中原思郎さんとの一期一会                                                    サイトの歩き方」も参照してください

 思郎さんが昭和45年に出版した「兄中原中也と祖先たち」 18歳の中也


中原思郎さんと会ったのは、一度限りである。
今年(平成13年)のように暑い暑い、夏の日の午後だった。

事情があって、人様より2年遅れて、当時出来たばかりの名もない大学に何とか潜り込んだ年の8月、遊びに行った親戚宅から思郎さんに往復葉書で面会を申し込んだ。期待通り、返事はすぐ届き「何時何時なら在宅している、若し、訪ねてくるのなら日時を知らせよ」と書いてある。再び、葉書で訪問の日時を伝えた。

中也を知るきっかけは、2度目の高校一年の頃、現代国語の講師に、少しく文学かぶれのK氏がおられ、まだ20代だった氏は、国語の授業などはそっちのけで、近代・現代文学−特に、中原中也小林秀雄について熱く熱く語ったため、その「かぶれ」が直ぐに伝染、中也病を患うはめとなり、2年になる頃には、すでに幾つかの『作品』を物する、自称詩人になっていた。当然、中也を真似た、作品などとは云い難い内容の雑文なのだが、本来、気のいいK先生は、三流高校のダメ生徒が、やっと見つけた目標らしきものを、正当な評価で粉砕するのは忍びない、と思われたのかどうか、厳しい評価は下されず『もう一ひねり、表現をより深く、より簡潔に』など、やんわりと諭されただけだった。

そうなれば、もう、文学をやるしかない、と勝手に思い込み、受かる見込みの無い大学の門を叩こうとしたため、見事に締め出され、浪人暮らし。
実は、中学を出た頃には、当時流行の音楽にのめり込み、ミュージシャンこそ我が人生と決め付け、いやがるピアノ教師に無理やり弟子入りしたのは良いのだが、音楽の才など何処をどう探してみても、かけらも見つからないのは明らかで、たちまちのうちに挫折、まだ、珍しい中学浪人となった前歴があった。なにしろエレキギター(つまりベンチャーズですね)が大流行しており、ギターが少し弾ければ音楽で生きていける、いや、音楽こそ自分に最もふさわしいと本気で信じていたのである。懲りない性格と云えばそれまでなのだが、オヤバカを絵に描いた様な家人の助けもあって、なんとか無試験に近い形で入れる高校を探し出し、2度目の高校一年生になった。それが「事情」である。

山陰線の出雲今市から鈍行列車に乗り込み、益田で山口線に乗り換える。途中には、中也の詩で名を馳せた長門峡もあったはずなのだが、記憶に無い。多分、車中で呑んだ酒のせいだろう。
昼食時を避けて訪ねるという位の分別は持っていたので、湯田には昼頃に着く列車を選び、丁度、正午近くにホームに降り立った。
『小さな駅』が最初の印象で、確か、改札口は昇り側に1カ所しかなかったと思う。他に下車した人影もなく、駅員は、さも当たり前のように切符を受け取った。酒のせいもあるが、とにかく暑かった。喫茶店を探した。駅前から続く一本道を少し行くと右に折れ、直ぐ左に曲がると人通りのある道路が現れ、商店街が並んでいる。一番初めに眼に留まった店に入り、昼飯を掻き込み、冷たい飲み物で人心地。1時間ばかり座り込んで想を練った。

何を訊ねるべきか、それが問題なのだが…

中也の作品を通して文学という世界の外縁に取り付いたまではよかったが、その直接のきっかけは、かぶれK先生から聞いた、少しく醜聞めいた”三角関係”的お話が主であったため、中也作品よりは、中也という人そのものに興味が集中していた憾みはぬぐえない。そのせいかどうか、中也の詩作品で最初に読んだのが何であったのか、全く失念しているし、そもそも国語の授業に出できた作品そのものが、小林秀雄の評論だったのか、それとも中也の詩であったのかも覚えてはいない。その程度の第一歩であった。
その”醜聞”について小林は『中原中也の思い出』(1949年8月)の中で、

  私は中原との関係を一種の悪縁であったと思っている。大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していたような気がしてならぬ。もっとも、誰も、青年期の心に堪え  た経験は、後になってからそんな風に思い出したがるものだ。中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に、(人間は憎み合うことによっても協力する)奇怪な  三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。

