蘇我氏と葛城氏を結ぶ「物部」の存在について                                   「サイトの歩き方」も参照してください。  

田使首(たつかいおびと)という大変珍しい姓の古代豪族については、欽明帝が設けたとされる屯倉などの記事で紹介をしてきましたが、日本書紀の欽明十七年秋七月条は次のように記しています。

  六日に、蘇我大臣稲目宿禰らを備前の児島郡に遣わして、屯倉を置かしむ。葛城山田直瑞子をもって田令にす。

「田令(たつかい)」が単なる耕作地の管理者ではなく、屯倉で生産に関わる人員の戸籍調べから米の収穫貯蔵など地域行政の全てに関わる重要ポストであったことは、これから十三年後、新たに白猪に設置された田部(屯倉)の責任者として白猪史(後の葛井連)が姓を賜った時、仕えた「長」が瑞子だったことでも分かります。以前「ツルギヒコとハタツミ」のページで試みた推理では、蘇我氏が都から遠く離れた吉備の国に設けた朝廷の直轄地を「全権」委任するほどの信頼を得ていた瑞子は、恐らく蘇我氏とも近しい関係の氏族だったのだろうという心証を述べるに留まりましたが、葛城氏の出自を調べる過程で、新しい知見も得ることができましたので、もう一歩推論を深めてみたいと思います。

朝廷から「田令」を命じられた「葛城山田直」瑞子は、その複姓からでも分かるように、元々「葛城」から枝分かれした家だという系譜を持っていました。具体的には「高魂命(高皇産霊神)」から「伊久魂命(アマテラス)--天押立命(神櫛玉命)--陶津耳命--玉依彦命--剱根命」などの神々を経て第十九代に相当するのが瑞子だと云う訳です。国立国会図書館が収蔵している「難波田使首」の系図には、幾つかの注目すべき名称が書き込まれていますので、一つずつ紹介して行きます。先ず、冒頭に近い「陶津耳命」には『和泉国大鳥郡、陶荒田神社』の註文があって、この神様には「都留支日子命(ツルギヒコ)」という名前の兄弟があり、その神様が『出雲国島根郡、山口里』を本拠地としていたと注記されています。現在でも大阪堺に陶荒田神社、島根松江に布自伎彌神社が在って前者が高魂命、剣根命を、後者が都留支日子命を祭神としていますので、この氏族がスサノオを頂点に戴く天孫系の豪族、しかも「剣」を象徴とした金属冶金技術と武威を兼ね備えた集団であったことが忍ばれます。また、先に天香久山神社の頁で詳細に分析してきましたが、ここに記された「陶津耳命(スエツミミ)」とは神話に登場し薬神、酒神として良く知られる少彦名命の別名であり、天日鷲翔矢命とも同神であることが確実です。

田使首系図  鸇姫と葛姫  大依羅神社

さて、出雲神話の世界ではオオクニヌシに協力し国造りに励んだはずの少彦名命が、アマテラス直系の神武帝の「東征」に際して一転、旧ヤマト勢力を見限り、自ら「八咫烏(ヤタガラス)」となって進軍を援けた「功」により、彼の子孫剣根は「葛城国造」の地位を得ました(この氏族が冠している『葛城』の名称は、その地域を支配下に置いたと云う意味であり、古代史に度々登場する葛城氏とは異なるので注意)。新政権の一員となった剣根は娘・加奈知比咩命、孫娘・葛城避比売命をそれぞれ尾張氏の当主である天忍男命と天戸目命に嫁がせ、神武に積極的に貢献した高倉下(亦の名、天香語山命)を先祖に持つ尾張との閨閥作りに努め、併せてヤマトでの影響力の拡大を目指したと考えられます。この動きは次の世代の「加豆良支根命(カツラギネ)」でも変わることがなく、妹の「葛城尾治置姫命(カツラギオワリオキヒメ)」も建額耳命(建額赤命?)に嫁ぎ、彼の孫である「伊牟久足尼(イムクスクネ)」の姉妹の一人「鸇姫(ワシヒメ)」は開化帝の妃となって建豊波豆羅和気王を生み、もう一人が「建諸隅命(タケモロスミ)」の妻になったと系譜は伝えています(上・中の画像参照)。建豊波豆羅和気王という王子は系譜上「依羅阿比古(ヨサミアビコ)の祖とされる人物であり、建(武)諸隅命は先代旧事本紀が矢田部造の祖で崇神六十年の秋『武日照命が天より将ち来たれる神宝が出雲大神の宮に納められているらしいが、見てみたい』との帝の希望を叶えるため、出雲への使者となった武人です(上・右画像の大依羅神社は建豊波豆羅和気王が祭神とする)。この系図で見落とせないもう一人の女性がいます。

