「それにつけてもの欲しさよ」誰が作った句か                      「サイトの歩き方」も参照してください。

江戸の奇才と称された、あの平賀源内(1728〜1780)さんが『放屁論続編』(1774、安永六年刊)の中で、どのような上の句に続けても何とか意味合いが通じる「魔法」の下句について、大変強い口調で論難しています。彼の感性では『いづれの歌にも連属する(などとは)卑劣千万』に覚える、独創性に全く欠けた陳腐な唾棄すべきものだったようなのですが、一般的に広く流布している「解説」によると、首題で示した一首を作り広めた張本人は天明狂歌の牽引役を務めた大田南畝(1749〜1823)その人だったことにされています。果たして俗説は真実を伝えているのでしょうか?南畝は未だ十八歳だった明和四年に人生で初めての作品集『寝惚先生文集』を世に送り出していますが、その内容に感嘆した源内が序文を寄せて人々の関心を集めた逸話が残っている程、二人の間柄は親密だったはずなのですが…、それはさておき。

放屁論  平賀源内  油売り

資料によれば確かに南畝は「四方赤良」の狂名で編んだ狂歌の集大成ともいえる『萬載狂歌集』(天明三年、1783)に「月前述懐」と題し、

  世の中は いつも月夜と米の飯 さてまた申し 金の欲しさよ

という一首を寄せており、これを彼が古希の祝いに合わせて出版した自作品の全集と目される『蜀山百首』(文政元年)にも再録していることから、この歌が南畝の手によるものであり、彼自身も気に入っていたことだけは間違いなさそうです。ところで、南畝作の狂歌の上の句についてですが、これも全く彼の「独創」という訳ではなく、当時の江戸庶民の「願望」をそのまま直截に表現したものだったという解釈があります。つまり、毎日の食卓に「白い米の飯」が載っていること自体が贅沢であり、有難いこと(或いは、あり得ないこと)だった訳なのでしょう。では、何故、歌の中で「月夜」が同列に置かれているのか?今、街中で生まれ育った人々には中々想像しにくい感覚だと思いますが、実は、お月様の明かりはお天道様と一緒に(つまり陽の出と共に起き、日没と共に就寝する)暮らしていた人たちにとって実に有難いものだったのです。筆者にも経験がありますが、街灯など一切人工の照明の無い夜の田舎道であっても、空が晴れて満月に近い夜などは、十分とは言えないまでも結構な「明るさ」があるものなのです。勿論近づけば人の顔も識別できますし、最接近すればその人の表情まで判別することができます。

日没と共に壱日が終わる生活であっても、夜の灯は必要であり庶民にとって明かり用の菜種油も必需品でした。そして、その油の価格も決して安くはなかったのです。江戸経済の研究者によれば、文化五年(1808)頃、家庭用に販売されていた油の価格は「一合=180mlで四十一文」だったとされ、行灯(あんどん)で使用する一日の油量は「4〜5勺」と推定されています。つまり大体「二日で一合」の油が消費される訳ですから、一日当たりの照明代は「およそ二十文」一月では六百文にもなる計算です。これが、一体どの位の金額かと言うと「大工の日当」「裏長屋の家賃一月分」と同じだと言うのですから、月夜(月明り)の有難さが良く分かるのではないでしょうか!(同じ油でも鰯油は安価で買い求めやすかったのですが、すす煙が多く、臭いがきつい品物で評判は余り良くありませんでした。以前、紹介したことのある浮世絵師の鍬形寫ヨが描いた『近世職人尽絵詞』の中にも江戸市中で油を売り歩く人物の姿を見ることができます。上右の画像参照)

京都、大阪の府境に大山崎という町があります。ここはかつて織田信長を本能寺に葬り去った明智光秀が、中国攻めから急遽引き返してきた羽柴秀吉と天王山で戦った古戦場なのですが、室町時代の後期、足利将軍家に仕えていた山崎宗鑑(1465?〜1514)という武士が居ました。彼は将軍義尚の陣没を機に武士の身分を捨てて出家し連歌、俳諧の道に専念するのですが、ある時都の公家を訪ねた折、自慢話を聞かされます。それは『どのような和歌の上の句にも繋げられる下の句』を思いついたというもので、内大臣まで上りつめた三條西実隆(逍遥院と号す、1455〜1537)が示したのが『と言ひし昔のしのばるるかな』という凡庸な付け句でした。首題の下句はその時咄嗟に宗鑑が詠んだものだったとする言い伝えが残されています。俳諧の大先達である宗鑑の絶妙な返し技を南畝が知らなかったはずがありません。だから、彼の下の句は『さてまた申し』とあって「それにつけても」の文言に代えられているのだと思います。

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