と鐸(さなぎ)と天津彦根命の神裔たち                                                「サイトの歩き方」も参照してください

さて何から、何処から書き始めようか、語り始めようか随分と迷った挙句『続日本紀』に記録されている銅鐸の記事の紹介から書き起こすことにしました。古代の人々は「銅鐸」のことを何故「鐸」と名付けたのか?それは「鐸」の形そのものが昆虫や蝶などの「蛹(さなぎ)」に似ていたからだとする説が有力です。教科書などの挿絵としても取り上げられる大きな銅鐸からは余り想像できませんが、その原型であろうと考えられている極、小型の「鉄鐸」などを見ると、いかにも昔の人々が「さなぎ」と呼んだ理由も納得できるでしょう。(銅鐸の前身は鉄鐸そして、その大元は下で紹介している画像の様なサナギであったと考えられています。造りは極簡単なもので、鉄の板を叩いて薄く延ばし、それを筒状に巻き内部に鉄の舌を付けて音を出す機能を持たせていました。だから鈴のような綺麗な音は出ません)ところで日本書紀に続く正史である「続日本紀」の第六巻、和銅六年(713)七月六日条には概ね次のような文章が掲載されています。

  大倭国、宇陀郡波坂郷の人、大初位上、村君東人が長岡野の地より銅の鐸を得て、これを献上した。
  高さ、三尺、口の径は一尺、その制は常と異なるが、音は律呂に協(かなえり)。

ここで云う「制」は「作り方、形」の意味だと思われますから、奈良時代の「鐸=大きな鐘」とは作り方が違ってはいるが、鳴らしてみると「律呂=音階」は正しい。だから然るべき部署で保管するように命じたとあります。また、時代は少し下りますが、斎部氏によって伝えられた『古語拾遺』(807年編)日神岩戸隠れの条には、

  天目一箇命をして雑(くさぐさ)の刀(たち)、斧および鉄の鐸(さなき)を作らしむ

と記され、当サイトではお馴染みの神様が「刀や斧」と共に祭祀に必要な「鐸」も作成していたことが分かります(下中央の画像)。また、天孫降臨に際して天照大神は「天児屋根命、太刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命(石凝姥)」、玉祖命」の五伴緒(いつとものを)を従わせたと古事記が伝えていますが、この折には常世思兼神、手力男神そして天石門別神も一緒に天降ったとされています。そして、アマテラスを岩屋から連れ出した力持ちの神様・手力男神は「佐那那懸(さなながた=さなのあがた)に祀られているとも伝えています。これは延喜式神名帳に「佐那神社」として名前が掲載されている社だと考えられていますが、実は、この神社も製鉄の神と縁が深く、相殿として祀られているのは曙立王命(あけたつおう)なのです。この配神の名前を見て『もう一つの白鳥伝説、ホムツワケ』を思い出したなら、貴方はオノコロ共和国の立派な住人と云えるでしょう、それはさておき。

銅鐸  鉄鐸  「さなぎ」  古語拾遺  PR 

垂仁帝と狭穂姫皇后との間に生まれた長子・本牟智和気王(誉津別王)は「三十、八握髯鬚」ヤツカヒゲ生すまでに成っても言葉を話すことが出来ません。帝も大変心を痛めていたのですが、ある日大虚を飛び亘る「クグイ(白鳥)」を見て『あれは何だろう』と呟いたのです。これを聞き喜んだ帝は早速臣下に『誰か、その鳥を捕えて献上する者はいないか?』と下問したところ鳥取造の祖・天湯河板挙(アメノユカワタナ)が名乗りを上げ、遠く飛翔する鵠を追いかけ、出雲に至ってやっと追いつき捕獲し、皇子に献上すると目出度しめでたし、遂にホムツワケは言葉を自由に話せるようになりましたと日本書紀が記録しています(垂仁紀二十三年冬十月条)。ところが、これに対し古事記は、皇子が鵠を見て「片言」を話したので山辺の大鷹が幾つもの国を越えて鵠を追いかけ、高志国で何とか捕まえ皇子に差し出したが、未だ、思うように話すことが叶わなかった。垂仁帝の憂いは晴れないまま、或る夜見た夢の中で、

