松平定信写楽を知っていた?キーマンは谷口月窓                     「サイトの歩き方」も参照してください。

写楽探しの旅を長く続けていると、ふと気が付いたら、とんでもない袋小路に入り込んでいたり、自分では予測もしなかった摩訶不思議な「思考」の亜空間に迷い込んでしまい身動きが取れず、余りの取り留めの無さに茫然自失することさえ有るのです。とは言え今回のお話も、その推理の本質は決して奇妙奇天烈な与太話ではありません。写楽大好き人間の一人として、今までに収集した資料を元に何度も人脈図を書いては消し、付け足しては再度消すなどして縦横斜め、あらゆる方向から検討した結果生まれた一つの「思いつき」を叩き台に辿りついた末の推論で、前回紹介した「諸家人名江戸方角分」(文政元年、1818年頃に成立)にも収録されている、或る画家の存在を核に据えて、これまでとは全く違った手法で東洲斎写楽という名の浮世絵師の実像を浮かび上がらせようとする新しい?試みなのです。と、ご大層な前節になりましたが、百聞は一見にしかずと言うそうなので、ともかく下の人脈図を見てください。(月窓も含めると八丁堀十九名のうち十人が定信を介してつながります)

誰を人脈図の真ん中に据えれば良いのか、初め『当然、写楽だろう』と思ったものの、それは無いことに直ぐ気づき『では、増補・浮世絵類考で能役者説を書いた月岑が好かろう』と思いついて描き始めたのですが、神田の町名主・斎藤月岑(さいとう・げっしん、1804~1878)は、確かに絵師の谷口月窓(たにぐち・げっそう、1774~1865)から画を学んでいたので両者に繋がりはあるものの、その先が見えてきません。そこで、江戸中期の俳人、谷口鶏口(たにぐち・けいこう,1718~1802)の娘婿だという月窓が誰から画を習ったのかを知ることで、異なる人脈が見つけられるのではないかと考え、彼の個人情報を集めることにしたのです。ところが、これが中々厄介な作業だったのです。先ず「江戸方角分」には俳諧師で画家の「谷口月窗(窓)」は「元、神田於玉ケ池に住み」現在は「写楽斎」と同じ「地蔵橋」に居ると記されているのですが、嘉永六年、七年に出版された絵図では彼の名前を見出すことが出来ませんでした。更に調べを進める中で「月窓は伊勢国渡会郡、中之地蔵村、寂照寺の僧、月僊(げっせん、月仙とも云う、1741~1809)の弟子で、もと神田の住人で、芝高輪に住んだ」また「伊勢の産にして、壮歳の時、江戸に下れり。晩年、薩州侯の芝邸に住し、また目黒村に住せり」(『浮世絵年表』『武江年表』)という記述に巡りあい、どうやら月窓という人物は、伊勢から「壮歳(30~40才台?)」の頃江戸に下った人らしく、他方、十代の半ばで町名主の家督を継いだ斎藤月岑は『谷口月窓の所に通い画を学んだ』とされていますから、遅くとも1810年前後頃までに故郷を後にしたと思われます。ここで疑問の一つ目が浮上します。そもそも、地方の名も無い絵師が、独り江戸に出て直ぐ草創名主の「師匠」になれるものなのか?

答えは月僊という人の履歴の中に見つかりました。彼は俗姓を丹家氏という商家の子息でしたが家業は継がず十代で江戸に出ます。そして芝の増上寺で修業し大僧正定月から月僊の号を得ます。僧侶としてのお勤めと並行して雪舟派の画人・桜井雪館(さくらい・せっかん、1714~1790、号は山興)に師事して業を磨き、一時期は京都にも住んで知恩院でも修業を積んだようです(この折、丸山応挙にも師事しています)。伊勢の寂照寺の第八世住持となったのは安永三年だったと碑文に記録されています。恐らく雪館の最も優秀な弟子の一人として「顔が広かった」月僊が、画僧としての歩みを始めた己の原点とも言うべき増上寺(の知己)に愛弟子の将来を託す遺言のような「紹介状」を持たせて送り出したのではないか?若し、そうであるなら、月窓の江戸下りは月僊が他界した1809年よりも前という事になりますが、同年で月窓は35歳になっており「壮歳の時」の表現に相応しい年齢だと言えるでしょう。小説風に想像するなら、恩師の法要等をすませた後、月窓が形見の書状を懐の奥に大切に仕舞い込み、故郷を後にする風景が浮かびます。また、原典を確認していませんが『古画備考』という書物には、谷文晁(定信の家臣)が雪館に「随身して画を学ぶ月僊」を見た談話が掲載されているそうなので、二人は画を通じて古くから面識があったと考えても良さそうです。縁は異なもの味なものと言うそうですが…、閑話休題。

