坂本龍馬薙刀(なぎなた)の達人?                                サイトの歩き方」も参照してください

土佐の坂本龍馬(さかもと・りょうま、1836〜1867)と言えば、薩摩の西郷隆盛(さいごう・たかもり、1827〜1877)と並ぶ明治維新の大立者。小説や演劇そしてTVなどで好んで取り上げられる人物ですから、歴史に余り興味のない方でも、龍馬の名前を耳にすれば、なんとなく『こんな人だったのかなぁ』と、具体的ではないにしても、それらしい人物像を思い浮かべるのではないでしょうか。実は、かく言う管理人も小学生の頃、学校の図書室にあった『偉人伝』シリーズの一冊で彼の生涯を知ったとき、強い印象をいだいたクチで「龍馬=剣術の達人」すなわち「格好いいなぁ」と思ったものでした。今回の主役は、その坂本龍馬なのですが、彼については山ほども書かれた資料があり、それこそ語り尽くされた憾があります。出生談に始まり、幼年時代の姉たちとの間柄、成長過程での剣術修行そして勝海舟(かつ・かいしゅう、1823〜1899)や志士たちとの出会い、暗殺事件など話題にも事欠かない彼の、一体何を書くべきなのか、とシェイクスピアの劇中人物の如くに悩んだ結果『剣の達人』という一点に絞って、お話しをすすめることにしました。また、今回は読物としてより幕末・維新という時代を視覚で楽しんでもらえるように、京都大学の付属図書館が収蔵している興味深い画像を幾つかご紹介してみることにしました。歴史の教科書などで、その名称は知っていても実際の建物を見た方は少ないと思いますので。

  坂本龍馬さん    中岡慎太郎さん     西郷隆盛さん      勝海舟さん

坂本龍馬は天保六年(1836)の十一月十五日、土佐・高知の城下町で生まれています。兄・八平とは随分年の離れた次男だったことから、父母をはじめ兄弟姉妹の皆から大切にされ幼年時代を過ごしたようです。すぐ上の姉・乙女(おとめ)とは年齢が近かったこともあり生涯を通して最も親交があったようで、劇の一場面などには必ずといっていいほど乙女姉さんと龍馬の逸話(剣術の稽古)が取り入れられたりするのですが、母・幸が死去した弘化三年、龍馬は入門した塾を直に止めていますから、勉強・人付き合いが苦手だった可能性はあると言えるでしょう。その龍馬が城下にある小栗流の日根野道場に入門したのが二年後の弘化四年、十四歳の年でした。それから五年(この年月が長いのか、それとも当たり前なのかは良く分かりませんが)、無事、『小栗流和兵法事目録』(免許)を授与された龍馬は、藩政府に「江戸での剣術修行」を願い出て、許可されています。

この江戸行きに関しては家長から、

   片時も忠孝を忘れず、修行第一のこと。

を肇とする「訓戒」を戴いての出立だったのですが、北辰一刀流の桶町・千葉道場に入門した後、父に宛てて、

   異国の首を討ち取り、帰国仕りそうろう

と大真面目の書簡を送っているので、この頃の龍馬にとって異国(黒船)とは打ち払うべきもの(つまり攘夷ですね)だと考えていたことが良くわかります。嘉永六年の出来事です。ところで、彼が入門した千葉道場は、有名な北辰一刀流を創始した千葉周作(ちば・しゅうさく)の実弟・定吉が桶町で開いていた道場、歴史的に著名な神田お玉が池の千葉道場ではありません。当時、江戸では世相を敏感に反映して剣術修行がブームとなっていたのですが、玄武館の千葉周作は斎藤弥九郎桃井春蔵とならび当代三剣士との世評がもっぱらでした。「千葉の鬼小町」と渾名された定吉の三女、千葉佐那(ちば・さな)との出会いも桶町道場での事でしたが、この話題に触れると長くなりますので、龍馬の修行に戻ります。安政元年(1854)一旦、土佐へ帰国した彼は二年後、再び、武芸修行の許可を求め藩の許可を得て江戸へ旅たちます。以後、24歳になるまで龍馬の江戸滞在は続き、この間に多くの人々と知り合い、交友を深めていく中で「世界」への関心を強めていったものと考えられているのですが、肝心の剣術も並みの腕前ではなかったようで、安政四年桶町・千葉道場の「塾頭」に任じられています。これは文字通りに「門人の筆頭」ということですから、師範である千葉定吉が龍馬の技量を道場一だと認めていた証拠そのものなのですが、一つ疑問に思える事柄が最近になって取りざたされるようになりました。

