魂の解放を模索し続けて
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   富永太郎・長谷川泰子との出会い

 

  1924年の2月、中原は冨倉徳次郎の紹介によって一人の詩人と知り合う。それは富永太郎である。富永は前年の11月、上海に向けて内地を発ち、貧窮の生活を経て帰国したばかりのところで、京都に在った友人の冨倉の許に一週間ほど滞在していた。富永は、2月の10日に一旦東京に帰るが、6月の30日になって再び京都に「遁走」して来る。この日から、東京と京都の間を往復している富永と中原の交友関係が始まる。中原は、この詩人から、実に多くのものを学んでゆくことになるのだが、先ず中原の当時の行動から見ていくことにしよう。

立命館の頃                                                                                                                                 この年の3月、無事に立命館中学三年の課程を修了した中原は4月には長谷川泰子と同棲し、上京区今出川の高田大道方に下宿していた。この同じ月、富永の高校時代からの友人である正岡忠三郎(正岡子規の従兄弟。当時やはり京都大学の経済学部にいた)と知り合っているが、これも多分、冨倉の紹介によるものだろう。こうしてみると中原の友人たちは、皆、年長者ばかりである。また、泰子は当時マキノ・プロダクションに所属していた女優の卵で、一度は上京していたが、関東大震災に遭遇し、京都に来ていた。彼女の夢は新劇の大女優になることであり、中原との出会いは「芝居の稽古をやっていた」小さなビア・ホールだったと記憶しており「2〜3度顔を合わせているうちにダダの詩を見せてくれた」と語っている。(永井叔によれば、彼女をマキノに紹介したのは彼自身であり、中也に紹介したのも彼である)

  何分、五十年も前の出来事だから、各人の記憶が一つに重なり合わないのも仕方のないことだろう。

  中原は、自分の作った詩を「誉めて」くれた年上の女性と一緒に暮らすことになった。恐らく二人の心情は「上京したい」という点について完全に一致していたし、お互いにキリスト教的雰囲気の中を潜り抜けて来ていたことも、親近感を高める要因になっていたかも知れない。当時の泰子は「アインシュタインの相対論を弄」して、カフカの文学について自在に語れるような人物であったらしい。(補註・泰子と中原が同棲するようになったのは「表現座が一回きりの公演で解散したから」だと彼女は雑誌の対談の中で述べている。『婦人公論』昭和49年3月号)

 

    ノート「1924」に書かれたダダ詩篇

 

  「ノート1924」には、46のダダ的な作品、および断片が書かれているのだが、このすべてを一々引写していると多くの紙数を費やすばかりなので、解説に必要なものだけ、ある程度間引きして引用していくことにする。また、これ以降に使う「何番詩」という表現は、まったく便宜的なもので、中原のノートには、このような呼称・番号などは一切つけられてはいない。

      春の日の怒

 

  田の中にテニスコートがありますかい?

     春風です

      よろこびやがれ凡俗!
     名詞の換言で日が暮れよう

 

    アスフアルトの上は凡人がゆく
     顔  
     石版刷りのポスターに
     木履の音は這い込まう

 

   この一番詩から9番詩までを、角川書店版五巻本全集(以下「全集」という)の解説者は「第一群A型」という筆跡に分類している。この九つの作品にも「恋」は頻出し、彼の実生活を暗示しており、三番詩の題は『恋の後悔』である。4行、4行の2聯立ての形式は、前出の『ダダ音楽の歌詞』と同様のもので、3行および4行での聯立ての形式は、このノートでよく用いられている。短歌時代に習得した言葉のリズム、いきが中原に、このような行分け聯立てのフォームを採らせたのかも知れない。(ダンテ『神曲』の場合も3行が1聯)

  初聯での中原は攻撃的で、かつ嘲笑的である。山口時代のところで見た「悪魔心」、そして「高み」に位置している者としての自負心が、何の抵抗もなく表出されている。第4行目の文句は、当時の中原の「ダダ的論理」の輪郭とでも言うべきもので、社会生活−一般人たちの暮らし−を「名詞の換言」と決め付け「凡人」の生きかたに高圧的な態度を示している。