と綴っているが、高校生の魂は大いに揺さぶられた、と記憶している。そして、手許に残っている『日本の文学43巻・小林秀雄』(中央公論社)の奥付が昭和40年11月となっているので、中也の詩体験は、そこで引用された幾つかの断片が基になっていると考えたほうが良さそうだ。それは『汚れつちまつた悲しみに』『』『一つのメルヘン』などであったに違いない。
中也の作品と接する機会が増えてゆくにつれ、彼の肉声は自分自身の内部と共鳴し、中也という人間に対する興味はいやが上にも高まり…つまりは、中也病が昂じたわけです。
資料なども古本屋巡りをほぼ日課としてかき集め、いっぱしの詩人兼研究者のつもりになった頃、沸々と湧き上がったのが生家詣での考え。勿論、中也自身に会うことは到底かなわない訳で、それなら実弟の思郎さんに会おうと思いついたのだが、いざ、訪ねることになると、一体何を訊くべきなのか、具体像が見えてこない。大体、詩人本人ではなく、その家族に会ったところで、何に成るのか、とまでは深く考えず、とにかく中也が生まれて育った家が見たい、中也の弟さんに会ってみたい、その類の発想から夏の日の旅が始まった。
ただ、一つだけ、メモ書きして分らず終いになっていた言葉があった。「オンダラソワカ」という呪文めいたものなのだが、仏教に疎い、というか全く知識が無いため、どう理解してよいのか分らない。これだけは訊いておこう、と喫茶店を後にした。
道路沿いにある中也の生家は、白っぽい外装の洋風建物で、医院という感じは薄かった。道側に面してあるはずの入口は閉ざされてなく、生垣に沿い数間ほど横道に入り込むと、中原の表札がかけられていた。先ほど見た建物とは異なり、いかにも日本の民家といった佇まいに、一人勝手に納得して玄関の引き戸を開けた。
案内を乞う声とほぼ同時に硝子戸の向こうから顔を出したのは眼鏡をかけた初老の男性で、明るい夏の日差しの基から急に暗い室内に入ったせいもあり、部屋の雰囲気は重く狭苦しい感じを否めなかった。
男性は『私が中原思郎です』と正座して名乗り、暑い中ようこそ、と労いの言葉をかけてくれた。
大いなる勘違いのせいなのだが、一瞬、自分の眼が信じられなかった。中也は30歳で他界しており、彼の風貌として知識にある映像は、例の全集などによく出て来る20歳前後のものだけである。
思郎さんは大正2年10月うまれだから、そろそろ還暦を迎えようという年恰好な訳で、目前の老人(失礼)が、あの中也の弟さんに間違いないと自分に言い聞かせ、納得するまでに暫くの時間が必要だった。当惑が表情に出たのか、思郎さんは一瞬怪訝な視線をなげかけたが、すぐ、こちらの心情を察したらしく、どうぞどうぞと部屋の中に招き入れた。『いや、いや、実は学生さんが結構お見えになるのですよ』『中也は人気があるのでしょう』『つい先日も何処其処の学生さんが訪ねてきました』『それだけではなくて、古い中也の友人たちも未だに来られます』
話題に乏しい訪問客を思郎さんは気遣い、ほとんど独りで話し続けた。そうこうするうち、小柄な老婦人が部屋に入ってこられ、ソファの上にちょこんと正座してお辞儀をされた。フクさんである。多分、90歳になられていたはずで、耳が少し聞えにくい他、いたって元気です、と思郎さんが紹介してくださった。著書の中で母のことを、

   亜郎の死に会って、謙助(註・中也の父)は「此子なくては家も終れり」というほど思いつめるが、フクは誰が死んでも「家も終われり」とは決して思わない。「中原家は即ちフク     であり、フクが生きている限り中原家はある」という鬼気ある心臓をもっている。

と、辛口な表現で描いているが、そのフクさんは、お会いする数年前、中原家の近くにある井上公園に、息子中也の詩碑が建立されたとき、除幕式の当日、

    チュウちゃんが、中原家400年の歴史の中で一番偉かったのじゃろうか

と感慨を漏らされたらしい。
そのフクさんを前にして、何の話題も思い浮かばない。

    『中也さんは、三つ葉のおひたしが好物だったのですか?

