田舎中学三文オペラ 第2幕                                サイトの歩き方」も参照してください

クワガタの寝込みを襲え

  何が何でもという、がむしゃらさに欠け、適当な所で安易に手を打とうとする粘り、根気の無さは少年期を通して、いつしか身に着いたもので、欲目で見ればあっさりした性分と言えるのかも知れない。自ら進んで努力とは全く無縁の世界に住もうとしていた訳では決してないが、何事に限らず、妙に将来の可能性を低く見限る癖がついたのは、やはり自分より能力のありそうな者達と競い合う場に余り長居したくない逃げの姿勢、自信の無さと、競い合ったところで到達する先も大したことはないと、早くから高をくくって見せることで、誇らしくない結果について言い逃れ得る余地を、予め残しておく、知能犯的な身の処し方にも遠因があるのだろう。  

 ひ弱で、家にこもり勝ちであったことも、なるべくなら他人と直接対峠する、緊張した関係を持ちたがらない性向を助長したに違いない。赤ん坊の、病気による肉体的な後遺症を最小限に留めることに成功した母親は、生まれつき、身に覚えのない不合理な負の条件を背負わされた我が子が、出来る限り他の子供たちと同じ土俵で闘う事の無いような環境づくりに没頭し、大小にかかわらず、障害となり得る恐れのあるものについては、全力をあげて排除した。母と子にとって、同じ年頃の子供たちと、同じように遊び、学び、何かしらを競うこと自体、無理難題と言えた。

  青く高い空の向こう側には何かがあるように思えて…

  山麓の草木は土塊と共に、一冬の間大切に貯め込んでいた未来への底力を、春の間も我慢強く慈しみ育て守り、夏の鋭さを秘めた陽の光が雲の軽戦車に跨り、駆けつける気配を感じると、さっそうと歓迎の香りを麓に放ちはじめ、存在を誇示する。陽の道が高さを増し、地の面をじりじり焙り始めると、小川の流れも、泥と草と生き物、そして子供達の体が発散する命が微妙に入り混じった、透明で不思議なカオスを漂わせる。川底の岩と石くれの間に、水草の葉陰に、日溜まりに、流れのそこここに、それぞれに住み分けた魚たちが跳ね踊る。丸網の目には捕らえきれない小物から、子供の掌に余る大物まで皆、川と陽と山から相応の命をもらっている。春も、夏もそして秋冬も季節は濃厚で、個性豊な香りが運んでくるものだった。子供は自然に招かれ母鳥の羽交いの生暖かさに強い未練を感じながらも、新たな経験、出会いへの期待から、おずおず外の世界へ顔を突き出す。

  獲物は何匹、数が同じなら大きさ、大きさもいい勝負であれば、捕るまでにかかった時間、生きの好さ、色の鮮やかさ等、みな腕自慢の材料。柿、栗、野イチゴ、木イチゴ、グミ、あけび、薇、蕨、つくし、どんぐり、いたどり、四季の贈り物には事欠かない。どの尾根の、どの沢に、いつ行けば、何が手に入るのか、秘宝の在処を知る者は少なければ少ない方が良い。

  『あんなぁ、まだ僕しか知らへん、ええとこがあるねんけど、今日、学校終わったら行ってみいへんか』 

 未知への期待は甘くて、少し恐くて、大きな夢をふくらませる。夏休みの山懐は、めくるめく宝庫に変身する

  「ただ何か採って、遊んでるだけで楽しいのに、自慢せな氣がすまん奴がおる。負ければくやしい勝ったら嬉しい。ただの遊びやないかと片付けられん処がややこしい」
 「それも採集・狩猟生活の名残やろか」

  「その要素もあるやろな。ただ、基本的に大昔の採集と狩猟は、人が生き延びるための全生活がかかったもので、ゲームしてるのんとは訳が違う。余程ゆとりが無かったら、甲乙つけるために競争してるだけの暇はない。やっぱり、遊びが生まれたのは時代がかなり下るやろな。それに大型の獣は、一人で捕まえるのは土台無理やから、何人かの気のおうた仲間うちでやったやろうし、ルールなんかも自然と身についたんとちがうか。狩りの本質は、その日に食うもんを、陽のあるうちに捕れるかどうかにかかってる訳やから、狩りを遊びながら楽しむだけの余裕は無いで。それと、食うのは腹が減ったからで、狩りそのものを楽しんだ結果、獲物にありついたんとちゃうからな」
 「生活のゆとりが競争を生むか−。なんや複雑な気分や。今の世間と大して変わらへんやないか」
 「ただ、そんな頃に、他の者より、ようさんの獲物を、いつも確実に取ってくる者がおったとしたら、彼は集団の中で特別な立場を得ることが出来たかもしれん。 体が頑丈で、動きが早くて、眼も耳も鼻も良う利く奴おるやろ、今でも。能力差は、どの時代にもあったと考えた方がええしな。 まぁ、あんまり偉そうにばっかりしとったら村八分になったかも知れんけど」  
 「素手と、道具有りとでも差はつくよ。ええ道具持ってる奴は、魚でもうまいこと捕るんや、いつも」
 「近海や湖で、貝や子魚なんかを採る分には関係ないやろけど、大型の魚や動物となると違ってくる。ただの棒きれに石の鏃を取り付けるアイデアを出した奴は、天才やね。釣り針や網を考えた奴にはノーベル賞やってもええわ。狩りというのは前もって何がどの位取れそうか期待は出来ても、収穫がいつも現実のもんに成るとは限らへんから、その日暮らしの生活をせなあかん。狩り、イコール食いもんや。毎日満腹してたら、他の楽しみ思いついたかも…」

  オオクワガタやすいぎゅう、甲虫を一番に目敏く見つけるのは、中間・期末試験の高点数とは常に縁のない連中と決まっていたが、一夏の英雄として、尊敬の眼差しを受けるだけの資格は十分にある。従って、隠れ家のありかは二重三重の厳重な選考に耐えた、一握りの仲良しだけの秘密となって、情報の希少価値は更に上昇する。当時すでに、昆虫だけを売る夜店が夏の一時期、神社の境内などに何軒も開いてはいたが、そんな店で虫を買う者には激しい蔑みの視線が待っていた。 朝露がのこる獣道に近い林道を分け入り、樹液が森の木の葉と土塊を調合して醸し出す怪しく好ましい香りに導かれて山に入り込むと、何やら、いかにも昆虫たちの棲み家にふさわしい雰囲気の樹木たちが大人しく待っている。

