応神王朝の基盤を築きあげた稲背入彦命                                             「サイトの歩き方」も参照してください。

景行帝に播磨稲日大郎姫を、是非、皇后に迎えなさいと勧めたのは稲背入彦命であり、その景行帝こそ垂仁帝の謎に包まれた次男・五十瓊敷入彦命の真の姿である、等とは記紀の何処を探しても書かれていませんが、一つの仮説として論を進めてみましょう。『景行は垂仁の息子である』というのが記紀の立場なのですが、筆者の「瓊・玉・渟理論」に基ずく推理からは、崇神帝の名前(諱)である御間城入彦五十瓊殖の「五十瓊(いに)」をそのまま受け継いだ五十瓊敷入彦命という垂仁皇子が、実際は景行の本来の姿(諱)だという結果が得られています(具体的な論証については各ページを読んでください)。先ず、日本書紀の記述(巻第七の冒頭近く)から始めてみます。

  二年の春三月の丙寅の朔戊辰(三日)に、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)<一に云わく、稲日稚郎姫(いなびのわきいらつめ)と云う>
  を立てて皇后とす。后、二の男を生れます。第一をば大碓皇子と曰す。第二を小碓尊と曰す。                  [註:小碓尊は日本武尊のこと]
  一書に云わく、皇后、三の男を生れます。その第三を稚倭根子皇子と曰すという。                        [四年二月条では八坂入媛の所生とある] (中略)
  次妃、五十河媛、神櫛皇子、稲背入彦皇子を生めり。その兄神櫛皇子は是、讃岐国造の始祖なり。弟稲背入彦皇子は是、播磨別の始祖なり。

万葉集には「稲日野毛 去過勝尓 思有者 心戀敷 可古能嶋所見(稲日野も 行き過ぎかてに思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ)」という柿本人麻呂の一首が収められていますが、この歌を参考にするなら皇后の名前に冠されている「稲日」は明らかに播磨国の地名から採られたものに違いありません。景行には「八十人」もの子女があったと記紀は伝えており、その活動範囲も居並ぶ大王の中でも飛びぬけて広かったようですから、どの地方の女性と結ばれても不思議ではありませんが「崇神、垂仁」と続いた二代の大王が吉備や播磨の国から后妃を迎えていない事実から見て、三代目の皇后を帝室内部や畿内に数ある豪族家の娘から選ばなかったのには、それ相応の理由があったに違いありません。果たして、それは何だったのか?古代にも当然様々な「出会い」があったとは思いますが、遠くはなれた異国の娘さんと知り合う機会は、そうそう多くは無かったはずなので仲を取り持った人の存在が窺われます。次に、古事記の内容を見てみます。

  此の天皇(景行)、吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生みませる御子、櫛角別王、次に大碓命、次に小碓命。
  亦の名は倭男具那命。次に倭根子命、次に神櫛王、五柱。(中略)
  また伊那毘能大郎女の弟、伊那毘能若郎女を娶して生みませる御子、真若王、次に日子人之大江王。(以下略)         [註:この二人は書紀に記載が無い]

系譜に関しては記紀の間で「相違」が見られるのが通例ですが、景行の場合でも大きな違いが生じています。先ず皇后(最初の妻と云う意味か)の名前に書紀は「別伝」の形で「稲日稚郎姫」という呼称の女性だったかも知れないと言い、子供も「二人」だったとしているのに対し、古事記は「伊那毘能大郎女の弟(妹)」の名前が「伊那毘能若郎女」という姫であり、その人が「日子人之大江王」など二人を産み、姉は五人の皇子を生んだと伝えています。古代の命名の方法にも例外はあったにせよ「大郎女(長姉)」の亦の名が「若郎女(妹)」などと付く事など在り得ない話で、明らかに書紀は景行の后妃に関する記事を潤色しています。子女の人数も然ることながら一番大きな不審点は「皇后」との間に設けた大王に相応しい名前を持った「稚倭根子(わかやまとねこ)皇子」の後裔子孫が全く記されない処にあります。これは、先の大王垂仁の長男「ホムツワケ」或いは次男「五十瓊敷入彦命」のケースと全く同じ扱いだと言えます。第八代孝元(おおやまとねこヒコクニクル)、九代開化(わかやまとねこオオビビ)親子の例でも分かる通り「やまとねこ」は即ち「大和」の根源的な支配者である大王を意味した文言ですから、書紀の「一書」の但し書きは大変重い内容を示唆していると考えなければなりません。景行の跡取りは八坂入媛が産んだ稚足彦命(わかたらしひこ若帯日子命、後の成務帝)ですから、同じ媛が別に嫡男と紛らわしい名前の皇子も生んでいたという言い伝えは大いに不審と云わざるを得ませんが、正史が敢えてこの様な修正文飾を行ったその理由としては、景行の治世(四世紀半ばから後半頃)に於いて「後に大王となる別の人物が産まれていた」事実を暗喩した表記だった可能性が上げられます。その手掛かりも上で引用した記紀の文章の中にあります。