そんな月僊に匠の名がとても似合う、もう一人の弟子がいました。その名を永田善吉、画号を亜欧堂田善(あおうどう・でんぜん、1748~1822)と言います。先祖は伊勢度会郡の人であったと云う善吉は奥州須賀川の産で農具商人の家の次男として生を受けました。伝承によれば『安永元年(1772)たまたま伊勢参りに行った折、山田寂照寺の画僧月僊と巡り合い、正式に画業を学び、以後、田善と号する』様になったそうなのですが、須賀川は松平定信の領地であり、ある年、領内巡回の際「たまたま」立ち寄った住居の一室に田善が描いた「江戸芝愛宕山図屏風」が据え置かれており、その作品の巧みさに定信が感心し目を留めたのが発端となり、お抱え絵師にまでなったという稀有な人物。松平白河侯のお気に入りでもあった谷文晁(たに・ぶんちょう、1772~1832)に付いて「洋風画」を学んだ後、寛政八年に白河城下に屋敷を拝領、同十年に江戸に下った後、四年間にわたって長崎で銅版画の技法を習得し、享和二年に江戸表に帰還したと伝記は語ります。ここで初めて「月岑」「月窓」「月僊」「亜欧堂」と「松平定信」が一本の糸で結ばれます。(寛政八年は、正に写楽が消えた時期に相当しますね。また、斎藤月岑の号は、恐らく月窓に因んだものでしょう)先に見た、谷文晁の「目撃談」と合わせて考えれば、月僊が文晁を仲立ちにして定信に弟子を「売り込んだ」可能性も十分ありそうです。そうすると月窓の江戸下りの目的の一つに定信邸詣でがあったと想像することも出来るでしょう。芝の増上寺が徳川家所縁の菩提寺であることは言うまでもありません。知恩院も同様です。

定信の号は「楽翁」だった   PR

定信(1759~1829)が、あの有名な徳川吉宗の孫であることは皆さんも良くご存知のことでしょう。「寛政の改革」を実施した幕府組織のトップでもあった彼が、1812年に隠居した後に名乗った号が「楽翁」であり、定信の近習・文晁の別号が「写山楼」であることは写楽探検隊の皆さんも余り取り上げない事実の一つなのですが、定信は老中職を辞任した後、急に目覚めたかのように文化的活動に力を注ぎます。その手始めが『集古十種』(1800年)の刊行だったのですが、いかに文晁一派(画塾「写山楼」)の全面協力があったにせよ、一朝一夕に出来る内容ではないことを思えば、辞任の前から構想の実現に努め準備していたと考えるのが妥当だと思います。また、これとは別に「俗」の文化にも定信は強い関心を示していました。数十万江戸町民自治組織の最上部に位置していた町年寄三家(樽屋、奈良屋、喜多村)の一角、喜多村家の生まれで月岑とも年代の近い喜多村信節(きたむら・のぶよ、1783~1856)の随筆『きゝのまにまに』によれば、

  京伝、予に語りて曰く(中略)
  白川侯、後退役の後、吉原深川などの遊所のさまを北尾政美に写さしめ、その言葉を京伝に命ぜられたりしかば、憚ることなく、そこらの事うがちて書りと云えり。
  この巻物、予が友人、堀田侯にて拝見せしに、いとよく画出来たりと言えり。

だったことも明らかで、文化元年から翌年にかけて山東京伝、北尾政美、朋誠堂喜三二(手柄岡持)など「寛政の改革」の「餌食」になった面々をも動員して『職人尽絵詞』を定信が作成させていたことも又、厳然たる事実なのです。この喜多村という人物は、その生年(1783)から推測されるように、写楽の役者絵版画が売り出された折、リアルタイムで現物を見た可能性のあるギリギリの世代に属していますが、町年寄の家族という立場に在った彼は、江戸内外のあらゆる情報を収集するためのアンテナを巧みに張り巡らせ、貴重な見聞録を残して近世研究家たちを大いに助けています。京伝自身の述懐を生の声で聴けた位ですから、かつて江戸三座の歌舞伎役者たちを「リアル」に描き、人気絶頂にもかかわらず忽然と消えた東洲斎写楽の実体についても話が及んだはずだと考えるのは筆者ばかりではないでしょう。また、今まで述べてきた絵師・画家たちの人脈を前提にすれば、上の図で示した内の誰かが松平定信に直接、写楽の正体を告げていた事も十分考えられます。では、次に二つ目の疑問に移ります。