  我が宮を天皇の御舎のごとく修理(つくりおさ)めたまわば、御子、必ず、真事(まこと)とわん

と言う神のお告げを得ます。そこで「太占」で占ってみると皇子は「出雲の大神の御心による祟り」によって言葉を封じられていることが分かったのです。垂仁は皇子の出雲詣でを即決して「誰人」が介添え人として最も相応しいかを占い、占象(うらかた)に出た名前が「曙立王(あけたつおう)」その人でした。慎重を期した帝は、重ねて曙立王に「宇気比(うけい)」を行わせ吉凶を確認した処、すべてが「吉」と出て彼の資格に全く問題は無いことが明らかになります。息子に付き添う王子に垂仁は「倭者師木登美豊朝倉曙立王」という異例の名を下賜して一行を送り出し、出雲に至ったホムツワケは『若し出雲の石くまの曽宮に坐す葦原色許男大神をもちいつく祝の大庭か』と自ら問い掛け、言葉を自在に操れるようになり、朝廷が歓喜して神の宮を造ったと伝えています。長々と一人の皇子の逸話を紹介してきたのは、出雲参詣の陰の主人公「曙立王」が『佐那造(さなのみやつこ)の祖』(古事記)であるからに他なりません。また、彼の父親は品遅部君の祖先である大俣王であり、祖父母は開化皇子・彦坐王と山代之荏名津媛なのですが、この祖母の血脈を遡ると、

  荏名津媛−−大国不遅−−長溝命−−伊加利乃命−−苫麻杵命−−知久流美命−−阿多根命−−意富伊我都命−−天御影命(天目一箇命)

のように系譜付けられ、王子が紛れもなく母方から天津彦根命の血脈を受け継いだ人物であることが分かります。更に、先の鵠捕獲の話に戻れば、鳥取造(連)の祖先とされる天湯河板挙に関して「新撰姓氏録」は、

  右京神別、天神、鳥取連、角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也、垂仁天皇皇子誉津別命、年向三十不言語。于時見飛鵠。問曰。此何物。
  爰天皇悦之、遣天湯河桁尋求、詣出雲国宇夜江、捕貢之。天皇大嘉、即賜姓鳥取連。

と鳥取連の出自を述べており、彼らの祖先は「角凝魂命」の三世孫である「天湯河桁命」だと主張していたようです。これだけでは、今まで見てきた神々の系譜とは一見して異なるのではないかと思われがちですが、古代氏族研究家・宝賀寿男さんの調査研究によれば、

  角凝魂命−−伊佐布魂命−−□□□□−−天湯川田命−−少彦根命

と云う「三嶋懸主」系譜が伝わっている様ですから、これを姓氏録の記述に重ねあわせると「天湯河桁命=天津彦根命(少彦名命の父親)」の図式が引き出せます。また、上で見てきた佐那神社の主祭神である天手力男命には『八意思兼命の子供』で別名を『阿居太都命(あけたつのみこと』と称するとの伝承がありますから、ここで触れられている「あけたつ」の神様が、天津彦根命の子・明立天御影命(天目一箇命)そのものであり、曙立王の名前そのものが神の名から採られていた事を証明していると思われます。鳥取連の主張からは、もう一つ「何故、出雲の国の宇夜江」(現在の宇屋谷)で彼らの祖先が鵠を捕まえることが出来たのか、その理由も垣間見えます。昭和60年、出雲市斐川町神庭(かんば)という鄙びた土地の一角から三百五十八本もの銅剣が銅鐸、銅矛と共に「発見」され、考古学学会が大騒動に席巻されたのですが、その位置は姓氏録が伝えた「出雲宇夜江」の比定地斐川町宇屋谷から南西650メートルほどしか離れていません(下の図参照)。「出雲風土記」によれば、そこは出雲の国、出雲郡健部郷に属し、かつて『宇夜都辨命が、その山の峰に天降り』その社も建っている地なので「宇夜の里」と名付けられた場所です。また「健部」の郷名も景行帝が『我が子、倭健命の名を忘れない』様に健部を定めた事に因んだものであると風土記が説明しているように、この地が大和朝と大変深いつながりのあった事を想像させます。(下の地図はGoogleによる)

