蘇我氏にまつわる「」のイメージ、聖地「」                     サイトの歩き方」も参照してください。

継体天皇親子の足跡探しで奈良の橿原や大阪平野のあたりを歩き回り、それまで聞いたことも無かった楯原神社に辿り着いた。住吉神社とも縁がありそうな、この社については何度も紹介をしてきましたが、その祭神にまつわる「由緒」は大変特異なものです。

   楯原神社は孝元帝も祭神としている  「息長真若中女」と読めます

  武甕槌大神は大国主大神の教えに従い、国平の鉾を持って天下を巡行した後、この地に留まっていましたが、
  御孫大々杼命に「十握の剣を私の霊の代わりとして、また国平の鉾を大国主大神の霊代として斎き奉るように」と
  言い残して天昇り隠れました。

勿論、このような「話」は正史に一切登場することはありませんし、そもそも「国譲り神話」の世界では、この二人の神様方は「敵味方」に分かれて鋭く対立した二つの勢力を象徴する存在であって、少なくとも二人の間に何かを「教え」られる関係があったとは到底考えられないのです。ただ、この国の「神話」世界を巡る旅の中で、次のような思いが芽生えていました。

  出雲荒神谷に埋められた夥しい銅剣・銅鐸が一つの「文化」あるいは「勢力」を象徴するものだとするなら、
  国譲り神話に見られる武甕槌と大国主(八千鉾)の戦いは「銅」剣と「鉄」剣との相克を表しているのではないのか?
  つまり「銅」の文化は「古い過去のもの(伝統)」であり、今や「新たな鉄の時代なのだ」と言いたいのではないのか!

その様に考えた時、歴史上「反逆者・敗者」として位置づけられた或る豪族の実像が垣間見えます。第八代孝元帝はオオヤマトネコヒコクニクルという「名」を持っていますが、彼が都を置いた場所が境原宮で、そこは今、牟佐坐(むさざ)神社の建つ橿原市見瀬町に比定されています。また孝元帝の陵墓も同市石川町にある池嶋上陵だとされているのですが、その八代目の大王と物部氏の伊香色謎(いかがしこめ)命との間に産まれた彦太忍信(ヒコフツオシ)命の子・武内宿禰の子孫が「蘇我氏」(厳密には蘇我石川氏)という訳です。古代史に興味を持ち、少しでも豪族たちの出自に関心を寄せたことのある方なら誰しも、なんで蘇我氏は「八代目」などという「中途半端な」大王を祖先に選んだのか、もっと幾らでも「マシな」系図の作り方があっただろう、と思うことでしょう。実は管理人もこれまで同じように考えていたのですが、若し上で見たように「銅=古い時代の象徴、或いは権力の証(伝統的価値観)」といった図式的な見方が成り立つなら、一つの鍵となる言葉を想定できます。それが「軽(かる)」です。

牟佐坐神社 宮跡碑 剣池陵(孝元帝)  PR

現代に暮らす者にとって「軽」という文字は、見た通りの事柄(かるい)を意味するだけの(表意)漢字ですが、この文字が伝える「音」に注目すると異なった世界が現れます。つまり研究者たちによると「軽=かる」とは外国語の「カル」(銅を意味する古語)を語源にしたもので「カリ」や「カゴ」などと共に金属の「銅」を表す言葉で、有名な大和の「香具山」も実は「カグ山=銅山」であったことを伝えているのだそうです。「万葉集」は、

  大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登りたち 国見をすれば 国原は(略)
  うまし国ぞ 蜻蛉嶋 大和の国は

と舒明天皇(593〜641,息長足日広額)が即位後に香具山を訪れ「国見」を行い、国の豊かさを寿ぎ歌った様子を伝えていますが、妻・皇極の後を継いだ大王の幼名は「皇子」(後の孝徳天皇)でした。また、単なる偶然なのかも知れませんが「百人一首」でも良く知られている持統天皇(645〜703)の一首にも、

  春すぎて 夏きたるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山

と「カグ山」が歌いこまれていますが、彼女が護り続けた「皇統」を西暦697年に譲り渡した孫の名は「太子」(後の文武天皇)でした。そして持統帝のおくり名は「オオヤマトネコアメノヒロノ」でしたが、記紀の言う「国譲り」神話の原像がここにあったことは疑いないようにも思えます。また「万葉集」注釈が引用した「摂津風土記逸文」は、継体帝の先祖でもある応神帝の都を島豊阿伎羅宮だとも伝え、欽明朝に台頭した蘇我稲目(506?〜570)は、大伴狭手彦が高麗から戦利品として連れ帰った女性を妻とし「の曲殿」に住まわせたと「日本書紀」は記録しています。以前、管理人は継体の「長子」安閑帝(466〜536、マガリノオオエ)の諡号(マカリ)に注目して『マカリ=ま・カリ(銅、金属)』王子とは剣王に外ならず、後に安閑が雷神と習合されたのも彼が尋常では無い形で世を去り、その子孫も名を隠さざるを得なかったからだと妄想したのですが、大王たちが「軽」の地に都を定めたのにも「銅(剣)」という由緒ある権威を育む神聖な場所という認識があったからなのかも知れません。(軽池と剣池を造ったのは伝説的な応神帝です)