「方角分」より  「×」の合印  月窓と月仙  「武江年表」より 

「江戸方角分」の真の編者が誰であれ、寛政から文化文政にかけての画壇の事情に大変詳しかったとは言えないまでも、普通の絵師つまり画家と単なる浮世絵師との違いくらいは認識していたでしょう。「方角分」八町堀には十九名の人物が収録されていますが、その内「画家=黒丸印」は「可菴・月窓・秋山」の三名「浮世絵師=×印」は「山学・写楽斎」の二名なのですが「女史 秋山」を「桜井山興」の娘だと仮定すると可笑しな事になってきます。「浮世絵師・山学」の号の真下には小さく「桜ノ」と書き込まれていることから、同人は秋山の父親である確率が高いのですが、少なくとも彼は「浮世絵師」ではありません。何より、実の娘秋山にはちゃんと「画家」の「黒丸印」が付されているのですから…。この場合、幾つかの推理が成り立ちます。①「山学」という故人の浮世絵師が実在していた、②「山学」は「山興」の間違いだが、編者は彼を浮世絵師だと認識していた(著名な画家とは知らなかった?)、③「山学」は「山興」の間違いで「バツ印」は別な人が後から書き込んだ--など色々なケースがあると思いますが、管理人は「方角分」に書き込まれている「バツ印」の全てを見比べて「バツX」が一種類ではなく、少なくとも四種類あるのではないかという印象を強くしました。そのうちの二つが、偶然にも「山学」と「写楽斎」二人の個所に書き込まれているのです。上中央の画像を見てください。この二つの「X印」を同一人の手になるものだと思われますか?「山学」側の「X」は明らかに「ヿ」(故人印)と同じ人の筆と見られるのに対して「写楽斎」の「X」は右上から左下にかけての「襷掛け」の上下の止め部分に顕著な特徴が見受けられます。書の専門家ではありませんから飽く迄も素人の想像に過ぎませんが「写楽斎」に「浮世絵師」を表す「X印」を書き込んだ人は「左利き」の人の様に思えるのです。それは、習字の時間に身に着いた今は覚束ない「筆運び」の感覚によるもので、右利きの人は筆で「×」を書く場合、筆先を左上から斜め下に運んで書き始めますが、上の画像でも明らかな様に「写楽斎」の「X」印はどう見ても「左手で右上から筆先を下に降ろして」書き始め、左下の「止め」も「左横」向きで終わっています。くどくどしく書きましたが要は、先後関係を別にして「写楽斎」の処を含め「X印」が付された時期が「方角分」成立時と同時とする根拠は薄い(写楽斎の書き込みだけが「方角分」の元稿にはあった?)という事なのです。更に「山興」の孫弟子で、斎藤月岑の師匠・谷口月窓が八丁堀に住んだ可能性が全くないとは断言できませんが『月岑日記』の天保四年八月十四日の項に、

  高木萬右衛門殿へ行く、西久保へ行く、月窓先生へ行く

とありますから、北町同心で「地蔵橋通り」の角(加藤千陰の屋敷の一部)に住む「高木」を訪ねた月岑が、そこから一旦「西久保(西窪)」まで出向いて用件を済ませ、再び「地蔵橋」に戻って月窓の家に行くというのは余りにも不自然な行動と言わざるを得ません。やはり、月窓は八丁堀以外の場所に住んでいたと見るのが穏当でしょう。ところで、その月窓の名前が意外な場所に顔を出します。それが、先に引用した喜多村信節の著作『きゝのまにまに』文政十一年戊子の部分にある次の記述です(これは幕府天文方の高橋作左衛門がシーボルト事件に深く関わり、病気で亡くなった事などの顛末を書き記したものです。彼は病死の後に出た判決で死罪となりました。彼の父・高橋至時を寛政七年十一月大坂定番から天文方に引き抜いたのは定信の政策を引き継いだ幕閣ですから、高橋親子も当然、定信と繋がりがあります。上右画像参照)

  このうち名前見えざれども、お玉が池に火之番岡田藤助は、宅番のある間自殺したり、早まりしことなり。
  この人、同所に伊勢より月仙が弟子月窓という画工来たり。それが弟子にて画をかけるが、作左衛門手付にて絵図を写したるなり。
  その時、長崎屋、取り締まらずと云うは、オランダ医師シイボルト、医術もよく才子と見えたり(以下略)

シーボルト事件そのものが政権の中で重大問題視されたのが文政十一年(1828)ですから、月窓が江戸表に来てから既に十数年が経過しています。喜多村の云う「同所」が幕府の天文方だと考えると、公の施設、しかも暦や地図などの機密?を取り扱う部署に町の絵描きが誰からの紹介状も持たずに(つまり保証人無しで)いきなり「来た」という喜多村の証言には無理があります。一方「同所」を岡田藤助の住む「お玉が池」だと解釈すると「もと神田の住人」という先の説明書きとも整合しますし、何より彼の養子先である鶏口の住宅が神田お玉が池にあって、彼の教え子月岑の生家も神田雉子町なのです。どう見ても、神田の俳人宅に養子に入った月窓が、文化十五年頃に八丁堀へ転居していたとは思えないのです。地域の手作り資料である『千代田まち辞典』も谷口月窓の私塾がお玉が池の池畔に在ったと記しています(喜多村の証言を根拠にすると月窓は、初め神田に住み「方角分」取材時に一旦八丁堀に移転し、再び神田に戻り私塾を続けたことになり。極めて不自然です。となると月窓が「方角分」八丁堀地蔵橋に住むと明記されたのは単純な錯誤ではなく誰かの意図に基づくものであったと考えることもできます)ここまでに浮かび上がった「方角分」八丁堀記述の気になる点を列記すると、

