摂津三島の謎、蘇我氏と継体天皇妃                              サイトの歩き方」も参照してください。

「系図買い」という言葉があり、余り良い意味合いでは用いられないように、世に伝わる『何々家系図』ほど怪しげなものは無い…と言うのが通り相場なのですが…、それでも若しかして歴史の隠された一端を伝える、反面鏡のような部分がありはしないかと、さもしい根性を出して書いたものが前回アップしたページなのでした。しかしWEBなどで収集した史料の全てを使い果たした訳ではなく、未整理のものも幾つか残っており、その中で「使えそう」な物もありますので、性懲りも無く、再度、摂津三島の謎に挑戦してみたいと思います。

大山積神(おおやまつみ)と事代主命(ことしろぬし)を祀る三島鴨神社については創建年代の推定を含め第57楽章でお話しましたが、このお社は元々、川中洲に創建されたのですが、古代の条里制に基づくなら「九条十三里」という区画(地区)に属しています(最も大阪府高槻市の中央南側にあると思って下さい。また、この『里』は尺貫法の里[り]ではありません。大体650メートル位の幅です)また、古くから開けた三島の「嶋上郡」は濃味(のみ)、真上、児屋、服部そして高上の五つの「郷」によって構成され、七世紀に「津国」は設置されたと伝えられています。一つ目の不思議は、その中の真上(まかみ)郷の小高い山際に端を発します。

一部の浮世絵研究家たちが、東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく,寛政頃の浮世絵師)の正体だとする阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛が亡くなった年でもある文政三年(1820)、摂津国嶋上郡真上郷光徳村に庄屋・田中六衛門という人が住んでいました。彼の息子・与兵衛は同年の正月元旦、縁起でもない、

  地所に在る「荒神松」という古い松の辺りより、土が動き崩れて
  家諸共に土に溺れる夢

を見たと父に語り、その同じ日、今度は隣に住む男が突然、

  お前は、とても良からぬ事をしたのではないか、
  お前の地所の荒神松の根元辺りに新たに掘って埋めた跡があるぞ

と声を荒げて言い募ったのだそうです。六衛門は、以前からその土地を『崩して均す』つもりでもあり、また、隣家の主の疑念を晴らすためにもと考え共々、荒神松へ赴くことにしました。すると、確かに、

  男の言うとおり荒神松の下側の土砂が数センチばかり窪んでいたため
  更に土を三尺ばかり掘り下げてみると、木の棺が見つかり、朱をもって骸骨が納められて

いることが明らかになったのです。やや月日が経った同年三月二十六日、今度は銅製の墓誌も発見され棺の主の名前が知られることになりました。(発掘の経緯等を詳しく知ることが出来るのは当時、京都で書肆を営んでいた城戸千楯(きど・ちたて)が同時代の出来事をも含め『紙魚室雑記』という書物を出版しているからで、彼は寛政九年、本居宣長の門人になっています)時代は下り、昭和27年3月には国宝にも指定された『金銅 石川年足墓誌』は、このようにして「発見」され、荒神松の辺りには年足神社も建立されることになるのですが、さて、この人物をご存知の方がいるでしょうか?墓誌の冒頭「武内宿禰命子宗我石川宿禰命十世孫」とある通り、石川年足(いしかわ・としたり,688〜762)は蘇我氏の一員で最晩年は神祇伯を長く務めた人です。歴史上有名な出来事である「大化の改新」(645年)で本宗家(蘇我蝦夷、蘇我入鹿)が滅ぼされ、その後しばらくは分家の蘇我倉山田石川麻呂(?〜649)が朝廷の一角(右大臣)を占めて尚勢力を保っていたのですが、彼も結局、兄弟の赤兄(あかえ,623〜?)の密告によって「謀反の疑い」をかけられ、十分な吟味、釈明の場を与えられないまま氏寺の山田寺で一族諸共自害して果てます。(石川麻呂と赤兄の娘たち五人が天皇妃になっていました)

