蘇我氏と安閑大王のえにし、再び                                     サイトの歩き方」も参照してください。

JR湖西線をガタゴト走る各駅停車、お天気に恵まれた旅行日和とまでは行かないが、車窓から見える広々とした湖面はとても穏やかで、湖岸近くに幾つも設えられた刺し網の幾何学模様の一部が「矢」の字形にくっきりと見えている。…、此の地で産まれ育ち、そして土に還っていった古代の人々にとって、この湖こそ「近い海」だったに違いない。社会科の地域学習で、地場産業の一つ「扇骨」の工場を見学するのだという小学生たちの一団とホームで別れ、安曇川駅の階段を降ると何やら雨の気配、車のタイヤが水しぶきを撥ね上げる音が聞こえて来る。改札口は一階中央にあり、大きくも無い駅構内の一隅に、地元の「名所案内所」が店開きしており、観光客用に幾種類ものパンフレットが置いてある。人の良さそうな案内番の女性に無理を言ってカサを借り、ルートマップに目をやると、そこには見慣れた二文字が躍っていた。

安閑を祀る神社   神代文字かも知れない?   甲山古墳

今回、近江高島の地を訪れた主な目的は前々から見たいと思っていた古代の石棺を「見学」することにあり、加えて、このオノコロ・シリーズの主役の一人でもある継体大王の「故郷」を実感するための小旅行でもあったのですが、案内所で貰った『自然にひそむ古代を巡る』と題した資料等の中にあった「安閑神社」「謎の神代文字碑」などの文言を見たとたん、所期の目的は跡形もなくどこかへ吹き飛び、決して感度の良くはない「安閑」レーダーが、綻びの多くなった脳細胞の片隅でグルグルと回り始めたのです。尤も、ここ高島の地は記紀などが伝えている継体「ゆかり」の地域であり、彼の「父母」にまつわる遺跡も存在しています。また、高島は古くには「三尾郷」と呼ばれた豪族・三尾氏の本拠地でもあり、駅の北約3キロメートルにある鴨稲荷山古墳(6世紀前半、下右の画像)は、同氏一族のものではないかと想像されています。(下左の画像は継体ゆかりの「もたれ石」と称される物ですが、古墳石室の一部かも知れません。そして継体は三尾氏から二人の妃を受け入れています。普通なら、後世その子孫が丹治比氏のように活躍してもおかしくは無いのですが、その様な記録も無いことが三尾氏の実在性=継体の出自=にも陰を落としています。勿論、三尾氏が姓を変えた可能性も残されてはいます)

彦主人王陵 もたれ石  稲荷山の石棺

明治35年、公共事業の工事に伴い偶然「発見」された鴨稲荷山古墳の石棺(上右の画像)は、一見、最近注目を集めている阿蘇溶結凝灰岩(ピンク石)のようにも見えますが、これは滋賀県広報課によると「蓋・身ともに二上山の凝灰岩」(二上山ピンク石)であり、野洲の丸山古墳、甲山古墳(6世紀中頃)で使用された石材とは異なっているのだとか!ところで、今、何故この阿蘇ピンク石(を使用した石棺)が話題になっているのかと言うと、大阪高槻市にある継体大王墓ではないかと推定されている今城塚古墳(6世紀前半)の調査で出土した「石棺のかけら」(下左の画像)が正にピンク石であり、時代が少し下るものの『飛鳥時代に一、二の権力を有していた人物』の陵墓とされる奈良・植山古墳の東石室(6世紀末?)もまた阿蘇溶結凝灰岩であることから、この華麗なピンク石の石棺が「大王」達のために、特別に九州熊本の宇土半島から、わざわざ運び込まれたのではないかとする説が大きく浮上してきたからなのです。只、この「大王のひつぎ」説そのものは大変興味深いものなのですが、昭和21年に京都大学と大阪府教育委員会が共同調査を行った大阪・道明寺の長持山古墳2号棺(5世紀中?、下右の画像)は、明らかに真東に在る市野山古墳(允恭稜,5世紀中〜後半)の陪塚であり、その被葬者も「大王」クラスでは在り得ませんから、阿蘇ピンク石を直ちに「大王」専用の石材とすることには慎重であるべきだと思います。ただ、同2号石棺の「身」の部分だけがピンク石である事実は、ピンク石による石棺作りが「5世紀中」頃に始められ、近畿の権力者たちの関心を集めた事は間違いなさそうです。つまり、九州の地で石棺用の石材を掘り出している最中に、偶々ピンク石の地層に偶然出くわし、そのまま棺の製造を続けた結果「蓋と身」の色が異なった、と云う推理です。

