蘇我氏をめぐる巨大な迷路                         サイトの歩き方」も参照してください。

平安の都・京都から一路西へ…。大阪、神戸、加古川そして姫路も過ぎ、相生からJR赤穂線に乗り入れ終点近くまで進むと、小さな駅舎が旅人を迎えてくれる。2台しかない自動式の改札機に切符を滑り込ませ、南東に1`ばかり歩く。千草川に架かる坂越橋を渡り切り暫く行くと海岸線が広がり、手の届きそうなほど近くの沖合いにヒョウタンを寝かせたような小島がポツンと浮かんでいる。波打ち際から振り返ると小高い丘が連なり、そのはざ間に蹲るように一つの社が鎮まっている。

ひょっこりヒョウタン島?   大避神社

宮司さんと思しい人から得た情報と「由緒書き」に記された千数百年の「歴史」と「伝説」を、このオノコロ・シリーズ・ファン?の皆さんにも是非ご紹介しなければならないのですが、その前に、何故、管理人が酷暑の中、この地を訪れようと「決断」したのか!その理由らしきものから語り始めることにします。

摂津三嶋と継体帝のつながりを追い求め、過去、数回にわたり「妄想」と「珍説(『蘇我稲目の正体は豊彦王』)をご披露してきましたが、今、私(わたくし)的には、六世紀から七世紀にかけてのヤマトを、ほぼ次のように解釈しています。

  1 5世紀にヤマトを治めていた王朝に跡継ぎが無くなり、実力者たちにより次の大王探しがはじまった。(大王の共立)
  2 候補者は何人かいたが、河内・摂津に縁の深い「継体」に白羽の矢がたった。(初めの国譲り)
  3 継体は、中継ぎの役目を果たしたので、もとのヤマト王朝勢力が権力の返還を迫った。(2度目の国譲り)
  4 継体の登場は「緊急避難」的な出来事でもあり、彼の子供たちも「臣下」に降ったのだが…。(3度目の国譲り)

つまり短期間「二つの王朝」が並立したかも知れない、という極めて曖昧な立場なのですが、継体の子孫については類を見ない「仮説」を展開しています。史実がどうであったのかは別として、第25代武烈帝に後嗣が無かったため、群臣の主だった者たちが鳩首会談を何度も開き、次の大王に相応しい人物の選定に当たりました。その結果、越の国に本拠を置き、伝説的な応神帝の「五世孫」に当たる「おおど王」を、第24代仁賢の娘・手白香皇女(武烈の姉妹)の婿とすることで「大王」位を継いでもらおうとした訳です。そして大王の「位(くらい)」は、長兄の安閑、宣化そして継体と皇后・手白香の「嫡男」欽明に受け継がれた、事になっています。(この辺りの記紀の記述は、神話とされるスサノオオオクニヌシたちの『国譲り』の筋書きと酷似しているのですが、それに触れると複雑になり過ぎますので、スルーします)

邪馬台国や卑弥呼を持ち出すまでもなく古代史は「謎」の宝庫です。最近では考古学的な「発見」や「分析」結果から、従来「通説」とされてきた史学の常識が次々と見直されていますが、それでも多くの謎は未だ解明されてはいません。例えば、六世紀半ばに台頭して、ほぼ一世紀に亘り朝廷政治を主導した蘇我氏は、歴史上「最大級の悪役」として記紀のそこ此処に登場しますが、その出自は詳らかでは無いのです。宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古そして舒明、皇極と実に八代にも亘って「大臣(おおおみ)」として国政の頂点に立ち、率先してこの国に仏教を広め、大王たちの私有地(屯倉)を全国に設営して権力の安定化に努めた一族だったにも関わらず…。そして、オノコロ的な仮説のタネが、此処で浮かび上がります。    

   1 蘇我氏は宣化帝の時、初めて「大臣」に登用された。(何故、この時期なのか?)
  2 蘇我氏は「娘」を時の大王の夫人として輿入れさせ、大王の最も有力な外戚となった。(蘇我氏は本当に『新興豪族』だったのか?)
  3 その結果、蘇我氏の実力は大王と肩を並べるまでに大きくなった。(急成長の背景は何か?)

書紀は、そのように「肥大」した権力を手中にした蘇我氏が王家を蔑ろにし「王位」をも窺ったので、中大兄皇子(天智天皇,626〜672)たちによる「大化の改新」が必然的に起こったのだと力説しますが、宣化帝が態々他の有力豪族を差し置いて蘇我氏を「大臣」にした理由は一体何だったのでしょう?何々、難しく考える必要はありません。彼の父はヤマトを構成する豪族たちの合意の元で大王になった訳ですから、継体の政治は豪族連合の意に沿ったものだったはずです。つまり「婿殿」として、ヤマトを無難に運営しなければなりませんでした。その様な父親の姿を目の当たりにしていた息子が「大臣」にしたい人物、それは、考え方と血縁が己に最も近い人ではなかったでしょうか!また欽明は何故、蘇我氏の娘(複数)を夫人として迎え入れたのでしょう?欽明には多くの皇妃がいましたが、皇后は宣化の娘・石姫(敏達の母親)なのですから、蘇我氏の娘も相応の立場にあったと考えるのが自然です。つまり欽明にも「稲目の娘」を娶る利点がなければなりません。ところが宣化と欽明、二人の大王の意に副った存在を史書から探し出すことは出来ません。何故なら、その人物は子孫に恵まれなかったとされる安閑帝の縁者だったとしか思えないからなのです。

