阿蘇ピンク石と景行天皇と茨田一族について                                              「サイトの歩き方」も参照してください

考古学の分野での調査研究が進み、真の継体大王陵ではないかと見られている大阪高槻の今城塚古墳から阿蘇溶結凝灰岩(通称・阿蘇ピンク石)の石棺材が見つかり、大和橿原では元の推古竹田陵ではないかとされる植山古墳から阿蘇ピンク石製の石棺そのものが発掘された。たまたま二つの古墳の主が古代大和朝の大王であったと推測されたため、一部で阿蘇ピンク石製の棺を「大王のひつぎ」と決めつける様な記事も見られました。しかし、今城塚古墳からは「三つ」(竜山石と二上山石)の石材が出ており、その内の一つにピンク石片が含まれていたのですから、大王の棺であったのかどうかは分かりません。ただ、今城塚の近くには「摂津名所図会」にも紹介されている「女九神社(めここのつのやしろorめくのやしろ)」と呼ばれる小社が在り、継体帝が亡くなった折「九人の后妃」あるいは「尾張目子媛」が一緒に墓に葬られたという言い伝えが残されていますから、今城塚に大王と共に埋葬された女性が居た可能性が高いと考えられます。石棺材という「物」から得られる、@竜山石=播磨系、A二上山石=大和系、B阿蘇ピンク石=北九州系の三つの地域との関連性を手掛かりにするなら、大王・大王妃の中に「北九州」との縁で結ばれた人物が居たのかを先ず調べてみなければなりません。古事記は言います『神武帝には日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命の三柱の御子があり』『その日子八井命は茨田連、手島連の祖である』と。

大和中枢に権力基盤を持たなかったのではないかと考えられるオオド王は、近江、尾張そして河内等の豪族首長との間で婚姻関係を深めて実力を蓄えていましたが、そのうちの一人が「茨田連小望の娘、或いは妹の関媛」で、大王との間に三人の娘が産まれています。この氏族名は仁徳十一年冬十月条にある「茨田堤」の築造に関わる記事にも登場していますから、継体帝にとっては高い土木技術を有した集団の長として頼り甲斐のある存在と意識されていたのだと推測されます。その茨田連について「新撰姓氏録」は、

  茨田連  右京皇別、山城皇別  茨田宿禰と同祖、彦八井耳命の後なり
         河内皇別           茨田宿禰、多朝臣同祖、彦八井耳命の後なり、仁徳天皇御代、茨田堤を造る      

とあって、古事記の注記に対応しています。つまり九州に地盤のあった阿蘇氏や敷桁彦命を祖先に持つ多氏、更には大分国造や火国造などを輩出した健緒組命とも「同祖」だと主張している訳ですが、姓氏録には、これとは別にもう一家、興味深い氏族が顔を見せています。それが、

  茨田勝  山城国皇別       景行天皇皇子、息長彦人大兄瑞城命の後なり

とする「茨田勝(まんたすぐり)」家です。この皇子の名前は、日本書紀には見えず、先代旧事本紀にはよく似た息前彦人大兄水城命奄智白幣造の祖)の名が天皇本紀に見えており、古事記には伊那毘若郎女(播磨出身、皇后の妹)との子供に日子人大兄王が居たとあります。また、書記の仲哀二年春正月条には、

  気長足姫尊を立てて皇后とす。これより先に、叔父彦人大兄が女、大中姫を娶りて妃としたまう。香坂皇子、忍熊皇子を生む。

とも記されていますから、息長一族の中心に居た人物のように思われるのに、記紀では殆ど触れられることも無く妙に影の薄い存在です。また、この王が仲哀帝の「叔父」だとすれば彦人大兄はヤマトタケルと「兄弟」の間柄になるはずです。従って、景行の「皇子」の一人という位置付けが行われたのでしょう。次に、旧事本紀の「奄智」に注目してみると、同書は「豊門別命が三島水間君、奄智首、壮子首、粟(阿波)首、筑紫火別君の祖」であり「櫛角別命が茨田連の祖」だと記録しています。(書紀は襲武媛との子・豊戸別皇子が火国別の始祖であるとする)ここでやっと、

