ダダによる抒情、認識以前の世界

直線上に配置

原イメージの純粋持続 認識以前

    自嘲と嘲笑の錯綜

 

    大人になった中也(履歴書用に撮影された)                                                                                                                             「お道化」た調子の歌いぶりは、後に彼の詩歌の特色の一つになるが、この道化の本質は、うわべのただ単なる面白おかしさとは異なり、自嘲あるいは他者への嘲笑を含んでおり、心情も深く沈殿している。中原は自らの内側に生じた変化の大半を、外部からの作用による不条理なものだと判断し、元に戻れなくなった現在の自己を嘆き、回想するのである。

 

      「倦怠に握られた男」      10番詩

 

    俺は、俺の脚だけはなして

    脚だけ歩くのをみていよう――

    灰色の、セメント菓子を噛みながら

    風呂屋の多いみちをさまよへ――

    流しの上で、茶碗と皿は喜ぶに

    俺はかうまで三和土の土だ――

  「――」の用例は、これが初出である。「脚だけの歩行」のイメージは、8番詩から引き継がれたもので、歩きつかれ精神的にも疲弊した中原は、何処かに腰をおろし、夕闇の迫り来る街並みを空ろに眺めている。「セメント菓子」は、コンクリートの道路、建物などであり都会社会全体を指す。彼の「脚」が、この時、何をはいていたのか分からないが、もし「下駄」であれば固いコンクリートの道とは馴染まなかっただろう。

  これといった明確な理由が見つからないにも拘らず、どうも都会、よその土地に馴染めずにいる中原の違和感、いらだちが色濃く出ており、物心両面での疲労が「倦怠」として意識されている。「三和土の土」という表現には、心情的に都会人になり切れない自分自身への批難が込められている。「流しの上で」「喜ぶ」茶碗や皿は、泰子のあり方、考え方(社交性、ひいては一般人の生活そのもの)を指すと見られる。

  「倦怠に握られた」と意識している中原は、その只中にある自己の意志を分析して、次のように言う。



      「倦怠者の持つ意識」      11番詩

 

    タタミの目

    時計の音

    一切が地に落ちた

    だが圧力はありません

 

    舌がアレました

    ヘソを凝視めます

    一切がニガミをおびました

    だが反作用はありません

 

    此の時

    夏の日の海が現はれる!

    思想と體が一緒に前進する

    努力した意志ではないからです

 

   中原は半ば放心したように、薄暗い部屋の中で独り座っている。現実生活(タタミの目)も、それを支配する「時計の音」も、一切が彼の視線、感覚から滑り落ち、消えてゆき、彼は何の圧力も作用しない、外界から遮断された自由な無意識の領域へ参入しようとする。第2聯では、肉体的な疲弊状態が語られ、倦怠のまま無意識の世界に入ることを妨げる何物もないことが述べられる。この1聯から2聯への移り方は、正に「起・承」の形式であり、第3聯の展開部へと引き継がれてゆく。

   第3聯は、終行を除いて、かなり円滑な展開である。突然、現前する「夏の日の海」は、意識から解放されて自由自在に飛翔する「心」、詩心の象徴であり、また、それを受け入れる広大な宇宙でもある。さらに物心一体となって「前進」する様は、正に中也にとって秩序ある理想の形と言えた。青く、どこまでも青く深い、太陽が燦燦と降り注ぐ「夏の日の海」は、深遠な蒼穹と言い換えてもかまわない。

  見事な広がりを持ち始めたイメージを、一気に潰してしまったのは終わりの一行である。この作品には異文は存在せず、中原はここまで一息に書いてきたのだが、自らの手で膨らみ始めたイメージを否定してしまう。

  無意識的な世界の瞬間的な広がりに対して、彼の内部にある覚めた意識は「努力」というような倫理的価値観を持ち出して詩を破壊する。このような意識の側からの言葉は、次の聯に結語として置かれるのが、彼の作品で見られる一般例なのだが、ここでは3聯終行に持って来られているため、次の聯は産まれなかったのである。

  また、この1行に、当時の中原が尚半ば宗教的な、道徳的な価値観を根強く残したままであったことが窺われ、それ故に全く自由なダダ的表現も成されにくかったことが想像される。だが、詩作を通して中原が「圧力」も「反作用」もない、自由空間を創造しようとしていた事実を、この作品は示しているし、中原の言う「認識以前」のテーゼは、この頃から、やや明確な形を持つに至ったと考えられるだろう。 山口時代に会得した回想による抒情は、京都時代にあっては無意識世界への参入(による現実からの逃避)という形をとるのである。

  繰り返すが、ただ中原の内部には、倦怠による無意識への移行は、倫理的な価値観から外れるものである、という強い意識があり、この方法も中々完全なものとはならなかったのである。後に中原がダダイズムから飛躍し得たのも、彼の内部に深く根ざした叙情性と宗教的な倫理観、理想像があったからに他ならない。

