「名はを表わして」いるか?、                           サイトの歩き方」も参照してください

いつもとは違い、今回のお話では何時に無く「落ち」が見えていますから、物語りを淡々と進めればよいのですが、資料集めに凝ってしまう悪い癖は治らず、脈絡に乏しい筋書きに変わりはありません。ところで皆さん、幕末の大老、井伊直弼(いい・なおすけ、1815〜1860)をご存知のことと思いますが彼の官名は彦根の藩主になった折、掃部頭(かもんのかみ)と呼ばれるものでした。勿論、この「官」は江戸幕府の権威によって裏打ちされた体系の一部ですから、古代律令制のもとでのそれとは全く別物なのは言うまでもありません。ただ宮中には御殿清掃を担当する掃部寮があり、その長官が掃部頭(かにもりのかみ)と呼ばれていたのは事実です。オオクニヌシのお膝元、島根県簸川郡にある加毛利神社の古伝によれば、

  豊玉姫命が鵜茅不合葺命を産もうとした時、彼女の周りに蟹が沢山集まってきたので、側に仕えていた神が
  蟹を掃いて命を守った。これに大層喜んだ豊玉姫は、その神に「蟹守」の名前を与えた。
  その蟹守の子孫神が九州日向から海を渡り当地にやってきて社に祀られることになった。

のだそうで、出雲に在りながら、この神社では火火出見命(山幸彦)、豊玉姫、鵜茅不合葺命(神武帝の父親)の三柱を祭神としています。この伝承に出てくる「カニ」の実体については全く異なる解釈もあるようなのですが、その場合でも「カニ」を「掃き」清める役目そのものについては同様の見方がなされているようですから、古代の王家に親しく仕える一族が存在していたことは間違いなさそうです。また書紀も大化五年五月条で『掃部連角麻呂という者を新羅に遣わした』と記録し、天武十三年に同氏は宿禰姓を授けられ「新撰姓氏録」河内国神別にも『振魂命四世の孫、天忍人命の後』の掃守連を載せていますから、七世紀のヤマト朝廷に仕える掃部(掃守)という氏族が居たと思われます。ただ「蟹を守った」のではなく「蟹から守った」ので「かにもり」と名付けたという辺りが、どうも、しっくり来ないので別のカニを探します。

これぞ蟹ハサミ  私が猿です  考えるサル

「古語拾遺」に収められている「かにもり」縁起話は、どうやら出雲に伝えられたものと同じ内容のようなのですが、お隣、伯耆国の楽々福(ささふく)神社には、日野郡溝口村にある鬼住山に「住み着いた」沢山の「悪い鬼」の伝承が残されています。それは、

  大手、乙手という名の悪い鬼の兄弟を、孝霊帝が山麓の赤坂で退治した

と云うもので、ここでもカニは「悪者」(の親分)として扱われ、より瀬戸内側にある備中新見市には石蟹という地名もあって、こちらでもヤマトに反抗した強力な集団を討伐したという伝説が語り継がれています…。それにしても「良い蟹」は居ないのか−−、居ました、いました!

動物シリーズは、長らく頓挫したままでしたが、久しぶりに復活しましょう。昔むかし、或る所にサルとカニが住んでいました。

  或る日、カニは道端で握り飯(稲穂という地域も)を拾い、サルは柿のタネを拾いました。(以下略)

「さるかに合戦」の民話は地方によって登場人物や持ち物などに多少の異同があるようですが、ここではカニ(の親子)が「善人」であり、柿の種と握り飯を「言葉巧みに交換」させた後「収穫を手伝ってやる」と言いながら、未熟な青い柿を投げつけて親カニの生命を奪った「サルが悪」を代表する存在として描かれています。その背景として仏教的な勧善懲悪の思想が横たわっているのだと思いますが、他の民話、例えば「大江山の酒呑童子」や「一寸法師」などでは常に「悪役」を演じている「鬼」に擬えられた「カニ」が、多くの実り(鈴なりに実る柿)を齎す存在に変身しているのは何故か?単純に考えれば、カニにも色々の種族があったと云うことなのではないか!そこで、良いカニが「育てた」柿を手がかりに、いざ、出陣。ここまでに分かっている事と言えば@カニは浜辺にも山にも居る、A悪いカニも、良いカニもいる、Bカニは物作りに長けている、Cカニと柿は縁がある−−、位のもので正に藁をも掴みたい気分になりますが、近畿に伝わる「蟹の恩返し」にヒントがありそうです。それは山城国・蟹満寺の縁起話で「今昔物語」にも収められている因果話で、

  T 娘は、悪童に捕まえられた沢山の蟹を、食べ物と交換して谷川に全て逃がしてやった。
  U 父親は、に呑みこまれそうになっている蝦蟇を助けてやろうとして、
  V その蛇に『代わりに娘をやるから』と約束してしまった。
  W 話を父から聞いた娘は蛇の許へ行くことを承諾し、鍛冶師に鉄の箱を造らせ、その中で蛇を待った。
  X 大きな蛇が鉄の箱を破壊しようとした時、無数のカニが現れ蛇を退治して娘を助けた。