大酒神社に祀られる安閑の子・豊彦王とは誰なのか

安閑の子孫探しに明け暮れていた時、偶然、一冊の資料に巡りあいました。それは、京都・吉田神社の旧社家でもあり吉田家を取り仕切っていた江戸末期の国学者、鈴鹿連胤(すずか・つらたね,1795〜1870)が編纂した『神社覈録』という書物で、その二百十二頁には、次のような記述があります。(テキストは国立国会図書館が収蔵しているもの)

  大酒は「おおさけ」と読むべし。祭神、豊彦王。
  考證に太秦公祖、秦酒公うんぬん。太秦村桂宮院内に存す(山城志)。
  紹運録云う、安閑天皇御子豊彦王(現神、播磨国大避大明神これなり、秦氏祖云々)

解説を加えるまでもありませんが、鈴鹿は京都太秦にある広隆寺の鎮守、大酒神社の祭神は豊彦王であるが、別の資料(『神名帳考證』)では秦酒公を祀るとも言われている。また『本朝皇胤紹運録』には豊彦王を安閑天皇の「御子」だとし、現在(つまり幕末の頃)「播磨国」に鎮座している「大避神社」の祭神でもある、と言っている訳です。ご存知のように京都の吉田神社は、九世紀の半ば藤原北家の山蔭(ふじわら・さんいん,824〜888)が創建した藤原一門の氏神で吉田神道の本拠地でもあります。また、神職を鎌倉時代から務めた吉田家は全ての神職の任免権を持っていましたから、その権威は絶大であったと思われますので、鈴鹿が『神社覈録』を著すにあたって調べた神社関係の資料は十二分に信頼の置けるものであったと推察されるのです。

神社覈録 広隆寺 大酒神社

まず『本朝皇胤紹運録』についてですが、これは十五世紀の前半、1426年頃、当時内大臣の職にあった洞院満季(とういん・みつすえ)が「帝王系図」などの資料を参考にして編纂したもので、研究家たちによれば、もともとは満季の祖父、公定(きみさだ)が編んだ『尊卑分脈』と対をなすものだったとされ、幾つか在る写本の間でも異同が多いようです。事実、WEB上で確認できる京都大学収蔵の平松文庫本には、塙保己一(はなわ・ほきいち,1746〜1821)が編集した『群書類従』本にある「豊彦王」の名前が確認できません。では、各神社はどのように云っているのでしょうか!

大酒神社に設置されている「由緒書」には、確かに『元名大避神社』との表現がありますが、これは、

  「大避」を称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(356)皇帝十四世の孫、
  功満王が漢土の兵乱を「避け」、日本朝の純朴なる国風を尊信し初めて来朝し、此処に勧請

したことによるもので、従って祭神も秦始皇帝、弓月王、秦酒公の三柱のみで、そこに豊彦王の名前も播磨国にある社との縁についても何も語られていません。一方、鈴鹿が名指ししている大避神社ではどうか、と言うと…。

  秦河勝公が皇極三年(644)に、聖徳太子亡きあとの蘇我入鹿の迫害を避け
  海路をたよって、ここ坂越浦に辿り着き、千種川流域の開拓を進め、大化三年(647)に亡くなった。

そして「河勝の徳」を慕った「村人」たちの願い出により祠を築いたのが「大避」神社の始まりであると伝えています。また、こちらの祭神も天照皇大神及び大避大明神(河勝)と春日大神の三柱のみで、安閑に関わる神々の名は見当たりません。「皇極三年」と言えば、蝦夷・入鹿の親子が甘梼岡に「宮門(みかど)」と呼ばれる家を建てた年でもあり、蘇我氏の権勢が頂点を極めた憾はありますが、秦氏が「迫害」を受けていたような記述は見当たりません。むしろ、東国の富士川のほとりで「常世の蟲」を祭る俗信を広めていた大生部多を「打ち」懲らしめた秦河勝を、時の人が、

  太秦は、神とも神と聞こえ来る、常世の神を、打ち懲ますも

と囃し立てたそうですから、むしろ河勝自身が「体制」の側に立ち、人々を「導いて」いたのだと考えられるのです。東京大学資料編纂所が収蔵している『東大寺文書』によれば、延暦12年(793)4月当時、赤穂郡の官吏であった「臨時の大領」と「臨時の小領」のいずれもが「秦氏」一族だったようですから、赤穂一体が古くから秦氏の勢力圏であったことは十分に窺えます。ここまでの経緯を整理してみましょう。

