写楽「」の落款を誰が替えたのか?                                  サイトの歩き方」も参照してください。

大阪の府立中之島図書館で偶然見つけた一冊の画集が色々なことを教えてくれました。まず出版社が不明で昭和4年に発刊されたと思われる『東洲斎写楽画集』(当サイトでは「4年画集」と呼称)は、どうやら浮世絵版画集成刊行会というところが発行したもので、その発行兼編集人はアダチ版画研究所の創業者・安達豊久であること。「4年画集」に収められている12枚の複製版画のうち、次の4枚の落款が正しい「」の字体になっていること(つまりオリジナルの字体ではない。原画では「かんにょう=凵」の中の旁が『』になっている)。

  1 中島和田衛門・ぼーだらの長左衛門、中村此蔵・神奈川の権

  2 松本米三郎・けはい坂の少将実はしのぶ

  3 八世守田勘弥・鶯の次郎作

  4 二代目坂東三津五郎・石井源蔵

これらの作品を見た時、初めは「原画と区別するため(複製品である眼印)」わざと字体を替えた、或いは「特定の演目の俳優を区別するため」字体を替えたなどと考えていたのですが、そうでもなさそうです。(1,2,3の3枚は、何れも寛政6年5月8日初演、桐座『敵討乗合話(かたきうちのりあいばなし)』に取材したものですが、4は同年5月5日初演、都座『花菖蒲文禄曽我(はなあやめぶんろくそが)』の演者です)また、関連した文書を調べてゆく過程で、人気版画の複製が早くから行われ、大正末期〜昭和初期という時代かなりの数で復刻がなされていたことも明らかになりました。この間の事情は、反骨のジャーナリストで浮世絵研究の先達とも言える宮武外骨(みやたけ・がいこつ、1867〜1955)が自らの研究誌『此花』第5号(明治43年5月刊)の中で、市川鰕蔵(いちかわ・えびぞう,1741〜1806。五代目市川団十郎)の竹村定之進を例に挙げ、

ご存知五代目団十郎・市川鰕蔵の定之進  守田勘弥・鶯の次郎作   PR

  写楽は誰の門人ともつかず…、一種飄軽な似顔絵を描いた人である。これを外国人が好いて一枚数十円に買い取るは
  何故であるか分らないという人が多い。我輩もこんなものに高価を払いたくないので、東京酒井好古堂の模刻物を集めて満足している。

と酷評しているそうなのだが、彼の言う好古堂は現在も続いている老舗で、創業は明治3年。創業者の酒井家八代目・酒井藤兵衛(さかい・とうひょうえ,1844〜1911)は、日本で初めて浮世絵の鑑定と復刻を行った人物とされている。つまり、人気のある版画は、明治初期から復刻されていたと考えて良さそうです。そして、この外国人による写楽好きを決定的にした動きが、明治43年の『写楽』(ユリウス・クルト)発刊であったことは言うまでもありません。また、好古堂では歌麿に先駈け明治36年末には、上で紹介した市川蝦蔵の定之進を含めた『写楽名画揃』という画集も出版していますから、写楽の版画は明治期を通して高い人気を保っていたものと想像することが出来ます。そして、アダチ版画の安達氏が独立を目前に控えた大正15年(昭和元年)グラフィック社から『東洲斎写楽画集』を発刊したのも、これら国内外からの写楽版画に対する根強い需要を反映したものであったに違いありません。

この安達氏の写楽版画複製の原点とも言える画集は、現在、東京の国立国会図書館が収蔵しており、そこには25枚の複製版画が収められているようですが著作権の問題もあり、その全てを複写しWEB上で皆さんに紹介する訳には行きません。また、図書館の担当者に美術的というか写楽版画についての知識がほとんど無いため25枚のうち6枚もの版画の内容(つまり画題)が「不明」です。それでも、例え一つでも「画」落款の手がかりを得ようと限度枠一杯複写の申請を行い、今、それが届けられました。結論から言うと、落款部分については極限られた作品でしか、その字体を確かめることが出来ず、大正15年に複製された写楽版画で「画」の落款が使われていたとする証拠にはなり得ませんでした。しかし、それとは別に興味深い一致点もありました。

それは、大阪の中之島図書館で見つけた「4年画集」に収められていた複製版画の多くに、版画を長期間畳んで保存していた物のように見える縦縞が数センチ間隔にあるのですが、今回入手した大正15年版の複写にも、ほぼ同様の縦縞が見られるのです。つまり二つの「画集」に収められた複製品は同一のものである可能性が高い、と云うことです。(縦縞模様が「原画」にあったのかどうかは定かではありません)

それとは別に、ここに一冊の興味を惹きそうな本があります。「東洲斎写楽全作品集」の副題を持つ、その本(『謎の絵師 写楽の世界』)の著者は写楽と秋田蘭画を結びつけた推理作品を書いて注目された高橋克彦で、出版社は講談社(平成4年刊)そして版画を担当したのが件のアダチ版画研究所とくれば、勘の良い読者の皆さんは、その著作の中に今までオノコロ写楽シリーズで何度も取り上げてきた例の「画」落款があるのだろう、そう推理されることでしょう。中り、です。「」の字体は二つの作品に使用されていましたので以下に紹介しておきます。

何れも「画」となっている

これまで管理人は東洲斎写楽の浮世絵版画に残された二つの落款、というより「二つの字体」の存在から、写楽を名乗る人物が複数いたのではないか、そんな妄想を抱いていたのですが、それはどうやら無さそうです。この「字」の細かな相違について、再度、アダチ版画に問い合わせ、次のような(管理人が意訳)回答を得ました。

  版画の復刻には多数の人が関わっており、その「板わけ」作業に携わっていた者の一人が正字に直したものらしい

写楽が「二人」居た訳でも何でもなく、ただ、復刻に当たった彫職人の一人が「正しい字」に直して復刻した、それだけのことだったのです。骨折り損のくたびれ儲け−−とは、正にこの事か!次の主題を探すことにしましょう。

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