尾張氏と「オコゼ」と南方熊楠                                            サイトの歩き方」も参照してください。

昭和四年六月、紀州を訪れた天皇に自らが長年研究した粘菌に関する成果を進講、生物学に関心の深い帝への贈り物として110点にも及ぶ標本を大きなキャラメルの空き箱に入れて献上した逸話で知られる南方熊楠(みなかた・くまぐす、1867〜1941)は、科学の分野にとどまらず民俗学の魁でもあり明治末、政府の御声がかりで強引に推し進められた「神社合祀」にも強く反対、多くの神社が消滅することを阻止しようと運動を展開しています。彼が桐の箱代わり使ったキャラメルの銘柄は森永とバナナキャラメルだったのだとか…、それはさておき。

「玄同放言」表紙  「続日本紀」より  「三才図会」より

熊楠の「随筆」集によると、UFOのページでお馴染みの曲亭馬琴(きょくてい・ばきん、1767〜1848)の文章からの引用として、

  滝沢解の『玄同放言』巻三に、国史に見えたる、物部尾輿(おこし)大連、蘇我臣興志(おこし)、尾張宿禰乎己志(おこし)、
  大神朝臣興志(おこし)、凡連男事志(おこし)等の名、すべてオコシ魚の仮字なり、と言えり。『和漢三才図会』巻四八に、
  この魚、和名乎古之(おこし)、俗に乎古世(おこぜ)という、と見ゆ。惟うに、古えオコゼを神霊の物とし、資(よ)ってもって  
  子に名づくる風行なわれたるか、今も舟師山神に風をいのるにこれを捧ぐ。

と言う一文があるのですが、確かに馬琴は「玄同放言」巻之三上[第廿九人事]の冒頭に置いた『姓名称謂』の中で多くの氏名を取り上げており「鯨」「鮪」「鰹」「目黒堅魚」「鯛」「鮒」に続けて「おこし(おこぜ)」の名を持つ人物を列記しています。その内の一人が、今回の主人公というか狂言回し役の「凡連(おおしむらじ)男事志」なのですが、馬琴は出典を明らかにする目的で[割註]に「続紀九、元正紀」と明記しています。続紀は「続日本紀」の略ですが、巻第九に凡連たちの記事はありません。博覧強記と言われた彼にも単純な写し間違いはあったようで、続紀巻八「養老五年(721)」正月の項に、元正帝から、

  百官の中から学業を深く修め、他の模範となるべき者に褒賞が与えられた

とあり、「武芸に秀でた」従七位下の凡海連興志も、明経博士・文章(もんじょう)などと共にその名を末席に連ねてはいます…(上中央の画像)。しかし、一目見てお分かりのように「姓」は「凡連」ではなく「凡海(おおしあま)連」であり、名も「男事志」ではなく「興志」となってます。名を表した文字については孝徳朝の蘇我臣興志、あるいは元明朝の大神朝臣興志なども「興志」と記されていますから、熊楠が述べているように「乎古之」の呼び名を「男事志」に作る資料が馬琴の手元にあったのだとも考えられるのですが、姓の方は、どう見ても「別物」だとしか言いようがありません。実は、今回「凡連」に焦点を合わせたのには理由があります。この姓は「古事記」にのみ一度だけ登場し「日本書紀」にも「新撰姓氏録」にも採録されていない摩訶不思議な存在なのです。そして、皆さんご想像の通り、サイトの中心人物・継体帝に関わる人物の名前に他なりません。

通説や教科書の記述にある通り、ヤマトに勢力を持つ豪族たちの「要請」を受けた大々杼王は、大王家の皇女と結ばれ帝の位を「引き継ぐ」ことになったのですが、それ以前、既に結婚しており、子供にも恵まれていました。元々の正妃であった女性について「古事記」は、

  天皇、また尾張連等の祖、凡連の妹、目子郎女を娶して生みませる御子広国押建金日命(安閑)、次に建小広国押建楯命(宣化)

と東海に強い地盤を有する尾張氏(等)の「祖」である「凡連の妹」が二人の大王の母親であるとしているのですが、日本書紀は、

  元の妃、尾張連草香が女を目子媛という。またの名を色部。二の子を生めり。皆天下を有らす。

と別の系譜を記しています。同じように見えて決定的に異なる部分が「尾張連」「等」の祖が『凡連』であって、その「妹の嫁ぎ先の家」が大王家であったとする古事記に対して、書紀は「尾張連」「草香」という特定人物の娘である「目子媛」あるいは「色部」という名の女性が二人の大王の実母であったと主張している点です。更に、書紀が具体名を挙げた「草香」という豪族は、この段に登場するだけで、孫二人が大王に「出世」したにもかかわらず正史に再び記録されることもありませんでした。つまり古事記が「等」の一字を入れる事で「尾張氏」と「凡(海)氏」の関係を極めて曖昧に示唆したのに対し、書紀は伝承の裏付けを全く持たない正に「幽霊」のような人物が大王たちの祖父だと主張している訳です。堂々巡りとは正に、このような状況を云うのでしょう。ただ、管理人の見方が偏っている性なのかも分かりませんが、記述の内容は古事記の方が「何か」を遠まわしに伝えようとしている風にも思えます。若し、この憶測が当たっているのなら、謎解きの鍵は「凡連」と云う「存在しなかった?」姓そのものにあるでしょう。(但し、古事記の伝承でも元妃は『凡連』の「」ではなく「妹」に位置づけられ、凡連には外戚としての資格も無いのだと言いたげです)

古事記  日本書紀  幻の「凡連」か! 