    鈴鹿は、明らかに複数の資料(情報源)から、@ 大酒神社の祭神は豊彦王、であり
    A 播磨国の大避神社の祭神も同様に安閑天皇の子、豊彦王である。
    B その系図については紹運録によって確かめられる。

と半ば断言している訳で、@Aの根拠は飽くまでも別々の資料だと思われるのですが、鈴鹿が典拠を示していないため、これ以上詳しい事は分かりません。しかし、彼の論拠が「紹運録」から始まっていないことだけは確かな様です。そうすると、どの様な推論が導き出されるのか?鈴鹿は、飽くまでも「@」に関しては自明の理である様な書き方をしていますから、幕末の神社関係者の間では、大酒神社の祭神を豊彦王だとする「常識」が存在していたに違いありません。その「王」の素性を知りたかった鈴鹿は恐らく『群書類従』本の紹運録に辿り着いたのでしょう。しかし、現在では、当の大避神社が京都太秦の大酒神社とは『何のつながりも無い』と否定しているのです。全く可笑しな話ですが、明治の御一新までは「在った」はずの神様が、知らない内に消えてしまった(消されてしまった)のです…。(下・中央の画像は京都大学が収蔵している写本で、そこには豊彦王の名前は見当たりません)

大酒神社(京都)   皇胤紹運録(部分)

猿楽の第一人者であった世阿弥(ぜあみ,1363?〜1443)が秦河勝の子孫を名乗り、彼の著作『風姿花伝』(花伝書)の中でも、先祖の河勝が「摂津国、難波の浦より、うつぼ船に乗りて風に任せて西海に出ず」「播磨国、坂越の浦に着」いた後「神として崇められた」云々と述べている様ですが、彼ほど著名な人物ではなくても秦氏に「属する」多くの「語り部」が全国に散在していたのでしょう。そして彼等の口から「聖徳」太子に纏わる様々な「伝説」が千数百年に亘って流布され続けたのです。市井の人々に最も分かりやすく勧善懲悪の「思想」に彩られた「説話」の主人公は飛び切りの聖人で、かつ超人でもあった「聖徳」太子その人であり、方や極悪非道の憎まれモノは蘇我氏一族でした。ところが、冷静に古代史に登場する人物たちの関係を見てみると、太子自身が蘇我の血を両親から受け継ぐ存在だったのです。蘇我氏は八代もの大王に「仕えた」と記紀は伝えています。以下に見える大王たちの「名」は、一体、何を暗示しているのでしょう?!

  第31代  用明天皇(「聖徳」太子の父親)  橘日天皇
  第33代  推古天皇(「聖徳」太子の叔母)  御食炊屋姫
         聖徳太子                                 聡耳尊
  第35代  皇極天皇                天財重日足姫
  第36代  孝徳天皇                天万日天皇

わが国で神として祀られるための重大な要素に『祟る』存在であることが多くの人によって挙げられますが、太子と河勝を正史では「理想の主従」として賞賛し、秦氏は太子に、つまり国家・大王家に忠誠を尽くした比類ない存在であると褒めちぎっています。そして、オノコロ党の皆さんは、その一族の代表者・秦大津父を山背の深草から探し出したのは、まだ『王子』だった(つまり継体朝の頃)欽明その人に他ならなかった事を覚えているはずです。秦氏が十数世紀にも亘って「聖徳」太子を鄭重に祀り続けてきた背景には、まだ語られていない事実が横たわっているのでしょうか?!見方を変えれば、少し視線を変えれば秦氏が祀る対象の異なる姿が垣間見えます。「聖徳」太子とは、安閑の血筋を引く蘇我氏の象徴なのでは?それが今回の「感想」でした。

 大避神社の奉納額

では、おまちかね?のオマケ話しを一つ二つ。一頃、若者達の間でもちょっとした雅楽ブームを巻き起こした東儀秀樹さんが秦氏の流れを汲む人物であることは良く知られていますが、赤穂・坂越の大避神社の主、秦河勝は、

  雅楽を創作制定した

猿楽の祖あるいは能楽の祖とも崇められているのです。その社に様々な分野で活躍する人々が納めた絵馬が所狭しと並んでいるのはそのためです。その「河勝」ではなく預言夢によって探し出した大津父を「大蔵」(財政担当)に抜擢したのが欽明でしたが、書紀の即位前紀は秦氏「伝説」に加えて、異様な伝承を書き残しています。それは、宣化帝が無くなった時、欽明帝が群臣(まえつきみたち)に、

  余、幼年く識浅くして、未だ政事に閑はず。
  山田皇后、明らかに百揆に閑(なら)いたまえり。請う、就でて決めよ

と宣言したのだと云うのです。ここで「山田皇后」と表現されているのは、先帝の后ではなく、先々代・安閑の皇后であった仁賢の娘・春日山田皇女のことです。何か、この記述には不自然さを感じてなりません。それは「書き残すまでもない」事柄を、敢えて、この箇所に挟み込み、読者を混乱させようとする編者の意思が見え隠れするからです。

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