宣化天皇の出自と「」について考える                    サイトの歩き方」も参照してください

西暦507年、若くして亡くなった武烈の妹と結ばれることでヤマト朝の跡継ぎとなった男大迹(オオド)王には、幾人もの夫人がいたが、中でも糟糠の妻ともいうべき存在が尾張連草香の娘・目子媛その人で、継体帝との間に二人の王子を儲け、いずれもが帝位に就いた。年嵩の王子を勾大兄(まがりおおえ)といい、年下の王子は檜前高田(ひのくまたかだ)と呼ばれた。この親子に纏わる数々の謎については、これまで度々取り上げてきましたが、生没年一つを取ってみても不合理な記録が目立ち、古代史の大きな節目に当たる六世紀前半に「実在」した人々だとみられているにも関わらず、一方では架空説もあるなど複雑で不思議な大王たちと言えます。

例えば、四半世紀もの間帝位にあり「三嶋の藍野」に陵墓を築いたとされる継体帝の最期を日本書紀は、

  (在位)二十五年の春二月に天皇、病甚し。丁未(七日)に、天皇、磐余玉穂宮に崩りましぬ。時に年、八十二。

と本文で記した上で、更に続けて、

  或本にいわく。天皇、二十八年歳次甲寅(534)に崩りましぬという。しかるに此処に二十五年歳次辛亥(531)に崩りましぬと云えるは、百済本記を取りて文を作れるなり。
  その文に云えらく、太歳辛亥の三月に、軍進みて安羅に至りて、乞乇城を営る。この月に高麗、その王安を殺す。
  また聞く、日本の天皇および太子、皇子ともに崩薨りましぬといえり。これによりて言えば、辛亥の歳は二十五年に當る。後に勘校えん者、知らん。

と何とも不可解な「言い訳」とも「解説」とも、どうとでも取れるような曖昧な一文を付け加えています。その大意は、

  ① ある資料によれば継体帝は在位28年にあたる甲寅(534年)に亡くなったと伝えられているが、
  ② 書紀の編集者が、在位25年目の辛亥(531年)に亡くなったと記録したのは「百済本記」を根拠としたものである。
  ③ そこには「辛亥の三月」に高麗の安王が亡くなったとあり、
  ④ また辛亥の年には日本の天皇および太子、皇子が倶に亡くなったとあるので、
  ⑤ 辛亥の年は継体二十五年にあたる

のだと云っている訳です。一読すれば「あぁ、そうなのか」と素直に納得してしまいそうな文章ですが、落ち着いて考えれば上の記述に整合性は欠片もありません。何故なら、例え「百済本記」という外国の資料が八世紀の国史編纂所に在り「辛亥の年」が「継体在位二十五年」に相当する年であったとしても、

  辛亥の年に継体帝および太子(安閑帝?)、皇子(安閑以外の継体の男子)が「倶に亡くなった」

と云う事実は国内に伝えられていない(証明されていない)からです。ただ、記紀の記述内容そのものに全面的な信頼を置けないことも又、明らかなので書紀が「正しい没年」や権力闘争の実態を正確に伝えていないだけで百済本記そのものは信用できるのだという見方もあるのですが、ここでは深入りしません。一方、古事記はどう伝えているのかと云えば、

  (継体)天皇の御年、四十三歳。丁未の年(527)の四月九日に崩りましき。御陵は三島の藍の御陵なり。
  (安閑)天皇、御子無かりき。乙卯の年(535)の三月十三日に崩りましき。御陵は河内の古市の高屋村に在り。
  弟、建小広国押楯命(宣化)、檜前の廬入野に坐しまして、天の下治らしめき。

「継体陵」古墳  安閑天皇陵  摂津名所図会

等と記すのみで宣化帝に至っては没年どころか陵墓のあり場所すら記録されていません。つまり国の正史と最古の資料から編集したと思われる古事記の記録がことごとく一致せず、大袈裟に言えば継体親子の存在そのものまでも疑わせる不透明な記述に終始している訳で、六世紀前半のヤマト朝の混乱ぶりに着目、二つの異なる王統が並立し抗争を続けていたとの説が生まれる素地がここに在ると言えるでしょう。さて『それ程疑わしい帝たちの実在が何故認められているのか?』との疑念が湧いて当然なのですが、それには『子孫を残しているから』と答えるしかありません。尤も、安閑帝については「御子無かりき」が通説となっていますから、その陵墓の存在で彼の在位を推し量るしかないのですが、次男の宣化帝は、后妃との間で子供に恵まれ一族は後々まで繁栄したように見えます。その辺りを書紀は、