  京都の街角の、路上風景のスケッチと思われるこの作品の 「顔    顔」 という文字の繰り返しは、高橋新吉の作品にも出てくる手法である。よく引用される『49』の第1行目には「皿」という字が一行分も積み重ねられている。また、これよりも時期的に先行するものとして雑誌『新潮』の大正6年10月号には、

 

      鋭角、鋭角、鋭角

 

     色、光、光、光、色、光、音

 

というような表現方法を用いた『自動車の力動』(作者は神原泰)という作品が発表されている。視覚的な印象を、単語の積み重ねで表そうとするやり方と言え「凡人」の個性に欠けた、同じような表情、生き方、スタイルを揶揄しており、都会=アスファルト=との違和感も見受けられる。

  終わりの2行は、感覚的に「倦んだ」心象として把握できるのだが、文字になり難い部分がある。「顔」が、そのまま「ポスター」に掛かっていくとすれば、その上を通過する「木履」(都会のアスファルトには馴染まない足音、存在か)の音が掻き消えてしまう、とでも訳せばよいのだろうか。何とも奇妙な感覚で、別の言葉に置換できない、もどかしさを感じる部分である。とにかく、初聯での嘲笑的な態度は様変わりして、作品は難解な方向に萎縮してしまい、イメージも広がらず展開不能となっている。これは中原が思考に頼って作品を書こうとしていたからではないかと考えられる。また、泰子との関連で「ポスター」を解釈していく方法もあるだろう。

  題名や詩句だけから、この作品の制作時期を推定することは、余り好い方法ではないが中原の季節感を重視して、2月か3月頃に仮定しておく。(18番詩『春の夕暮』15番詩の『初夏』の後ろに置かれている例もある)

 

      恋の後悔    2番詩

 

  思想と行為が弾劾し合ひ

  知情意の三分法がウソになり

  カンテラの灯と酒宴との間に

     人の心がさ迷ひます

 

  あゝ恋が形とならない前

     その時失恋をしとけばよかつたのです

 

  引用部分は第3,4聯で、この前には5行と3行の2聯が置かれている。中原のノートを実際に見てみなければ断言はできないが、この作品も4,4,4,2の定型、もしくはその変形ではないかと思われる。

  ここに登場している「男」は、中原の分身であろう。泰子との同居生活あるいは友人たちとの交友の中から生まれた「他人」との間に生じる僅かな心情の行き違い、隙間を中原は敏感に感じ取り、自己の内部変化、動揺を分析しようとしている。「人の心」は中原自身の心情の客観的描写であり、終聯の2行は結語、締めくくりの言葉であるが、得恋者としての見栄とも受け取れるし「形」にならない前の恋は理想像である。また、現に恋を得た者として、それは、ない物ねだりと言ってもよい。

  ダダを手法として取り入れ「表現上の真理」を追究する中原自身の内部で、現実の行為と思想、理想との間に落差が生まれ、彼は「三分法」の理論どおりに進まないことに苛立ちを感じ始めている。この落差は「女」との生活だけに限ってみる必要はなく、彼自身の中にある「野心」あるいは「故郷への心情的傾斜」を含めて、全体的に捉えられなければならない。終聯の繰り言めいた2行は、前聯で「人の心」と客体化されていた心情が、一気に主体に変わり、いわば「地」の部分になっている。この求心的な移行のやり方は、中原の心情表出を考えていく上に重要な点である。

  中原の詩作品が多くの人々に、特に青春期にある若い心に受け入れられるのも、この直截で「私的な」呟きのような詩句があるためなのだが、ややもすると、それが余りににも私的な心情に押し流されて、文学作品としての普遍的表現にまで昇華し切れない場合もある。言い換えれば、詩世界を形作るイメージの持つ内的エネルギーの方向が、余りにも求心的である場合に、その詩空間は内部へ自展的に収斂しようとして、外向きの広がりを持ち得なくなる。つまりは、作品としての普遍性に欠けてしまうことにもなるのだが、この事と中原の私生活、伝説の類とは別個に考えられなければならない。また中原の「私的」なイメージが、それでも読む側の心に何ものかを与え得るのは、その作品自体の完成度の高さを示しているものと言える。

 

     不可入性      3番詩

 
     自分の感情に自分で作用される奴は

  なんとまあ  伽藍なんだ                     (中略)

 

  空想は植物性です

  女は空想なんです

  女の一生は空想と現実との間隙の弁解で一杯です    (中略)