」では変えられない世の中、幻の剣術大会

それは龍馬が安政五年正月に授与された免許に関してのことで、彼の遺品として残されている北辰一刀流の目録が『北辰一刀流長刀兵法目録』のみである、という点です。この「長刀」という言葉は、従来「短刀」(小太刀)に対するものであるとされていたのですが、実際には「薙刀」(なぎなた)を指す文言であると言う解釈です。要するに「龍馬が受けた免許皆伝は薙刀に関するものだけなのだから、その剣の腕前は大したものではなかった」のだ、という見方に立った人たちの傍証となっている訳ですが、龍馬が敢えて千葉佐那が連署している長刀免許を大切に保管しようとしていたからこそ、その目録だけが後世に伝えられたと考えることも可能です。実際、後年彼は若き日の陸奥宗光(むつ・むねみつ、1844〜1897、「三国干渉」の時の外務大臣)を評して『弐本差し(刀)でなくても飯が食っていけるのは俺と陸奥の二人だけだ』と語っているほどですから、自分が修行した剣術(刀=武士)の世は既に時代遅れの代物になっているという強い意識が龍馬の中にはあったのです。ただ、当時としては異例の免許目録への佐那の連署は、千葉家が家ぐるみで龍馬を迎え入れたい、という意思表示だったからこそ、龍馬は「長刀目録」を大切に保管していたと想像してみたいのです。(免許皆伝とも言える「目録」に、女性が道場主に並んで名前を書き入れるということは当時の慣習として極めて異例)もっと言えば、剣の修行を積み重ねたからこそ、剣(古い体制、考え方)では世の中を変革することは出来ないのだ、と確信し得たのではないでしょうか。事実、彼は、その生涯で実際に剣を抜いて戦ったことは一度としてありませんでした。

当時、剣術修行に励んだのは龍馬だけではありません。『ダダさんの正しい出雲弁講座』でも紹介したように、各藩の有志・志士の多くが江戸での武芸修行を経験しているのです。例えば長州の桂小五郎(かつら・こごろう、1833〜1877、のちの木戸孝允)は、嘉永五年(1852)に江戸へ遊学、上で見た斎藤弥九郎の道場に入門、塾頭となっていますし、龍馬にとっては少し先輩格の武市半平太(たけち・はんぺいた、1829〜1865、号は瑞山)も安政六年(1856)江戸に出で桃井春蔵の門下となり、一年足らずで塾頭になっているのです。こんな事情があったので、後に、龍馬・桂・武市三剣士による武術大会、といった虚構も創作されたようです。

  桂小五郎さん      武市半平太さん    PR

坂本龍馬という人物が明治維新という時代の大きな節目の中で果たした役割については様々な解釈がなされていますが、彼が志し半ばで斃れたことも影響しているかも知れませんが、龍馬が他の所謂「志士」たちと異なっていた処は、というか彼が特筆される点は『維新後の体制についての明確なプランを用意していた』処にあると言えます。つまり、その頃、幕府を倒した後の日本を、どのように運営してゆくか、といった創造的な観点に立って活動していた志士は、そんなに多くはいなかった、ということです。また、龍馬の考えていた維新とは「徳川幕府体制そのものを壊して、新たな国家体制を造り上げる」ことに他ならず「徳川家を中心とする旧体制に属する諸藩」を武力で攻撃して破壊することだけが彼の目的であった訳では決してないのです。(追録:平成27年11月、行方が知れなかった龍馬の免許状が見つかり、本物であると鑑定されました)