  茨田連(九州・彦八井耳)−−茨田勝(山城・景行・息長)−−彦人大兄(景行・息長)−−豊門別命・豊戸別(奄智・火別君・火国別)−−茨田連(讃岐、櫛角別命)

と云う景行帝を中心核に据えた一つの疑似円環が出来上がります。景行と奄智との繋がりは「天孫本紀」にある物部竺志連公(奄智蘰連の祖)が景行に随った(九州に遠征か)こと、彼の異母妹・五十琴姫が景行妃となっていること(子供が五十功彦命)など二重三重の縁で結ばれており、輪の最後に置かれた「櫛角別命」は「神櫛王、五十河彦命、五十香彦命」などとも同一人だと考えられます(姓氏録、右京皇別には『讃岐公、景行皇子、五十香彦命(亦名、神櫛別命)の後なり』とあります)。ここまでの推理が正しいとして、筆者は日本書紀が景行と「五十河姫」との間に産まれたとする、

  @ 神櫛王=讃岐国造の祖    A 稲背入彦王=播磨別(播磨国造)の祖

二人の皇子の存在に強い関心を覚えます。何故なら、今回の主題の一つである阿蘇溶結凝灰岩を使用した石棺などの時代を追った分布が次のように分析されているからにほかなりません。先ず、阿蘇産の凝灰岩はそれぞれ@氷川下流域、A菊池川下流域、B宇土半島(馬門)の順序で採石されたと考えられていますが、その内の最も早い時期に造られたと思われるものが、

  T 京都府八幡市・八幡茶臼山古墳(旧山城国、八幡市八幡荘)推定四世紀後半   U 兵庫県たつの市御津町・中島石棺(旧播磨国)推定五世紀初頭

の石棺で、その次に古いと言われている「長崎鼻古墳、丸山古墳、青塚古墳(推定五世紀前半)」の三つが何れも旧讃岐国に築造されたものなのです。つまり、現在知られている九州、阿蘇溶結凝灰岩製の石棺は、最も早い時期に「京滋山城(八幡)」に持ち込まれた後、四国讃岐および吉備播磨地方の豪族が自分たちの終の棲家の石材として利用し、その後、河内や大和更には摂津、近江へと広がったと考えられる訳です。ところで、上で見た二人の皇子の母・五十河姫(イカヒメ)と神櫛王の別名・五十河彦(イカヒコ)の名前に着目し、先代旧事本紀の景行段で「五十河彦命は讃岐直、五十河別の祖」と記してある事を合わせて考慮すると、この二人が元々「夫婦」の関係であったと推測できます。若し、この想像が許されるなら、稲背入彦王の父親こそが「讃岐直、讃岐国造、五十河別の祖」であり、景行帝と同皇子との[親子関係]は「後世、人為的に造られたもの」だと言えそうです。また、二人の皇子が「親子」だったとしたら、阿蘇の凝灰岩が「讃岐〜播磨」へと伝わったとする考古学の研究成果とも齟齬をきたしません。(山城を地盤とした景行皇子・息長彦人大兄瑞城を祖とする茨田勝が、ここでも注視されます。息長を中心に考えると針間阿宗君の祖・息長日子王−−息長宿禰王−−加邇米雷王−−山代之大筒木真若王のラインも併せて考慮すべきかも知れません。更には「息長」を冠した名前の娘・息長水仍比売が彦坐王に嫁ぎ、天津彦根命の一族に山背国造が在ることにも注目すべきでしょう。その天津彦根命が倭淹知造の祖でもあるのです。八幡茶臼山古墳からは少し南方に離れていますが、八幡市岩田という土地に五十日足彦命を祭神とする石田神社もあるので、息長族と天津彦根一族との濃厚な関係が垣間見えます)

中島石棺  阿蘇ピンク石  女九神社 PR

ただ稲背入彦王についても古事記は何も語らず謎の人物というしかありませんが、唯一の手がかりになりそうなものが、垂仁帝の系譜段にある、

  また旦波比古多多須美知宇斯王の娘、氷羽州比売命(日葉酢媛)の弟、阿邪美能伊理毘売命を娶して生みませる御子、阿邪美都比売命。
  (中 略)次に、阿邪美都比売命は稲瀬毘古王に嫁ひたまいき。