三島鴨神社  年足神社   石川年足の墓誌   PR

つまり年足という人物は石川麻呂の兄弟・連子(むらじこ,611〜664)の曾孫に当たり、彼が産まれる直前の西暦686年に一族の長である安麻呂は「石川朝臣」の姓を朝廷から授けられているのですが、過酷な政治権力闘争を生き抜いた「最後の蘇我氏」だと言って良いのかも知れません。「改新」劇の主人公と演出の双方を受け持ったのだとされる中臣鎌足(藤原鎌足,614〜669)は、蘇我氏の打倒にあたり、事前に一族の有力者・石川麻呂の協力を得て事を進めたと伝えられ、極めて用意周到な計画の下で「改新」は行われたのですが、鎌足の「凄さ」はそれだけではありません。それは次男・不比等(ふひと,659〜720)を廻る人間模様に明らかです。

藤原不比等の正妻は「蘇我氏」一族の娘だった

偉大な創業者・鎌足は「家」の将来を託すべき不比等の成人を見届けることが出来ませんでしたが、恐らく彼の配偶者については生前の鎌足と蘇我連子(及び安麻呂)との間で結ばれた「約束」があったのだと見ることができます。不比等の長男と次男(武智麻呂、房前)はそれぞれ680,681年に相次いで生まれていますが、彼らの母親は連子の娘・娼子に他なりません。つまり一連の「改革」で蘇我氏一族を「滅亡」に近い形にまで追い込み、その息の根を止めたはずの藤原氏の跡取り息子が正妻として迎えた相手が、なんと、蘇我氏一族の娘だったと言う訳なのです。勿論、不比等は後に県犬養三千代(橘三千代,?〜733)を妻として宮子、光明子姉妹を儲けて一見華麗な「閨閥」作りに励むのですが、藤原「家」そのものの基盤が蘇我氏の娘との間で築かれたことこそが、年足の墓が鎌足縁の地・三島の中央に造営された謎を解く手がかりのようです。百済から渡来したとも言われる大山積命を祀る三島鴨神社の真北、藤原氏の影響力が極めて強い三島の中核に彼が葬られたのには、それなりの「理由」がなければならなかったはずです。ほぼ真西に五里、そこには、あの阿武山古墳が佇んでいます。年足が亡くなった762年と言えば、既に「藤原四兄弟」もこの世を去り、朝廷内は不比等の孫・曾孫たちが活躍する時代です。つまり藤原氏と石川氏(蘇我氏)との極めて親密で濃厚な「関係」は、ほぼ四世代、百年以上にわたり途切れることなく続いていたと思われます。連子と鎌足は、一体「何」を紐帯として結びついたのでしょう?もっと下世話に言えば、お互いにとって「どんな利益」を齎すものだったのでしょう!言わば「己の庭」のような場所を見返りとして、相手の子孫の終の棲家として提供させるために、連子は娘の他に「何」を鎌足に差し出したのでしょうか?また、鎌足という人が藤原氏の「始祖」であり、氏族の中でも特別な存在であったにもかかわらず、その子孫達が「鎌足」という名前の「文字」を諡として用いた例が無く、連子の孫に当たる「石足」(いしたり)から三代にわたって「年足」「名足」と「足」の一文字が引き継がれているのも不思議です。(鎌足が亡くなった時、跡継ぎの不比等は十歳になったばかりでした。藤原氏を疎ましく思う勢力が在り、打倒計画を実行するには絶好の機会だったのですが、誰も手を出すことが出来ませんでした。管理人の妄想では、この最も危機が迫った時期に不比等を守ったのが石川一族であったという結論になります)

 石川年足=天平宝字六年九月、京都の自宅で亡くなった彼は、同年十二月一日、摂津国嶋上郡白髪郷の酒垂山に葬られた、と墓誌は伝えています。「白髪(しらが)部」の 郷名が「真上(まかみ)」に表記変えとなったのは、光仁天皇の名前が「白壁王」だったためと思われますが、研究家は、かつて三島の土地には清寧天皇の名代・白髪部(し らかべ)とされた住人がいた、王家の部民とされたことにより「白髪部里」と呼ばれていたと考えているようです。

