応神天皇と銅鐸そして出雲について考える              「サイトの歩き方」も参照してください。

古事記が語り伝えた「国生み神話」によれば、オノコロ島に降り立ったイザナギ・イザナミの二柱の夫婦神が初めて生んだ子供が「淡道之穂之狭別島=淡路島」で、その後次々に大八島国を構成する島々を産んだと云うことなのですが、近年の研究成果によればその淡路島の松帆銅鐸七個のうちの「5号鐸」は、出雲荒神谷遺跡から出土した「6号鐸」と同笵の兄弟鐸で、しかも、どうやら出雲より淡路島の銅鐸がより古いものであるらしい。更に、松帆「3号鐸」が出雲の加茂岩倉遺跡から見つかった「27号鐸」とも同笵であることも分かりました。これらの事実からは、二つの地域の間で弥生時代の前期末から中期初め(紀元前三世紀〜前二世紀)頃には既に物の移動を伴う人的な交流があったことが窺えます。これまでにオノコロ・シリーズでは何度か出雲の荒神谷遺跡や銅鐸について取り上げてきましたが、その中でも筆者が最も関心を寄せてきたのがホムツワケ皇子の「白鳥伝説」に関連した出雲地方の地名と銅鐸の関わりです。

古代氏族の人名録である「新撰姓氏録」という資料には「鳥取連」(右京神別)という豪族について、次のように記されています。

  垂仁天皇皇子誉津別命 年向三十不言語 于時見飛鵠 問曰此何物 爰天皇悦之 遣天湯河桁尋求 詣出雲国宇夜江捕貢之 天皇大嘉即賜姓鳥取連

垂仁天皇の「皇子」とされるホムツワケは、どういう訳か生まれつき言葉が不自由で「齢三十」になっても未だ「言語」を発することがなかったのですが、ある日、空高く飛ぶ「鵠(クグイ=白鳥)」の姿を見て『あれは何だろう』と一言つぶやきました。これを聞いた天皇は大変喜び、側近の一人だった天湯河桁(アメノユカワタナ)という人物に鵠の探索と捕獲を命じますが、彼が皇子に捧げた白鳥を捕まえた場所が出雲国の「宇夜江(ウヤエ)」だったのです。日本書紀によれば、それは垂仁二十三年冬十一月の出来事で、お手柄の天湯河桁(書紀は天湯河板拳に作る)には「鳥取造(トトリノミヤツコ)」という姓が下賜されました。先に見た姓氏録は同氏について「鳥取連、角凝魂命の三世孫、天湯河桁命の後なり」と記録していますから、鳥取連もこのサイトの主人公の一人(一柱)である天津彦根命の後裔だったことが分かります。さて古事記が「本牟智和気王(ホムチワケ)」とも記述する伝説の皇子を、後に大王として大和に君臨した「ホムチワケ(応神天皇)」の出現を予告した、比喩的な仮の存在(垂仁の実子ではない)だとみなすと『その祟りは出雲の大神の御心』だとする記の記述が理解しにくくなってきます。

新撰姓氏録より  出雲の銅鐸

と云うのも息長氏から出て実力で大和王朝の頂点に立った応神帝は、確かに自らの身内をも含めた対抗者たちを排除して大王の位を手に入れてはいますが、その抗争の相手はあくまでも神武を初代とする大王家の後裔たち(つまり記紀の云う天孫族主流)であって、彼自身が「出雲の大神」の崇り」を蒙るほどの所業をおこなったとは記紀も全く伝えてはいないのです。また何より「出雲の大神」が出雲大社で祀られるオオクニヌシであるとするなら、応神の生きた時代とは時間的な隔たりが余りにも大きすぎます。オノコロ・シリーズの筆者はオオクニヌシも実際に紀元一世紀頃に居た神様(人物)だと考えているのですが、若し、この想像が正しいと仮定するなら「出雲の大神=オオクニヌシ=天津彦根命(天若日子と同一人物?)」が帝室そのものに「祟り」を為す程の出来事と謂えば、「出雲の国譲り」と神話前段に挿入されている「天若日子返し矢」事件以外有り得ないと思われます。記紀などの資料を調べてみれば直ぐに分かることですが、アマテラスを始祖と仰ぐ天孫族の直裔は、その「子供」たちの時代に大きく二つに分岐します。勿論その一つが大王家であり、二つ目が天津彦根命の系統です。