  Ⅰ 谷口月窓が「八丁堀地蔵橋」の周辺に住んだ形跡がない(にもかかわらず、同所が指定されている)=住所そのものに対する不審=意図的な挿入だったのか?
  Ⅱ 桜井山興親子と思われる著名な画家も八丁堀に住んではいなかった(にもかかららず秋山が茅場町に指定されている)
    (天保四年に書かれた『无名翁随筆』で英泉は「桜川秋山という人ありし、雪舟の画孫と称す。本郷に在す」と記している)
  Ⅲ 版本などでは違いの分かりにくい各人に付された「合印」の中には、明らかに別人の筆跡だと見られるものもある。更に、その印そのものが違っているものがある。
  Ⅳ 「方角分」制作時、すでに物故していた人物に「故人印」が付けられていない(文化八年に亡くなった国学者の村田春海)=「合印」そのものに対する不審
          (村田の北隣に住んでいたはずの「写楽斎」が、何故、村田に続けて記載されず、間に「山学」「秋山」両名の記事が挟まれているのか)

等々になるでしょうか。ただ、問題はこれらの「些細な」間違いそのものにあるのではなく、最初に「江戸方角分」の写本(国立国会図書館収蔵)を届けられた大田南畝(蜀山人、おおた・なんぽ,1749~1823)が、地名の目次などは書き足しながら、彼の知識をもってすればざっと目を通しただけで発見できたはずの「ミス」を一切訂正せず、何故そのまま放置しておいたのか、という処にあるのです。前回の方角分分析でも南畝の「村田春海に対する、余所余所しい」姿勢を取り上げましたが、今回上の人脈図を作成してみて、南畝の態度の原因が恐らく松平定信(に象徴される権力機構)の存在、影響力にあったのだろうという思いを強くしました。江戸の大店を自らの放蕩三昧で跡形もなく潰し、落魄した春海に、失うべきものが殆どなかったのに対し、南畝は寛政の学問吟味の結果(首席)でやっと掴んだ役人としての地位を決して失いたくなかったに違いありません。更には春海の同門で八丁堀転居の世話役でもあった元与力の加藤千蔭(かとう・ちかげ,1735~1808)が、定信の再三にわたる招きに対して常に「病」を理由にして一度も応じることがなかった「姿勢」とも通じる部分があったのかも知れません。「手鎖」で町内預かりとなった山東京伝自身が定信邸に出入りしている事自体、南畝には「危険」きわまりない行為と映っていたのでしょう。触らぬ神に祟りなしと言うではありませんか!(方角分が長く南畝の手許にはおかれず、彼の蔵書印も印されていない理由も、その辺にあったのかも知れません。)谷文晁の実妹(谷舜英、1772~1832)が南町二番組同心の中田平助(なかた・へいすけ,篆刻家、1771~1832)に嫁ぎ、地蔵橋角つまり春海の隣に住んでいたのは偶然なのでしょうが、奉行所内での些細な出来事や同僚たちとの何気ない会話などが妹を通じて谷に伝わり、更には定信の耳にも届くのではないかという疑念は南畝ならずとも抱いて当然かも知れません。余り良い言葉ではありませんが、八丁堀の日常も”筒抜け”だった--、そんな風にも思えてきます。

さて、いよいよ御話は本丸の「斎藤十郎兵衛」と「写楽斎」に移ります。南町奉行の与力だった中村好古の談話を息子の一之が書きとめた『古翁雑話』によれば、村田春海が八丁堀に移り住んだ経緯は、

  その後、南八丁堀の橋の向こうに移り、また千蔭が吹挙して地蔵橋の角、用人地、その頃、板倉善右衛門といいし与力、組替えになりたるその家の台所だけを
  買い求めて永住し、初めて平春海と名乗りて歌学の師となれり

であったらしく、本居宣長の「文通諸氏居処」(住所録)は寛政十一年五月二十二日に起筆されたものですが、そこでも春海の住所は「八丁堀地蔵橋の際」となっていますから、寛政十一年五月までに八丁堀への引っ越しを終えていたと見られます。一方「享和元年(1801)」三月に亡くなった斎藤十郎兵衛の「子」の住所が過去帳に『北八丁堀地蔵橋』と記録されていますから、この年の初めか或いは前年中に阿波藩邸からの転居を済ませていたのでしょう。嘉永六年版絵図によれば「地蔵橋」の前で道路が交叉し、元板倉邸だった敷地には北から順に①飯尾藤十郎(北町同心)、②斎藤与右衛門(十郎兵衛の子息)、③村田治兵衛(本人は既に他界)、④中田円助(南町同心、平助の子?)、⑤空き家(?)達が入居しているのが分かります。(註・ただ絵図によれば道を挟んだ南西側にある南町同心二人の敷地(下左図の緑枠部分)に同心自身は住んでおらず、町人らに貸すための長屋になっていたと見られますから、地蔵橋の住人は与力屋敷内に住み、絵図に名前が掲載されている人々だけに限られる訳ではありません。この長屋の大家の一人が人脈図にも出ている中田海助で、彼の許を斎藤月岑が訪ねている事実も日記(下右の画像)で確認出来ていますから、月岑の情報源の一人が彼であってもおかしくありません)つまり、1817年頃、江戸の「方角分」を作成しようとして各町の住人情報を収集していた当時、確かに「八丁堀地蔵橋」に阿波藩士で能役者の斎藤十郎兵衛という人物が住んでいたと考えられるのです。(註・絵図自体は1853年版ですが村田の例に見られる如く、住人情報もすべて適時更新されていた訳ではありません。下図は研究家の中村静夫氏が1980年に編集したものです)