古今東西そして組織の大小を問わず、後継者問題(つまり、次の世代を担う人物を誰にするのか)を疎かにして、其の日暮らしを続けていると碌な目に遭いかねません。また未成熟な組織であればあるほど内紛(お家騒動)が起こりやすいものです。古代の朝廷も例外ではなく、それは武烈天皇の逝去によって「皇位を継ぐべき子供(に相当する人たち)」が一人も居ないという緊急事態が現実のものとなったのです。記紀の記述が本当なら主だった者たちが『もっと早くから何らかの手段を講じておくべき』だったのでしょうが、書記の言うとおり『しきりに諸々の悪しきことをなし、一つも善きことを修めない』武烈に、国の人々が『みんな震え、怯えていた』のであれば是非もなかったのかも知れません。二つ目の謎に取り掛かりましょう。

継体天皇の「(きさき)」を祀る女九神社とは

『このままでは継嗣が絶えてしまう』と危惧した大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとも・かねむら)が、初めに担ぎ上げようとした人は丹波国に居た「仲哀天皇の子孫」倭彦王だったのですが、この人は大臣達が迎えに送り出した「兵」の姿を遠望し、自分を攻め殺しに来たと思い込み、慌てて山中に隠れてしまい会う事すら出来ませんでした。そこで大伴大連たちは、更に論議を重ねた結果「男大迹王(おおどのおおきみ)」の推戴を提案、これに物部大連や許勢大臣たち群臣もみな賛成したため、次の天皇として越前国三国の地に居た「応神天皇の五世の孫」を迎えることに決めたのです。その人物が次の不思議の主人公、第二十六代継体天皇その人です。(なお『先代旧事本紀』巻十「国造本紀」によれば、越前国の三国国造は、宗我臣の祖・彦太忍信命の四世孫の若長足尼、わかながのすくね、とされています。古くから蘇我氏の一族が越の国にまで勢力を伸ばしていたと考えられます。また、男大迹王が『たまたま河内馬飼首荒籠』という人物を以前から見知っており、彼が推戴の経緯を『内密に詳らかに』したことが王の決断を促したと伝えられている点は、河内(の渡来系氏族)との関係も濃密であったことを窺わせます)

「継体天皇陵」  継体陵の周濠

「五世の孫」に、一体どれほどのリアリティが認められるものかは皆さんの判断にお任せしますが、この継体天皇については謎だらけの人物という表現がぴったりするほど、多くの「」に包まれた大王なのです。まず、その即位に際しての「謎」というか、複雑な経緯の一端を冒頭でも紹介しましたが、記紀の「言い訳」は、皇統が途絶えては大変なことになるので、遠い血縁ではあるが「応神天皇」の子孫の一人で越前ならびに若狭近江などの地域に広くて強固な地盤を持つ王を、武烈天皇の姉妹・手白髪命(たしらがのみこと)の婿として迎えたのだ、と言うことになるのでしょう。それはさておき、謎は続きます。朝廷を構成する全ての有力者が賛同したはずであったにも関わらず、継体帝が即位して都を置いた所は「河内国・樟葉(くずは)宮」(507年)で、

  511年  山背国・筒城(つづき)宮に遷都
  518年  山背国・弟国(おとくに)宮に遷都

と数年おきに都を移し代え、526年に至り、やっと大和国・磐余玉穂宮(現在の桜井市)に入ることが出来たのです。大伴氏の本拠地が例え河内周辺に在り、なおかつ継体を積極的に支援する勢力が大和ではなく山背国に在ったのだとしても、この「迷走」ぶりは異常で、足掛け20年もの間「即位した」天皇が、本来君臨すべき大和国に入れなかったのであれば、即位の「年」だけでなく、六世紀前半の「歴史」そのものを見直す必要があるのかも知れません。(この時代には既に秦氏を中核とする渡来系の氏族集団が河内から淀川(山背川)水系を利用して京都・山背までの地域に進出し強力な地盤固めを終えていたと思われますから、継体の度重なる遷都費用も、秦氏一族等の支援によって賄われたと考えることが出来ます)この問題は、突き詰めれば『継体は、本当に大和王朝の婿として有力豪族の合意に基づき皇位に就くことが出来たのか』という根源的な疑問にもつながる訳ですが、このページは歴史を科学的に究明する「学問」の場などとは程遠い、勝手気ままな妄想の場ですから思いつくままに論旨?を展開してゆきましょう。(研究家の中には、六世紀前半『二つの朝廷』が並立していたと見る人もあるようです)

