落語が教えてくれた西行、在原業平そして歌                          「サイトの歩き方」も参照してください。

現代国語の授業で、小林秀雄の『西行』(初出、「文学界」1942年11.12月号)という評論に出会う前、テレビが未だ家の茶の間には影も無く、居間の衣装箪笥の上に置いてあった四球スーパー・ラジオから、時折、落し噺の代わりに聞こえてくる、奇妙な七五調のリズムを纏った特色のある話し言葉の端々に、古い和歌が何首も埋め込まれているのを理解するのに余り長い時間は必要としなかった。スピーカーの伝える笑い声から、どうやら観客は噺家の話す内容だけでなく、彼の身体や表情の変化にも反応しているらしいと思うようになった頃、その男が、今、人気の落語家柳亭痴楽(四代目、1921〜1993)という人物なのだと知った(或いは家人に教えて貰ったのかも知れない)。彼の持ちネタの一つが「西行」なので、多分、間違いは無いと思うのだが、本当に落語の「西行」を初めて耳にしたのが痴楽の高座(放送)だったのかと自問すると些か覚束ない。と云うのは彼より少し年下の三遊亭圓歌(三代目、1929〜)という噺家がおり、1950〜60年代の演芸ブームの只中で時代の寵児として「歌奴」の芸名で大活躍しており、この人物も「西行」を良く演じていたからです。歌奴は『山のあなたの空遠く』のフレーズと共に、年配層には笑い話の原点として摺り込まれていると思いますが、記憶を確かめようにも何せ既に半世紀を超える時間が流れ去っていますので、事実は茫洋の彼方に霞んでしまっているのです、それはさておき。

さて、小林によれば後鳥羽上皇(1180〜1239)は『後鳥羽院口伝』の中で西行について、

  おもしろくて、しかも心に深くあはれなる、ありがたく、出来しがたきかたもともに相兼ねてみゆ。生得の歌人とおぼゆ。
  これによりて、おぼろげの人のまねびなどすべき歌にあらず、不可説の上手なり

と簡潔にではあるが最大級の褒め言葉で西行の歌(心)を解析しています。「生得の歌人」「不可説の上手」という詞の端々に後鳥羽院の強い感銘が如実に表されているのですが、その一方で「おぼろげの人」の範疇に自らをも含めていたのかどうかは分かりませんが、歌についての自論を確立もしていない素人の歌読みが、軽々しくうわべの姿だけを「真似」をすべきものではない(亦、簡単に[真似できる]ものでもない)と素直に告白もしています。当時、和歌の宗家筋でもあった藤原俊成(1114〜1204、藤原定家の父親)も早くから西行の歌に着目していたようで、所謂「三夕の歌」の一つに数えられている、

  心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕ぐれ

という作品について『鴫立つ沢のといへる心、幽玄にすがた及びがたく』という判詞を残しています。西行は最晩年とも言える文治二年(1186)東大寺再建の勧請のため、奥州藤原氏を訪ねる旅を終えた後、自らの作品集である『御裳濯河歌合』(自作を三十六番の歌合せ仕様とした歌集、成立は1187年頃)を伊勢内宮へ奉納するのですが、彼が、この「歌合」の判者として依頼した相手が俊成その人でした。ただ、不思議な事に歌合の判定で「秋の夕暮」一首は「勝」を得ておらず、俊成が編集した『千載和歌集』にも収録されていないのです。

西行  御裳濯河歌合   後鳥羽院   PR

その西行は『願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ』という大変有名な辞世を残し、願いどおりに生涯を終えましたが、この頁のもう一人の主人公は、次のような一首を詠んでいます。

  つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを  (古今和歌集 861番)