  『まだ、ねぼけてる間にやらなあかん』

  リーダー格が静かに宣告し、いきなり幹を蹴り付ける。不意をつかれたねぼけ眼の不運なクワガタが、引力の法則に従う。昆虫の力強い何本もの脚が指に絡み着き、赤銅色の体から発散していたものは、紛れもない自分たちの命の輝きだった。一匹の獲物は仲間に至福の時と感動をもたらす。  

 リレーは運動会の花形です。運動会にまつわる不思議なジンクスの存在

  運動会ほど競争の場にふさわしい催し物はない。秋十月、吹く風も春とは違い引き締まり、空は高く、雲の位置も高い。二学期が始まると、それぞれの種目別、学年別、クラス別などに練習が繰り返され、前日には総仕上げの予行演習が紅白にわかれて、本番さながらに行われる。

 「ジンクスがあってなー」
 「どんな」
 「予行演習で勝った方は、必ず本番では優勝できへんかった。少なくとも、三年から三年間は続いてた」
 「油断するんかな、やっぱり」

  低学年では、マスゲーム、ダンスあるいは大玉転がし、玉入れなど比較的競争色が少なく安全な種目でお茶を濁すことが多いが、五六年になると、勝ち負けそのものを真剣に競い合う。棒倒し、リレー、そして騎馬合戦、いずれも相手を打ち負かすという明確な目的があり、多少の危険を伴う。今では「安全」第一の学校が増え、民主々義的ではない「合戦」は止め、リレーも「平等」の精神から順位を付けずに行っているらしいが、子供たちと観客には人気の種目で、誰一人大きな怪我をすることもなく、競技は常に白熱した。

  「他に楽しみが少なかったこともあるやろけど、当時の運動会は学校行事と言うより、地域全体のお祭りに近いもんやったなあ。運動会と遠足の様子は、その頃の生活の匂いと一緒に思い出せるわ」
 「運動はからきし苦手やった、言うてたやないか。どうせ、肝心の種目には出してもらえへんかったんとちゃうか」

  幼稚園から小学校と、学齢に達した子供が進む道を、どうにか人並みに覚つかなく歩んではいたが、運動能力など皆無に近いと信じ込んでいた母親から、事前に念入りに注文を付けられていた教師が、初めから怪我を恐れて特別扱いしたこともあり、体操の類に興味も関心も無く、また、出来ないことに対する引け目も無かった。古いアルバムには幼稚園入口のジャングルジムの、下から一段目の鉄枠に足を掛け、今にも泣き出しそうな顔付きで、かろうじてしがみついている茶色い写真が貼りつけてある。 
 その落ちこぼれが、身体を動かして何かをすることに目覚めたのは、四年生になった頃で、異性の存在を意識し始めたことに、大きく関わっていたように思う。当時の遊びの中心は野球と『インサイ』だった。

 「いんさい?なんや、それは!聞いたことないな。町の名物か」
 「あそこの名物は百万ドルの夜景と、瓦せんべやろ」

  博覧強記の自称、百科大辞典男に、物を教える楽しみを味わう機会は、そう多くない。優越感を漂わせた表情の綻びが気に食わない博士が、眼で先を促す。

  「言葉そのものの意味を、その当時考えてた訳やないのやけど、今から思うと外国語のなまったもんやないかと…。
 遊びの仕方はテニスと良う似てる、いや、テニスと全く同じと言うてもええ。両方のサイドに別れて、ゴムのボールを相手のコートに素手で打ち込むわけや。テニスと違うのはネットの代わりに川がある」
 「皮を張る?」
 「皮やない川や。つまりコートの中央に適当な幅のデッドゾーンを作って、ボールがそこに入ったら負けになるんや。ネットの代わりに想像上の川が流れてる」
 「中中考えてるやないか、町の子は」
 「それと、普通ダブルス組んでするんやけど、この組み方もかわっててな、両方で四つの面があるやろ。その四つそれぞれに上下のランクがあるんや。天下町人と呼んでたけど勿論、『天』が一番強い。つまり、今の今まで隣で一緒にやってた子が、相手を負かすか負けると、いきなり敵に回るわけ。ダブルスとトーナメントの複合形になるんかなぁ。とにかく、すんなり勝負がつくようになってない。入れ替わって外に出るのは一番下の者が負けた時だけやから、うまい奴はいつまでもコートの中に残ってられる訳や。  
 三人二組の六人でやる場合は、又、違う。ミスした者が順々にコートから出て、最後に残った二人のうち、どっちか早く言うたほうが、自分のやりやすい向きと場所を決められる。相手の面は右斜めで、自分は真ん中の面を使うとかー。狭い校庭で効率よく遊ぶために複雑なルールが、ようさん作られてたな。もぉ、殆ど忘れてしもたけど」
 「いんさいの説明がまだやで」
 「今までは前置きや、つまり、大抵薬缶の水か靴底で校庭に引いたラインの中でゲームをするから『イン・サイド』、陣地の中という英語がなまったものやないかと思う。勿論線の外にボールが出たらあかんのやから、ボールは常にラインの中に打つわけやしね」
 「港町やし、昔から外国人も多く住んでた関係で、テニスは結構知られてたと思うわ。小学生に合うた内容の遊びに変えて教えた人がおったんやろうな。想像逞しくすると、外国の人やったかも知れんなー」
 「戦後になって始まったもんやったら、何年間も進駐軍が居ったから、その辺と違うかな。でも、アメリカ人が好きなスポーツやないし…、学校は、明治の末頃に建ったらしいから、イギリス、インドあたりの人の可能性もあるなあ。」