 欽明天皇と秦氏=記憶力の良い読者は、帝がまだ幼い皇子の頃に見た「夢」の話を覚えているでしょう。ある日皇子は、夢の中で『秦大津父という者を寵愛すれば、ゆくゆく成人された暁に、必ず天下を治める』ことが出来るでしょう、と言うお告げを聞きました。そして使いをあちこちに遣わして探したところ、山背国の紀の郡の深草という 所に居たことが分かったというものです。継体の子供が欽明天皇です。

「摂津名所図会」より 女九神社(茨木市)

寛政八年と言えば個性のある似顔絵描きの元祖とも言うべき東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく)が江戸の町から姿を消して一年余りの頃になるのですが、この頃全国で観光名所を紹介する旅のガイドブックが庶民の人気を集めていました。京都の文人・秋里籬島が『摂津名所図会』シリーズを書き始めたのも同じ年のことで、今で言う大阪府茨木市を中心とした一円の行政区域であった「摂津国嶋下郡」上野村にあると云う珍しい祠の記事が紹介されています。この本は、題名こそ「名所図会」となっていますが、単なる「名所」の紹介だけに終始したものではなく、その土地土地の地名や社寺、河川、山そして池、駅なども史料を引用して書き記した、ちょっとした歴史百科事典のような趣のある出版物で、当時の嶋下郡太田にあった「継体天皇稜」(三島藍野稜)の記事の後に、次のような文言が続きます。

  女九神祠(めここのつのやしろ) 上野村にあり。祭神不詳。この所の生土神とす。
  土人曰く、むかし継体天皇崩じたまう時、十二人の妃のうち九人の殉死せられしを、
  陵の傍に葬り、ここに祀るなりとぞ。その証不詳。

ここで取り上げられているお社は現在、茨木市東太田にある女九(めく)神社を指していると思われます。ただ、名所図会に記された「上野」ではなく「旧太田山の木」に鎮座している点に一抹の疑念が浮かばない訳でもないのですが、神々の遷座は江戸期でも頻繁に行われていたようですから、数百メートルの「移動」には目をつぶることにしましょう。さて、この時代に天皇妃が「九人」も「殉死」するなど決して在り得ない事ですから、図会の編者も「その証不詳」と態々書き足したのでしょう。祭神については神社の由緒書が、別の「一説」を伝えています。それは、継体天皇が、まだ即位する前から妃であった(と言うより、元々、正妻であった)、

  尾張の連の孫娘である目子比売

を祀る神社である、とする説です(目子=「めこ」が「めく」に訛った)。記紀は、このお妃について、

  また尾張連等の祖、凡連の妹・目子郎女(古事記)
  尾張連草香の娘・目子媛という、またの名は色部(日本書紀)

と、何れも尾張連の一族であると書き記していますが、この女性は継体の後を継いだ二人の皇子、

  広国押建金日命(安閑天皇) 建小広国押楯命(宣化天皇)

の実母に他なりません。つまり、まだ男大迹王が地方の雄に過ぎなかった頃、「妻」として最大の後援者であった尾張氏から王家に嫁いだ人だと推測できるのですが、書記が二人の名前を、

  勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ) 檜隅高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)

と伝えている事に少なからぬ「ひっかかり」を覚えます。と言うのは、関西に生活圏のある年配の方なら、この二人の名前が何れも大和国にちなんだものであることに直ぐ気づくはずです。そして、全くの偶然なのでしょうが「(まがり)」も「檜隅(ひのくま)」も何れも「あの」鎌足の生地・高市郡内にある地名であることは一層興味をそそる符合なのですが……、それこそ考えすぎなのでしょう。気になる事と言えば他にもあります。国史の日本書紀が一書として引用している『百済本紀』は、安閑天皇が即位したとされる西暦531年「日本の天皇と太子、皇子が共に薨去した」と伝えているのです。531年は継体帝の没年ではありますが、記紀は、その後を安閑(531〜535)、宣化(535〜539)と年長の異母兄弟が先に皇位を継ぎ、手白髪命の子・欽明につなげたのだと記しています。いずれの記述を信じるべきなのか判断に迷うところですが、継体天皇が豪族間の協力無しには大和に入れなかったこと、そして何より大王家の娘である手白髪命への婿入りの形で皇位を継承した事情を重くみれば、欽明を差し置いて尾張連の血を引く男子二人に跡を継がせたとは考えにくい、というのが正直なところです。また、六世紀の初頭とは政治権力の構造も大きく変化していました。それは、大伴氏に代わって台頭した蘇我氏の勢力の伸張なのです。尾張氏の影響力は、宣化天皇の娘・石姫から敏達天皇へと繋がりはしましたが、欽明と蘇我氏の娘たちとの間で構築された「新しく大きな閨閥」には、とても及ぶべくもありませんでした。