の一文です。岩波古典文学大系の編集者も、この王子が景行の子・稲背入彦皇子か、と注釈を付けていますが恐らく「稲背入彦命」という王族の一員が垂仁帝の娘と一緒になること(婿入り?)で帝室の内部に組み込まれたものだと考えられるのです(唯、古事記が皇后・針間之伊那毘能大郎女の産んだ王子として、何故、櫛角別王と神櫛王の名前を別個に上げているのかは不明。書紀の神櫛王[五十河媛所生]兄弟に対応させたと考えるのが穏当だとは思うのですが…。尚、混乱を避けるため上の”円環”の所では敢えて註文を入れませんでしたが、古事記は櫛角別王を[茨田の下の連らの祖]、神櫛王を[宇陀の酒部の祖]だと書き分けています)。さて、非常に複雑な「改編」が施された稲背入彦王の事績を知る手掛かりは意外な所に在ります。それが、近江にある神社、兵主大社の『兵主大明神縁起』という資料です。

八千矛神(大国主神)を主祭神とする同社には、

  オオクニヌシが天孫に国を譲った時、御杖にと「国平御矛」を授けられ宮中で祀っていたが、景行帝はその神威を畏み穴師に神地を選び
  兵主大神として、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をして、これを祀らしめた。その後、同天皇が近江国に遷都される時、また同皇子が宮城の
  近くの穴太に社地を求め、部属を率いて遷し祀った。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を東に移住するに際し、
  再び大神を奉じて今の地に鎮祭し御神徳を仰ぎ、稲背入彦尊を乙殿神と崇め祀り、神主(氏上)の祖神と仰いだ。

とする極めて具体的な「言い伝え」が残されています。日本書紀は「景行五十八年春二月」に近江へ行幸した帝はそのまま三年住み続けたと記録し、これを滋賀高穴穂宮としたらしいのですが、兵主側の伝承の背景には『景行帝の頃、稲背入彦皇子が大いに武威を発揮した』といった意味合いの他に、近江への遷都も同皇子の先導?があり、欽明朝にも子孫一族が近江国以東の発展に大きく寄与したとでも言いたげな口調が感じられます。この点について筆者は、かつて景行帝あるいは日本武尊の九州遠征に貢献した一族があり、その子孫の一人が稲背入彦王という人物ではないかと想像していたのですが、今回の阿蘇ピンク石の「移動ルートと時期」を調べてみて、更に、その思いを強くしました。また、河内楯原神社に伝わる「河内息長氏」の伝承にも「大国主が国を平らげた剣」を祀るという主題があって、息長との深い関連性も見逃せません。ここまでの推理をまとめると、以下の事項に集約されます。

  @ 継体帝が妃の一人として迎えた関媛の実家、茨田連は仁徳朝(つまり何代も前)から続く旧家であり祖先も親戚同志という伝承のある氏族だった(茨田屯倉の管理者か)。
  A 同名の茨田勝は、景行帝の皇子、息長彦人大兄水城王を祖先とする一族だった。本貫の地は山城にあり茨田連との同族関係は不明。
     息長彦人大兄瑞城命=息前彦人大兄水城王=日子人大兄王=大江王(息長一族の祖?、仲哀皇后の父親)≒稲背入彦王?
  B 先代旧事本紀は櫛角別王という人物が茨田連の祖であり「新撰姓氏録」は五十香彦命(亦名、神櫛別命)が讃岐公の祖先だと記している。
     この「櫛角別王」と「神櫛別王」更には「神櫛王」は何れも同一人と思われ、日本書紀は景行帝と五十河媛との間に神櫛王と稲背入彦王が産まれたと記している。
     櫛角別王=神櫛別王=神櫛王=五十香彦命=五十河彦命(同様の書き分けが息子の稲背入彦王についても随所に施されていると考えられる。A参照)
  C 天皇本紀は五十河彦命が「讃岐直、五十河別の祖」と記し、茨田連の祖である「神櫛王」と同一人であると見られることから、書記が系譜上「兄弟」としてきた、
     神櫛王(讃岐国造、酒部公の祖)と稲背入彦王(針間直、播磨別)は実は「親子」の関係にあったと思われること。

ホムタワケ・応神帝父親は仲哀帝ではなく「稲背入彦命」だったか?