 

 「やつぱり何時かは別れることを日に日により意識しながら、

    もうそのあとは時間に頼むばかりです」

 

  この散文のような作品は30行からなり、引用した部分は書き出しの2行、7行目から9行目、そして終わりの2行である。ここでも男と女の二人が登場し、お互いの意思、感覚の差、価値観の相違が取り扱われており、最終部分が結語・結論となっている。中原の実生活に則した面から見れば、曖昧な動機から成り行き任せに同居した、若い男女の相手に対する考え方のずれが蹉跌を招いた結果の表れ、ということになるが、描写されているような事実があったのかどうか分からない。後日の中原を知っている者にとって、当時の中原が既に「別れ」を意識し「時間に頼」んでいたとは到底考えられないが、それとても断定は出来ない。

  「空想と現実との間隙の弁解」は「女」に向かって半ば批判的に発せられた言葉だが、これは、そのまま中也自身に跳ね返ったであろう。中原は成功を夢見る同世代の異性の中に、自己の未来を、その危険性を見ていたのかもしれない。しかし、この時「女」が追っていたものこそが「現実」であり、彼が(女に)求めていたものこそ「空想」に近いものではなかったのか。

 

      殊に女には今日の表現が明日の存在になるんだ。そしてヒステリーは現実よりも表現を      名称を吟味したがるんだ。

 

と中原が言ったとき、ヒステリーは彼の中にも在ったのだ。中也との生活を回想して泰子は、一緒にいた当時「彼が何を考えているのか分からなかった」と述べている。希望と野心に燃える若い二人の眼に、お互いの姿、心は正しく見えず、それぞれに虚像を造り上げていた。「不可入性」の文字は、他者を見た中原の実感である。3番詩は、詩というより、むしろ散文であり用語の点から見てもダダの影は薄い。心情的に落ち込んだ自己の弱い部分の表出に、このような散文形式を用いているのは、前述の初期散文と同質の傾向であり「話体」による屈折した感情の表出は、当時、最も手頃な不満の解消方法であった。

 世界を巡る  

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      (恋の世界で人間は)      4番詩

 

    無縁の衆生も時間には運ばれる  

    音楽にでも泣きつき給へ

    音楽は空間の世界だけのものだと僕は信じます

    恋はその実音楽なんです                  

    けれども時間を着けた音楽でした

    これでも意志を叫ぶ奴がありますか      (中略)

 

       

    やつぱり壁は土で造つたものでした

 

  丸括弧で示した(    )の形の題表示は、中原のノートに表題がなく作品の初めの一行をそのままとったもので、無題の場合には、以後も同様の表記方法を取る。

    一行目を取った題が示すように、この断片でも中原の志向は「恋」に傾斜しており、自己の感情や行為を分析し、説明を加えようとしている。3番詩での散文的な描写から、象徴的な表現の方向へ向かっているが、この後、8番詩の『自滅』まで題名を冠した作品はない。また、3,4,5,6番の各詩片は、その内容から一連のものと考えられる。

  地上にある限り、万遍なく平等に「時」は流れすぎていく。「恋」も、そのような時空の中にあり、誰も時間を止めることは出来ない。

   「音楽は空間の世界だけのもの」という表現は、楽器による演奏をその場だけの特異な時間の創造(現実を支配する時計の時間ではなく、内面的な、また個人的な異質で、独立した時間という意味で)と考え、それゆえに「空間」を自在にあやつり得るものとして捉えたとも考えられるが、逆に、時間芸術の象徴をダダ的に否定した表現とも受け取れる。また、演奏ではなく、譜面上(二次元空間)に記された音楽を、このように言ったのかもしれない。いずれにせよ、中原と音楽との関わりは、もっと研究されてしかるべきである。中也の生前を知る友人たちは、彼に、音楽に関する特別な理論があったことを証言しており、西洋クラシック音楽と中也の関係の解明は、未開拓の分野であると言える。

  上で引用しなかった部分には「浮気は悲しい音楽」を「忘れさせる」の文があり、その後が、引用した最後の2行になっている。「悲しい音楽」は、彼の比喩をそのまま置き換えて「悲しい空間」となり、これは比較的スムースに「空」とつながるだろう。