また、允恭(376?〜453)は系譜上、仁徳帝の「子」とされていますが、彼の「陵」の極近くに埋葬された人物の「石棺」を含め、藤井寺市周辺に散見される多くの古墳群の造営を直接担当した氏族が土師氏であると考えられることから、大王の「側近」用として持ち込んだ「美しい」石の存在を、土師氏が大王たちに伝えなかったと云う事は、先ず在り得ないことでしょう。藤井寺市澤田にある仲津山古墳(5世紀後半、応神の皇后陵?)の陪塚と見られる三ツ塚古墳の周濠から昭和53年に出土した修羅(長さ8.8m)は、正に石棺搬送用のトレーラーだったと言えるのです。土師氏の祖先が記紀神話が語り伝えているように相撲の元祖・野見宿禰であるのかどうかは別として、推古11年(603)九州筑紫で亡くなった来目皇子の殯(もがり)のため、命を受けて遠征先へ派遣された人物が土師連猪手(?〜643)であった事は事実のようで、彼・猪手は皇極2年9月に行われた吉備嶋皇祖母(吉備姫王)の葬儀も監督しています。土木、治水から陶器製造そして葬送、古墳構築まで、古代の総合商社とゼネコンを合わせたような氏族・土師氏は王権を支えながら繁栄を続けます。蘇我氏の指揮下にあったとも思われる猪手が、同年11月に行われた山背大兄王襲撃の実行部隊として斑鳩宮に乱入したと日本書紀は伝えていますが、大仁(冠位十二階の第四位)にまで上っていた彼は、戦いの最中、反撃に合い「箭(や)」に中り、あっけなく戦死しています。

阿蘇ピンク石  植山古墳  石棺   PR

さて、今回は当初の目論見からは完全に軌道を修正せざるを得ず、石棺の素材談義を始めるつもりが、いつもの大王一族の正体探しと云う果てしない旅へと舞い戻ることになった訳ですが、各地で取材を行ってゆく中、幸いにも橿原市教育委員会から、同委が所蔵している植山古墳のデジタル画像掲載の許可を得ることが出来ましたので、2回に分けて紹介したいと思います。(これらの画像を勝手に転載することは出来ません。必ず、橿原市教育委員会に申し出て、許可を得てください)下の画像(左と中央が東石室)でも見事な古代人の仕事ぶりが窺えます。何より、ピンク石が美しいですね。一千数百年前の昔に、これだけの「業」を身に着けた人々が国内各地で生活していたのだと思うと、感慨無量です。(折角撮影したので土師氏が用いたと思われる修羅の画像も入れておきます。これは複製品です)

この植山古墳の被葬者たちについて橿原市教育委員会は上述のように『当時の日本で一、二の権力を有していた人物』と慎重で控えめな表現に留めていますが、古墳が造られたと思われる年代と場所などから総合的に判断をして、推古帝(554〜628)と竹田皇子(?〜590?)の二人が合葬された双室墳ではないかとも推定されています。古事記は彼女の陵が初め『大野の岡の上に在りしを、後に、科長の大木陵に遷しき』と記し、推古が母・堅塩媛の故郷である蘇我氏の領地に葬られた事実を伝えています。その推古が母親を檜隈大陵に改葬し盛大な儀式を執り行ったのは西暦612年2月のことだったと日本書紀は詳しく書き記しています。(竹田皇子の没年が不明なこと、一方の石室に棺が無いことなどから、推古親子のものではないとする見方もあります。この点については別に述べます)

植山古墳の石室  植山古墳の石棺  古代のトレーラー?

安閑が継体の「長男」であり、彼の母親は古代豪族の尾張氏出身の目子媛であるとされていますが、彼の諱(いみな)勾大兄(まがりのおおえ)からは異なる出自の可能性が仄見えてきます。そして、安閑の軌跡を追う事は、取りも直さず父・継体の「謎」を解明する手がかりにもなるはず…、次回は大阪の旧家に伝えて来られた或る氏族の系図なども参考にしながら、今までの「妄想」を更に拡散?させたいと思います。請う、ご期待。

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