地蔵橋  中田宅  式亭三馬 

『だったら、斎藤月岑が言った通りじゃないか』と思われるでしょうが、そうではありません。地蔵橋には「写楽斎」を名乗る人物もかつて居た、それだけの事です。浮世絵師を表す「×印」は別人の加筆であり、原本にはなかったものです。そして、ここが肝心なのですが、若しも「能役者説」の支持者が言うように「士」として役者絵を描くことが公言を憚る「不名誉」なことであるのなら、何故あえて住居をも特定できる「地蔵橋」という地元住民の間で語られる「符丁」に近い俗里名まで記したのでしょう。町の名や通り名を省いた例は少なくありません。「江戸方角分」の編者が知り得なかっただけなのかも分かりませんが、それでも不自然さは感じられません。「(東洲斎)写楽」という異能の浮世絵師の存在を知っている者にしか「写楽斎」という三文字は意味を持たないのです。それは「写楽斎」だけに言える事ではなく、「方角分」に収録されたほとんどの人々についても同様です。(筆者が八丁堀の項で、確実に名前を知っていたのは加藤千蔭ただ一人でした。それ以外の名前は知らない者にとって只の記号の羅列でしかありません)だから、南畝の手許から離れた(と考えられる)「江戸方角分」の元写本を閲覧する機会があった戯作者で浮世絵師の式亭三馬(しきてい・さんば、1776~1822、戯号が洒落斎)が伝説?の浮世絵師写楽かも知れない「写楽斎」の文字に素早く反応し、

  三馬按ずるに、写楽号東周斎、江戸八丁堀に住す。半年余行わるるのみ。

の加筆を文政四年までの間に「浮世絵類考」に行ったのです。三馬の書き込みの検証は以前何度も行っていますのではしょりますが、物書きとしての「眼(見識)」を持っていた彼は、頭のどこか片隅で『この写楽斎は東洲斎写楽とは別人なのかも知れない』と一抹の疑念を抱いていたようでもあり、それが「東斎」の画号と「半年余」という言葉の端々に表れているようです。(寛政六年に十八歳だった三馬が写楽の号や活躍時期を間違えるはずがありません。賢明な彼は、万が一の逃げ道を作っておいたのです)ここから「方角分」の独り歩きが始まります。三馬の次に「写楽斎」の文字を見た左利き?の誰かが、今度は名前の上に浮世絵師を意味する「×印」を書き加えます。その第三の男が真相を三馬に尋ねようとしますが、文政五年(1822)既に他界、後を追うように南畝も鬼籍に入りました。文壇狂歌界の超有名人(南畝)の奥書を持った「方角分」と、南畝自身が書き起こし、人気戯作者・京伝が追考を加え更には流行作家式亭三馬の按記が添えられた「浮世絵類考」の持つ威力は絶大だったことでしょう。確かに八丁堀という町は斎藤月岑の支配地ではありませんが、町名主の役目柄南北町奉行所からの呼び出しは日常茶飯事で、月岑の日記を読めば初めの数年分だけに限ってみても「四十名を超える南北同心」「十数名の奉行所与力」の名前が見え、日々彼等との折衝、交際が幅広く行われていたことが分かります。とても懇意な同心も複数いたことは上で述べましたが、地蔵橋に最も近い家に住んでいたのは、やはり行き来のあった同心・中田海助で斎藤十郎兵衛の家とは百mも離れていません。その中田は既述の通り「長屋」の大家でもあり、十郎兵衛の北隣の住人・飯尾藤十郎も同様に自分の拝領屋敷地を町人たちに賃貸ししていましたから、月岑が「地蔵橋」周辺に住む人々の詳しい情報を得るのに大した苦労は要らなかったと思います。

斎藤月岑は誰から情報を得ていたのか

また月岑は雪舟派を称する「桜井山興」の一番弟子とも言える僧・月僊の愛弟子・月窓に師事するのと同時に、自らの企画で斎藤家三代の念願でもある『江戸名所図会』(1834~1836)刊行のため長谷川雪旦(はせがわ・せったん、1778~1848)という絵師とも親しくしていましたから、画家・絵師に関して知りたいことがあれば、余程の些事でないかぎり、いつでも答えを得られる立場にあったと言って良いでしょう。更に、彼自身が町名主の職にあったのですから一般人が入手できない住民情報、ひいては武家社会の内部情報をも知り得た可能性も否定できません。それだけの立場にあった月岑の「証言」だから、その内容を疑うこと自体おかしい、というのが現下の大勢で、管理人も月岑の業績や人柄などを知るにつけ、写楽に関する「別人」情報を信じたくなったりしたものです。しかし、寛政六年、阿波藩邸内の下級武士に与えられた広くも無い長屋の一室で「祖母、母、妻、子供たち」合わせて最低六人以上の家族と暮らす「能役者」の彼が、蔦屋という版元の求めに応じて、本業そこのけに歌舞伎芝居の舞台を参考にしながら「二日に一枚」のスピードで、家族や同僚家族たちの目を盗みつつ一年余りも内証で版下絵を描くことなど、正に神業にちかいものがあることに思い至ると、月岑が提供してくれた余りにも明快な内容に若しかすると誰かの「情報操作」ではなかったのかと疑ってみたくもなってしまうのです。先ず、素朴に浮かぶ疑念が、