   終行の「でした」の止め方は過去形の表現になってはいるが、むしろこれは現在完了形(今しがた経過した時)とでも言うべき時間を現したものであり、中原の視線が急激に下方向に向かった結果を指し示している。同一の名詞を積重ねる表現方法は先にも見たが「空」は、正に時間を超越して、幾重にも折り重なりあって、彼の頭上遥かに「在る」のである。そして、急降下する中原の視線は「土で造った」「壁」に衝突し、生気を失い、うなだれてしまう。無気力な眼は、再び上方向に向こうとはしない。ここでも中原のイメージは広がらず、急速に縮み、地上の一点に回帰してしまう。

  「壁」は外界である、と言ってしまっても良いのだが、それは他者に代表され、恋になって中原の前に立ち塞がっており、彼自身もまた、厚い壁を内在しているのである。「空」への自在な参入を阻むものが彼の内部にはある。意志を放棄した場所への逃避行は持続せず、中原の意識は現実の側に引き戻されてしまう。

  最も自分の身近にあり「詩」を、そして自己を十分に見てきているはずの人間が、取りも直さず「無縁の衆生」である現実に、中原は幾分苛立っているようにも見える。「空」を見上げる彼の眼の焦点は定まらず、ぼやけている。

 

      (天才が一度恋すると)      5番詩

 

    天才が一度恋すると

    思惟の対象がみんな恋人になります。

    御覧なさい

    天才は彼の自叙伝を急ぎさうなものに

    恋愛伝の方を先に書きました

 

  上の5行は5番詩の全文で、別段これといった説明を付け加えるまでもないが、第2行目には高橋新吉の「想像に湧く一切のものは実在するのである」という詩句の余韻が感じられ「天才」気取りの中原は、ここではご機嫌である。(註・ダダ詩の中に「会話体」の部分を取り入れた構成は、高橋の作品にも用いられている)

  この時期(1924年春、3〜4月か)に中原が「」を書いていたかどうか、についての資料は今のところ全く判明していないが、筆跡などの点から見れば、先に見た『分からないもの』『その頃の生活』が、何とかそれに相当する資格を持っており、前者が「恋」を語ってはいる。

 

      (風船玉の衝突)      6番詩

 

    風船玉の衝突

    立て膝

        立て膝

    スナアソビ

    心よ!

    幼き日を忘れよ!      (中略)

 

    心よ!

    詩人は着物のスソを

    狂犬病にクヒチギられたが……!

 

  中原は十分に意識している。自分が、もはや「幼き日」の自分ではなくなっていることを、また、それ故に、その日々が来る狂おうしく回想されることを。だが「心」は、いつまでも「幼き日」の姿を求め続け、過ぎ去った時を懐かしむ。行きずりの公園で無心に遊ぶ子供たちの有様を見て、彼の心は大きく揺れ動き、回想は故郷での日々に飛ぶ。しかし、当時の中原にとって幼き日日の出来事は場違いなもののように思われた。余りにも短期間のうちに大きく変化した自己の意識が、現実生活が、否応なしに過ぎし日への憧憬を拒絶した。

   「公園の入口」に立っている詩人は、もう自分が子供たちと同じように騒ぎ、はしゃぎ、何ものにもとらわれず砂まみれになって、時間も忘れて遊べはしないことが分かっている。「風船玉」のようにフワフワと、彼は京都の街をあてもなく、空ろな眼差しで、ただ歩いていく。目くるめく回想を、歩くことで打ち消すために。「狂犬病」と揶揄された人物が、中原の家族や泰子ではなかったことを祈りたい。中原自身のためにも。

   山口時代のところで見たような回帰、回想の傾向が、この時期には、より内的エネルギーを高めて現れ、思うように進まない現実の壁が、中原自身を後ろ向きにさせている。しかも、この時点での過去への思いは、山口時代のそれとは屈折の角度も異なり、直截な表現はとっていても中原の心情は実存している彼自身の意識によって大きく捩じ曲げられている。したがって、このあたりから中原自身と現実の疎隔感が高まりをみせ、より無気力で倦んだ感情が、彼の内部で圧力を増してくる。「孤児の下駄」「ペンキのはげた立札」の言葉は、正にそのような状況を象徴している。