天津彦根命の分身である天若日子が、高魂命(高木神)の「返し矢」によって無残な最期を遂げた背景には、当然、クニグニの「支配権」を巡る熾烈な争いが在った訳ですが、その霊が「祟り」を為したのであれば、神話の形に変えて語り伝えられたような「落ち度(アマテラスへの裏切り行為)」は実際には無く、その「罪」と呼ばれた中身も濡れ衣だったのではないでしょうか?記紀は天若日子が「使命」を忘れ「オオクニヌシに媚び諂う」内に、葦原中国を「自ら治めたい」との欲を出したのだと喧伝していますが、オノコロ・シリーズが明らかにしたように彼(と長子の天目一箇命)こそが大国主と称えられた出雲地域を中核とした「オオクニ」の主(神格)であったとするなら、この「反逆者」の烙印は到底認められるものではありません。回りくどい表現になりましたが、筆者は出雲の大神の「祟り」の原因は、オオクニヌシ=天津彦根命=天若日子の死そのものに由来しており、その「事件」にホムツワケの祖先が直接関わっていたのではないかと考えているのです。ただ、それを証明できる資料は残念ながら存在しません。

ホムツワケに「言葉」をもたらした白鳥は出雲の宇夜江で捕えられました。垂仁帝の枕元に立った出雲の大神は『我が宮を天皇の御舎の如くに修理せよ』と霊夢の中で託宣し、皇子一行は出雲の大神を「拝む」旅に出た結果、自在に言葉が話せるようになったと記紀が伝えています。出雲風土記の出雲郡には、

  健部の郷、郡家の正東なり。先に宇夜の里と号けし所以は、宇夜都辨命、その山の峯に天降りましき。即ち、その神の社、今に至るまで尚ここにいます。

との記述があり日本古典文学大系の監修者は宇夜の里を「(出雲市)斐川町宇屋谷が遺称地」の註文を載せています。そして358本の銅剣・6個の銅鐸・16本の銅矛が見つかった出雲の荒神谷神庭遺跡は、その宇屋谷から僅か数百メートルの近さにありました。この地に様々な宝物が人知れず埋められたのは、出雲の大神の魂を鎮める目的があったからなのかも知れません。そして、記紀がホムツワケ神話で暗喩したかった事こそ、応神帝の祖神であり天津彦根命の弟である天日鷲翔矢命(少彦名命)の実像だったと考えられます。三島溝杭耳命あるいは鴨健角身の亦名を持つ彼こそ、神武帝の大和入りを先導したヤタガラスその物(人)だった事は既に説明してきましたが、少彦名神(の一族)が出雲の国譲り事件の折も同様に、黒幕的存在として天孫族の嫡宗側に「寝返った」可能性は否定できません。応神帝は息長氏出自の天皇であるとされ、後の継体天皇につながる大王家の基礎固めをした人物ですが、その祖神が少彦名命であるのなら二度にわたる「身内」の裏切りに、オオクニヌシの霊が祟ったとしても決して不思議ではありません。帝室が出雲国造を特別扱いし、天皇の代替わりごとに「神賀詞」の奏上を求めているのも、その「罪深さ」ゆえと考えれば納得できるでしょう。出雲国まで遥々と白鳥を追い続けた鳥取連は、言うまでも無くホムツワケ同様、少彦名命の後裔でした。

参考資料として別のページで使用した天津彦根命の系譜を下に貼り付けておきます。世代や人物などの配置には筆者の「想像=仮説」が含まれていますから、そのつもりでご覧になってください。系図の中に「神武帝」とあるのは、彼が丁度その世代に属している事を表しています。神話の世界で活躍したオオクニヌシ=天津彦根命は神武の祖父母とほぼ同じ世代の人なのです。その「子」のヤタガラス(或いは児)が神武天皇を大和に導き入れたとする逸話も信憑性を帯びてきますね。確か、天若日子が帰らぬ人となった時天上から弔問に訪れたアジスキタカヒコネは彼と大変親しかったと言います。天津彦根命一族の中でも天目一箇命(天御影命)の一家は古くから大和に居た三輪一族とも協調路線を採りながら勢力の拡大を緩やかに進めていたのかも知れません。

   

太古の大政奉還 銅鐸は大国主のシンボルであり、銅鏡をシンボルとする卑弥呼、邪馬台国に滅ぼされた

オオクニヌシと一緒に出雲の国造りを行っていた少彦名命は、或る日突然、兄に理由も告げずに「常世国」に旅立ちました。途方に暮れたオオクニヌシの表情が目に浮かびます。ヤタガラスの異名を持つ彼の子孫には鳥取連の他に三島縣主や鴨縣主がいます。継体天皇の跡を襲った長子の安閑天皇が摂津河内で「良田」を求めた折、喜んで自分の田を差し出したのが三嶋縣主で、その反対に『私の所には良い田は有りません』と嘘をつき天皇への献上を免れようとした「悪者」が天津彦根命の子孫・凡河内国造だと書紀が強調しているのも、息長系の大王たちが帝室の中核となった証だったと言えるのでしょう。地中に鎮まる銅鐸は地上界の争いごとに眉をひそめたことでしょう。

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