黄金のトライアングル、最強の古代豪族チーム                    サイトの歩き方」も参照してください。

どこかの地下鉄の、中吊り広告で見たような「題名」に釣られてページを開いた方には、誠に申し訳ありませんが、このページは、あの、有名な外国の何処かの海域(バミューダ沖?)にあると云われている「超常現象が頻発する?トライアングル」や、アジア大陸の奥深く様々な国々に囲まれた謎の三角地帯とは一切関係がありません……、悪しからず。

万葉を代表する歌聖・柿本人麻呂(かきもと・ひとまろ)には何人かの「妻」があり、その内の一人が「依羅娘子(よさみ・をとめ)」であることは人麻呂さんと紀貫之のページでご紹介した通りなのですが、彼女の出自を色々と探っているうちに、興味深い人間関係に行き当たり、この項を書くきっかけとなりました。先ず、次の家系略図を見てください。(画像は橿原市にある柿本神社)

人麻呂の関係人物略図  人麻呂神社

オノコロ・シリーズを熟読されている方なら、上の図に出ている人物名の殆どに見覚えがあることと思いますが、初めて御覧になる方も在るかも知れません。だから、順を追って説明してゆきます。この項の主人公は「依羅娘子(よさみ おとめ)」ですが、この人については、人麻呂の「妻」だった、という事位しか分っていません。万葉集には彼女の作品三首が採録され、その内の二首が、所謂『鴨山五首』であることは既にお話してきました。そして、後の一首は、次のようなものです。

  な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ひざらむ

歌から想像すれば「妻」とは云え、中々、逢うことが難しい日々もあったようですが「娘子」の一途な熱情が伝わる一首です。さて、その苗字「依羅(よさみ)」から管理人は、彼女が「石見」の人などではなく、大阪(摂津・河内)に古くから生活基盤を持ち、新興豪族のような権力こそ持ってはいなかったが、古事記などに登場する「古い神々」の祭祀者として、宮廷内でも一定の評価を得ていた「依羅我孫子(よさみ・あびこ)」一族の縁者ではないかと仮定しました。そして、人麻呂の「死」を悼む、万葉集・唯一の「歌」を寄せた人が、同じ大阪・河内を勢力圏にする「多治比(丹比)真人(たじひ・まひと)」であったのです。(この「真人」は、個人の名前ではなく「八色の姓」にある最高位の「姓(かばね)」です。そして「依羅我孫子(吾彦)」の「我孫子(あびこ)」も名前ではなく、古い形態の「姓」だと考えられています。管理人の想像では、倭人伝に登場するジサイのような役割を担う、海の神を祀る人物に与えられた特殊な「姓」ではないかとも…)

帝から「霊寿の杖」を授かった多治比真人

多治比(丹比)氏は、その「姓」が「真人」であるように、その祖先は宣化天皇の曾孫・多治比古王とされ、比較的新しい時代に帝室から分かれた名門一族。七世紀から八世紀にかけ、有力豪族が朝廷内部の権力にかかわる抗争の中で次々地盤沈下を余儀なくされてゆく政治の季節にあっても、多治比氏は尚、一定の影響力を保持し続けました。文武四年(700)正月十三日、時の帝から、老齢と勲功をねぎらい「霊寿の杖」と「輿」および「供人(従者)」を授与された人物がいました。その人の名を多治比真人嶋(たじひ・まひと・しま、624〜701)と云います。彼は、藤原氏が新興勢力として急速に実力を蓄えつつあった七世紀後半にあって、帝室に近い臣下の代表として朝廷内で、尚、実権を握り続けた稀有な存在だったのです。七世紀は、正に政治的な激動期でもあったのですが、その「権力」の移り変わりを大臣であった人物名一覧表で御覧に入れましょう。

 西暦   天 皇 左 大 臣 右 大 臣 内  臣
 645  孝 徳   阿倍倉梯麻呂   蘇我倉山田石川麻呂       中臣鎌足
 649  孝 徳  巨瀬徳陀  大伴長徳            中臣鎌足
 662  天 智 大臣・蘇我連子      中臣鎌足
 671  天 智  蘇我赤兄  中臣金
太政大臣 左 大 臣 右大臣
 690  持 統  高市皇子      多治比嶋
 700  文 武     多治比嶋
知太政官事 左 大 臣 右大臣 大納言
 701  文 武     多治比嶋   阿倍御主人   藤原不比等ら 
 708  文 武  穂積親王      石上麻呂   藤原不比等  大伴安麻呂
 721  元 正  舎人親王   長 屋 王  多治比池守
 730  聖 武  舎人親王      長 屋 王  大伴旅人 