三輪山周辺  宇屋谷   諸国造系譜

「出雲の大神の御心」を確かめたいのであれば、垂仁の息子と付き人たちは当然、出雲大神を祀る社に赴かねばならないはずです。当時、未だ出雲大社が建てられていなかったとすれば大神と最も縁の深い場所が選ばれたはずです。若し「新撰姓氏録」にある鳥取連の家伝が正しいのであれば、当時の朝廷が出雲大神を祀る場として最もふさわしい土地が荒神谷神庭近くの宇屋谷だったことになるでしょう。そして、神庭には確かに大量の「神宝」が埋納されていたのです。であるなら、天津彦根命の後裔たちは皆、出雲の何処に神宝が納められているのか知っていたに違いありません。誉津別命の出雲行きから十数年後、垂仁皇子の五十瓊敷入彦命は「茅渟の菟砥川上宮(鳥取の河上宮)」に居ながら「剱一千口」を作り石上神宮に納めたと書紀が記していますが、今回、天津彦根命関連の系図に興味深い書き込みがあることに気づきました。それは「東国諸国造」各氏の系譜の一部に含まれているものなのですが、天津彦根命の子孫で国忍富命という人物の子供の一人に「加志岐弥命」という名前が見えます(上右の画像を参照)。字が小さくて読みづらいかも知れませんが「○○鍛冶、白根造祖、活目天皇三十九年十月勅使、川上郡にて太刀一千口作る」とあります。一番右端に名前のある「櫛努古理命(クシヌコリ)」は三上氏の祖神「大加賀美命」の別名だと考えられますが、その下にも「川上舎人」の文言が見えます。これらの書き込みが全て正しい内容を伝えているのか検証が必要ですが、天津彦根命系の氏族間では垂仁朝に武器作りに従事した祖先が居たという伝承が存在していた事実があったと言えそうです。

神宝の在り処を知っていた天津彦根命の子孫たち

上の系図に関して付け加えれば、加志岐弥命の姉妹に当たる「息長水仍比売命」は崇神帝の兄弟・彦坐王の妃ですから、垂仁にとっては伯母になります。更に垂仁の息子が五十瓊敷入彦命なので「世代的」に見て、この系譜は問題を含んでいると考えざるを得ないでしょう。彦坐王の周辺は謎だらけと言う人も居ますが、最初の妻・荏名津媛にも「?」が付き纏います。古事記・開化段には「日子坐王、山代の荏名津比売、またの名は苅幡戸辨を娶して生める子、大俣王。次に小俣王」とあって、妃の名が「カリハタトベ」であったと伝えているのですが、実は垂仁帝にも同じ「山背の苅幡戸辺」と、その妹「綺戸辺(カニハタトベ)」(記では弟苅羽田刀辨)という名前の女性が嫁いでおり、姉の「カリハタトベ」は山城国久世郡(現在の八幡市)石田神社などで祀られている五十日足彦命を産んでいます。この人物は石田君の他、春日の山君・高志の池君・春日部君などの祖とされているのですが、物部氏の『先代旧事本紀』が、同命の母親は「丹波道主王の娘の薊瓊入媛」だと書き留めているので筆者の関心の的になっています。何故なら、若しも「旧事本紀」の伝承が間違っていなければ、五十日足彦命と当サイトの主人公の一人・稲背入彦命は義理の兄弟の関係になるからです。苅幡戸辨を名乗る女性は、