「古事記伝」で知られる国学の大家、本居宣長は、その神櫛王について興味ある解釈を残しています。第二十九に含まれる「讃留霊王」にまつわる文章なのですが、大意を訳すと、

  讃岐国鵜足郡に祠があり、景行23年、倭建命の子讃留霊王が土佐の南の海に居た悪い大きな魚を退治した。そして留まり国主となった。
  これが綾氏、和気氏らの先祖ということだが、或いはこれを景行帝の御子・神櫛王なりとも又は大碓命なりとも云い伝えている。 
  讃岐の国主の始まりは倭建命の御子、武卵王の由、古書に見えているので、或いは武卵王のことかも知れない。

つまり宣長は「讃留霊王=神櫛王=大碓王=武卵王(たけかいこ)」である可能性について示唆している訳で、武卵王の「両親」に関して書記と古事記は珍しく一致した系譜を記しています。父は日本武尊そして母が吉備武彦の娘・吉備穴戸武媛の間に産まれたとされる王子の存在が、吉備播磨と讃岐の一方ならぬ関係を意味していることは言うまでもありません。しかし、いずれにしても悪い「大魚」を征伐した王は、元々から讃岐に居たのではなく「外」からやってきて四国に「留まった」人なのです。では、王の本当の「生国」は何処だったのか?それを「証言」してくれる物証こそ「阿蘇」溶結凝灰岩なのだと思います。阿蘇が「火の国」「肥の国」であることは論を俟ちませんが、その「火国造」に崇神朝の頃、大分国造と同祖の神武皇子、神八井耳命を遠祖とする多氏族の志貴多奈彦の息子・遅男江命が任じられたと「国造本紀」が伝え、正史の書紀は『景行帝の皇子、豊戸別皇子が火国造の祖』であると記録し、肥前風土記は「敷桁彦命の子の健緒組が火国造の祖」だと主張しています。正に三者三様の記述にも思えるのですが、先代旧事本紀の「天皇本紀」は、

  景行皇子・豊門別皇子  三嶋水間君、奄智首、筑紫火別君、壮子首、粟(阿波)首らの祖

としているのに対して日本書紀は、襲武媛の生んだ三人の皇子のうち、

  兄の国乳別皇子は、これ水沼別の始祖なり。  弟、豊戸別皇子は、これ火国別の始祖なり。

と書き記しています。「水間」と「水沼」、「火別君」と「火国別」は明らかに書き分けの典型だとすれば旧事本紀の謂う「豊門別皇子」と書紀が記した「豊戸別皇子」は同一人に違いありません。そして、この推理を前提にするなら、敷桁彦命(シキタナヒコ、志貴多奈彦と同一人?)の子供だとする健緒組(タケオクミ)と、志貴多奈彦命の子供・遅男江命が同じ人物である可能性があり、書記の言う国乳別皇子も同一人であると考えられなくありません。今回のまとめを想像も含めて系譜風に書くとすれば、