文字で「歴史」を、それも古代の個々の出来事を読むと分りづらい部分が多いかも知れませんが、上の表のように当時大きな権力を持っていたと思われる人物を抜き出してみると、その「時代の表情」が、簡単に見て取れます。一見して分る通り「七世紀後半は有力氏族の連合体」であった権力構造が持統天皇の時、大きく変化しています。そして、その流れが文武・元正・聖武へと受け継がれて行くのですが、それは「臣下だけの政治」から「帝の身内と臣下たちの政治」への転換であり、多治比嶋という人物は、まさに、その転換の只中、真空地帯のような場所で朝廷権力を支えていた存在だった、と言えそうです。特に、持統から文武へと繋がる十数年の間、皇子を除き只一人の大臣として天皇を補佐していた丁度、その頃、万葉の大歌人・柿本人麻呂が活躍していたのです。そして「多治比(丹比)真人」だけが人麻呂の「死」に関する歌を「万葉集」に残した、のであれば、これは偶然の一致などではない−−そう思えてならないのです。

多治比家とは「縁」の深い大伴旅人・家持

先を急がずに多治比(丹比)氏の話を続けましょう。彼らの本拠地は河内国(現在の大阪府)丹比郡であり、この項の主人公・依羅娘子の古里だと推測される依羅郷は、その丹比郡の中にあり、依羅我孫子が祖先神を祀った大依羅神社は、隣接する摂津国住吉郡(今の大阪市住吉区)に鎮座しているのです。そして、断定は出来ないのですが、もう一人の「万葉歌人」大伴宿禰家持の父、大伴旅人の妻が、多治比(丹比)真人家から出た人ではないかと考えられます。その傍証となっているものが家持の妹、留女之女郎(るめのいらつめ、生没年不詳、家持の同母妹)に贈られたとされる、次の作品です。

  妹を見ず 越の国辺に 年経れば 我が心どの なぐる日もなし

この一首は、任地の越中にあった家持が、当時(天平勝宝二年三月)『京(みやこ)の丹比家』(「万葉集」4173、詞書より)に居寓していたと思われる妹宛に贈ったとされている作品で、彼女は母親の実家への里帰りに同行していたと考えられています。そして時間が少し前後しますが、家持兄妹の父、大伴宿禰旅人(おおとも・たびと、665〜731)は家持が誕生して間もない養老四年(720)征隼人持節大将軍として九州に赴任、翌五年に従三位、神亀元年には正三位に叙任された後、六十二歳で正式に太宰帥として再び九州に赴いています。多治比家と旅人との繋がりが一層深められたのも九州の地(都から遠く離れた場所)だったのです。

大依羅神社  東大寺 

嶋の嫡男・多治比真人池守(たじひ・いけもり、?〜730)は平城京の造営長官として奈良時代の黎明期に活躍した実務型の高官だった、とする評価が一般的なようですが、旅人の前任者として太宰帥であったのが池守で、彼も、在任中の養老元年(717)その「善政の褒賞」として数々の品物を帝から下賜されています。そして池守の弟で、霊亀二年に遣唐押使を拝命していた多治比真人県守(たじひ・あがたもり、668〜737)が旅人の太宰帥、在任中に太宰大弐(副長官)として職場を供にしていましたから、両家は益々親交を深めていったものと思われます。ここまででも「多治比=依羅」「多治比=大伴」の三者を結ぶ絆が地縁と血縁により強固なものであったことが十分窺えるのですが、この豪族ラインには、後一本、重要な線を書き込まねばトライアングルとして成立しません。それが、藤原氏のラインです。