石上神宮  石田神社 

  @ 彦坐王の初めの妻、山代の荏名津媛。またの名は苅幡戸辨。   「古事記」開化段。            天津彦根命の後裔・山代長溝命の娘。
  A 垂仁帝の妃、山背の国の綺戸辺。                      「日本書紀」垂仁34年条。      天津彦根命の後裔・山背大国不遅の娘。
  B 垂仁帝の妃、山背の苅幡戸辺。                      同 上                  同 上

の三名ですが、皆、その出自は「山代(山背)氏」つまり天津彦根命の系統です。従って、世代を隔てて同じ名前を持つ娘が居た(世襲?)としても不思議ではありません。問題は「先代旧事本紀」が垂仁皇子の母親について『山背氏の娘の苅幡戸辺』あるいは『丹波道主王の娘、薊瓊入媛』だったと記している一点にあります。開化記が丹波氏の娘として薊瓊入媛と渟葉田瓊入媛の二人の名を上げていない点も気がかりです。字面や思い込みに引きずられては正確な判断力を損なう恐れがありますが、垂仁から景行へと繋がる系譜の中で、

  T 垂仁帝と丹波道主の娘・日葉酢媛命との子供            五十敷入彦命(妻は景行帝の娘・熨斗媛命)
  U 垂仁帝と日葉酢媛命の妹・薊入媛との子供             五十日足彦命   池速別命(沙本穴太部別の祖)   稚浅津姫命(稲背入彦命の妻)
  V 垂仁帝と日葉酢媛命の妹・葉田入媛との子供        胆香足姫命

など「瓊=珠・玉」の付く名前の皇子、姫を取り出して眺めると、微かですが記紀編集者たちの「細工跡」を見つけた気分になってきます。誉津別命(ホムツワケ)を除けば垂仁にとって最も長子に当たる五十瓊敷入彦命は幾つもの逸話が記録されているにも関わらず一人の子孫も残していません。また、その妻が「弟の娘」になっている事も不自然です。恐らく彼は別の人物の影武者役を割り当てられた皇子に違いありません。先に見た「剱一千口」(=軍事権の掌握)の製造を重視するなら、彼こそ垂仁の後継者だった可能性もあります。垂仁帝には后妃が、@和邇氏、A山背氏、B丹波氏の三豪族から入っている事になっていますが、最初の皇后・狭穂姫が産んだ一人息子の誉津別命の消息も全く知られていません。それは彼の母と伯父が帝室に謀反を企てたとされる事件を反映していると思われますが、春日を拠点にしていたと考えられる和邇氏は彦坐王に袁祁都比売命を嫁がせており、これが息長帯比売命(神功皇后)の家系の源となっています。つまり、反逆者であったはずの和邇氏は垂仁朝での重大事件に関わらず帝室に最も近い豪族の地位を失っていません。憶測に過ぎませんが、大和を手中に収めた大王の関心が、@和邇氏=古い権威と軍事力から、A山背氏=古い金属技術(銅の世界)に移り、最終的にB丹波氏=より新しい金属技術(鉄の世界)へ向かった事情を、これらの婚姻系譜は示しているのでしょう。景行帝と共に鉄文化を切り開いたと思われる稲背入彦命が丹波氏の娘が産んだとされる稚浅津姫命の「婿」となったのは決して偶然ではなかったのです。この後、和邇氏と丹波氏そして息長氏が融合を重ね、独り山背氏のみが衰退の途を辿ることになります。その理由の一つが「技術革新」という文化の流れに求められるとは思うのですが、一方で、吉備と大和をつなぐ「鉄の架け橋」を渡す重要な役割を果たしたのが天津彦根命一族ではなかったのか?そんな風に考えてみたくもなります。

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