咄嗟に口をついて出た言葉が、何とも間の抜けた文句。フクさんも、この世間話的”質問”は意外であったらしく、苦笑気味に首をすこし傾げ、一瞬考えておられたが、

    『あの子は何でも食べました。好き嫌いはありませんでした。ええ、何でも食べる子でした

と、こちらを正視して明言された。正に母としての発言であった。この、ややというか、まったく非文学的なやり取りを笑顔で聞いていた思郎さんが取り出してきたのは分厚いアルバムで、訪問客はすべて記録していると言う。
そこで初めて、フクさんが出てこられた意味が理解できた。つまり、中原家の長男中也の客として訪れた者は、フクさんの客であり、思郎さんの客ではないのである。思郎さんはカメラマンよろしくファインダーを覗き込み、シャッターを切った。そして、そのアルバムの中味を丁寧に説明してくれたのである。彼は「中也の弟」の役割に徹していた。
間もなくフクさんが中座されると、思郎さんは客間から座敷に席を移し、日当たりのよい縁側を指差して『中也がいつも坐っていたのが、この辺りです』と教えてくれた。

    『ここに、暫く居させてもらってもいいですか?』

笑顔で肯く思郎さんに甘えて、広くは無い座敷の一隅に坐り続け、夕方、中也の生家を辞した。式台に腰をおろし、運動靴の紐を結びかけていると思郎さんが『今夜はどうするつもりか?』と背中から問いかける。折角湯田まで来たので、どこか温泉宿でも探して一泊します、と答えると、思郎さんが待てと言う。
貧乏学生の懐具合を心配した思郎さんは、普通の宿に泊まると金がかかる、私が知っている宿屋があるので、そこを紹介してくれると言う。電話口で料金まで確かめてくれた思郎さんは、その宿までの道順を丁寧に教えてくれた。

思郎さんとの短いおつきあい

少し迷ったが、宿は見つけることが出来、風呂にもつかり、夕食も食べ終わったら、何もすることは無い。結局、聞かず終いのままとなったメモ書きに目を落とし、ただ、時間が過ぎてゆく有様を部屋の壁に括り付けてある時計を見つめて確かめる。そんな状況を見透かしたように、部屋の電話が鳴り、受話器の向こうから聞えてきたのは、先ほど別れたばかりの思郎さんの声であった。

    『宿はどうですか?ちゃんと夕ご飯は食べましたか? ところで、時間はありますか。貴方、お酒は呑みますか』
    『風呂にも入りました。酒は呑みます。時間はいくらでもあります』

そんなやり取りの後、思郎さんは急に小声になり、

    『時間があるのなら、もう一度お話をしましょう。それで、申し訳ないが、私の家まで○時頃来て欲しい』

とだけ話し、電話は切れた。
約束の時刻まで30分もない。お仕着せの浴衣を脱ぎ着替えると帳場の人に外出する旨伝え、玄関にあった年季もののちびた下駄を借りて夜道を歩く。昼の暑さは流石に和らいでいたが、風も無く外気は直ぐに体中を湿気と熱気で包み込んだ。
玄関に立ち案内を請おうとしているうちに引き戸が開け放たれ、上着に袖を通しながら出できたのは思郎さんで、中に入るのを押しとどめるような勢い。

    『やあやあ、また、訪ねてくれましたか。出ましょう、出ましょう。外のほうがいい』

などと独りで喋り、肩を抱えるようにして歩き出す。その時、思郎さんの背後に立っていた婦人が、

    『おとうさん、何々じゃあないでしょうね、何々はだめですから』

と厳しい表情で話しかけられたのだが、思郎さんはそれに答えようとはせず、足早に自宅を離れた。
二人が腰を落ち着けたのはこじんまりとしたお店で、他に客は一人もいない。それから数時間、思郎さんは、中原中也の弟としてではなく、中原思郎という独立した人間として自論を展開した。自分自身のこと、仕事のこと、友人のこと、そして中也のことなど、話すのは専ら思郎さんで、時折話題についての意見を求める。その都度、神妙に考えながら返答するのだが、明らかに思郎さんは酔っていた。

    『君は、詩を書いているのか?』
    『何々という詩人を知っているか?』
    『詩を書けば、それで詩人だと言えるのだろうか』
    『君は、一体何のために詩なぞ書いているのだ』

