高千穂神楽(本文と関係はありません)WEBより
近くで祭りがあったのか、何処かの家で建て前でもあったのか、母の実家に神楽の一行がふらりやって来た。先触れは、かなりの年配、垣根のぐるりから家の造りと庭木、庭石の大きさと数、灯篭そして物干しの洗濯物などを一瞥、瞬時の値踏み。家人の気配を目の端に捉えたとたん、中腰に構え、作り笑いの表情よろしく切口上を述べ始めた。
何やら『目出たい、目出たい』『繁盛、繁盛』と繰り返し語っているのは、言葉の端端に聞きとれるのだが、出来損いの祝詞めいた独特の抑揚とリズムだけが耳底に残り、一つ一つの言葉は無意味な音の連鎖となって耳をすり抜ける、奇妙な語り口。それまで、一度も聞いたことの無いはずの口上に、身体のどこか奥深い部分に眠っていた何かが微妙に反応し、懐かしさめいた気持ちすら湧いていた。
獅子頭を小脇に抱きかかえ、生け垣の先から、すっくと現れた偉丈夫。年の頃は四十そこそこ、細身だが弱さを微塵も感じさせない筋肉質。満面の笑みで、一時も油断はしない鋭い瞳の光を包み隠してはいるのだが、十分成功しているとは言い難い。笛と太鼓が一人ずつ、囃す内に獅子が高く低く右左と器用に舞い、踊る。家人、隣人合わせて十人ばかり見守る中で、獅子は一気に舞い終わり、頭と目される男は庭の中央に立ち、見物人の一人一人を品定めでもする様に、首をめぐらせ、緩やかな調子で口上を述べはじめた。かすかな訛はこの地方独特のものではなく、かと言って聞き慣れた関西訛とも微妙に異なっていた。
『……わが美し大八洲の瑞穂の国に、遥か遥か神代の昔より、連綿と今に伝えられたこの大神楽こそ、いと賢き天照大御神が、天の岩戸前に集い賜う神神と共に興ぜられた、天宇都女命の寿ぎを舞の業で人の世に、教え伝えた有り難いもの……お家は隆盛、子孫は栄え邪鬼退散、目でたし、目でたし。
さて、神ならぬこのわたくし奴も、畏くも有り難い天照大御神、大国主命はじめ八百万の神神のご加護の下、十余年に及ぶ尋常ならざる行の甲斐あって、神通の力を少しく会得いたしました。さて、お立ち会いーー、お家繁栄を願う穢れない心の証として、ここに取り出だした剣の刃を、見事呑んで見せましょう』
先触れの男が無言で差し出す派手な絹布をくるくる解き放つと、現れたのは六十センチ程の見事な脇差。頭は両手で刀を捧げ持ち、目の高さに掲げて一礼。何やら呪文のような呟きを二言三言となえると、一気に刃を抜き放ち宙をにらむと、逆手に白刃を持ち替え、静かに切っ先を己の口元に近づけた。
お神楽と大道芸は元々親戚筋に当たるのか、赤の他人に過ぎないのかなど一度も考えてみたことも無かったが、頭の芸は圧巻だった。
「見せ物に違いないんやけど、ほんまに、はらはらドキドキさせられた。でも、その時は、なんで神楽の人が、そんな芸をそこで見せるんか疑問にも感じへんかった位、自然な流れやったね」
刃渡り四十センチ余りの刃は、その三分の二ほどが、見る見る内に頭の口から体の中に吸い込まれ、見物人が息をのんだ一瞬、頭は刀の鍔から手を離し、両手を相撲の土俵入りの様に左右にぱっと広げてみせた。拍手喝采。ご祝儀を懐に、帰り支度を始めた獅子舞の連中。何となく別れがたい気持ちがある一方、近づき難い雰囲気も漂う。田畑に添いうねうね流れる小川を逆上り、目当てと思しい小さな祠の境内にたどり着いた一行は、遅い昼飯に舌鼓。どういう訳か付いて行った。
『ぼん、ぼんは、さっきの家の子か?』
かすかに頬を酒気で染めた頭が、どこまでも着いてきそうな子供の気配を気遣い声をかけた。よく見れば背も高いが顔が大きく、手足も相当長い。
『いや、そうやない』
『‥なんや、よその子か。大阪から遊びに来ているんか』