  学校の敷地は極端に狭く、綱引きも校庭の対角線を利用してやっと出来る在り様で、高学年のリレーなど、独楽ねずみよろしく回り続けることになる。家族ぐるみで子供の活躍を観戦したい人達のために考え出されたのが教室と廊下の有効利用。幸い、校舎は敷地にコの字型に建っていたので、全ての廊下と教室の窓が観客席に化けた。机の上に椅子を積めば、ちょうど窓から校庭を眺める高さになるわけで、観客は劇場にでも居るように子供達の走り、踊り、跳ねまわり、綱を引き、大玉を転がす様子を手に汗握って見つめ、喜び歓声をあげ、落胆し、溜め息を漏らす。中央に建つ校舎の正面玄関では、蛍雪の功で戦前もてはやされた人物の銅像が、本を読みながら元気な子供たちを見つめていた。

 子供たちは色々な遊びを創造します      国際都市にふさわしいゲームとは

 「イン・サイの言語学的な考察は、なかなかのもんや。国際都市にふさわしい、中身の濃い遊戯ですな」
 「もっと身近で国際的なやつもあったで」

  生れ育った土地が、他の都市などと比べて、どの程度、外国籍の住民が多いのか、統計的な数字はいつの日か博士に調べてもらうことにして、実感で言えば、かなり多かった。戦後第一次ベビーブームの申し子たちを受け入れるだけの教室を持たなかった学校は、本館講堂を間仕切りして仮教室に充て、それでも間に合わない時は、低学年に限り午前・午後の二部授業を行うなど、限られた予算の中で苦肉の策を次々考えだし、何とか学齢人口を学校内に収めることに成功していた。
 校区の広さが、今の水準より狭くないことは想像できるが、二百メートルほど離れた川向こうの土地に小学校が隣合わせていたのを始め、直線距離で一キロメートル強の範囲内に五つの小学校があったことを思えば、広すぎるという範囲でもなかったろう。学年でばらつきはあったが、一クラスの人数は五十名前後、その中に、明らかに外国人とわかる名字の児童が一人位、学年で数名はいたように記憶している。

 「チャン蹴り、言うんやけどもー」
 「‥、なんや、それは」
 「一口で言えば、足でする、おじゃみ」
 「よけ分からんな」
 「つまり、女の子が、昔よくやってた遊びで、小さな布袋に小豆をいれたりしたもん、知らんかなあ」
 「お手玉のことやな」
 「それそれ、それを足で蹴るんや」
 「あんなもん、蹴れるかぁ」
 「足言うても、爪先と違う、利き足の土踏まずの平らな所に当てるんや。もう片一方の脚でリズムとバランスをとりながら蹴って、ようさん蹴った方が勝ちや。右左 交互にするのが大蹴り、足を外側にむけてする高等技術は、確か裏蹴り言うてたな」
 「それの、どこが国際的やねん」
 「遊びの名前については、インサイといっしょで、当時考えていたわけやないけど、今から思うと、中国人を意味する蔑称が、そのまま使われたんとちゃうかな。も っともその当時に中国の子供がおんなじ遊びしてたかどうかは、よお分からんけど」

  遊びは、無論、男子に限り行われ、その中心が外国人子弟であったような記憶から出した結論だが、当時、女子の間でも、お手玉をする者など居るわけもなく、チャン蹴り自体一部の児童、それも高学年の特定のグループだけが遊んでいたこと、学校は禁止こそしなかったが、雰囲気として好ましくない遊びに分類されていたことは確か。学校の正門から四、五十メートル程離れた所には、文房具と菓子、玩具を一緒くたに売る、小店が繁盛していた。チャン蹴り用のお手玉は、外国のイメージに相応しい配色、模様を身につけ、数個ずつ白木の井桁に大切に入れられ、買手を待っていた。それだけ需要はあったことになる。小学校と店先から同じ校区の中学校までは、二百メートル足らずの道のりである。

 「感じとして、元々、外国籍の子供達の間で流行っていた遊びやないかとー」
 「うろ覚えやけど、やり方教えてくれたんが外国人の悪童の一人で、遊んでる子供の数も、今思うと多いことなかったし、自分らの学年だけがやってたのかも知れん。少なくともクラス中の男子が皆してたことは無かったから、多分、近くにあった中学校から伝染して来とったんかもしれんなー。『チャン蹴り』が、蔑称やとしたら小学生には考えつかんのと違うやろか。インサイも同じように中学生が作った遊びが、広がったんかも知れん」
 「弱虫の落ちこぼれが、なんで悪たれと仲良うなれたんや。いじめに会うてもおかしないのに…。それと、運動会の続き、まだ聞いてないで」
 「六年生に人気のあったのは、やっぱり騎馬戦とマラソンかな。騎馬戦は今、危険な遊びということで、自主規制する学校が多いらしいけど、当時はどこでもやってたと思う。やり方も勿論、今と一緒で、紅白に別れて運動帽を取り合いするだけのことや。出来るだけぴっちりした帽子を捜したり、帽子を水にひたしたり、工夫はしとったけど。馬に成るのは体格のええ奴、騎手は中くらいで手の早い奴、脚は、まあ、どっちでもない奴やったけど、一応、騎手やらしてもうとったんやでこれでも」
 「信用しとこかー」
 「マラソンにも、ひと工夫がしてあった。一人一人が個人で時間を競いあうのとは違うて、四人が一組になって、細い紐を持つ。スタートからゴールまで、必ず、その四人が一緒に走らんと失格になる。つまり、一人だけなんぼ脚の早い奴がおっても勝たれへんし、リーダーが走るペースを考えへんかったら、完走できるかどうかも分からん。ただし、全員参加と言われてたけど、長距離が苦手な子や、理由のある子は免除されてた」
 「それで、ゴール出来たんか」
 「嘘みたいな話やけど、一学期から体操の時間に、学校近くの川の土手で少しずつ距離を伸ばす練習やってたんやけど、本番では急に種目から外されてしもうた。そんで、マラソンだけは未経験のままになってる。交通事故が増え始めた頃やから、その辺が原因のひとつやなかったかと思う。なんせ学校の外の公道を一時間位は走ってたから。父兄よりも外部から反対があったんやろ、子供の安全のため、とか言うて」
 「ふーん、何や知らん、戦後とは思えん感じの学校やな。二宮金次郎の銅像をそのまま残してた話も他ではあんまり聞かん話やし、マラソンもチームワークと言えば聞こえはええけど、戦前の教練というか、連帯責任至上主義、江戸時代の五人組思い出すわ」
 「五六年の担任は音楽や美術、家庭の先生以外全部男やったし、年齢も多分三十台、四十台やったと思う。その先生たちは、皆戦前の旧制中学、師範学校で育ってきた人達なんやから、運動会の種目も、自分らが経験してきたもんをそのまま児童向けに手直しして自然にやってただけと違うかな。
 それに、父兄もほとんど旧世代の人間ばっかりやったしね。先生も親達も、戦争に負けて十何年で、すぐに変われるもんやないよ。第一、何か新しい物買おう思うてもお金がない。なんせ、校舎の壁を塗り替える金すらまならん」
 「なんで塗り替えなあかんのや。古いことは分かるけど」
 「又聞きの話やから、ホンマかどうか保証できへんけど。
 校舎はコの字型に三つあって、それぞれ木に因んだ名前がつけられてた」
 「大体想像つく。校舎の回りに違う種類の樹が植えられてたんやろ。それにしても、なかなかセンスええやないか」
 「その、真ん中の校舎が学校の本館で、これだけが木造と違う本格的な建物やったんやけど、戦争中、目立つと空襲の目標にされる危険性が高いという理由で、全部、真っ黒に塗りつぶしたらしい」
 「大都市なら考えられんこともない」
 「戦争は終わって、元に戻したいが金が無い。そのまま十何年たった。
 そやから学校は黒いもんやと思うてた」