  月岑が若し「方角分」と「浮世絵類考」(三馬の加筆写本)を見たとして、その「写楽斎」と、現実に文政三年(1820)まで八丁堀地蔵橋で生活していた斎藤十郎兵衛が
  同一人物であると確認することがどのようにして出来たのか?もっと言えば、二人を直接結びつけた最大の要因(確証)は何であったのか?

という点なのです。月岑の情報源の一つである同心たちは、当然のことながら十郎兵衛が八丁堀地蔵橋に住むようになってから以後、つまり享和元年(1801)後の斎藤一家の動向しか知り得ないはずで、月岑あるいは月岑に情報をもたらした人物が直接十郎兵衛の子とされる斎藤与右衛門自身(か家族)に『貴方の父親十郎兵衛は、かつて写楽の名で歌舞伎役者の浮世絵を描いていた本人ですか?』と尋ねでもしない限り、二人が同一人であるという確証を得ることは出来ないはずなのです(能役者説の研究家が指摘するように『役者絵を画いていることなど本人の口が裂けても言えない』程の事柄であったのなら尚更、息子が父親の不行跡を暴露することなど在り得ないでしょうが…)『増補浮世絵類考』に遅れること数年、月岑は『武江年表』を世に送り出しますが、その中で「浮世絵類考」を[山東京伝の著書]であると明言しています(二つ上右画像参照)。彼が浮世絵自体に余り関心をもっていなかった、或いは彼が参考にした写本の奥付にある「大田蜀山」の四文字を見落としただけなのか、もう今となっては理由を知る手立ては残されていません。ただ、多様で大量の情報を得ることが可能な位置に居た割には浮世絵そのものの知識は低かったと思われるのです。問題点は別にもあって「方角分」の記事編集が行われた文化十四~文政元年の時点で生存していた斎藤十郎兵衛が『写楽斎』本人だとすると、今度は「ヿ(故人印)」との整合性が問われます。それは後人による加筆であるとする説もありますが、堂々巡りの憾はぬぐえません。普通に考えれば分かることですが、

  寛政六、七年頃に地蔵橋付近に住み浮世絵を書いて生計を立てていた「写楽斎」という者が板倉善右衛門という与力の宅地内に住んでいたら、中田海助に限らず
  地蔵橋の一角にある三つの与力宅の居住者(に加えて、十数名以上に上る同心の家族と借家人たち)すべてが覚えていた

に違いないのです。長々と推理するまでもなく、この「写楽斎」が「写楽」のように浮世絵を画いていたのなら、近所の誰もが見聞きしていただろうと言うことです。絵師画工が絵を描くのは当たり前の事で、別に隠し立てするような事ではありません。それを、あたかも「マル秘情報」でもあるかのように変質させ、後人に錯覚させた一筆が「×印」の書き加えだったのです。(何度でも繰り返しますが①八丁堀地蔵橋に「かつて住んだことのある、写楽斎」という人物=つまり過去の事実と、②方角分の編集時=つまり現在「八丁堀地蔵橋に住んでいる」斎藤十郎兵衛、③斎藤月岑が浮世絵類考の増補を試みた時期=未来、の三つを意図的に混同させる手法を取るべきではありません。)

再び人脈図に話を戻します。国学者で著名な歌人でもある村田春海は、地蔵橋角の家で「歌学」のお師匠さんとして暮らしていましたが、県門四天王(賀茂真淵の優秀な弟子たち)の一人に数えられた村田の名声(と店の破産)は当然、松平定信の耳にも入るようになり、父親と真淵の縁もあって定信は春海に「五人扶持」の俸を給する事になります。勿論これは生活に困窮していた村田の台所事情を気遣った誰か(恐らく側近の一人、谷文晁)が定信に進言した結果だと思われますが、長岡侯、棚倉侯からも「若干の扶持」を貰えるようになって春海も晩年は落ち着いた暮らしが出来たようです。ただ、後妻との間には実子がなかったため姪の多勢子(号・芳樹、1777~1848)を養女として迎え、歌学を伝えていますが、この人も一生嫁ぐことが無く、国学者の関根正直(せきね・まさなお、1860~1932)が大正九年に著した『史話俗談』によると、