西暦701年、大宝元年三月十五日、文武天皇は追大肆・凡海宿禰麁鎌(おおしあまのすくね・あらかま)に『陸奥に赴き、冶金(金の精錬)を行え』との命を与えます。この珍しい名前の持ち主は「日本書紀」に只一度だけ姿を現し、大切な役目を果たしているのです。諸王臣たちが観世音菩薩像を造り、大官大寺で観世音経を説いたにもかかわらず朱鳥元年(686)九月九日、天武帝が亡くなります。その殯庭において、

  第一に「壬生の事」を誄(しのびことたてまつ)った

つまり天皇の「幼少期の思い出」を葬儀の始まりと共に述べて故人を偲んだのが凡海宿禰荒蒲(麁鎌)だったのです。話が少し繋がってきましたね。壬申の乱を制して、天智の子・大友皇子を実力で排除して大王の位を獲得した天武の諡(いみな)は「大海人皇子(おおしあまのみこ)」ですから、幼い頃、彼の養育に当たった一家が大海氏(凡海氏)だったことが分かります。王家の伝統と共に、自己の業績を後世に伝えようとした天武は、

    於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅
  斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰 録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉

との思いを込めて稗田阿礼に『勅語』して『皇帝日継および先代旧辞を誦み習わさせた』のですが、何故か帝の意思は実現されませんでした。ところが持統、文武を経て元明の世に至ってから唐突に、

  此処に、旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて
  臣安萬侶に詔りして、稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せよ

とのお達しが示されたのです。「続日本紀」は例によって、この帝室にとっての重大事を記録していませんが、元明朝の右大臣が藤原不比等であることに思いを致すなら、持統帝が691年、主要豪族十八氏に『祖等の墓記』を提出させた「狙い」が鮮明となります。天武の意図した「帝記と本辞」の編集方針は、持統・不比等のコンビによって大きく軌道修正されたに違いなく、古事記の「献上」時には未だ、

  天武帝の「育ての親」としての凡海氏(海人族)=尾張氏

と言う「事実」そのままでは無かったにしても、それを窺わせる「凡連」という暗号めいた姓の記述が許されていたものの、正史・日本紀の編纂に至っては、藤原氏主導による「天智還り」が加速、二人の大王の実母の存在そのものは否定できないため、わざわざ「尾張連草香」という架空の人物を創作して、天武帝と大変強い絆で結ばれていた「尾張氏」の実像を、出来る限り不透明にしようと試みたのではないかと推理されるのです。だとすれば、文武の名の元に出された「陸奥で金を探して来い」という命令も、嫌がらせに近い性格のものだったように思えてきます。(言わずもがなの事ですが、文武の夫人が藤原不比等の娘・宮子であり、二人の間に産まれた子が聖武帝その人に他なりません)天武は晩年に当たる天武十年(681)三月、川嶋皇子・忍壁皇子ら十二人に対して、

  帝紀および上古の諸事を記し定めるよう

詔(みことのり)したのですが、実際に『親ら筆を執りて以って録(しる)』したのは藤原一族の中臣連大嶋たちだったのです。「新撰姓氏録」は摂津国神別の項において大海連を取り上げ『安曇宿禰と祖を同じくし、綿積命六世孫、小栲梨命の後なり』と伝えており、その名の通り「海の人」であった様です。一般に尾張連は「天火明命(アメノホアカリ)、天香語山命(高倉下命」の後裔と理解されているのですが、丹後・籠神社の海部氏とも同族が云々される古代きっての旧家ですから、その出発点近くで枝分かれした家の一つが「凡海(大海)」氏だったのかも知れません。「尾張連の祖」と表記したのは古事記編者の配慮だったとも受け取れますね。さて、オコゼに始まった今回の彷徨も終点に差し掛かりました。WEB上で「唯一」凡連の資料と認められる画像(上右)を紹介して、稿を閉じます。なお、これは東京大学資料編纂所が収蔵している「大日本古文書」に含まれる一頁で、恐らくは正倉院文書の一部ではないかと考えられます。又、この文書には天平勝宝五年(753)五月一日の日付があります。この前年、東大寺では大仏の開眼供養会が国家を挙げた事業として盛大に行われ、翌年には唐から鑑真が来朝しました。

 書紀、持統天皇五年八月条=八月の己亥の朔辛亥に、十八の氏(大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、安倍、佐伯、 采女、穂積、安曇)に詔して、その祖等の墓記を上進らしむ。[尾張など必要ないとの意思表示にも思えますね]

恒例?のオマケ話を付けたしましょう。尾張氏と近しい関係があったと思われる安曇連については「古事記」が三貴子分治の直前で、

  この三柱の綿津見神は、安曇連等の祖神ともちいつく神なり。故、安曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり

とありますから「新撰姓氏録」が伝えている「綿積神命の児、穂高見命」と宇都志日金柝命(ウツシヒガナサク)は同神であると考えられます。綿津見神は初代・神武帝の母方の祖父ですから、相当「古い」時代から帝室と関わりを持っていた(という)伝承があったのでしょう。その安曇連と尾張氏がどこで繋がるのかと言うと、この穂高神社の祭神・穂高見命には「振魂命(フルタマ)」という分かりやすい名前の弟がおり、その子・天前玉命と尾張氏の遠祖・天火明命が「同神」であるという系図が存在しているのです。「天前玉命」の読みですが「天」は尊称とすれば「前玉」は「さきたま」と読めます。あの有名な鉄剣が出土した行田市の稲荷山古墳を含む「さきたま古墳群」を思い浮かべてしまいますね!

     
     
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