  運動会当日の朝、あらかじめ振り宛られた作業を、体操担当の教師と男子生徒が中心になって進め、教室では担任等の見守るうちに高学年の生徒達が、即席スタンド作りに精を出す。特等席を確保するため家族の強い要望で、一時間余り早く到着した父兄の一部も、生徒に混じり裏方さんに早変わり。お決まりの挨拶は、皆、適当に聞き流し、午前の演技がようやく始められ、焔硝の刺激が鼻をくすぐり、予行演習の結果が脳裏をよぎる。

  『ジンクスはジンクスや、今年は違う』

  運動会はドラマ仕立てになっている。午前中に活躍するのは低学年の生徒たち。ほほえましい遊戯やマスゲーム、玉入れに、全員参加のリレー競争、棒引きなど。大太鼓の音が校舎に谺して、子供達の歓声も一際高くなっていく。遊びの延長、見ているだけの楽しみが、徐々に競技の目的が、勝ち負けの結果そのものに移っていくに従い緊迫感が増し、応援にも力が入り盛り上がる。前半戦が終わり心地好い興奮と疲労が校庭に漂い始める頃、中間得点の発表があり、お楽しみの昼食が待っている。

  「今どうかしらんけど、その頃は、お昼は子供と親兄弟、親戚、知り合いが一緒になって教室や校庭で食べたもんや。前の日の夕方から準備した手弁当やったけど、家で食べる食事とはひと味違っておいしかったなあ。贅沢なもんは、何もなかったけど。  人が心から喜んだり、真剣に大声で誰かを応援したり、自分が最も大切な者を、ただ必死で見つめたり心配したりすることは、実際に走ったり、飛んだり、踊ったり、喜んだりくやしがったりーーその人とおんなじ経験を一緒にしてることになるんやな、きっと。
 それに、人は楽しい思いや、心地好い体験をすると、なんかこう目には見えん、身体の内側から普段は出してない、ええ匂いみたいな空気みたいなもんを、知らん間に発散するんやないか。食事の時、教室や廊下には子供の汗と土の匂いが渦巻いていたけど、それとは別に、なんかこう、よう分からん、心が落ち着いて、満ち足りた雰囲気が皆を包んでたような気がする」
 「言いたいことは分かる気がする。物には代えられん、金だけでは手に入らんもんが、此の世にはある、あった、ということや。
 勝ち負けだけにこだわり過ぎるのはあかんけど、自分も一生懸命やって、勝ったり負けたりしてる内に、自分以外の者の存在と価値を認め、自分の力も分かってくる。走りが早いということは理屈抜きに早い訳で、それ見てるだけで気分ええもんな」

  一時間の休息で会場全体は新たな活力と闘志をみなぎらせ、後半戦への期待を込めた興奮が静かに波紋を広げていく。午後からは高学年の競争、リレー、器械体操、徒手体操、棒倒し、騎馬戦などと続き、大綱引きが最後を締めくくる。進行係の先生が、最後のピストル二発を鳴らすと同時に歓声と溜め息が学校全体に谺する。ジンクスは生きていた。優勝はやはり赤組だった。 
 鉄棒の妙技で観客を唸らせた六年生は、すでに四年の頃から校内の英雄であり、七段の飛び箱で次々と軽やかに台上倒立前転の技を披露した一団は、体育担当の先生方よりも華麗に演技することから下級生の人気者であり、百メートル競争で圧倒的な早さでゴールした長身の女子児童は、男の子たちの憧れの的であった。ピラミッドやロングブリッジを型作り、笛の合図で一瞬の間に形を欠き消す徒手体操の集団も、低学年生徒に次の目標を示し、夢を与えた。
 児童会とは別に、小学校には週番と交通当番(交番)の制度があり、各学級から数名ずつ選抜された六年生はどちらかの当番を、一月交替で受け持つ仕組みになっていた。交通当番は朝夕、通学路の主だった交差点等に、黄色い三角の交通標識が染め抜かれた旗を持って立ち、通学時に児童が事故などに会わないよう、下校時には寄り道、道草をしないよう指導するもので、青地に白線二本の腕章が目印。当時は父母ではなく、児童と係の先生達が一緒になって、学校近くで事故防止を自主的に率先して行っていた。  

 

鬼より怖い「週番長」 かつては小学校にも週番制度がありました

週番は、名前の通り、一週ごとに数名ずつ交替で全ての学年、下級生等の世話をする当番が回ってくる。学級委員が、主に児童会関連の仕事や、先生のアシスタント的な仕事を分担しているのと比べ、週番は学校生活に密着した例えば校舎内の規律維持など、日々の細かな雑務を担当する存在であったように記憶している。博士の学校にも同じような仕組みはあったらしく、さして興味は湧かない様子だ。  