  中原は、この6番詩でも象徴的な言葉づかいをしてはいるものの、底流にあるものは「抒情」であり、純粋であった過去に対する憧憬であり、意識的にその心情を排斥しようとするところから詩句に歪みが生じ、イメージは活気を失い、下降線を辿り消滅してしまう。中也詩に冠される「アンニュイ」と言う言葉がそのままあてはまる作品の、原型の一つだと言ってよい。

 

    悪魔心からの解放を求めて

 

   自己の理想を、完全性を追求する余り、現実との競合に耐えかね絶望する過程は、青春期における若者たちが、皆一様に通過しなければならない道のりであるが、中原は、その理想像を『神曲』という完璧な体系、宇宙観に求めた代償として、より大きな失望と挫折を味わわねばならなかった。それが彼の宿命だった。それでも尚、中原の魂が求めてやまなかったのは、あらゆる現実意識と悪魔心からの解放であった。疎外されれば、されるほど、その希求は高まった。

  夢が、ロマンが、追い求め続ける理想が、現実の厚い、冷たい幾重もの壁に突き当たり、砕け、散り、大気の中へ灰燼のように吹き上げられ消えていく様を、我々は中原の詩歌の中に見ることが出来る。捉えようもない青春という刹那的な時の連続が、ふとしたはずみに、閃光のように輝いて宇宙の彼方に吸い込まれてゆき、時計の針の音で我に返ると、そこには老いさらばえた自分の顔が、なかば惚けたように浮かんでいる。

   ある批評家は「三十を過ぎて、未だ中也の詩などにかまけている奴はカタワ者だ」と言ったという。しかし、そのように決め付けた批評家の心の中に、思い出すに足る想い出は何一つ存在していなかったのだろうか。

 

      (何故親の消息がないんだ?)      7番詩

 

  この断片は、引用した一行のほか、計5行しかない。現実に親からの便り(返信)が来なかったのかもしれない。何故、何故と中原は畳み掛けるように問いを連発している。また「原稿」が「売れない」ことに業を煮やしているようにも書いてあるが、当時の中原が売るための原稿を意識して書いていたのかどうかは不明である。この断片の2行目は、

 

    何故(不明)が笑はないんだ?

 

となっているが、この欠字の部分には、前篇でみた「心」を入れても良いかもしれない。中原は「親、故郷」そして「恋人」を持ち出して独り苛苛しているが、この苛立ちは、恐らく彼自身に対するものが大きな部分を占めている。そして中原の内部で焦燥が圧力を増し、現実に対する失望が大きく膨れ上がったとき、半ばおどけたような詩句が、ダダの形を借りて出現する。

 

      「自  滅」      8番詩

 

    親の手紙が泡吹いた

    恋は空みた肩揺つた

    俺は灰色のステツキを呑んだ

                                          

     

         

             

                     

    万年筆の徒歩旅行

    電信棒よ御辞儀しろ

    お腹の皮がカシヤカシヤする

    股の下から右手みた

 

    一切合切みんな下駄

    フイゴよフイゴよ口をきけ

    土橋の上で胸打つた

    ヒネモノだからおまけ致します

 

  この引用は全文であり、全体から受けるイメージは「歩行、散歩」である。「自滅」の題が示すとおり、自らが招いた結果としての失望を描いたものに違いはないが、抒情的なセンチメンタリズムは余り感じさせない。

   中原の視線は、最初やや上向きになっているが、徐々に下降して自分の足元とに落ちる。「足」だけの世界、「万年筆」だけの自由な旅行(創作)に彼の思いは向かう。「ステッキ」は、この後にも出てくる単語であるが、当時の風俗としてステッキを日常的に持ちあることがあったのだろうが、ここでは謂わば社会人としての地位を比喩したものとして解釈しておくことにする。それを「呑む」と言うことは、妥協したということになるだろう。また実際に「呑」んでしまえば、人の身体は一本の棒のようになり、次聯の「足」に関連したイメージとなるのは明らか。

  一方「電信棒」(ステッキ、足からの直線的な連想は容易)も「電線」とともに、よく出で来る言葉だが、都会、街の風物としての意味と、文明の象徴というような意味の二つが考えられる。此処の場合は後者であろう。

  「股の下から」云々の詩句は類似したものが他にも存在するが、無意味な行為の描写なのか、それとも彼にとって特別の意味が込められているのかよく分からない。ノートの後の部分で一緒に考えてゆくことにする。また「土橋」についても後で詳しく述べる。