 大伴旅人は、多治比県守が民部卿に栄転するとき、次のような歌を贈っています。  君がため かみし待酒 安の野に 独りや飲まむ 友無しにして 

多治比氏と大伴氏の関係を探る上で、別様な補助線を引くことも出来ます。多治比真人の祖先が「宣化天皇」であることは先に見てきた通りなのですが、実は、このような書き方は正しくありません。何故なら「宣化天皇」の父が、あの「継体天皇」であるからです。別のページ(「スサノオと国譲り伝説」)で、ご紹介したように、継体天皇(応神天皇五世の孫、男大迹王=おおどのみこ)という人物は帝室に適当な世継がいなかったため、態々、越の国から迎え入れられた人で、その皇子である「宣化天皇」も、越の生まれではなかったか、とされています。そして、朝廷でお世継の問題が表面化したとき、継体天皇を担ぎ出した人こそ、大伴旅人・家持親子の祖先、大伴連金村(おおとも・むらじ・かねむら)だったのです。だとすれば、両家の繋がりは遠く六世紀の初め頃にまで遡ることになるでしょう。また、多治比氏と藤原氏の関係を考える上で、大中臣氏との深いつながりも考慮すべきかも知れません。大中臣氏は中臣御食子の子・国子の直系子孫で藤原氏を名乗っていたのですが、天武二年(698)に出された詔により「中臣」姓に戻され、神護景運二年(768)に至り「大中臣」の姓を下賜された経緯があります。人麻呂と、ほぼ同世代の人で中臣意美麻呂(なかとみ・おみまろ、?〜711)は初代・鋳銭司の長官を務めた人物ですが、彼の妻が多治比真人嶋の娘、阿伎良(あきら)であり、意美麻呂の子息で正二位、右大臣にまで昇った中臣朝臣清麻呂(なかとみ・きよまろ、702〜788)も多治比子姉(こあね)を妻としています。その面からすると、多治比氏は、藤原家というよりも、中臣家との縁が深かった、と言うべきなのかも知れません。

藤原不比等−武智麻呂ー豊成と続く最有力豪族藤原氏の一角をなす藤原南家、その次男・藤原朝臣継縄(ふじわら・つぐただ、727〜796)は、あの「黄金伝説」の主人公、百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく、697〜766)の孫娘・明信(みょうしん)を正妻としていますが、上の系図でもお分かりのように、大伴家持の妹も妻としているのです。そして、敬福が東大寺の大仏様のために、東北地方から産出したとされる大量の黄金を、誠に絶妙なタイミングで帝に捧げたとき、次の歌を詠んだ人が家持だったことを、皆さんは覚えておられることでしょう。

  すめろぎの 御代さかえんと 東なる みちのく山に 黄金(こがね)花咲く

「九百両」の黄金を献上した敬福は、その時、大変喜ばれた天皇から、叙任史上、空前絶後とも言える「七階級特進」を認められ従五位上から一挙に従三位の地位に上り詰めたのですが、黄金の「力」はあらたかなもので、孫娘・明信も、桓武天皇の後宮に尚侍(ないしのかみ)として仕え、なんと従二位にまで昇進を遂げています。彼女は帝の夫人になった訳ではなく、後宮に勤める女官に過ぎなかったことを考えれば、その官位の高さに驚かされます。帝の「評価」が、尋常なものではなかったのでしょう。

さて、柿本人麻呂の「妻」という一人の女性の出自探しから始めて、文字通り「黄金の」人間模様にたどり着きました。依羅娘子の一首を、もう一度ご紹介して、このページを締めくくります。

  直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ思はむ

多治比家で頂点を極めた嶋が701年に没していることを考慮にいれると、人麻呂の死にあたって「歌」を寄せた多治比真人なる人物は、その子息(池守、県守など)のうちの誰かだと推測されるのですが、万葉集の編集者(つまり大伴家持も大いに関係している)たちが、敢えて名を伏せた理由が「橘奈良麻呂の乱」にあったのだとすれば、三人の息子が連座したと言われている池守こそ、その人物にふさわしいのかも知れません。

農耕社会とと人工池 大王の事績に見える治水 

大依羅神社の主祭神であり、依羅我孫子たちの祖先とされる建豊波豆羅別王(たけとよはづらわけのきみ)は第九代・開化天皇の子供に位置づけられた方ですが、系譜上その兄弟である崇神天皇(御真木入日子印恵命、みまきいりひこいにえのみこと)の時代の事として『依網池(よさみいけ)』の造営工事が記録されていることは注目されます。古代農耕社会において水の管理(河川の管理)は勿論、農耕に不可欠な「水」そのものの管理が極めて重要な国の仕事であったはずです。「古事記」「日本書紀」は、池造りについて、次のように伝えています。