  橘仲皇女との間の長を石姫皇女と申す、次を小石姫皇女と申す、次を倉稚綾姫皇女と申す。
  次を上殖葉皇子と申す、又の名は椀子、是、丹比公・偉那公すべて二姓の先(おや)なり。
  前の庶妃大河内稚子媛、一の男を生めり。是を火焔皇子と申す、是、椎田君の先なり。

と明記しています。つまり石姫を筆頭に三姉妹がいずれも欽明帝に嫁ぎ、継体の血脈を絶やすことなく敏達につなぎ、他の皇子たちもそれぞれに家を興し大王家を支えたとされており、中でも丹比(多治比)氏と偉那(猪名・威名・威奈)氏は七世紀から八世紀にかけて朝廷内で高級官僚として実績をあげていますから、子孫の活躍が祖先(宣化)の実在性を担保する結果となっている訳です(例えば七世紀末に左大臣を務めた多治比島、或いは威奈大村など)。……随分と長い前置きになりました、今回の主題は、その宣化帝(467~539)その人に関わる推理です。諱の「檜前高田」はヤマト高市郡内の地名に由来するものだと考えられること、そして河内国内に継体一家と深い縁で結ばれている息長氏の克明な足跡が残されている点などから継体親子たちにとって河内摂津という土地は馴染みの深い場所だったのではないかと思われるのですが「摂津名所図会」第六巻によれば『猪名(いな)』とは『豊嶋郡より川邊郡に至る平原の惣号』で、

  むかし大物の浦より、今の伊丹・池田のほとり。東は吹田・江口のほとりまで入り江にして、通船あり。また所々に島ありて、濱湊の名

が存在していたようで、海外への憧れが人一倍強かった鎌倉右大臣源実朝(1192~1219)も、

  湊風 いたくな吹きそ しなが鳥  猪名野の海に 船とむるとも  (本歌 大海に 嵐な吹きそ しなが鳥  猪名の湊に 船泊つるまで  万葉 1189番)

と想像上の「猪名の海」そして湊=船出、旅立ちへの期待を歌い上げています。ところで猪名の枕詞「しなが鳥」とはカイツブリのことで、彼らは潜水が巧みである、つまり「長い時間潜っていることが出来る=息が長い」ので「息長・しなが」鳥と呼ばれたようなのですが、その鳥が何故、摂津平原の枕詞になったのかは謎のままでも、古代人にとって納得のゆく理由が存在したに違いありません(単純に考えれば、その地に息長一族が住んでいたからとするのが最も自然です)。また、カイツブリには「にほ鳥」の別名もあり、万葉集に取り上げられた馬史国人の一首は次のようなものでした。

  にほ鳥の 息長川は絶えぬとも  君に語らむ 言尽きめやも   [巻20  4458番]

為奈都比古神社   PR

この聖武帝の難波行幸に際し随行したと思われる大伴家持(718~785)に贈られた一首では「にほ鳥」が「息長」の掛言葉のように使われていることが分かりますが、継体帝に秘密の上奏を行った河内馬飼首荒籠を髣髴させる馬国人の本拠地は河内国伎人(くれ)郷であり、猪名の一角を占める「池田」の旧名も「呉服里(くれはのさと)」と云い、

  豊嶋郡都会の地にして、交易の商人多し。所々の産物を運び出で朝の市、暮の市とて商家賑わい、特には酒造の家多くありて猪名川の流水を汲んで造り

江戸期においても「池田酒」として賞され、現在でも池田の銘酒には『呉春』の名が冠されています。この「くれ」の巧みたちが、応神帝の三十七年に呉への使者となった阿知使主が連れて帰った人々の末裔なのかどうか不明ですが池田の里には呉織神社、穴織神社などの社が生土神として祀られてきました。また雄略紀、十四年三月条にも、

  三月に、臣連に命せて呉の使いを迎う。すなわち呉人を檜隈野に安置らしむ。よりて呉原(くれはら)と名づく。

とあって、同年春に「呉」から漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)などの才伎(てひと)が来朝していたことも明らかで、宣化が幼少時代を過ごしたかも知れない檜前の地には呉人たちが伝えた新しい技術文化が溢れていたように思われます。更に、現在は伊丹市に属する「東桑原」という土地には、かつて宣化帝の第二子、火焔皇子の墓だと伝えられた祠が存在していたのですが、空港造営工事により取り壊されてしまったようで確かめる術はありません。延喜式によれば、この旧猪名県(豊嶋郡、川邊郡)五座のうち二座が為那都比古神社で祭神の為那都比古・為那都比売は上古から一帯を支配していた一族の祖霊が神格化されたものだとも云われていますが、管理人は最近別な見方も出来るのではないかと考えるようになりました。その背景には次のような状況判断があります。