  家の垣隣りに住める阿州侯(蜂須賀家)の能役者某の男児を愛し、六七歳の時より家に迎え、
  養子として育し立て、漢和の学をせさせて家を譲りぬ。これを春路という。

事のようです。つまり斎藤十郎兵衛の子か孫にあたる人物が村田家を継いだ訳で、人脈図の登場人物すべてを繋げる鍵もやはり十郎兵衛と月岑の二人にあります。何故なら、月岑自身か八丁堀同心(高木、中田など)のいずれかが十郎兵衛の家族から「写楽斎」本人だという言質を得ていたのなら、人脈図の最も下に置かれた三つの枠が結びつき、大団円となるからです。しかし「十郎兵衛=写楽斎」も更には「十郎兵衛=写楽」のいずれも成り立たない事は詳述しました。残る問題は斎藤月岑の加筆情報源が一体誰なのかという点に尽きますが、もどかしい事に今回も明快な答を得ることが出来ませんでした。一つの可能性を除いて……。

京の都にまで名声が届いていたとの評価もあった画僧月僊は、浄土宗の住持でありながら伊勢内宮の神職(禰宜)荒木田経雅(本姓は中川、あらきだ・つねただ、1742~1805)と大変親しい間柄だったようで、荒木田の『経雅卿雑記』にも二人の間のやり取りが数多く記録されています。勿論、月僊の本質は画の巧みな僧侶であって、誰かから何かを指図されて行動していた訳ではないでしょう。しかし、その弟子の仕事場婿入り先①江戸でも有数の草創名主宅、②御家人は勿論、各藩の藩士が多く通う私塾の町・神田お玉が池、③薩摩藩邸(お抱え絵師)三つを並べ、時代が幕末十九世紀前半であったことを考慮に入れると、月窓には絵師とは別の明確な「目的」があったように思いたい誘惑にかられます。月僊・月窓の背後に時代を動かすほどの巨大な勢力の陰を見るのは余りにも穿った見方でしょうか?画の巧い領民の一人(永田善吉)を伊勢参りにかこつけて月僊の許に送り込み、更には銅版画の技術習得を名目に長崎へ数年間留学させた定信の本心が、伊勢・京都更には西日本全体の情勢調査にあったと見るのは考えすぎでしょうか!明治の国文学者・藤岡作太郎は『集圃遺稿』巻二の中で田善を取り上げ、寛政十年以降の動向について触れ『それより四年の間、長崎にありて如何なる人に学びしか、杳として消息を知らず』と記し、実際に亜欧堂が何処の誰に銅版画の技術を学んだのか、全く知られていなかった事実を述べています。疑い出すときりがありませんが、月窓の項に書き込まれている「月窗」の字と「地蔵橋」という文字についてのみ画像を紹介して皆さんの参考とします。同じ人の手になるものか、それとも別人の加筆なのか、判断は貴方次第です。下右にある絵図で「松平越中守」とある大きな屋敷が定信のもので、上で見てきた「八丁堀」の組屋敷がすぐ近くなのが分かりますね。地蔵橋から「たった200m」の距離しかありません。正に目と鼻の先にあります。

地蔵橋     PR

(追記・文化十二年版『江戸当時諸家人名録』に絵師谷口月窓の住所は「神田於玉ケ池」とあり、やはり彼が八丁堀に住んだとは考えられません)


珍しく訪問客もなく、御番所からの呼び出しもない。三月も十日を過ぎる頃になると汗ばむほどの陽気がみなぎる。中庭の縁側に座り何気なく空を見上げていた市左衛門は、母親の独り言のような昨夜の呟きを思い出していた。

  『あたしも、孫の手をひいてお寺参りをする歳になったんだね…、一年いや十年なんて、あっという間に過ぎてしまうんだねぇ』
  『そろそろ、あたしも身の回りの物を片づけないと…』『若いときに集めた絵やなんかも、どう始末したもんかねぇ。捨てるのも惜しいようだし…』

早くに亡くなった父が、若し生きていれば六十四歳。町名主という仕事を引き継いだのが十四の年。ただ、もう、がむしゃらに前だけ向いてその日その日を凌いできたが、母の云う通り、十年なんて、飛ぶように過ぎ去って三十路も越えた。暗がりの中で見た母親の横顔が、妙に小さく頼りなさげに見えた…。立ち上がり表の帳場に出た市左衛門は父の代から勤めている手代の良助を呼んで言付けた。

  『うちの二丁目で店を出している多吉は知ってるね。頼みたい事があるんで、来るように言っておくれ。わたしは離れに居るから』

口数の少ない良助は『承知いたしました』とだけ答えて雉子町の表具師多吉の店に足をはこんだ。小半時もした頃、良助と連れ立って多吉が離れの隠居部屋を訪れた。

  『旦那様、多吉を連れて参りました』『御用がおありだそうで、多吉でございます』
  『ご苦労様、まぁ、お入り』

八畳ほどの部屋に入った多吉の目に入った物は、畳二枚分ほどにも広げられた画と版画で、ざっと二百枚ほどはあった。画よりは、版画の数が数倍勝っているように見えた。

  『これなんだがね、適当な巻物に仕立てられるかい?』
  『そりゃあ、日にちさえ頂ければどうとでも致します。』
  『そうかぃ、じゃあ是非そうしておくれ。急ぎはしないから、お前の手が空いた都合で良いからね』
  『有難うございます、早速、仕度を整えてから、参じます』『旦那様が、このような版画をお集めとは知りませんでした』