直ぐには答えられない質問も幾つかあった。真摯に答えられた部分もあった。時間の経過は、思郎さんの酔い方を見ていれば良く分った。店の従業員に、もう看板を過ぎているので帰って欲しい、と言われ、店を出る寸前、思郎さんは急に胸ポケットから茶色の手帖を取り出すと、今から、或る人を是非紹介すると言う。
なんでも、山口在住の詩人であるらしく、何度もその人の名前を口にするのだが、当然、未知の人物であり、夜分も遅くに押しかけて良い相手ではない。

    『夜も随分遅いので、せめて、電話で相手の都合を確かめてはどうですか』

と常識人ぶると、思郎さんは意外に素直に反応し、そそくさと電話をかけている。数分のやり取りは彼の思惑を外れたものであったらしく、今夜は都合が良くないから止めよう、ということに落ち着いた。ただ、思郎さんの落胆ぶりは、傍目にも明らかで、宥める言葉も見つからない。塩でも撒きかねない表情の店員に追い出され、外に出た。思郎さんの足取りは不確かで、到底一人で家まで辿り着くとは思えない。そんなに呑んだという記憶はないのだが、明らかに思郎さんは酔っていた。
小柄な思郎さんの右腕を首に廻し、抱えるようにして歩くのだが、中々ちゃんと前には進まない。ふらつく足取りとは対照的に饒舌は健在で、先ほどの詩人についての話を蒸し返す。どうやら、その人物は女性らしいのだが、思郎さんに言わせると、

    『才能に溢れ、天才を持て余している』

人らしく、実際に詩集も出版している人であるらしい。そして、その詩人は、

    『自分の見た幻視を巧みに表現することに長けている』

のだ、といった様な誉め言葉が続く。元気な声は家の明かりが近づくと、ピタリと止んだ。門灯は、明明と、その家の主の帰還を待っていた。門灯だけではなく、婦人も待っておられた。式台に両手をつき、這い蹲るようにして部屋に上ろうとする思郎さんを、半ば諦めに似た表情でみつめていた婦人は、自宅まで送ってもらったことに対しての礼を述べられた後、淋しい、半ば責めるような眼差しで、

    『主人は、医者からお酒を止められているんです』

と、一言だけ言い添えて背中を向けた。
宿に戻ってからも寝付かれず、思郎さんが話した言葉を一つ一つ思い出し反芻していた。初めの内、さかんに『文学なぞやらないで、経済をしっかりとおやりなさい。経済がいい』と言っていた思郎さんの本心は何処にあったのか。布団に寝そべり、何時の間にかうとうとしていると枕もとの電話が鳴った。勿論、電話の主は思郎さんの他には誰もいる訳がない。時計の針は5時を少し回った時刻を指し示していた。

    『私は、これから西の方に行かなければならない。君は東の方に帰るのだな』

と早口に言い、これから向かう地名を教えてくれた。恐らく、この頃、思郎さんは『祖先たち』を出版するための準備や資料集めに忙しかったはずであり、今朝行こうとしている所も、執筆に関係した先であったと思う。

    『それではお元気で』
    『ありがとう、君も元気で』

思郎さんは、疾風のように去った。改めてお別れの挨拶に出向くつもりでいたのだが、彼に機先を制せられ、それも取りやめ早々に宿を立ち、列車に乗り込むことにした。これが思郎さんとの一度限りの邂逅であった。だから、思郎さんに「さようなら」と言う機会もなかった。

親戚宅の庭先に座椅子を運び出し、所在無く肌を焼くだけの時間を過ごし、田んぼ仕事に性を精を出す従兄弟たちの視線を気にしながら湧き上がり、積み重なりあいながら姿を変えてゆく雲の自在さに半ば感心していると、小型バイク独特ののエンジン音が屋敷の裏を流れる小川の土手沿いに近づき、周囲をぐるりと取り囲む松林の傍を通り抜けて玄関先に入ってきた。汗にまみれた局員が手渡してくれたのは一枚の葉書で、消印は思郎さんと別れた日付けだった。
電話口での会話と、ほぼ同じ内容の文面が綴られていたように思う。返書を投函し、帰宅した。

中也と思郎さんにとってかけがえのない生家は、昭和47年5月6日に焼失した。中原家当主として、思郎さんは相当の衝撃と落胆を味わったはずなのだが、翌年2月の便りには、

    御来訪になった暑い日を想い出します。あの家は焼け、新らしい住いを造りました。
    形の上で火事の跡始末はすんだわけですが、傷が心に残っています。元気ありません。