それが「武内宿禰大臣」の妻となって「葛城襲津比古」を生んだとされる「葛比売(カズヒメ)」その人です。帝室の系譜が伝えるところでは竹内宿禰は孝元帝の息子・彦太忍信命の子あるいは孫に当たり、鸇姫が後宮に入ったとされる開化帝と彦太忍信命は「兄弟」なのですから、上に掲げた田使首の系図は明らかに世代の混乱が見られます。では、この系図が全く出鱈目なものなのかと云うと、帝室の初期系図そのものが世代数を「水増し」した内容を含んでおり、細かな点では齟齬を生じていても、少彦名命を源とした天孫氏族である葛城国造家に、大王妃および葛城襲津彦の妻の「実家」だったとする根強い伝承があったと考えれば良いのではないかと思います。その意味で「ワシ姫」「カズ姫」の名称は、如何にも天日鷲翔矢命の血脈を受け継ぐ「加豆良支根」(葛城の根=源流)の子孫に相応しい名前だと感じられます。また、余り聞きなれない「建豊波豆羅和気王(タケトヨハズラワケ)」という名前も「建豊」を単なる美称とすれば「波豆羅和気、ハズラワケ」ではなく、本当は「カズラワケ」(葛城家の若)だったのが訛って伝えられた可能性がありそうです。尚、ずっと時代が下りますが推古三十二年冬十月、時の推古帝に対し、

  葛城縣は、元、臣が本居なり。故、その縣によりて姓名をなせり。これを以て、願わくは、常にその縣を得て、臣が封縣とせんと願う。

と大臣蘇我馬子が要求したり、皇極元年に蘇我蝦夷が「己が祖廟を葛城の高宮に立て」たのも蘇我氏が葛城国造(少彦名命)を太祖と認識していた証と考えることが出来るかも知れません。そして「葛城氏」の祖となった襲津比古自身が、母方の「葛城」を名乗ることになったのも、その「姓」に天孫由来の重みが在ったからに違いないでしょう。娘の磐之姫は仁徳帝に輿入れして多くの子女を儲け葛城氏の興隆が始まりますが、帝の諱が「大雀(オオサザキ)」なのも「鳥」つながりで肯けます。葛城国造の系図の傍証となる系図がもう一つあります。それが「鴨縣主」系図と呼ばれるもので、これも国会図書館に『諸系譜』の一部として収められています。鴨氏にも諸流がありますが、系図に示された一族は明らかに天孫の流れを汲む一家と見られます。その始原の様子を伝える文献資料が「山城国風土記」逸文に在る『賀茂社』の記述です(下・中央の画像参照「釈日本紀」より)。

鴨縣主系図(部分)  風土記逸文  日本書紀  PR

  可茂と云うは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建津身命、神倭石余比古の御前(みさき)に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、
  そこより漸くに遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまい、山代河のまにまに下りまして、葛野河と賀茂河との会う所に至りまし(中略)
  賀茂建角身命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日女にみ娶いて生みませる子、名を玉依日古といい、次を玉依日売という。

中洲(うちつくに)を目指しながら峻絶な山中で「行くべき路」を失いかけていた神武にアマテラスが夢で語りかけます。『わたしが、今、頭八咫烏を遣わします。これを以て嚮導者(くにのみちびき)としなさい』と。新撰姓氏録は山城国の「賀茂縣主」「鴨縣主」の二家をあげて「神魂命、孫、武津之身命の後なり」と記し、神武の「東征」に当って鴨建津之身命が「大きな烏の如くに化けて奉導し、遂に中洲に達することが出来た。天皇はその功を嘉び、特に厚く褒賞し、天八咫烏の称号は此処より起こった」と自画自賛しています。諸家に伝わる系譜の内容が全て「事実」であるとは限りませんが、記録上「接点」が無いように見える中央の著名な氏族と、地方の無名に近い氏族の系図の最も「古い」肝心の部分が一致している点に筆者は強い裏付けを得たように感じました。古代史の闇は濃く深く、いつも五里霧中の夢遊病者の如くに推理の杜の中で漂い続けていますが、少彦名命という一柱の神様の解析を進める過程で、所謂、天孫族の間で起こっていた集合離散の現実が垣間見え、神々の名の下に隠されてきた「生々しい原像」の一部を知り得ることが出来たように思います。