  ステッキ、足、万年筆、棒−という直線を現す言葉を抜き出し、これを基にフロイトもどきの精神分析を行い、中原中也の「性詩的表現」を発見する、という類の評家があるのだが、先に何度も触れて来た通り、16.17歳の若い男性が(女性でも同様だろう)「性」に強い興味を覚えるのは自然の情であり、このノートに現れている性的な言葉や比喩をもって、直ちにそれを中也詩の本質、核と断定するのは早計に過ぎる。ダダイストを自認する中原としては「性」的にも全く解放されている、何の制約も受けていないのだ、といったポーズを他者に向けて、或いは特定の異性に向けて示さねばならなかったのであって、当時の彼の思考及び興味のすべてが「性」にのみ集中されていた訳ではない。

  ところで、終聯の詩句はいささか難解である。「足」からの連想で、視線がさらに下向きになり地面に落ちて「下駄」(足の先端)と結びついてゆくところまでは分かるのだが、そこから「フイゴ」へのつながりが見つからない。初聯から、現実と非現実を交錯させて、無意味な混乱の空間を造り出してきているので、この2行目は想像された非現実の部分の比喩だと考えられるのだが、前行との脈絡がうまくつかめない。フイゴから連想されるものと言えば、風と熱くらいのもので「フイゴを動かしている時に出てくる風の音と熱」と訳してみても、うまく説明ができない。

  最後の1行は、中原の本音とも思えるが、案外、こういったすぐ後でペロリと舌を出し「馬鹿め、うまくだまされたな」と言っているのではないかと勘ぐりたくもなる。「おまけ致します」が中原の自負心を損なう妥協であり、したがって「自滅」の表現となってくる訳で、お道化たような素振りもうかがえるが、作品の底を流れる自嘲の感情には歪んだものが感じられる。

  再び「フイゴ」だが、送風を「足」で踏みながら行う型のものもあるので「下駄」との関連が全くない訳ではない。しかし、このように解釈しても終聯の1行目と2行目は、意味的な面で脈絡は得られず、破格による突然の行変えと考えた方が妥当かもしれない。

 

    ダダと抒情の交錯

 

   この8番詩で再び作品に「題」が冠されたことは、中原の主たる関心が創作行為に向かいつつあることを示していると言えるし、同居人との無益な感情のやり取りも一段落着いたようである。厳密な意味で他者のすべてを知ることの出来ない人間が、一つの部屋で一緒に暮らしてゆこうとするなら、なるべくお互いの心情、それも本人が自分にしか理解できないと考えている領域には、深く入り込んでゆかない方が無難である。が、中原は、自己に対するのと同じやり方で、他人の心のあり方も細かく分析しようとしていた。自分の胸のうちにだけ置いておけばよい言葉を、直接相手に伝えようとしていたのである。心理を、心情を、考え方を勝手に分析され、評論される相手との間には、当然、摩擦が生じる。

 「恋」と、その上に「他者」という厄介なものを動じに背負い込んだ中原は、自他の心情、意識を解剖することに努め、疲れ、苛立つ。妥協を知った自己に対する戒めをも、この作品は含んでいるのかも知れない。

  この時点に至っても中原の心情は「親、故郷」に対して強い関心を示しており、逆説的な言い方をすれば、それらのものが顕然としていたからこそ、中原の内的エネルギーは、ある一定の水準を保つことも可能だった。そして、それは中原自身の言葉を借りれば「自展的」な動きとなって彼の内部で増幅され、回想を、より濃度の密なものにして、加速度を高めた。

  京都における中原の主たる志向は、まず東京に上ることにあったが、それは彼自身の内部にあり、そしてまた現前する「故郷」を超越する目的達成の手段としての意味をも持っていた。中原が、当時の心境を「野心」と呼んだのは、勿論「出世」を含めてのことであるが、がんじがらめに自己を束縛していた回帰的な心情、意識を乗り越えることをも含めての気負いであったと言えるだろう。

 