日本書紀  古事記  景行陵古墳  PR

これらの諸皇子について、少し時代が下りますが物部氏の伝承をまとめたとされる「先代旧事本紀」は、次のような形で景行の子孫たちを紹介しています(註:これが景行帝の皇子皇女の全てではありません。今回の主題に関わる部分のみを引用しています)。

  またの妃、三尾氏の磐城別の妹の水歯郎媛は、五百野皇女を生んだ。またの妃、五十河媛は、神櫛皇子と稲背入彦皇子を生んだ。
  またの妃、阿部氏の木事の娘の高田媛は、武国凝別皇子を生んだ。またの妃、日向髪長大田根は、日向襲津彦皇子を生んだ。
  またの妃、襲武媛は、国乳別皇子、次に国凝別皇子)、次に国背別皇子、またの名は宮道別皇子、次に豊戸別皇子を生んだ。
  またの妃、美人を御刀媛という。豊国別皇子を生んだ。

それぞれの資料は、内容が少しずつ微妙に異なっているのですが、ここで一人の特異な名前の皇子に注目してみます、それは「神櫛王(神櫛皇子)」と云う人物です。皇子に関する三つの資料の主張の差異は以下の通りです(「旧事本紀」は後段では神櫛別命の表記で書き分けている)。

   神櫛皇子の母親   神櫛皇子の同母兄弟 神櫛皇子の後裔など
 日本書紀   五十河媛  稲背入彦皇子  讃岐国造の始祖
 古 事 記  伊那毘能大郎女  大碓命、小碓命、倭根子命など五人   木国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖 
 旧事本紀  五十河媛  稲背入彦皇子  讃岐国造の始祖

旧事本紀の「国造本紀」は『応神朝の御世に、景行天皇の子・神櫛王の三世孫の須売保礼命を讃岐国造に定められた』(下の画像参照)とも記していますから、皇子の所生に関わる記述は書紀と旧事本紀が、より原型を色濃く残しているものと考えられます。つまり古事記の云う「伊那毘能大郎女」の息子で、かつ、小碓命(日本武尊)とも「兄弟」であるとする伝承は後世の編集を経たものだと言えるでしょう。では、神櫛皇子たちの母である五十河媛(いかひめ)とは誰なのか?ここで垂仁帝の后妃たちの名前を思い出した貴方は相当の古代史通と言えます。筆者の「瓊・玉・渟理論」が真価?を発揮する格好の場面です、それはさておき。書紀によれば垂仁の皇后・日葉酢媛には薊瓊入媛、渟葉田瓊入媛という名前の妹があり、それぞれ大王との間に子供たちを儲けました。

日本書紀  古事記 
 渟葉田瓊入媛  鐸石別命(和気氏の祖) 噡香足姫命(いかたらしひめ)   沼羽田之入毘売命  沼帯別命(ぬたらしわけ) 伊賀帯日子命(いかたらしひこ)
 薊 瓊 入 媛  池(息)速別命  稚浅津姫命(稲瀬毘古命の妻)  阿邪美能伊理毘売命  伊許婆夜和気命(穴太部の祖) 阿邪美津比売命
 垂仁紀34年条=山背の苅幡戸辺が五十日足彦命を生んだ。石田君の祖。  五十日帯日子王は春日の山君、高志の池君、春日部の君の祖。