多吉が手にした錦絵に描かれていたのは歌舞伎役者五代目市川団十郎(蝦蔵)の大首絵だった。

  『これはね、わたしの、おっかさんが集めたものですよ。芝居が好きなのは、お前も知っているだろう』
  『そうでした、そうでした。おかみさんの芝居通を、つい忘れておりました。すると、この絵も、随分と先からお持ちなんでしょうね』
  『部屋に飾るのは面はゆくて、文函から出しては眺めたそうですよ、昔ね』
  『こちらには寛政六年とございますね』
  『そうかい。それなら、わたしよりも、ずっとおっかさんとの付き合いが長いわけだ』

三世瀬川菊之丞扮する「おしず」を描いたその版画にも団十郎と同じ絵師の名前があった。市左衛門は、東洲斎写楽という名の絵師の事を、長谷川雪旦なら知っているかもしれないと思った。雪旦は江戸っ子で、確か、若い頃には流行の狂歌本にも挿絵を画いたことがあると聞いている。月窓先生に尋ねても良いのだが、あの方は伊勢の生まれ、それに浮世絵とは縁のないお方だから、やはり今度、雪旦が訪ねてきた折、尋ねてみようと決めた。


「月岑日記」天保六年(1835)三月十五日の条に『今日より、多吉、浮世絵古画巻物仕立てに来る』とあるのにヒントを得て劇の一場面を創作してみたのですが、長谷川は1778年生まれの江戸人ですから、写楽の浮世絵版画は知っていて当然です。月岑は『増補浮世絵類考』序の中で、式亭三馬の「按記」が入った「浮世絵類考」を参照したと明記していますが、瀬川富三郎の『諸家人名江戸方角分』を見たとは書き残していません。従って、上に述べた瀬川が記載した1817~1818.7の時点で「写楽斎・八丁堀住」の本名も通称も不明の人物が「東洲斎写楽=斎藤十郎兵衛、八丁堀地蔵橋住」の人物として特定された「情報源」だけが謎として立ち塞がるのです。月岑が決していい加減な情報を鵜呑みにするような人柄で無いだけに、余程確かな人物から得た「誰も知らない・語らない」はずの貴重な特ダネと考えたに違いありません。ところが、今回の推理考において「方角分」の写楽斎に付された「×印」、谷口月窓の名前や地蔵橋の書体、山学と秋山女子に関わる幾つかの事項、故人印の不備などなど、瀬川が著したとされる「方角分」の記述内容に多くの不審な点があることが分かったため、写楽斎そのものの存在は勿論、地蔵橋の通り名も果たして正しいものであったのか慎重に見直す必要がありそうです。このページを書き進める過程で管理人は谷口月窓という人物の重要性に気づき、出来る限り多くの検証が可能な資料を集めようとしたのですが、師の月僊が様々な足跡を残しているのに対し、画の奥義を伝授されたとする月窓の実像に迫ることのできるだけの良質な証言をほとんど得ることが出来ませんでした。明治維新前夜まで長生きした月窓本人ではなく母親の「芝居見物」怪談が薄田泣菫によって伝わりますが、彼自身の人柄については筆まめな月岑すら片言も語っていないのです。不思議な絵師というほかはありません。

月岑は、もう一つ「増補浮世絵類考」の中で独自の情報を開示しています。それが写楽を『天明寛政の人』と紹介している点です。これは『写楽=斎藤十郎兵衛』だとする見方と基を一にしたものだと考えられますが、十郎兵衛は確かに宝暦十三年(1763)生まれですから天明期(1781~1788)に画を描いていて不思議ではありませんが、未だ親掛かりの十代の時分から家族みんなと生活を共にしつつ浮世絵を描き続けていたとでも言うのでしょうか?甚だ不可解な証言のように思えます。最期にもう一つ、今度は、三馬に関わる疑問というか謎めいた彼の態度についてです。三馬の代表作『浮世風呂』『浮世床』の挿絵を描くなど、三馬の作品を多く手掛けている浮世絵師に歌川国直(うたがわ・くになお,1793~1854)という人がいます。画号からも分かる通り有名な歌川豊国の門人である彼は「写楽翁写楽斎」の別号をもっていたのです。勿論、国直が写楽と別人であることは言うまでもありませんが『写楽斎=しゃらくせい』そのものが世代を超えた江戸町人の人気ペンネームだったのであれば、洒落斎の号を自らも名乗る三馬が「方角分」の写楽斎の三文字を、そうそう容易く信用しただろうか--、そんな思いも交錯します。

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東洲斎写楽: 役者絵85図+プチ解説 (日本の名画シリーズ)

     
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