 「小学生やろ、週番言うても、給食運ぶの手伝うたりするだけとちゃうんか」
 「昔のことは、何でも勝手に、自分に都合ええようなとこだけ、適当に色付けして思い出す傾向はあるかも知れんけど、給食はちゃんと別に当番が居ったしー、まあ、中学校の風紀委員みたいなとこがあって、下級生にはちょっと恐い存在やった。それに、六年の各学級の代表が順番に、一ケ月交替で週番長をすることになってたから、これには皆一目置いてたな」   

 週番は赤地に白線が二本、週番長は三本線が入った少し大き目の腕章を左腕に付けているので、遠くからでも一目で分かる。今で言ういじめっ子、悪がき達も、余程の事がないと、週番に面と向かって反抗することは無かった。それは、週番長が週番係の男性教師、若手のうるさ型、つまりはげんこつ尊重派と一心同体と見做されていたからであり、常日頃威勢の良い悪童連中も、なるべく関わり合いにならないよう、気を配っていた。

 「その辺から、チャン蹴りの話につながる訳やな、やっと気ーついたわ」

 低学年の間は一貫してクラスのお荷物、落ちこぼれ。母親から一度も、直接聞かされたことはなかったが、卒業前の或る日、父兄会の席で面と向かって、
 『お宅の息子さん、いつ見ても口開けてはって、何やボーっとした感じで、元気の無さそうな子やから、ちょっと頭弱いのんかなぁかわいそうに、思うてましたのに、無事卒業ですてね』
とか言われ、猛烈に腹が立った、と親しい者に珍しく、ぐちを溢したほどの存在。

 勉強に全く着いて行けないという程の知力ではなく、通信簿も平均程度の成績。反面、口数だけは人並み以上に多く、注意力極めて散漫、体操はもっぱら見学組の虚弱児が『これでは、どうもアカン』と思い始めたきっかけのひとつが遊び。子供たちも、遊び相手を闇雲には選ばない。知らない内は一二度誘ってくれても、遊んでみれば、すぐ正体はばれる。面白くなければ、次の日から誘ってくれない。出来ないと分かれば、野球の仲間には入れてもらえない。遊びは、真剣勝負。

 低学年の内は、家の中に居る時間が多かったこともあり、いじめられた深刻な経験は無かったが、学年が上がるに連れ、皆と同じようにやってみたい、遊びたいと思うのは自然の情で、四年生ともなると、次第に周囲や異性の目も気になり、人との交わりにも少しずつ積極的になっていった。遊びの出来不出来は仲間入りの大切な条件であり、例外が認められることは稀であった。

 「一、二年のうちは男も女も一緒に遊ぶけど、やっぱり三、四年になると、男女の別がはっきりしてくるやろ。そんな頃『男のグループに入れんかったら恥や』いう思いが強うなってなー。まあ、女の子にも馬鹿にされるのは嫌やし」
 「分かる分かる、勉強は別にしても、運動や遊びの出来へんやつは、どうしても仲間外れにされるからな」
 「山や川で走り回ったりして遊ぶのは別にして、野球というかキャッチボールと面子の二つは出来て当り前、これがあかんと話にならん。あとはビー玉かな」
 「とにかく、努力した訳や」

 体操も相変わらず得意ではなかったが、四年生に成る頃には、何とか人並みの事は出来るようになり、通信簿でも「三」をもらうことが出来、励みになった。思い返すと不思議だが、必死に遊びを覚え、身体を動かし、みんなに着いて行こうとするうちに、少しずつ体力も増し、何かが一つ出来ると、また次の目標がおぼろげに見えてきたように思う。人気投票の憾もある、学級委員の選挙でも候補の一人になったことは自信となった。

 「えらい出世やないか。ほんまに委員になれたんか」
 「自分の名前が呼ばれて、黒板に『正』の字画が一つ一つ書き加えられる度に、心臓がどきどきしたわ。クラスの何人かが票を入れてくれた事が新鮮な驚きやった。委員の群青色の七宝焼きのバッジもらった時は、もお、理屈抜きにうれしかった」  

 委員になれたら委員長、と言う訳でも無いが目標ではあった。五年の担任は若い男性教師で、適当に尻を叩いてくれる。本人も何となくその気になり、子供なりにクラスを代表する立場になれたことは、理屈抜きに嬉しい出来事であり、近づいてくる子供の数も増え、自信めいた感情が芽生えたのだが…。

 「まあ、先生がうまいことおだててくれたんやと思う。人の先頭に立つことも嫌やなかったし、頭の中身も十人並みには詰まってたから、努力さえすれば、そこそこのとこには行けたんやな」
 「十分やないか。人並みで結構、贅沢言うたら切りないで」
 「そうやな、今は、そう思う」

 五年生の冬、帰る前に職員室まで来るように言われて立ち寄ると、担任と見覚えのある週番担当の先生が二人で待っていた。ストーブが入っていたから、年が改たまり、もう二月に入っていたかも知れない。

 『六年の松田先生は知ってるな』
 『はい』
 『週番は知ってるやろ。ちょっと時期はまだ早いんやけど、先生、六年になったら君にも週番の仕事をやってもらおう思うてるねんけど、どうや、やる気あるかぁ』
 『……』
 小柄で、いかにも頼り無さ気な五年生の様子を見かねた松田先生が正直な不安を口に出した。  
 『大丈夫ですか石原先生、今度の六年、知ってはるように、結構ごんたが揃てますよ』
 『いや、言わなあかん時は、相手が誰でもちゃんと物の言える子ですから、心配ない思います。そうやな』   
 『ーはい』
 『先生が、そう言わはるんやったら…僕は構いませんけど』  
 『よし、ほんなら決まりや』