『神戸から来たけど、遊びやない』
咄嗟に関西弁が飛び出したのは、恐らく神楽人たちの話していた言葉の持つ不思議な抑揚が、かつての素の言い廻しを誘い出したのか。黙々と飲食を続ける他の者とは対照的に、意外と頭は饒舌だった。
『そおか、神戸から来たのか。遊びでないなら、どおして、ここにおるんか』
『転校してきたから』
『そおか、神戸からなぁ。神戸という町は良く知らんが、ここと、どっちの方が良いと思うか?』
『…、』
『大市を知っているか?』
『知ってる』
『わしは、大市に住んでいる。大橋は知っているか?』
『知ってる。何度か通ったこともある』
頭の家は、大橋の近くにあり、神楽の看板も出ているから、すぐ分かると言う。尋ねて来たら歓迎するとも言った。次の土曜日の夜までに、訪ねる事に決めていた。はっきりとした理由は見つからなかった。行けば何かが分かるように思えた。自転車でおよそ1時間、記憶にある大橋のたもとまで辿り着くと、大看板が直ぐ眼に留まる。建物には小奇麗な板塀が張り巡らされ、瓦葺の門構えの造りになっており、門扉は大きく開かれている。玄関まで続く数メートルの石畳には打ち水が施され、訪れる者を和ませた。二間はある真新しい玄関戸に気後れし、横手の裏木戸を探したがきちりと錠が下りている。息をニ三度大きく吸い込み吐き出し、意を決して戸を開き案内を請うと、二十歳そこそこの男性が直ぐ白木の衝立の向こうから顔を覘かせた。子供の姿を認めた彼は、怪訝な表情をほんの一瞬浮かべたが、直ぐ、笑顔になり話し掛けた。
『木庭さんのところからですね』
『そうです、訪ねて来いと、この間言われたので』
『聞いてます。ただ、生憎、今日は他行していますから…』
『たぎょう?』
『あ、仕事に出かけてるんですよ、昨日から。少し遠方まで』
『そうですか。じゃあ、仕方ないですね』
『若し、来られたら、宜しくとのことでした。いつでも、お出でくださいと言ってました』
上って休んでゆけと何度も勧められた。着く前から何となく会えないような予感がしていた。会わない方が良かったのかも知れないと、理由にならない理屈をつけて、自転車を引きずり大川の土手にそのまま投げ出すと、人気のない河川敷に出た。気のせいか神楽のお囃子が風に乗って肩の辺りを通り過ぎた。草いきれの中に寝転ぶと、綿菓子のように自在に姿を変えてゆく雲と空が、途轍もなく大きく遠く思われた。
『鳴っているのは始業のベルだ、今朝も遅刻してしまう』敷きっぱなしの布団から起き上がったつもりが、目覚めた顔の前に広がっていたものは、お馴染みの校正室の板壁だった。降版前の予鈴が建物中に響いていた。
空と山と川、そのむこうには何があるのだろうか
頭の上で両端が黒ずみ、時折、光の量を間違える螢光灯が鈍い音をふるわせ、揺れる。燻ぶるアルミニウムの、座りの良くない灰皿に最後の吸い殻を押しつけ、工務室の前に据え付けてある原稿用の箱に校了原稿を入れ、開いたままの扉の向こうに座って居る年配の工務主任の顔に会釈して、きしむ木の階段を昇り降りながら、工場に隣接する本館に渡る。駅までは、そう遠くない。
ビル通用口の重いガラス扉を押し開け、街路まで出た時、正面にそびえるビル群の彼方には、見覚えのある、大きな灰色のマントを着た静脈血色の太陽が沈みきれずにゆらゆら揺らめき、懐かしい金木犀の甘い香りが街の喧躁に溶け込んでいた。
| この小説に特定のモデルはいませんが、物語の主人公の一人に擬した人物の父親が平成二十二年夏に他界しました。享年九十一。数年前連れ合いが老人ホームに入居した 後は、家事すべてを独りできりもりし、誰の世話にもならず、病を得ることもなく眠っているうちに彼の世に旅立ちました。 |