葛城という地名を負った豪族の実体がアマテラスを頂点とした天孫族の重要な構成員(物部)であり、海外遠征などで勇名を馳せた「葛城」襲津彦が興した「葛城氏」も父母双方から天孫後裔の血を受け継いでいたこと、更には飛鳥時代に帝室と肩を並べるまでの存在となった大豪族蘇我氏も、葛城氏と同様「少彦名命(物部)」を太祖とする伝承を持ち、それ故、殊更「葛城」の地と名称に拘り続けていたこと等は、不十分ながら説明できたように思いますが、実は、鴨縣主系図にはもう一つ興味深い記述が含まれています。

古事記によれば、崇神帝の「御世」に「役病多に起こりて、人民死にて尽き」ようとする事態が生じました。愁い嘆く帝の夢に顕れた大物主大神は『是は私の御心である。故、意富多多泥古を以ちて、私の御前を祭らしめたまわば、神の気は起らず、国は安らかに平らぐだろう』と託宣したのです。目覚めた崇神は「駅使(はゆまつかい、早馬)」を国の四方に放って目指す人物を探していると「河内の美努村(書紀は茅渟縣陶邑とする)」で当人を見つける事ができました。『汝は、誰の児か?』と云う帝の問いかけに、

  僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕、意富多多泥古ぞ。

と胸を張って答えたのがオオタタネコでした。彼が、この後「御諸山に意富美和の大神を斎祀る」ことになり「国家(あめのした)」は「安らかに平ら」ぎます。有名な「大三輪山伝説」の前段なのでご存知の方も多いことでしょう。その重要人物の母親が上の鴨縣主系図に見える「美良毘売」なのです。斎部氏の「先代旧事本紀」も「阿田賀田須と鴨部美良姫との間に太田田根子が生まれた」と記し、桜井市に鎮座する大神神社の神域に大直彌子社(若宮社)が在り、摂社として御誕生社まであることは、この伝承の確かさを裏付けているように思えます。では、この大直彌子神社(オオタタネコ)の主祭神・大田田根子命と共に祀られている神様は誰でしょう?答えは下の画像の中にあります。

大直禰子神社  案内板 

天津彦根命(天若日子と同神?)が神代に味鉏高彦根命の妹・下照姫(高姫)と結ばれたことで繁栄した「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」はアマテラスの皇孫が天下り、国譲りを求めたことで一旦は混乱を呈しますが、数代の治世を経て再び天津彦根命の後裔(美良姫)と味鉏高彦根命の子孫(飯肩巣命)が夫婦となることにより、三輪王朝の伝統は祭祀の中で復活し、後世に語り継ぐ「神話」を残すことでヤマト開拓者としての誇りを伝え得たように思います。神武帝と姫蹈鞴五十鈴姫との婚姻も、少彦名命の深慮遠謀から生まれた秘策だったと見るのは少しうがち過ぎでしょうか?なにしろ彼女の父親は三輪の大物主或いはその子・事代主なのですから(上・右の画像は姫蹈鞴五十鈴姫を祀る三嶋溝杭神社)。神武を「中洲」に導き入れたのが八咫烏(少彦名、鴨建角身)で、崇神の治世の大混乱を救ったのが陶津耳(少彦名)の娘婿である大田田根子、そして彼が居たという陶邑は陶津耳の本拠地。これだけ駒が揃うと見事な陣形が出来上がります。

 「東征」の実像=記紀の神話によれば、九州に居た皇祖アマテラスの直系子孫である神武帝たち兄弟は、長い年月をかけて東の美し国を目指し、多くのまつろわぬ敵を次々に撃破し、最後には「同族」でもあるヤマトの先住者ニギハヤヒの子孫から国を全て禅譲され、葦原中国の正統な支配者の地位を得たとされます。「国譲り」神話は先ずアマテラスとオオクニヌシとの間で「平和裏」に行われたはずなのですが、天孫側に天若日子(天津彦根命)に代表される「裏切り者」が輩出したことから、東征の間、戦いと征服の旅が続きました。神武も実の兄弟を失う大きな痛手を負うのですが、ヤマト入りを果たした後、何故か天若日子と同じようにヤマトの旧勢力の娘と一緒になり子供を儲けます。抵抗勢力が全く存在せず戦闘も行われなかったとは考えられませんが、新旧勢力の融合は案外円滑に進められたのかも知れない、そのような見方に傾きつつあります。「クイズ」の答=大直禰子神社の主祭神はオオタタネコ、そして一緒に祀られているのは少彦名命と活玉依姫命の二柱です。大三輪の聖地に、何故、天孫系の少彦名命がオオタタネコと同じ社に祀られているのか?その理由は、配偶者である美良姫の祖神であるからに他なりません。
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