  ① 三世紀から四世紀にかけてヤマトに大きな変化をもたらす動きがあった。それは近畿内にとどまらず西日本、東海、九州など広範囲からの働きかけによるものだった。
  ② 四世紀終わり頃、応神がヤマト王権の頂点に立ったが、時期を同じくして一族の若沼毛二股王も摂津に拠点を定め勢力の拡大を図った(淀川を北上か?)。
  ③ 応神たちの率いる勢力には金属冶金関連などを含む多くの技術者集団が含まれ、各地に根ざした物品の生産を進めては新たな土地への進出を図った。
  ④ 摂津西部の猪名地域にも早くから「くれ」の名に代表される人々が住み着き、その集団を束ねた一族が「息長(しなが、おきなが)」であったと思われる。

応神が記紀の言う通り神功皇后と仲哀帝の一粒種だったのか、それとも「神の子」だったのかどうかは判然としませんが、帝と極めて近しい関係にあったと推測される若沼毛二股王が継体陵のすぐ西側、藍(現在の茨木市安威)の地に太田茶臼山古墳を築いたのが五世紀半ば。これと相前後して高槻市新池遺跡では埴輪工場が稼働を始め、ほぼ一世紀にわたって大量の土器類を生産、継体の今城塚古墳の巨大埴輪なども、そこから供給されました。神武東征や応神親子の東征は「架空のお伽噺」だと考える人が多いようですが、島国の我が国に文化が伝わる道筋は海路をおいて他にはあり得ない訳ですから、大陸や半島を経由して伝えられた技術や文化が列島の「西側(西北)」から順次「東側」に浸透したと見るのが自然です。また「東征」あるいは文化の浸透といっても数年、十数年単位の短期間に武力を用いて一度限り行われたと考えるより、数世代・百年単位の時間をかけながら複数回重なり合いながら硬軟取り混ぜ行われたと考える方が良いと思います。であるとするなら弥生時代の先進国であった九州の地を本貫とする人々が、コメ作りと鉄作りの技術を携えて「東」の国を目指し長い旅に出かける場合、一挙にヤマトを「制した」とは考えにくいのです。文化が伝わる道筋同様、魏志「倭人伝」が記すように一行の移動手段は船でなければなりません。当然、瀬戸内海の島伝い、山陽道および四国北側の陸伝いに進んでは拠点を確保し、その地元勢力との「融和」を図り協力を取り付けることで次の目的地を選んだに違いないのです。海の彼方から「寄りくる神々」「海神」の原点がここにあります。そして、船作りに欠かせない巨木、樹木への畏敬・山の神々への怖れと信仰の源泉はここから生まれました。瀬戸内海と摂津三嶋そして伊豆半島の付け根、富士を背にした静岡三島の各地に大山積命が鎮座している理由も自ずと明らかです。

自分たちの勢力を極力温存するためにも、東進は可能な限り「平和的」に行われたかも知れませんが、時には在地の実力者或いは先行していた同族たちと鋭く対立し戦闘に及ぶこともあったでしょう。ホムタワケ・応神が旧勢力(異母兄弟たちに象徴される豪族)を一挙に制圧してヤマト入りをしたという記紀の筋書きは稚拙すぎます。九州--本州--四国--吉備--播州そして摂津と橋頭堡を築き、各地の王族たちとの間で婚姻関係を基にした緩やかな同盟を結びつつ大王の地位を獲得したというのが事実に近いのではないでしょうか。繰り返しになりますが、越の国を治めていた継体と尾張氏の娘の間に生まれた息子の名前として「檜前高田」は、凡そ相応しくありません。(『新撰姓氏録』が摂津国、諸蕃に位置づけた為奈部首は物部氏の金連(伊香我色乎命の六世孫)を祖先に持つ氏族だとされていますから、ほぼ、継体親子と同じ世代に誕生した部民の管理者が居たことも間違いありません)応神以降、ほぼ一世紀、傍流の「忘れられた王族」の一人に過ぎなかったオオドを、豊富な財力と技術力で大伴金村らを説得し、大王の位にまで担ぎ上げた摂津の陰の実力者が「しなが」の異名をとる「いな」の統領ではなかったのか?西暦780年、光仁帝の王朝は、摂津国豊嶋郡の人「韓人稲村ら十八人」に豊津造の氏姓を下賜したと「続日本紀」は書き留めていますが、酒処、米処「いな」の元名は「いね」であったかも知れず「いなつひこ」の正体が大いに気がかりです。

 TOP    
     
 人気のページ   お地蔵さまの正体を探る   石川五右衛門の仲間たち   オオクニヌシは天目一箇命か   蘇我稲目は豊彦王だった   邪馬台国と卑弥呼