 何が何やら良く分からないまま、先生同志の間で話が進み、担任は、

 『いついつから早速見習いや、松田先生の組の、誰々君に付いて色々教えてもらい』

と宣告されただけ。しばらくしてから、放課後の時間を利用して週番長見習いの生活が始まった。  
 それまで入ってみた事もない六年の教室に恐る恐る尋ねて行くと、一年先輩の現役週番長は大柄で温厚な人で、級友の信望が厚いことが皆の接する態度からもすぐ分かり、感心させられることばかりだった。彼は毎日丁寧に、卒業までの一時期、細かいことまで嫌がらず、何でもこちらの質問に丁寧に答えてくれた。先輩の顔に何処となく見覚えがあったのは、その年秋の学芸会で、一番の人気だった無言劇『楠公父子・桜井の別れ』に主役として抜擢されていたからで、その事を確かめると、少し恥ずかしそうにうなずいた。
 学年で常に一番の成績を維持し、有名な私立中学に進む予定であるらしい彼の趣味はバイオリンだと後になって知ったが、彼は、週番の仕事について、あれこれと自分の意見を述べたり、自慢したり、取組み方についての忠告めいた言葉も、一切、口に出したりしなかった。それでいて、同級生下級生に対して週番風を吹かせることも無く、威圧したり強制したりすることも無しに、全校児童から、その人柄を信頼され、慕われていた。
 子供心にも、彼が次の週番長に何を期待し伝えようとしているのかが、おぼろげに見えてくるようになり、力ずくで遮二無二他人を押し退け、前に突き進むだけが生き方の全てではない。力でゴリ押しをして、一旦は自分の意を通し得たとしても、結局、心から納得していない人は付いて来ないものだ、とも考え始めるようになっていった。また、いつでも、誰にでも分け隔てない態度で接し、先ず人の意見を素直に聞き、自分が日頃培った考えを正しく相手に伝え、間違いなく理解してもらう事の難しさと大切さについても、彼の態度から学んだ。 
 前もって何の相談も無く、考えてもみなかった役割なので、心の準備があるわけもなかったが、週番の仕事を与えられ、遊び以上に面白いと感じている自分に驚いたりした。
 仕事といっても大した事をする訳ではないが、十二歳の子供にしては重い責任を背負わされた。各教室・校舎の安全見回り、放課後の居残り児童に対する下校指導もする。教室の清掃状況の監督と注意、先生への報告、運動用具の収納管理、飼育動物小屋の点検、朝礼時の全生徒集合指導、特別教室や放送室、屋上への出入口の鍵の管理など、子供にとっては興味しんしん、心を張りつめた毎日だった。新しい顔との出会いが毎日のようにありそれまで知らなかった別世界が際限無く広がるように思えた。

白地に赤線3本、腕章は一生涯の宝物

 「なんや、日直の先生みたいやな、それ全部いっぺんに任されたんか?」
 「よう覚えてないんやけど‥、初めは六年の子に付いて回るだけやったし、六年になってからは学級委員も同時にやってたからなぁ結構忙しかった」

 どの様な理由、背景、いきさつがあったのか、恐らく五年担任の強い推薦があっての事なのであろうが、兎も角、週番の仕事は性に合っていた。毎日毎日が新たな経験の連続だった。屋上は、誰にも邪魔されず一人きりになれる場所として貴重であり、全ての児童が下校した後の物静かな校庭に長く伸びる校舎と木立の陰は、いつの間にか友達のように身近で親しみのある存在となった。
 喧嘩の仲裁がきっかけになったと記憶しているが、それまで付き合いの余り無かった悪童連中とも顔馴染みになり、一部の外国人子弟とも遊ぶようになる。友達と呼べるだけの親しい存在が増え、彼等に支えられて、見習いは時間をかけ、少しずつ本物の週番長に近づいた。特に、同じ学級だった崔くんは学年でも指折りの腕白小僧として、他の同級生たちも一目置く程の喧嘩自慢の児童だったが、何かのきっかけで気軽に話すようになってから妙に気が合い、陰に陽に力を貸してくれたお陰で学校内の揉めごとを減らすことが可能になった。

 『勉強はからきしあかんけど、自分とは友達や。なんでも困ったら言うてきてな。
 困ったときに助け合うんが、ほんまの友達や、そやろ』   

 その彼の助けになれる事はなかったが、彼に助けられたことは屡あった。   
 今でも不思議だが、三学期に入ったとある日、校内放送で呼ばれて職員室へ行くと、稲垣先生が待っていた。

 『がんばってる様やな、勉強もちゃんとしてるか?。私立は受けてみるんやろ…。これ、渡しとくから、卒業まで代わりにやってくれるか』

 渡されたのは、週番担当の先生が腕には填めず、腰のベルト辺りに着けている、白地に赤線が三本入った、一回り大きなさらの腕章で、児童の物とは生地も違い、絹のような光沢があった。週番は定期的に交替してこそ週番であり、その代表も各学級の持ち回りと決まっていたし、そうしなければ文句が出る。虎の威を借りる族も中には居た。初め、先生の言葉の意味が咄嗟には理解できなかった。

 「えらい屓やな、よっぽど気に入られてたんやなー、屓やで、それは」
 「そうやなぁ、そう言われても仕方ないけど、気にいってもらうためにやってたんとちゃうよ。兎に角、やってて、毎日が充実してた。勉強はしんどかったけど、週番は楽しみやった。友達もようさん出来たし」

 先生の意図がどの辺りにあったのか、学校も正式に認めていたのか不明だが、極めて変則的な、学期を通じて、すべての週番を指揮する権限のある、教師と同じ腕章をはめた週番長が誕生した。いくら屓、先生のお気に入りであっても、校内の決まりを変えるだけの理由にはならないし、一教師だけの判断で実施できるものでは無いことを思えば、他の先生たちも反対しないだけの、何かの理由付けは為されていたのだろう。
 そう言えば、こんな出来事もあった。その頃、試験の答案用紙は、小テスト、ドリルの類を除き、全て先生が自ら問題を考え、ガリ版を切り、作成していたが、三学期のある日の放課後、多分、全校見回りを終え、職員室へ報告に行った時だと記憶している。担任に挨拶を済ませ帰りかけると、先生が呼び止めた。  

 『もう、帰るだけやろ、先生ちょっと手伝うて欲しいことがあるんやけど、時間の方はええかなぁ』
 『はい、別にかまいません、それで何をすればいいんですか』       

 暫く待つように言われ、所在無く立ち尽くしていると、先生が何枚かのガリ版を手に着いて来るように言う。行き先は職員室の隣にある狭い謄写版室で、見るからに古そうな手押し式と、真新しい手動輪転式の印刷機械が据え着けられていた。輪転式の胴の部分にガリ版の下側だけを金具で挟み止めると、先生は、インク缶からヘラを使い黒インクを掬い取り、大きな分厚い手で器用に万遍無く延ばしていく。  

