阿蘇ピンク石と継体天皇そして安閑皇について             「サイトの歩き方」も参照してください。

民謡の宝庫とも呼ばれる東北ですが、山形には華麗で軽快な踊りで知られる「花笠音頭」があります。元々は人々が道普請などの屋外「作業」を行っていた時、皆の呼吸を一つに合わせるための「土突き歌」がそもそもの原型だったと云う説もあるようですが、民謡化されたのは江戸期ではなく昭和の初め頃でした。今や全国的にも知られる様になり、地元の大学には同好会まで結成される程の人気を誇る音頭には「蔵王権現さんも、お盆の夜は、笠の踊りに浮かれ出る」の一節が含まれ、お祭りの賑やかさが伝わってくるようです、それはさておき。皆さんもご存知の通り「蔵王権現」と称される仏様(と同時に神様)は、インド仏教由来の存在ではなく我が国固有の信仰対象で、有名な役行者(小角、631〜701)が吉野の金峰山で修業中に示現したという曰くつきの仏様なのです。つまり修験道にとって最高位に置かれる有り難い仏様なのですが、神仏習合が進められる中で、何故か六世紀に実在した安閑天皇(466?〜536)と深く結びつき、明治期に神仏分離が明確になされてからも尚、同帝と蔵王権現との縁は堅いように見受けられます。

周知のように安閑帝は六世紀初め、畿外から立って大和の豪族たちの支援を得ながら実力で大王の地位を手に入れた継体天皇(450?〜531?)の長子で、諱を広国押武金日、勾大兄皇子と言い、父帝が最初の妃とした尾張氏出身の目子媛を母に持つ人物ですから、父と共に畿内に入るまでは主に地方での生活が長かったと思われます。その諱に「金(カネ)」「勾(マカリ)」の文字が含まれている事は、この大王自身が息長氏の特性である製鉄鍛冶の分野で特に優れた才能を持っていた、或いは配下の家臣団が卓抜な技術力(軍事力をも含む)を持ち、父親の全国制覇を強く後押ししていた事を窺わせるのですが、和邇氏系の春日山田皇女(仁賢天皇の娘)を始め四人の后妃を迎えながら、一人の子女にも恵まれなかったことから、同帝の血筋は本人の他界によって途絶えたとされています。(「本朝後胤紹運録」という資料には、安閑帝の子息として豊彦王の名前が載せられています。その註文は秦氏との関連を示唆する内容となっています)

 本朝後胤紹運録:十五世紀朝廷内で法皇から信任を得て内大臣の職を務めた洞院満季(1390〜?)が編んだ帝室の系譜で、天皇家の一族を知るのに便利な資料。
 現在伝わるものにも諸版あって、豊彦王の名前そのものが掲載されていない版も存在する(京都大学収蔵のものなど)。成立は応永33年(1426)。

かつて筆者は琵琶湖西岸の高島市安曇川町を訪れたことがあり、たまたま駅の近くに在った安閑神社に立ち寄ったことがあります。その当時は未だ石棺材としての阿蘇ピンク石についての関心も薄かったのですが、継体天皇の存在にはかねてより興味があったので、その息子を祀る神社が何故、近江の地に建てられているのか不思議に思ったものでした。『上宮記』逸文には「伊久牟尼利比古大王(垂仁天皇)−−伊波都久和希−−伊波智和希−−(中略)−−乎波智君−−布利比弥命(振媛)」とつながる「三尾君」の系譜が載せられており、記紀のいずれもが石衝別王(磐衝別王)を三尾君の始祖だとしています。また安閑神社の西南数キロの地にある水尾神社も、祭神を石衝別命と振媛命(継体天皇の母親)の二柱としていますから、鉄資源に恵まれていた滋賀近江でも安閑帝所縁の集団が何らかの生産活動に携わっていた可能性があると言えそうです。(時代はかなり遡りますが、垂仁の次の大王であった景行天皇は、最晩年になって都そのものを滋賀穴穂宮に遷し、その子である成務天皇も近江に留まっています)

安閑神社  蔵王権現像  上宮記逸文

本朝後胤紹運録  阿蘇ピンク石  笹原家譜より

さて本題に移りますが、上宮記などが伝える様に継体帝(450?〜531?)は四世紀末に登場した応神天皇の子孫(五世孫)であり、古代氏族・息長氏の血を色濃く受け継ぐ大王とされ、歴代天皇の中で唯一人淀川西岸に広がる三嶋の地に陵墓を築いた人物として知られています。古事記は彼の墓に関して「御陵は三嶋の藍の御陵」なりと記し、諸陵式にも「三島藍野陵、摂津国島上郡」とあって陵は「島上郡内」に造営されたはずなのですが、現在も宮内庁は大阪茨木市(旧島下郡)の「太田茶臼山古墳」(全長226m、方円墳)が継体帝の御陵であるとしています。陵の所在地そのものの齟齬もさることながら、数次にわたる考古学的な調査の結果からも、太田茶臼山古墳の築造年代が「五世紀半ば頃」であると推定されていますから、同墳は継体帝の祖父あるいは曾祖父の世代の人が埋葬されていると考えた方が自然です。そこで注目されているのが隣接する大阪高槻市にある今城塚古墳(墳長190m、方円墳)の存在です。