お役所が「継体陵」だと頑なに主張する太田茶臼山古墳に比べ、陵墓参考地にさえ指定されていない今城塚古墳は、その「お蔭」で自由な調査と整備が進められています。そして主要な構造物についての結論は出されていないものの、石棺の「破片」と認められるものが見つかっており、それは@阿蘇産ピンク石(馬門石)、A大和二上山白石そしてB兵庫播磨地方産石の三種類であったことも分かっています。この事から一部の研究家は『継体が本当に越前の出身であれば、名産の笏谷石を使うはず』だから継体の出自は別な所にあると主張しています。その是非は置くとしても、石棺材が「三種類」あった、つまり「三人(分)」の棺が一緒に葬られていたのだとすれば、先に見た「百済本紀」の引用文が重要性を増してきます。

  @ 継体帝は大和以外の「国」から来た人であった
  A 安閑・宣化の二人は継体の子であり、母も大和の人ではなかった
  B 継体の跡を実質的に継いだのは大和国の女性が産んだ欽明だった

の事実を踏まえ、何故、摂津の地に「継体陵」だけが築かれたのかを考えると、どのような答えが導き出されるのでしょう。彼の場合に明文化された「決まり事」では無かったとしても、古代の大王たちは『それぞれの出生地或いは最も縁の深い場所に葬られる』ものだという常識に当てはまりません。では「出生地」「縁の地」以外の地に大王を葬る場合、どのような条件が優先されるのでしょう?先ず考えられることは「費用」であり「用地」の問題でしょう。また「造営」には国の係官が監督者として出向くとしても、実際に陵墓を「造る」人々は、その土地に住む者から徴用しなければなりません。その人数も半端なものではありませんから、その土地を実際に支配している豪族に任せるしかなかったでしょう。茶臼山古墳と今城塚古墳の北側1.2キロの所には新池ハニワ工場があり五世紀半ばから六世紀半ばにかけての時代に大量のハニワ・須恵器を供給していました。国内最大級の家型埴輪が製造されたのも、この工房だと考えられており二つの巨大古墳とハニワ工場の「隣接」は決して偶然などではありません。渡来系と称される技術者集団を率いて各地を開拓した氏族の存在と影響力なしには到底考えられない「継体陵」の造営、更には藤原氏の「原点」ではないかと思われる摂津三島に想いをはせる時、謎の闇は底なしのようにも見えるのですが…。

構想を練る?兼好法師  徒然草より

恒例のオマケ話をして、今回もお開きにしましょう。歴史教科書にも登場する吉田兼好(よしだ・けんこう,卜部兼好,1283〜1350)が著した『徒然草』は余りに有名ですが、その第八十三段に次のような一文があります。

  太政大臣にあがり給はんに、何のとどこほりか、おはせんなれども、
  『珍しげ無し。一上(いちのかみ)にて、やみなん』とて出家し給ひにけり。

と、その無欲ぶりが「好感」されている人物は、延慶二年(1309)左大臣に登用されたにも関わらず、わずか三ヶ月で辞任、さっさと出家してしまった西園寺公衡(さいおんじ・きんひら,1264〜1315)、通称・竹林院入道左大臣その人なのですが、彼が残した『公衡卿記』によれば、当時、天皇陵と考えられていた「今城塚古墳」が『大規模な盗掘』にあっていたようで、お上が中々「今城塚」を陵墓として認めたがらない理由も、その辺りにあるのかも知れません。

(このサイトのトップページや最新のページへ行きたい時は、左下のリンクをクリックしてください)

      
     
 継体関連の頁   継体帝と三嶋の謎2   継体陵に眠る人物の正体   継体帝の血脈と乙訓宮   息長と科長と継体   物集女車塚古墳と継体天皇   継体帝と三嶋の縁