とだけ書かれ、直ぐに『若返るつもりです』と、付け加えることも忘れてはいない。火事の前年、思郎さんは茶室の造作を思いつき竣工したばかりだったのだが、そのことについては一言も触れられてはいない。無論、冗談のつもりなのだが、茶室が出来たなら『その中で死ぬつもりです』とまで入れ込んでいたのだが…。

届けられた『ランボオ詩集』、そして訃報

  ランポオ詩集と思郎さんからのお便り    

汚れつちまつた悲しみに…… アニメカバー版 中原中也詩集<「文豪ストレイドッグス」×角川文庫コラボアニメカバー>


時間が後先になるが、生家詣でから暫らくした頃、見知らぬ人物から連絡があり、思郎さんから預かっている物を渡したいので、会いたいと云う。約束の場所へ出向くと、そこには二人の女性が待ち受けて居た。自己紹介をすると、二人とも文学部の学生で、論文の準備をかねて湯田を訪れ、思郎さんに会ってきたばかりだという。手渡された紙包みには一冊の本が入っており、手紙が添えられていた。
手紙には二人の簡単な紹介がしたためてあり、ランボオ詩集を贈呈する旨記されていた。ただ、贈るのではなく、中也を核にしたつながりを広げてやろうという思郎さんの心遣いで、この人たちだけでなく、次々と思郎さんは新しい出会いを創造してくれた。20歳台の者からみても、彼のエネルギーは底なしのように思われた。

中也の死から半世紀以上、昭和57年の2月、訃報が届けられた。知らせて下さったのは婦人の美枝子さんで、うろたえてお悔やみの言葉も十分にかけられず、翌日の告別式の時刻を聞きだすのがやっとのことだった。少し、冷静さを取り戻した時、思郎さんの備忘録の片隅に、随分と疎遠になっていたにもかかわらず自分の氏名が、まだ残されていたのだという事実に驚き、思郎さんの、あの笑顔が一瞬甦った。
早春の湯田は、あの日と同じように晴れ上がり、高い空が青く続いていた。参列者は家から溢れ、路地を埋めつくしている。受付を済ませ、僧侶の読経を聞き、葬列が家から離れるのを見届け、駅舎に足を向けた。
形見となった『ランボオ詩集』から、幾つかを紹介して思郎さんへの感謝に代えます。

      幸 福

  季節が流れる、城寨が見える、
  無疵な魂なぞ何処にあらう?

      季節が流れる、城寨が見える。

  私の手がけた幸福の
  秘法を誰が脱れ得よう。

  ゴオルの鶏が鳴くたびに、
  「幸福」こそは万歳だ。

  もはや何にも希ふまい、
  私はそいつで一杯だ。

  身も魂も恍惚けては、
  努力もへちまもあるものか。

    季節が流れる、城寨が見える。

  私が何を言つているのかつて?
  言葉なんぞはふつ飛んぢまえだ!

    季節が流れる、城寨が見える。

    最も高い塔の歌

  何事にも屈従した
  無駄だつた青春よ
  繊細さのために
  私は生涯をそこなつたのだ、

  あゝ! 心といふ心の
  陶酔する時の来らんことを!

  私は思つた、忘念しようと、
  人が私を見ないやうにと。
  いとも高度な喜びの
  約束なしには
  何物も私を停めないやう
  厳かな隠遁よと。

  ノートルダムの影像をしか
  心に持たぬ惨めなる
  さもしい限りの
  千の寡婦等も、

  処女マリアに
  祈らうといふか?

  私は随分忍耐もした
  決して忘れもしはすまい。
  つもる怖れや苦しみは
  空に向つて昨日去つた。

  今たゞわけも分らぬ渇きが
  私の血をば暗くする。
  忘れ去られた
  牧野ときたら
  香と毒麦身に着けて、
  ふくらみ花を咲かすのだ、
  
  汚い蝿等の残忍な
  羽音も伴ひ。

  何事にも屈従した
  無駄だつた青春よ、
  繊細さのために
  私は生涯をそこなつたのだ。

  あゝ 心といふ心の
  陶酔する時の来らんことを!


大正2年10月うまれの思郎さんが、若し存命であれば、この10月に米寿を迎えられたはずである。天国の茶室で、あの笑顔を振り撒いているであろう思郎さんに満腔の感謝を捧げます

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