この古墳は文禄五年(1596)伏見大地震による地滑りで墳丘全体が大きく損なわれましたが、それ以前の戦国期においても三好長慶(1522〜1564)が戦に備えた出城として利用する際にも大幅な造作を加えたのではないかと見られており、近年まで周濠の部分に田畑が造営されるなどぞんざいな扱いを受けてきた経緯がありますが、平成9年から10次に亘って行われた発掘調査の過程で三つの石棺材が見つかり、その内の一つが九州馬門産の阿蘇ピンク石であったため、筆者を含め考古好き古代史ファンの注目を集めました。ただ、その調査時に発見されたピンク石は「石棺材」とは言うものの、僅か2〜30センチほどの塊に過ぎなかったため、一部の専門家たちからは疑問視する声もあったと聞きます。ところが平成28年、今城塚古墳から数百メートルの所で「水路用の橋」として地元の人たちが利用していた「赤い石」が氷室の観音寺跡地に祀られていることが分かり、専門家が調べたところ今城塚古墳の石棺材(上右の画像参照、長さ1.1m、幅66p、厚さ25p)であることが分かったのです。この石材が何時、古墳から持ち出されたのかは不明ですが、寺跡に持ち込まれたのが「昭和30年頃」だと土地の古老が語っていますから、今から半世紀以上も前既にピンク石は「発見」されていたことになります。

では次に何故、継体天皇の陵墓に埋葬されていた人物の石棺材として、わざわざ遠い九州馬門から阿蘇溶結凝灰岩が使用されたのか?という疑問が生じますが、筆者は継体帝の祖先である応神天皇という大王は、仲哀天皇の子供ではなく、九州を故地とする天孫族別流出身の人物だったと考えています。その詳細は「応神天皇と稲背入彦命」を始めとするサイト内の諸ページを読んで頂くとして結論だけ言うと、彼の父親が稲背入彦命という大王家の一員で垂仁天皇の娘婿だった人物なのです。帝室を始め古代諸豪族の系譜には多くの改編が加えられていますが、垂仁帝には実子としての「男子」は無く、「児」とされている景行天皇とは「兄弟」だったと考えられ、この二人の大王の時代に鉄資源開発の新技術を擁して帝室内に深く関わり、遂には「児」の応神が実力で甥たちを除いて大王の地位に就いたと筆者は想像しているのです。

以下の記述は裏付けとなる直接的な資料が十分には存在していませんので、あくまでも推測の域を出るものではありませんが…。阿蘇ピンク石を産出するのは宇土半島の馬門という場所です。そこは改めて言うまでもなく「肥の国」であり「火の国」の領域に含まれる地域です。そして「肥前風土記」は、その冒頭で次のように記しています。

  肥前の国は、本、肥後の国と合わせて一つの国たりき。昔、磯城の瑞籬の宮に御宇しめしし御間城の天皇(崇神)のみ世、肥後の益城の郡の朝来奈の峯に、
  土蜘蛛、打猿、頸猿二人あり、徒衆一百八十余りの人を率い、皇命にさかいて、降服い肯えざりき。
  朝廷、勅して、肥君らが祖、健緒組を遣りて、伐たしめたまいき。(中略)やがて健緒組の勲を挙げて、姓名を賜いて火君健緒純(たけおくみ)という。

「肥後の益城」が阿蘇山と宇土半島との中間点にあることは地図を見れば一目瞭然ですが、古事記が神武段の最終部において神八井耳命の後裔として「火君、大分君、阿蘇君,筑紫の三家連」を並べて掲載している点に注目すると、健緒組は「阿蘇君=阿蘇氏」と同族関係にあると考えられます。そこで思い出されるのは、継体天皇の次子・宣化帝が大王位を継いだ年に出した以下の詔に出てくる豪族名です。

  それ筑紫の国は、遐く邇く朝で届る所。去来の関門にする所なり。(中略)胎中之帝(応神)より、朕が身に泊るまでに、穀稼を収蔵めて、儲粮を蓄え積みたり。
  遥かに凶年に設け、厚く良客を饗す。国を安みする方、まさに此れにすぐるは無し。故、朕、阿蘇仍君を遣して、また河内国の茨田郡の屯倉の穀を運ばしむ。

磐井の乱(西暦527年)が治まってから未だ十年も経っていない遠隔地に、朝廷の「屯倉」に蓄えられていた貴重な種もみを運ぶ任務を与えられた「阿蘇君」は、恐らく健緒組と縁の深い、九州西部から畿内までの水路を熟知する「水運」技術に長けた一族だったに違いありません。また息長直系の大王たちからの信任も格別に篤かったことでしょう。応神帝の全国制覇から一世紀、継体大王は自らとも祖系を同じくする阿蘇君の機動力を頼み、故地にのみ産する終の棲家の石棺材を運ばせたのではないか?そんな空想が膨らみます。蛇足になりますが、阿蘇氏が伝える家譜の中には健緒組を祖先の一人として記載する「笹原」家譜が存在しています(上右画像参照)。

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