 『大体これ位いにインクをつけといてな、ここの台の白線に合うように藁半紙をこれ位置いて、後は、ぐるぐるハンドルを回すだけでええんや。三科目あるから、六十枚ずつ刷っといてほしい。取り付け方も今見たとおり簡単や、裏表さえ間違わへんかったらええ。インクは最初に塗ったら補充せんでも大丈夫やから。服、汚さんように気つけてな。
 そんなら頼んだで、僕は、まだせなあかんことが残ってるんで、席に戻るから。出来たら持ってきてくれるか』    

 目の前にあるガリ版は、紛れもなく次の試験の問題用紙だった。刷り上がった問題を盗み見るだけの時間はたっぷりあったが、遂に手に取ることは無く、ただ、機械仕掛けの人形の様に、枚数だけを念仏のように口に出し勘定しながら印刷を続け、インクの匂いを振りまく全ての用紙を先生まで早足で届けた。その時、自分が試されているのだと云う思いよりも、先生の、無言の全面的な信頼に応えなければならないと云う意識の方が強かったように記憶している。     

 『ご苦労さん、ご苦労さん、引き留めてわるかったなぁ、先生、助かったわぁ』

 全く疑うことの無い、にこやかな表情の先生を正視することが出来た自分に満足した一日だった。    

 「今、もし、そんなこと教師が生徒に頼んだりしたら大騒ぎになるで、きっと。よほど信頼されたんやとおもうけど、それにしても珍しいケースとちゃうか。週番の腕章も、多分、勲章の意味があったんやろうなぁ」
 「感激という言葉があるけど、その時の気持ちは、言葉にならん位のもんやった。まっさらの腕章が、宝石より輝いて見えた。雲の上歩いてるようやった。自分でも信じられへんかった」

 放課後、各校舎各教室を巡り、居残りの児童を無理やり送りだしながら、掃除の出来不出来をじっくり観察し、黒板に『よろしい』とか『大変よろしい』『大体よろしい』などと大書する。これも元々教師の仕事であるはず。何故なら、掃除終了後、職員室まで報告に行った記憶が確かにある。いや、違う、担当の週番が見回り、所感を書いた後、再度巡回し、評価が適正かどうかを見回っていたのだ。いつの間にか、それも任されていた。
 常磐校舎は、鉄筋三階建のどっしりした建物で、校舎の中央と南側に階段があり、踊り場も十分広く取ってあった。まだ校内探訪を続けていた頃、南側三階の踊り場、つき当り付近から漏れる人声を聞きつけた。古めかしいくすんだ木の扉の上に『美術部』と描かれた額のような板切れが見え、何人かの話声がしている。美術部があったことすら初耳で、好奇心がむくむく頭をもたげる。ノックの後扉を開けると、美術の先生が、いつものツイード風の上着を身につけ、癖になっている、少し気取った表情でこちらを見ていた。児童たちのしていることは、もっと珍しかった。     

 「小学校でクラブがあったんか」
 「校庭が狭かったんで、運動の方は体操が目立つくらいであんまりなかったんやけど、美術や図書、家庭、放送、音楽はあった。知らんだけで、もっとあったかも分からん。とにかく、その時まで、美術部があるなんて、聞いたこともなかったし、絵はからきし得意やなかったから」     
 
  作品に浮かび上がるの叫び声

 一見、悪戯書き、がらくたの見本市。大きめの画用紙には、脈絡のない色違いの、大きさも形も異なる不規則な模様が自在に並び、それでいて全体的なまとまり、意図した者の個性がそれぞれ出ている様に見えたのは、臘纈染めの技法を使ったデザイン画。日頃顔見知りの児童は誰一人居なかった。
 何度か部屋を覗く間に聞いた所では、先生の呼びかけで、絵が好きで上手な子供が集まり、目標を市の児童絵画展に置いて、追い込みの真最中であるらしい。大の苦手の絵なぞ授業の他で敢えて描く気は毛頭なかったが、デザインなら出来そうな気がした。彫りの深い外国人的風貌、痩身、関東訛のぶっきらぼうな物言い、洒落た服装などで、一部の児童に人気のあった尾崎先生は、誘いもせず拒否もせず、物奇しそうに部屋を何度も覗く六年生を、例外として受け入れてくれたらしい。作成には、さぞかし複雑な過程があると覚悟していたところ、臘纈の基本について簡単な説明があり、あとは『好きにやれ』ば良いとのこと、見よう見真似の日々が続いた。他の子供たちは新参の割り込み週番の登場を余り歓迎してはいなかったが、誰に助けてもらう訳でなく、勝手な時間部屋に出入りし、気ままに描き、垂らし、削り、また塗り直し、臘だらけになって帰宅した。    
 尾崎先生は、正規の、つまり部員の児童には、それとなく助言を与え、作品としての完成度を高める努力を惜しまなかったが、飛び入りの臨時部員の作品には、時たまちらりちらりと視線を送るだけで、授業で披瀝される有名な辛口の評価も一切下さなかった。画用紙を色と形の破片が埋めつくし、余分な空白が消え、付け加えるべき物が何も無くなったと感じた時、黒ぐろとした豪雨、暴風を切り裂く閃光の意匠が現れ、内面に存在していた恐れ、不安、叫び、抑圧、衝動が画面の中で不気味に這いうごめき、暗闇と苦悩の現実から抜け出そうと、もがき苦しんでいる己の無様な正体が転がっていた。先生が、正規の部員ではなかった児童の作品も、分け隔て無く絵画展に出品してくれていたのを知ったのは、入賞の知らせを受け取った時である。           

