として奉った。大人達の噂では、田舎で地主だったが、博打か何かで身代を潰し、家田畑も失ってしまった、と言うことらしかったので、三輪車は農耕用として使っていた物であったかも知れない

  『地主』は、もう一人居た。南隣の主人である。母親たちの井戸端会議を立ち聞きした程度なので、どこまでが事実であったのか、知る由もない。ただ、戦後史の中で農地解放は占領軍にとって、又、小作農にとって画期的な施策に相違なく、戦後の民主々義の象徴とされている。彼は、解放の、戦後民主主義の犠牲者であるらしかった。    

  「こっちの人は恐かった。なんせ、自分の家族、奥さんと二人の子供やけど、とにかく怒鳴ってばっかりおるんや」

  「何が気にいらんのや」

  「まぁ、世の中、全部が気に入らん。何もかも、間違ってる、と」

  その人物は、先、家族と同じ屋根の下では寝起きしなかった。川縁の狭い土地に、這いつくばる形で家は建っているのだが、彼は、そこには棲まず、自分で造った掘っ立て小屋に独り暮らしていた。小屋はトタン葺きの粗末な物で、壁の一部は河原にある石を積んで間に合わせ、入口にはムシロが掛けてあったように思う。ただ必要上、窓と煙突は有り、東向きの窓はかなり大きなものだった。

 彼は日々、国を、故郷をそして知人・親族を、世の中を、家族を、すべて罵り、正しさが何処にあるかを、独り訴える。『私は、国のため、家族のため戦地に赴き、戦い、そして破れ、帰国した』『その私に、国は何をもって報いたか。私は報われなかった。何ら報われることがなかった』『それは、置いておこう。他の国民全ても報われなかったのだから』『国のため、家族のため、故郷のため、皆のために戦い、戻ってきた私に、国は一体何をしてくれたのか、何もしてはくれなかった。それどころか、国は土地を取り上げ、家を取り上げ、私を辱めた。これが、戦って戦って、国を、国民を守ろうとした者に対する仕打ちなのか』『この壮大な愚行に、まやかしに、偽善に、大嘘に、何故、誰も気付かないのか。皆、白痴になったのか』『この国に正義は存在しないのか』彼は、すべてを、思いつくまま朝から、昼から罵倒し続けた。

  家族は、朝夕、食事を小屋まで運び、その都度、父親は家族の独り独りを面罵し、彼の正義を理解出来ない無能な家族のすべてを叱咤し続けた。何かの理由で彼の内部の圧力が減少し憤激が収まった時、もの寂しい尺八の音が、ゆるゆると川面を伝い流れた。暑い日は勿論、寒風吹きすさぶ日も、彼は家族に水を運ばせ、小屋の前で悠然として身体を清め、しばし瞑想した。

  「大人の話聞いた範囲では、やっぱり彼もどっかの地主の跡取り息子で、戦争から身ひとつで返ってきたら、農地解放で田畑を取られてしもうた。そんで仕事も何もかもする気にならんようになったらしい。まあ取られた言うても、多分、昔みたいに親の財産を独りで相続出来へんようになったから、怒ってたんとちゃうかな。それらしい事聞いたようにも思うし」

  「昔風の考えを変えることが出来んかったんやろ。自分は長男やから、親のもんは全部一人占め出来ると思うてたのに、あかんようになって…」

  「同い年の男の子がおってな、いつも親の前で地面にきちんと正座して、言うこと聞いてた。とても真似出来ん思うたわ」

  子供は、いつも父親の顔を見据え、礼儀正しく、一言も聞き漏らすことのないよう、居ずまいを正していた。風の便りで、その男の子が大学まで優秀な成績を通したと聞き、何故かほっとする反面、複雑でいい様のない感情のしこりを覚えた。働かない夫に替わり日雇の仕事までして子供を育て続けていた母親は、悲しげな瞳の奥に諦め、恐れ、憐憫がない混ぜとなった鈍い光を宿し、絶望の淵の一歩手前でかろうじて踏み留まっているように見えた。

  通学路のとある森では山猿が民家近くを徘徊し、作物に被害を与え、子供たちの恐怖の的となるなど、牧歌的な一面を残す一方、交通事故による怪我人が近所の家に出たり、市営バスが開通するなど、生活環境の変化は着実に浸透していた。事件は、遊びの場でも突然、発生した。

 ドクロ事件  

  家の前を流れる川は、梅雨時の増水期を除けば、小さな子供でも石伝いに自由に向こう岸まで渡ることが出来るほどのもので、大きく流れが右に曲がる、貯水池手前の川岸一帯は、格好の遊び場所となっていた。三角ベースが流行っていた。川沿いを縫う道路を越えて山裾の茂みまで飛ばすと、文句無しのホームランである。『なにやってるねん、まだ、みつからへんのか』『‥この辺やと思うねんけど、ないなー』

  谷に沿い、捜索範囲を広げた外野手は、掴んだボールが余りに大きすぎることに訝りながら、茂みから取り出し、それが自分たちのボールなどではなく、全く別の物であることに気付くまでの一瞬見つめ、考え、その考えを自分の頭の中から放りだし、叫び、逃げた。