「船中八策」そして「大政奉還」へ、歴史は動く

時代がいきなり慶応三年(1867)に飛びますが、こじれていた故郷・土佐藩との関係も何とか修復した龍馬は、この年四月例の有名な海援隊(かいえんたい、歌のグループではありません。念のため)を創設、いよいよ夢に見た世界貿易の現場に足を踏み込もうとしていました。そして、同年六月九日、土佐藩の藩船「夕顔」で長崎から京都に向けて出航。同じ船に乗り合わせていた土佐藩の後藤象二郎(ごとう・しょうじろう、1838〜1897)に龍馬が示した体制改革案が有名な『船中八策』で、そこには明確な維新後の骨格が述べられていたのです。その「八策」を基にした提案が下の八策定で、

  新政府綱領八策定(船中八策)

   天下有名の人材を招致し、顧問に共う

   有材の諸侯を撰用し

    外国の交際を議定す

    上下議政所

などなど、龍馬の具体案は続くのですが引用は、これだけでも十分に彼の意図を汲み取ることが出来ると思います。後藤は、この策を土佐藩の山内容堂(やまうち・ようどう)に説き、容堂も「大政奉還」を土佐の新しい藩論として取り上げることを許したことから、十月には土佐藩の建白書の形で徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)に具申されたのです。後藤たち土佐藩の重臣は十三日、二条城で将軍に謁見、案の採用を強力に奏上しました。その結果、慶喜は翌十四日に朝廷に対して「大政奉還」を申し出ることになったのです。この、一連の動きを察知していた薩摩・長州の連合勢力が同じ日に「倒幕の密勅」を入手して鳥羽伏見の戦いへと発展していった経過は皆さんご存知のとおりです。

十津川郷士・中井庄五郎、天満屋で奮戦す

このお話しも、そろそろ終りが近づいています。龍馬は徳川慶喜が「大政奉還」を朝廷に奏上し、これが勅許されたことを素直に喜び、周囲の者とも「新しい日本」の未来像について熱く語り合っていたようですが、幕府を初めとする敵対する勢力等から危害を加えられる恐れが十分にあることもあって「身辺の警戒」を強めるように忠告も受けていました。しかし運命の日、慶応三年十一月十五日、京都の下宿・近江屋を襲った刺客により龍馬と陸援隊の中岡慎太郎の両名は暗殺されたのです。

  龍馬が襲われた近江屋の二階  新撰組・壬生屯所の中庭

刺客の一人は近江屋を訪ねた際、取次ぎに出た使用人の藤吉に『十津川の郷士、何々でござる。才谷先生にお取次ぎ願いたい』と態々名刺を差し出し油断させ、二階に駆け上がったと伝えられていますが、龍馬暗殺の悲報に接して下手人の探索にいち早く乗り出した海陸援隊士に混じり、文字通り必死に犯人を探し求めていた人物がいました。その人の名前を中井庄五郎(なかい・しょうごろう、1847〜1867)と言います。彼は正真正銘・十津川出身の若者で、その朴訥さ・人柄にほれ込んだ龍馬が名刀一振りを贈ったほどの人でした。暗殺の直後では龍馬暗殺の犯人(集団)は新撰組に所属する者たちだと考えられていましたが、十二月七日夜、京都の天満屋に新撰組隊士と紀州藩の用人がいることを突き止めた中井たち十数名は龍馬の仇討ちのため危険を冒して斬り込みを敢行、真っ先に駆けつけた庄五郎は戦闘中に刀が折れたにもかかわらず奮闘、弱冠二十歳の命を冷たい都の路地に散らしたのでした。王政復古の大号令まで、あと二日の出来事でした。

       

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