と云うものです。この話自体とても複雑な要素を幾つも含んでいるのですが、どこかで聞いたような「部分」がありますね。そうです、かつてオノコロ・シリーズで取り上げた「やまたのおろち」退治の主役・スサノオの代わりにカニが娘を助けているのです。であるとするのなら『鍛冶師に鉄の箱』を造らせた女性と父親そして敵同士の蛇とカニの全てが古代の製鉄に関わる人々であった可能性が濃厚です。ここで突然閃いたのが、とても珍しい名前の持ち主である一人の、いや一柱の神様でした。山城国綴喜郡は継体帝が八年間(511〜518)筒城宮を置いたとされる土地ですが、伝承地の多々羅の西南西5キロメートル、京田辺市天王の山中に朱智神社は在ります。祭神は言うまでも無く、息長足姫尊の祖父・迦爾米雷王命(かにめいかずちのみこと)に他なりません。

今昔物語  朱智神社 PR

今回、猿と蟹を取り上げるまで、製鉄に深く関わったと思われる神功皇后の直接の祖先の名が、どうして「迦爾(かに)」なのか理解に苦しんで来ましたが、色々な土地で語られる民話昔話を調べるうちに、

  蟹(カニ)が「金(かね)」つまり「鉄」に通じる言葉であり、古代の鍛冶(かぬち)も同じ意を含む言葉

ではないのかと考える様になりました。そして大切な点は、息長氏の宗廟とも言うべき朱智の社に「配神」としてスサノオと並んで天照国照彦火明命(ホアカリ)が祀られている事実です。多くの関係者が、この尾張氏の遠祖ともされている有名な神様が、何故、息長氏の聖地に鎮座しているのか不可解だと表明していますが、葛城市當麻町加守の地に建つ蟹守神社にも火明命の直系、天香語山命の孫・天忍人命が祀られているのです。そして、上で見てきたように、この神様が「掃部連」の祖先だったのですから「かにもり」の人々は、寄り来るカニを掃いたのではなく、息長氏と共に「カニ=鉄」作りに、更には国造りに励んだに違いありません。少し込み入った神様談義になりますが「新撰姓氏録」が掃部連の先祖だとしている神は、

  天香語山命の孫であり、振魂命の四世孫でもある天忍人命

なのですが、本来、天香語山命という神様は「尾張連」が祀る祖先神で、振魂命とは別系統に属しています。ところが、

  綿津見豊玉彦の子供、豊玉姫の弟が振魂命で、その子が天忍人命(別名・天前玉命)
  綿積豊玉彦命の子供、豊玉姫の弟が振魂命で、その子が高倉下命(別名・天香語山命)

だとする異伝が複数残されていることから、海神(わたつみ、綿津見=安曇氏、海部氏?)と尾張氏の間に一時期、親密な協力関係のあったことを強く窺わせます。ただ、大王の子が「渚」の産屋で、正に産まれようとする時に「寄りくる蟹」を掃いた掃部連の祖神としては、綿津見豊玉彦の子神がふさわしいでしょう。従って、本来、系図上、火明命を頂点とし、天香語山命を祖とする尾張連の祭神・天忍人命が振魂命の系譜と結び付けられたのは、相当、新しい時期だったのではないかと想像されます。また「安閑と高屋連」のページでお話したように、天香語山命の「香語=カゴ・カグ」は「カル=銅(金属)」に直結した言葉ではないかと考えられますから「カニ、カネ、かぬち」にお似合いな神様だとも言えます。また、朱智神社が元々別の場所で創建され、天王高ケ峰に遷されたのが宣化元年(535)だったという古伝を尊重するなら「」(カグ=香語)ケ峰の本もとの主は天香語山命(アメノカグヤマ)であり、応神王家の後裔を称した継体王家が「後から」祖神をここに祀るようになったと考えた方が良いのかも知れません。(あるいは、古いカニ[銅]を新しいカニ[鉄]が凌駕したことを象徴しているのかも…)

 三山歌と「(カグ)」=万葉集に収められた天智帝作とされる和歌で、香具山が、
   高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相<挌>良思吉
   高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
 と表記されています。高山の「高」は、高低の高さを言うものではなく、明らかに「香具」の代わりとして用いられています。従って、従来、意味の良く分からなかった「高」の
 字を含む神々の名や,古代からある地名などについては「たか」と読むだけではなく「かぐ」などと訓む方法も考えるべきなのかも知れません。神武帝の東征場面で布都御
 魂という名の剣を与えたとされる天香語山命の「別名」は高倉下(たかくらじ)と言いますが、これも「高い倉」ではなく「カグ=銅=剣」の倉、つまり武器庫を管理していたと
 考えればすっきり理解できます。

残ったのはカニと柿の関係ですが、これは明らかに「垣内(かきうち、かいち、かいと)」の「垣」に柿の字を充てたものだと思います。先ず、朱智社の建つ天王高ケ峰の直ぐ下には「上垣内」「下垣内」の字(あざな)が今でも使われていますし、先日(平成21年1月)兵庫県の淡路島で、島根県松江市の上野遺跡を上回る、弥生時代後期後半(2世紀〜3世紀初め)の国内最大級の鍛冶工房が発掘された場所も「垣内遺跡」という地区でした。貴重品であり、かつ最強の武器類をも生産する「鉄」工場は、厳重な「垣根」で囲われ一般人の出入りも固く禁止されていた名残なのかも知れません。軍事を機密とするのは古今東西、全く変わらない人の習性のようです。さて、冒頭で述べた「落ち」ですが、何ほどの事もありません。捻りも、一工夫も無いので余程止めようかとも思いましたが、それではナニですので一応書き留めておきます。

大老、井伊直弼の幼名は「之助」と云ったそうです。カニ守、いや掃部頭にとって、これ以上相応しい名があったでしょうか!名付け親には彼の将来が見通せていたのかも知れませんね、お終い。

     
     
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