ここに『次の妃の薊瓊入媛は、池速別命、五十速石別命、五十日足彦命(いかたらしひこ)を生んだ』(先代旧事本紀、天皇本紀)の記事を加えて推理するなら、開化記の系譜が伝えない「瓊・渟(いずれも玉を意味する)」の貴字を冠した姫が産んだとされる皇子の一人が「五十日足彦命」であり、この人物が五十河媛の本来の配偶者であったと推測されます。伝説に包まれた彦坐王の「最初の妻・山代(山背)之荏名津媛=曙立王の祖母」の亦の名が苅幡戸弁とも伝えられ、垂仁帝の妃の名前などとの混乱振りも、後世の史家によって垂仁から景行、成務、応神と続く「たらし王朝」正当化の加筆潤色が齎した結果だと思われますが、五十河媛が若し推理通りに五十日足彦命の妻であったのなら、先に見た神櫛皇子・稲背入彦皇子と云う二人は、景行帝の「子供」では無かった事になり、更に、二人は「兄弟」でも無く世代が異なる親子あるいは近親だと言うことに落ち着きそうです。「新撰姓氏録」には『讃岐公=大足彦忍別(景行)天皇、皇子の五十香彦命(亦の名を神櫛別命)の後』(右京皇別)と明記され、更には『酒部公=讃岐公と同祖、神櫛別王の後なり』(和泉国皇別)ともあります。神櫛皇子は五十香彦命(五十日足彦命)と同一人物であって、かつ、稲背入彦命より一つ上の世代に属する人なのです。

五十河姫と神櫛皇子  讃岐国造(神櫛王)  新撰姓氏録

では、稲背入彦命自身に関する言い伝えとはどんなものなのでしょう。話は大和と近江に建つ神社に移ります。近江は天智帝が都を置いた処としても知られていますが、琵琶湖東岸には天孫一族が祀った御上神社が在り、遠くない湖畔には兵主大社が鎮座しています。祭神と由緒について同社縁起は次のように記しています。

  当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、
  御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師(桜井市)に神地を占し兵主大神と仰ぎ、
  皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太(大津市坂本)に求められ、
  部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、
  稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。

解説を加えるまでもありませんが「広矛(武器)」つまり武力で国を平らげた「神」の象徴と寝食を共にしていた景行帝の身近に在った稲背入彦尊(「尊」の字に注目)が、帝に代わって穴師の地で「これを祀り」、後、景行が都を近江に遷した時にも、同皇子が「社地を穴太」に移し、欽明帝の御代になって稲背入彦命の子孫である播磨別などが三度「今の地」に鎮祭したと謂う訳です。記紀は景行の遷都について、その理由らしきものを黙して語りませんが、五十瓊敷入彦命でもあった帝が若き日に、茅渟の河上の地で「一千口の剱」を拵え、忍坂に収めた後、石上神宮に蔵した故事を思えば、金属鍛冶の技術(武器製造)に深い関心のあった景行を、新たな地に誘った人こそ稲背入彦命だったのではないのか、と筆者は考えています。そして播磨風土記が、賀古郡、比禮墓の段において、

  昔、大帯日子命、印南の別嬢を誂いたまいし時、御佩刀の八咫の剱の上結に八咫の勾玉、下結に麻布都の鏡を掛けて
  賀茂の郡の山直等が始祖息長命<又の名は伊志治>を媒として、誂い下りましし時

と云う伝承を書き留めている点にも留意すると、垂仁帝の娘(稚浅津姫命)婿として王室の一員となっていた稲瀬毘古命(稲背入彦命或いは、彼の近親))が、全国制覇を夢見る次の大王の側近として発言力を増し、自らの勢力基盤でもある播磨国に居た一族とも連携して吉備氏の長女を帝室に送り込んだのではないか。それが今回の結論です。蛇足になりますが吉備も近江も鉄の産地として有名です。なお、播磨風土記は景行帝と姫の媒をした別の人物について下記の様に伝えています。

 賀古郡、比禮墓=襟墓と号くる所以は、昔、大帯日子命、印南の別嬢(稲日大郎姫)を誂いたまいしとき、御佩刀の八咫の剱の上結に八咫の勾玉、下結に麻布都の鏡 
 を掛けて、賀毛の郡の山直等が始祖息長命、一の名は伊志治を媒として、誂い下りましし時、摂津の国、高瀬の済に到りまして、
 『新撰姓氏録』和泉国神別、山直、天穂日命十七世孫、日子曾乃己呂命の後なり。                                         [つまり「山直」は出雲国造の同族です]
 TOP    
     
 人気のページ   お地蔵様の正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   出雲の阿国は歌舞伎の元祖   オオクニヌシは天目一箇命か   邪馬台国と卑弥呼