思いもよらず自分の身に訪れた最期の予感を少し気取りつつ、そして率直に表明しているのは六歌仙、三十六歌仙の一人にも選ばれている著名な歌人・在原業平(825〜880)なのですが、この人が残した古今集掲載の一首が、江戸期に落し噺・落語に取り入れられ庶民の評判を得ています。この人は西行とは異なり武家の出ではありません。父母が共に帝室の一員という大変高貴な血筋を持って生まれた生粋の貴族で、一般的には『伊勢物語』の主人公に擬せられているほどの人物なのですが、妻が紀有常の娘である縁によって、文徳皇子の惟喬親王(844〜897)とも親交があり、宮が隠棲していた小野を訪ねた折には、

  忘れては 夢かとぞ思ふ 思いきや 雪踏み分けて 君を見むとは   (古今和歌集 970番)

の一首を贈っており、親王との心の交流の深さを感じさせます。惟喬親王自身が、母親の出自等の理由により第一皇子の身分でありながら帝位に登ることが出来ず不遇を囲っていたことと合わせて、業平にもあたかも悲劇の主人公であったかのような解釈が一部にありますが、次の一首の詞書には『二条の后の春宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形を描きけるを』とあるように、天皇の女御・藤原高子(陽成帝の母親、842〜910)の邸宅を訪ね、室内に置かれていた屏風絵を見て歌ったものであることが明らかです。また、従四位上まで位階も進み、天皇の側近とも言うべき蔵人頭の職にも就いていますから「薄幸の人」「孤高の貴公子」と一方的に決めつけるのは相応しくなさそうに思います、閑話休題。

 ちはやふる 神代も聞かず 龍田川  唐紅に 水くくるとは       (古今和歌集 294番) 在原業平 

時代時代には、それぞれ「節目、潮目」とでも呼ぶべき出来事が発生しているものですが、江戸後期の経済と庶民の暮らし、そして市井に持て囃された文化全体等を考える時「天明の大飢饉」と「天明の打ちこわし」は誰が見ても特筆すべき事柄であり、今回の主題とも緊密に関わりの有る格別な事件だと言えるでしょう。何より、田沼政治そのものが終焉を迎え、親藩大名である松平定信(白河藩主、1759〜1829)が老中職に異例の抜擢で就任したのが「打ちこわし」直後の天明七年六月であったことが、当時の政治状況の実態混迷を象徴していると思われます。

始衣抄より  在原業平  

人気戯作者の山東京伝(1761〜1816)が『百人一首和歌始衣抄』(始衣抄)を耕書堂から出版したのが天明七年正月のことでした。定信が幕閣の頂点に立った直後に江戸は大水害に見舞われました。全国的に作柄も大幅に落ち込み、特に米の収穫は平年の四割にも満たない惨憺たる有様で、米価も急騰したのです。正に「最悪」と云っても過言ではない世情の只中で、このような滑稽本が世に出された事自体に驚きますが、その背景には蔦屋(重三郎、1750〜1797)を始めとする出版問屋界で生活する者だけに留まらず、当時の文化を根っこの部分で支えた江戸人全ての強靭さがあった事は間違いなさそうです。また、町奉行所の制御も及ばない程の「実力」を既に蓄えていた江戸庶民の、活字文化に対する渇望が京伝にやる気を与えたのだと想像できるでしょう。また江戸落語の発展に大きな貢献があったとされる烏亭焉馬(通称・和泉屋和助、1743〜1822、狂名・鑿釿言墨曲尺、別号・立川談洲楼)が騒然とした世情を逆手にとって天明六年から始めた「落とし噺の会」の盛況ぶりも、会に参加していた大田南畝たちから蔦屋、京伝に逐一知らされていたと思われます。二代目焉馬の名跡を継いだのが町奉行与力・山崎助左衛門の息子だったとも伝えられ、落語界の底辺の厚さを感じさせます。

物識りで通っている人物の許へ一人の男が訪ねてきます。『娘に和歌の意味を聞かれたのだが、恥ずかしながら良く分からない』どうぞ教えてやって下さいと切り出され、ハタと困った。実は、聞かれた方も業平の一首など全く知らなかったのですが…、後は皆さん、WEBで『ちはやふる』の迷解釈を存分に楽しんでみてください。

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