ダダの真っ只中の抒情

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  その様な状況ではダダの手法が絶好の表現方法と見えたが、中原は、いわば私的な心情の表出にとどまることが多く、その手法を十分に使いこなせず、加えて遅々として好転しない現実の有様に「自棄」を起こしたりしているわけだが、この時期において中原は自己の心情的傾斜の根強さ、振幅の広さ、故郷の自分に占める大きさなどを、いやと言うほど知ったはずである。円環し、回帰的傾向を有する私的な抒情を動機とした創作行為は、時に中原の詩世界を狭いものにしたが、それはまた直截な表現をも生み出した。

  9番詩の初聯2行は、ダダイズムの手法を取らず、どちらかと言えば抒情的な書き出しとなっている。

 

      (あなたが生まれたその日に)      9番詩

 

    あなたが生まれたその日に

    ぼくはまだ生まれてゐなかつた

 

    途中下車して

    無効になつた切符が

    古洋服のカクシから出て来た時

    恐らく僕は生まれた日といふもの

 

  上は、全文の引用である。初聯はそのままに解釈するとしても2聯は難解で、厄介な詩句である。問題は2聯の1〜3行だが、「途中下車」した主語は「あなた」であり、その「切符」が「無効」になる、という表現は、過去、思い出の清算−とでも訳すほかはない様に思える。あるいは「切符」は価値観、意識と解釈できなくもない。とにかく、ここで中原は他者の内側に自己の存在証明を求めようとしている。 

   また、この作品は過去(大過去)と比較的新しい過去、それに現実の時間、想像の時間が入り乱れて、中原が「ぼく」と呼んだ作中人物が、一体どの時間帯にいるのかも判然としない。現実存在を過去あるいは他者の存在から逆に保証したい、という傾向がここには見受けられ、中原は落ち着いているように見える。

  他者の心理分析に疲れ、倦んだ中原は、自己の心情を他人に投射して安心を得ようとしている。「あなた」の中にある自分の影を見つけて、彼は安堵し「恐らく」とは言いながら信じきっているのである。他者に対する心理分析は批判を生み、お互いの感情を害するもとにもなる。その点に彼は気づきながらも、また、蒸し返すのである。

   全集・研究篇が「第一群のA型」とした筆跡の作品は、ここまでである。次は同群B型の作品だが、これは10番詩から38番詩までを含み、中原のダダ詩が徐々に完成されてゆく過程を示し『春の夕暮』をはじめ、内容的にも興味のもてる作品が多くある。時期的には夏を中心とした前後2,3カ月と見て良いだろう。ただし、A型の作品群との間には、そう大きな時間的隔たりはないと考えられる。とくに10番詩のイメージは、8番詩に直結している、と言っても良いくらいである。

      (補註)『自滅』第2聯の表現とよく似たものを『ダダイスト新吉の詩』から2、 3例引いておく。

 

      『1911年集』

 

    擦火  擦火

        擦火

            擦火

    挾めねいか?      「51」より

 

    人生に異存はない

      たゞしんどい

            パチ

                ピチ

                    パチ      「59」より

 

    顔の青黄娘

          青黄娘

               

      白ない男      45」より

 

  また参考までに述べておくと『自滅』には異文があり、終聯1行目の「フイゴ」の前に「火事場の」と書いて抹消し、さらに終行の後に「死    死」と1行明けて書かれた後、消されている。恐らく、この後者の書きかけて抹消された1行は、第2聯の形式をルフランとして使うはずだったものが、イメージの広がりを持つことが出来ずに消滅したものである。「火事場」と「フイゴ」は共に火を連想させる言葉であるから、初聯第1行の「泡吹」くからイメージして「火を吹く」表現と考えることはできる。「みんな下駄」を価値のない焼き捨ててもよい物、卑下した自分自身と解釈すれば、1〜2行目の溝は埋められる。

  中原が、この頃、現実問題として「死」を真剣に考えたのかどうか分からないが、観念的な遊戯として自殺を表現している作品が前にもあるので、その延長線上にあるものとして理解しておいて差し支えないだろう。引用の形になるまで中也は相当苦労したようである。異文をもう一つ挙げておくと、最初の1行に出てくる「親の手紙」の「紙」は加筆された部分であり、元々は「親の手が泡吹いた」となっており、若しこれが単なる書き落としではなく、彼の最初のイメージであったとすれば、解釈の仕方も少し変わってこざるを得ない。が「」への関心が高まっていた事に注意しておけば良いだろう。

 

その2 終わり

 

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