 冬の夜、枕元が突然騒がしくなり、両親の低く言い争う声で、目がさめた。兄の不始末について、一家の将来について震え声で語る父を見ることが辛く、恐ろしく、布団に潜り込んだまましばらくすると、母親の悲鳴に近い、名前を呼ぶ声が耳許で大きく響き、激しく身体を揺り動かされた。  
 数少ない厚手の外出着の一つを着たままの父親が居間の鴨居に太い縄を掛け輪を作り、蜜柑箱の上に乗り、今にも首を突っ込もうとしていた。半狂乱の母親は、子供の身体を抱き締めながら『早く、あなたも、お父さんに止めるように言いなさい』と叫び続けるのだが、どういう訳か、喉がからからでふさがったようになり、何も言えなかった。両手に縄を握った父親の顔が醜く歪み、眼鏡の奥の両眼が無念さと羞恥、戸惑い、憐憫、悔悟で破裂しかかっていた。逃れようの無い現実が目の前に在った。何処にも逃げ場はなかった。朝が来るのが待ち遠しかった。
 父親と二人だけの外出は小学校時代を通じても数えるほどしかなかったが、その日、電車、バスを乗り継ぎ、目的の場所に着いた時には昼近くになっていた。
 何棟かの建物に隣接した、広いグランドを囲む高いフェンスの端で暫く待っていると、二十人位の若い男たちが、窓が小さい、灰色の平らな建物の中から次々と出て整列し、準備体操を行い、監督官と思われる男性から号令がかかると一斉にランニングを始めた。白い上下の運動着で走り続けている男たちの群が左手前のコーナーを回りきり、最も近づいた時、一人の男子がすっと列を離れ、こちらに向かってやって来た。    
 父親が初めに、兄に何と声をかけたのか、兄がそれにどう答えたのか、他にも続けて会話めいたものがあったのか、何も覚えていない。ただ、顔中汗まみれになった兄は少し痩せてはいたが元気そうに見えた。そして、いつもそうだったように、少しはにかんだような、それでいて年下の義理の弟を気遣っているような、優しい表情を浮かべていた。
 一、二分足らずの、たった一度きりの面会を、何故、運動場の片隅で済ませたのか、父親が独りだけで会わなかったのか、今生の別れのつもりだったのか、本当の目的は何だったのか、一切説明はなかったし、聞きもしなかった。      
 その場所や会話、そして前後の出来事などについてのあれこれは、全て思いだしたくないと云う身勝手な理由から、都合よく記憶の蓋に鍵を掛け、忘れるつもりでいた。面会時の鮮やかな印象と風景は時間と共に風化し、色褪せ、灰白色の倉庫奥、隅に後退した。

 『元気でな』
 『はい』

 兄は、父親に礼儀正しく御辞儀をしてからにこりと笑い、ランニングの列に戻った。それが十八歳の兄を見た最後となった。
 来た時と同様、少年院からの帰り道でも父と子は殆ど口をきかなかった。
 鑑別所に入った兄が父親から勘当されることなった理由について、両親から聞かされた記憶は無い。母方の親族達の、遠慮のない噂話の類を総合すると、兄は『父方の親戚の店で使われていた時、その店の金に手を出し、親戚が両親に相談する事もなく警察沙汰にした』ため、兄は窃盗の疑いで警察の厄介になったらしい。どこまでが事実に基づいたものなのか分からないが、金云々はともかく、働いていた店で何らかの不始末があり、解雇されたのは本当らしい。面目を失った父親は、周囲が止めたにもかかわらず、職を辞し、長男を少年院に送る様手続きを進め、勘当することで世間とのけじめをつけた。深夜の首吊り騒ぎは、八方塞がりの苦境に追い込まれた父親の妄動と言えた。  
 兄にまつわる一連の事件は、それまで経験した事のない希有の出来事であり、十分成長していたとは言えない自我に計り知れない混乱と衝撃を与えたが、その一方で来るべきものが来ただけなのだ、と云う醒めた意識もうごめいていた。

 中学から高校に掛けての間、兄は両親にとって自慢できる息子では無かった。成績、品行、友達付き合いなどを巡り、父親は常に兄を矯正しようと努め、諄諄と説き、叱り、時に手を出して畏怖させようと試みたのだが、結果は常におもわしくなかった。狭く暗い台所に閉じ込められた兄の『お父さん、許してください、もう二度としませんから、許してください、もうしませんから』と涙混じりに訴え続ける声を無視し、何も聞こえない振りをする両親のそばで、六歳下の子供は、じっと耐えているしか無かった。何処へも逃げ出す訳には行かなかった。子供には、誰が本当に悪く、誰が本当に正しいのかなど見当も付かなかったが、許しを乞う兄の声は、たまらなく寂しい旋律となって永く心に響いた。  家庭の中で、本来兄が居るべき場所が真空になったことで、絆と呼ばれる屋台骨の奥深い部分で腐食が進み、息苦しい沈黙と絶望が部屋中から這い出し、人の心を蝕んでいた。主役の一人の存在を認めない家族の会話は無意味でぎこちなく、空々しいものとなり、少しでも居心地の良い場所を家庭の外に求めようとする性向が顕著となるにつれ、己の言動を冷ややかに見つめ、批判する自意識も暗い歪みを残したまま成長を続けた。

 「そんな話、初耳やな。今まで、いっこも聞いたことなかった。なんや自分には、前から、こう、ちょっと虚無的なと言うか、なげやりなとこがあるとは感じてたけど、そんな事情があったとは、全然気ーつかへんかったわ。それでよー、学校いってなぁ」
 「学校の方が息抜けたから、週番も楽しかったし、六年の時は皆勤やったはずや」

 事件の全貌を正しく見抜く眼力も無く、両親の言いなりになっていた子供だが、周囲の状況の移ろいと、自己の置かれている微妙な立場については敏感で、自分なりに考えを巡らせていた。他家の不幸、醜聞に飢えている物見高い隣近所の大人達は、久しぶりの餌食にありついた喜びを尤もらしい挨拶言葉に包み隠し、口の軽そうな子供に狙いを付けて近づいてみたが、お愛想程度の返事しか受け取ることは出来なかった。
 煩わしく厚かましい不遠慮な世間に家族の素顔を知られぬよう気を配り、家では禁忌に触れぬよう左仁吾郎の猿真似を続け、学校内では優等生の役割を演じている滑稽な自画像を嘲笑う不愉快な声の主が、いつしかがらんどうな胸の廃墟に住みつき、宿主にとって益の無い問答をしきりに投げかけていた。(続く)

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