  故、その御世を称えて、初国知らしし御真木天皇と謂う。

  又、是の御世に、依網池を作り、また軽の酒折池を作りき。(「古事記」)

  六十二年の秋七月、詔して曰はく『農は天下の大きなる本なり

  冬十月に、依網の池を造る。十一月に苅坂池・反折池を作る。

  一に云はく、天皇桑間宮に居しまして、是の三つの池を造るという。(「日本書紀」)

記紀ばかりではなく地方の風土記も「はつくにしらしし天皇」の称号を奉っている崇神天皇が、一体、どの位昔の人なのか良く分りませんが、その偉大な帝の「業績」に池造りが上げられているのは、取りも直さず、それだけ国の運営にとって「水」を得る手段を持ち管理することが重要だった事の裏返しだと言えます。正に「農」が「天下の」「大きなる本(もと)」だった訳です。そして書紀の伝える帝の言葉は、先に見た人麻呂の妻「依羅娘子」と丹比(多治比)氏のつながりに少なからぬ暗示を与えます。

  今、河内の狭山の埴田、水少なし。ここを以って、その国の百姓、農の事を怠る

  それ多に池溝を開りて、民の業を寛めよ。

詔(みことのり)の趣旨はお分かりいただけると思いますが、要するに帝は『狭山で農業が盛んにならないのは、水不足に原因がある』だから『農業用水(路)を整備』すべきだ、と官僚たちに注文を付けられているのです。そして、ここに出てきている「狭山」という場所(土地)は何処の辺りに在ったと思われますか?そう、あの多治比真人が本拠地としていた河内国丹比郡に属する土地に他ならないのです。時間的な経緯や、年代的な特定を行うことは出来ませんが、恐らく六世紀初頭頃までには全国的な規模で拡大を果たしていた稲作(農耕)社会では、人口増加に伴う耕作地の開発が最重要課題になっていたはずです。また、一方で河川などの自然水の利用には限界があり、農業用水の確保が「農(民)」を「本」とする社会の急務だったのです。

水は重要な資源でした 池跡碑  古代の堤跡

河内国を実効支配していた多治比(丹比)真人家は農地の開墾を進める一方で、農業用水を安定的に確保するための治水工事も行っていました。そして、国の事業として造られた「依羅(依網)池」と公の田(屯倉)を管理していたと考えられる依羅氏とは古くからの交流があったと思われます。依羅氏の祖先神の一つに『百済人素彌志夜麻美乃君』を上げる系譜が伝わる点に注目するなら、半島を経由した大陸の先進技術を伝えた渡来集団の一部に、依羅氏を支える勢力が存在していたのかも分りません。また「神話」に登場する依羅我孫子が「船・航海」に関する技術に優れていた事を想像させることも合わせて考えると、多治比真人家の基盤である「農業」の維持発展に欠かせない土木の技術を依羅氏が提供し、国と同様な形で土地そのものも管理するよう、多治比氏から一任されていたこともあり得るのではないでしょうか。また慶運四年正月(707)、武蔵国・秩父の地で「和銅(自然銅)」が発見されたとき、一族の多治比真人三宅麻呂が催鋳銭司(さいじゅせんし)に任命され、貨幣鋳造の責任者になっていることは、多治比氏そのものが技術集団を抱えていたことも強く想像させます。

そのような考えを進めてきた中で思うのは、依羅娘子と深い繋がりがあったと思われる多治比真人一族の長、多治比真人嶋(だじひ・まひと・しま)という人の「名前」の由来です。「麻呂」でもなく「人」でもない、只の「嶋」には、恐らく、一族が開墾してきた「土地=シマ=嶋」への深い思い入れが感じられます。そして、なにより彼の長男の名が「池守(いけもり)」であったことは、彼ら一族が土地、つまり農地と農業用水に並々ならぬ関心を抱いていた事実を伝えているように思えてなりません。なお、いつもの如く蛇足になりますが、嶋の次男と思われる人の名前は「水守(みずもり)」と言ったそうです。

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