「倭の五王」と呼ばれる倭国の王者たちが具体的に誰と誰を指し示すものなのか分かりませんが、倭王「武」が西暦478年に宋の皇帝に送った「上表文」には、

  封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、
  山川を跋渉し、寧処にいとまあらず。

とあり、彼の「祖先」たちも自ら軍の先頭に立って国を「平定」し、剣を振るいながら領土を拡大していたことが見て取れます。そして幸いなことに、五世紀後半の造営だと思われる稲荷山古墳(埼玉県行田市、全長120m)から一本の「鉄剣」が出土し、その「剣」の持ち主の名前まで判明しているのです。「辛亥の年、471年」に「ワカタケル?」大王から金錯銘入りの剣を与えられた彼の名は「乎獲居臣(おわけのおみ)」を称する一族の長で、百十五に及ぶ三種類の含有比率で作られた金製の文字群は、八代に遡る彼の祖先たちが、

  オオヒコ−−タカリスクネ−−テヨカハワケ−−タカハシワケ−−タサキワケ−−ハテヒ−−カサハヨ

と云う「名」を持つ人々であった事を教えてくれます。一世代を20〜25年余りだと仮定すれば、乎獲居臣の「上祖・オオヒコ」が活躍した時代は遅くても四世紀初頭、早ければ三世紀末という時期であったことになり、あの「卑弥呼」さんの時代まで、あと一歩の距離ですが、今回はそこまで踏み込む余裕がありません。ただ、このオオヒコと孝元帝の息子であり、かつ開化帝の弟でもある「大彦命」の伝承を結びつけて想像したい誘惑にはかられます。また、五世紀に関東地方の豪族を実力で従えた「大王」が実在したのか?という疑問には、熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した銀象嵌入りの鉄剣にも「ワカタケル大王」とも読める名前が見えるという事実を示しておきます。なお、継体から応神をつなぐ「系譜」の内容が、一体どの程度史実を反映した(つまり事実に基ずく)ものなのか疑い始めるとキリがありませんが、記紀などの記述を「一応」信じるなら、倭王「武」と看做される雄略帝(418〜479)は、継体(大々杼)の大伯母・忍坂大中姫の子供に当たる存在です。つまり継体の祖父・意冨冨等の「姉の子」なのです。そして、雄略の兄弟には「悲運の兄妹」としての伝承で有名な「軽皇子、軽大娘」が居ます。この「忍坂(おっさか)」と云う地名を冠した允恭帝(376?〜453)の皇后・大中姫こそ、応神と(息長)真若中姫の血脈を受け継ぐ「息長」直系の女性だとされていますが、第16代仁徳から武烈までつながっていた一筋の血統が途絶えようとした時現れた継体が、応神につながる「息長」一族を代表する立場にある(とされる)人物であったことは、何か、記紀の「国譲り」神話を髣髴とさせるものがあるように感じます。

稲荷山鉄剣(金象嵌)

数々の「伝説」に彩られた大王ホムタワケ(応神)を世に送り出したのは、偉大な母であり光栄ある「息長(オキナガ)」一族を代表する足姫尊(オキナガタラシヒメ)と、銅の大王と呼ぶのに相応しい孝元帝の孫・武内宿禰の名コンビでした。折角、手中にした倭国大王の「位」ではありましたが、仁徳以降十代にも亘り「息長」一族とは縁遠い人々が引き継ぐ有様で、流石の名門・息長家も大王位を諦めかけていた時、奈良桜井を地盤とする忍坂の豪族と、河内に拠点を持つ武力集団の長・大伴氏の強力な後押しを得て、五世代ぶりに息長系の大々杼王(継体帝)が復活したのです。その伝統ある血統の大王家の「大臣」として国を補佐する蘇我一族の祖先は、当然、武内宿禰のような人物に求めなければならなかった訳です。無類の長寿を誇ったという武内宿禰の父の名を思い出して下さい。彼の名は「彦太忍信(ヒコフツオシ)」と言いましたね。「フツ」は国譲り神話でも御馴染みの「フツヌシ」と同じとすれば正に「剣」を表し、もう一方の「オシ」は「忍坂」を示す言葉ではないでしょうか!そして彼の母親が「物部氏」の娘・伊香(イカガ)色謎命だったのですから、帝室と蘇我氏にとって「銅と剣」が絶対的な象徴の意味を有していた可能性があります(また、更に憶測を深めれば「イカ」は「イカズチ=雷」そのものかも知れません)。

     
     
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