  神武帝−−神八井耳命(彦八井耳命)……敷桁彦命−−健緒組命(豊戸別)−−武卵王(神櫛王)−−稲背入彦王(息長彦人大兄王・大江王)……茨田勝

となって「息長」の源流が意外に奥深い処から出ている様に見えます。播磨国の総社が射楯兵主神社(祭神は五十猛神)であり、姫路市白国に鎮座する白国神社が稲背入彦命の孫・阿曽武命(アソタケル)を祀っていることは以前にも紹介しました。上で見た中島石棺は御津町朝臣(アサトミ)から出土したと伝えられていますが、そのほぼ真北、たつの市誉田町広山に建つ阿宗(アソ)神社に祀られている神様の一人が針間阿宗君の祖先・息長日子王で、彼の祖父が加邇米雷王その人なのです。宣化帝が即位の直後、元年夏五月に出した「詔」の一部には『胎中之帝より、朕が身に至るまで、穀稼を収蔵めて、儲粮を蓄え積みたり。(中略)故、朕、阿蘇仍君(未だ詳らかならず)を遣わして、また、河内国の茨田郡の屯倉の穀を運ばしむ』とあります。大王の地位にあった者が「氏素性の分からない」誰かを大切な「稲籾」の輸送責任者にしたとは思えませんね。良く知られている「息長」の血脈は二系統があり、それは凡そ次の通りです(注記・継体帝の系譜で応神帝は杭俣長日子王の娘婿の位置に配されています)。

  @ 日本武尊−−息長田別王−−杭俣長日子王……応神帝−−若沼毛二俣王−−大郎子
  A 山代之大筒木真若王−−加邇米雷王−−息長宿禰王−−息長帯比売命−−応神帝

つまり息長の系譜は「応神」を軸にして交叉し、分岐しているのですから応神以前に一度、更に応神以後にもう一度全ての「つながり」が改編されたのではないかと思われます。「茨田」を鍵にして、日本武尊(ヤマトタケル)の子の位置を与えられた息長田別王を、実は、小碓尊の兄弟「櫛角別王=神櫛王=武卵王」だと見做すなら、これらの系図において杭俣長日子王(クマタナガヒコ)の部分には当然「稲背入彦命」が入っていなければなりません。そうすると、応神帝(ホムタワケ)の父親は「謎の死」を遂げたとされる仲哀帝などではなく、垂仁帝の娘婿・稲背入彦命だったのではと推測することも不可能ではない事になります。父親が「異なる」のであれば母親だとされる息長帯比売命も又、編集の手を加えられた存在と見做すべきです。彦坐王の一族に連なる者の中に「神功」皇后に比すべき女性が居たのだとすれば、それは垂仁帝の皇后・狭穂姫か日葉酢媛しか居ないと思うのですが、皆さんはどのように判断されるでしょう?(狭穂姫の生んだ唯一の皇子が誉津別命・ホムツワケという名の持ち主でした。日葉酢媛は言うまでも無く景行の母親その人です)古代史パズルは未だ未完成です。しかし、稲背入彦命が息長氏にとって極めて重要な存在であったことだけは間違いありません。

長閑な忍坂の里  歴史街道の案内標識

オマケ話を一つ。古代史に興味のある方なら一度や二度は「隅田八幡神社人物画像鏡」という言葉を聞いたことがあるでしょう。5〜6世紀に国内で造られた紀年鏡で、そこには、

  癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮(オシサカノミヤ)時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

という文字が鋳込まれており「癸未年」や「男弟」そして「斯麻」の意味する所の解釈を巡り研究家たちの意見は多岐に渉っています。今回の主人公は稲背入彦命ですが、その義父とされる垂仁帝三十九年十月、皇子の五十瓊敷入彦命は「剣一千口」を造り「忍坂邑に蔵」めたとあり、皇子の同母妹の名が大中姫命と言いました。恐らく、記紀の編集者たちは、これを「原型」にして帝室の系譜伝承を書き加えたものと思われ、神宝の管理を皇子から託された(事実上の女帝)大中姫命は時代を超えて仲哀帝の前の皇后の名前として現れ、更には允恭帝を公然と支えた忍坂大中姫(都祁国造との逸話の主)として三度正史に登場することになります。五十瓊敷入彦命が大量の武器を製造した時期を、垂仁朝の前半だと仮定すると、稲背入彦命のヤマト入りは西暦300年代前半だったのかも知れません。垂仁帝には、もう一人「五十」の付く五十日足彦命(イカタラシヒコ)という名の皇子もいますが、この皇子の母親が薊瓊入姫(又は、苅幡戸辺)で、この妃の産んだ稚浅津姫命が稲背入彦命の妻。苅幡戸辺(カリハタトベ)は天津彦根命の後裔ですから、ここでも息長と天津彦根は交錯しています。

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