  「何やったんや」

  「ヒトの頭蓋骨、どくろを掴んでた」

  「ほんまかいな、テレビのドラマそっくりやな」

  人骨の発見という稀な体験に恵まれなかった博士は、猜疑と不満を顕に口を尖らせ鼻で笑いかけたが、沢の上流部から袋に詰められた残りの骨が捜しだされ、静かな山合いは大騒ぎとなった。事件は未だ続く。

  「家の回りはみんな山やったから、一つ一つ名前が着いてるわけやなかった。適当に何とか山と勝手にいうてた訳や。ところが、一つだけ名前のはっきりしてた山があった」

  「どうせ又、訳の分からん名前やろ」

  人よんで『首吊り山』。この有り難く無い名称を押しつけられた山には申し訳ないが、命名には歴とした理由が存在した。

  「全部見たわけやないけど、一度だけは、この目で見たから、間違いない」

  「…あんまり、聞きたないわ」

  春麗らかな日に誘われ、ハイキングとデートを兼ねて山道を上ってきたアベック(当時カップルなどとは言わなかった)は、件の山裾まで来たとき、木々の姿の壮麗さ、草木の放つ芳香、青く広がる空に、他の理由を加えた深淵な動機に従い、沢伝いの細道に踏み入り、予期せぬ邂逅を果たした。噂は噂を呼び二人が演じた大失態は、特大の尾ひれをつけられて、瞬時に、人口に膾炙した。

  噂の真相は薮の中であったが、山に生えた松の枝ぶりの良さが、志願者の間で何某かの評価を得ていたのは事実で、小学校時代の数年間に何件かの事件が同じ山の沢に発生したことで、山は、その名の正しさを証明した。更に驚くべきことに、人は、その沢の入口にまで家を建て、棲んだ。

  山は市有地であり、沢の入口に当る土地の所有権がどうなっていたのか、そもそも山と山の峡に出来た谷沢の部分が、一般に言う宅地に該当するものなのかどうかすら怪しいのだが、ともかく親子四人の家族は、一方の沢にあったひょろ長い地面を唯一の頼りに、沢を跨ぐ格好で半水上式、高床式住居を完成させ、暮らし始めた。電気水道の世話には、なっていなかった。

 一学期の期末試験が終わる頃、紫陽花が家の小さな庭を彩り、重々しい梅雨空も、入道雲と雷鳴に促され、渋々席を譲る気配を見せいてる。テストの成績も気にはなるのだが。

 「なんで、夏休みまで、祇園さんの祭りを待ってくれへんのか、いっつも不満やった。七月の中旬といえば、まだ梅雨が明けきらんやろ。せっかくのお祭りも、大抵雨模様の日が多かったし…」

  物の本によれば、京都・八坂の祇園会は七月十七日から二十四日までと定められているが、勿論、これは旧暦の話。今なら八月中旬から下旬にあたり、梅雨とは無縁の時期にあてはまる。猛烈な暑さの中で、悪疫退散の祈願を行ったのだろう。

パチンコ  射的(祇園さんに出ている露店です)

 祭りは、参道沿いの、露店の準備から始まる。平坦部にある交差点から、祇園さんの急な石段までの約三百メートルの道の両側と、境内、裏参道沿いに露店がひしめき合う。金魚掬い、ようよう釣り、パチンコ、甲虫、氷水、そして花火など食べ物屋を含めて十数種類の露店が、ずらりと並ぶ。店店は、道路沿いの民家の軒先にテントを張り、もともと商いをしている家は、そのまま商売していたように記憶している。

 子供のお目当ては、花火と当て物だった。

 「大入り袋みたいなもんかいな」

 「いや、小さな屋台に、景品がズラッと並んでてな、その、一つ一つに凧糸がつながってるわけや。十円か二十円出したら、束になってる糸を一回引ける仕組みや」

 「それで、スカばっかり当る訳やな」

 博士の言う通り、糸は、必ずといってよい程駄菓子の類しか釣り上げず、豪華に見える玩具などの景品は、誰も当てることは出来なかった。『おっちゃん、ほんまに、これ、当りもあるんやろな』口々に喚く子供達の目の前で、屋台の爺は眉一つ動かすこと無く、ただ黙って、束の中から無造作に一本の凧糸を引いてみせた。皆が一番欲しがっていた、ブリキの鉄砲セットが、宙に浮いた。爺は厳かに糸を元の束の中に戻し、次のカモ達を待てばよかった。     

 電球の明かりが、周囲に比べ格段に強力な一角には、甲虫・クワガタの発散する独特の夏の怪しい匂いが充満し、目の色を変えた男の子達が、金網越しにうごめく生き物の品定めに忙しい。祭りには町の子も沢山やってくる。その子達が甲虫類に会えるのは、まず露店しかない。

 境内にも夜店は出ていた。綿菓子などの食べ物屋が多く、今思うと、参道沿いの店店に比べ、どことなく暗く活気に欠けていた。子供に人気のパチンコも、何軒がある。大人達が何年か前に使い古した憾のある、年季もののパチンコ台が十台余り、一列に並び、中央あたりに、おばちゃんがタバコを吹かせながら玉を売っている。

 子皿に入ったパチンコ玉は、時間の重みと空気の鑢、バネの反発が容赦なく与える鋼の衝撃で歪み、崩れ、錆を産み、ちぢこまっているが、バネが弾けば、否応なく盤面を駆け回り、釘の林と格闘する。五発、十発、十五発、運が良ければ、後五発−−玉は、戻るべき、一番下の大きな口に吸い込まれる。

(続く)

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