 

    中原が愛用したルフラン

 

  別様な言い方をするなら、中原の内部には「神による創造と秩序の整然とした世界観」があったために、彼はその規則正しい枠組みから逃れようとして(主に、表現上の問題においてであるが)眼の前に現れたダダの手法に飛びついたのだ。中原の側に、一つの「絶対」的な価値基準が存在しておらず、ただ徒に放漫な描写、判断を行っていたのなら、ダダ的手法など殊更必要とはしなかっただろう。この作品が4行立ての3聯から成る定型であり、恐らく、あと2行が加えられるはずだったことを指摘して、次に移ろう。

 

      『初  恋』      12番詩

 

    最も弱いものは

    弱いもの――

    最も強いものは

    強いもの

 

    タバコの灰は

    霧の不平――

    燈心は

    決闘――

 

    最も弱いものが

    最も強いものに――

    タバコの灰が 

    燈心に――

    霧の不平が

    決闘に

    嘗てみえたことはありませんでしたか?

    ――それは初恋です          (全文引用)

 

   一言で言ってイメージの広がりは感じられず、頭の中で考え、無理をしてこしらえたような作品であるが、後年中原が愛用したルフランの原型のようなものはうかがえる。現実の側に引き戻された中原は、性懲りもなく「恋」の分析を行って、半ば得意げである。思いがけない部分が多い恋を得たことに満足しているのかもしれない。

  「燈心」と「決闘」の二つが、どのようにして連想されたのか見当もつかないが、燈心を「心のともし火、熱情」と解釈して、恋を「心と心のぶつかり合い」と見るのなら「決闘」の言葉につながらなくもない。次の13番詩の終聯との関係においても、恋には意外性があることを強調するための詩句と解釈しておく。

   ルフランは中也詩の「常套手段」である、といっても良い位、多くの作品に使用されている技法であり、彼の二つの詩集に収められている作品群も、勿論ルフランを採用している。これについては、中原自身が『詩と其の伝統』(1934年6月3日)の中で述べているので引用しておく。

 

    詩とは、何かの形式のリズムによる、詩心(或いは歌心と云つてもよい)の容器である。では、短歌、俳句とはどう違うかを云ふに、その最も大事だと思はれる点は、俳句よりも、度合的にではあるが、繰返し、あの折句だの畳句だのと呼ばれ るものの容れられる余地が、殆ど質的に云つても好い程に詩の方には存している。繰返し、旋回、謂はば回帰的傾向を、詩はもともと大いに要求してゐる。平たく云へば、短歌、俳句よりも詩はその過程がゆたりゆたりしてゐる。短歌、俳句は、壱詩心の一度の指示、或ひは一度の暗示に終始するが、詩では(根本的にはやはり壱篇に就き一度のものだらうとも)それの旋回の可能性を、其処で、事実上旋回すると否とに拘らず用意してゐるものである。

 

  この評論の中で中原は「型」「伝統」について述べ、上の引用部分で詩の特性を分析し、最後には「もののあはれ」を持ち出してくるのだが、引用文を見てもらえば、詩におけるルフランの価値と、中原の詩法の一端が理解してもらえるだろう。

  無論、これは今取り扱っているノートの時期から10年も時間を経た時点での、そして、多くの作品を書き終えた後での詩観なのだが「過程」と言い、「旋回」と言うとき、それはそのまま、このノートの時期の試作品にも適用できるだろう。中原の言葉を借りれば、詩とは拡散し、遠心的な動きをするものではなく、求心的な「回帰的」な傾向を要求しているものだということになり、それはイメージの旋回、円環を意味している。また、このことは「容器」という言い方でも明らかである。

  「回帰的傾向」云々の件は中原自身の心情的な部分、性質をそのまま述べたものと思われるが、そして回帰すべき場所は内なる故郷であり、それを包み込む空であるのだが、中原が自らのイメージを内部へ還流させることによって、空は益々手の届かない遠くの存在となったのではないか。

  それはともかく、ノートの書かれた時期、中原にとってルフラン、繰返しが「表現上の真理」に一歩でも近づくための、有効な手段と考えられていたことは明らかで、18番詩に至って、それは作品として定着し、結実する。

 

      『想像力の悲歌』      13番詩

 

    その日蝶々の落ちるのを

    夕の風がみていました

 

    思ひのほかでありました

    恋だけは――恋だけは

 

    前の半分を端折ってあるので、この引用部分だけを見た限りでは、彼の意図も十分には理解しにくいが、12番詩でも指摘したように、彼の言わんとするところは、終聯の2行に集約されている。

   初聯で戯画化されている「街上の/笑ひ者なる爺やんは」が、前出の永井叔を指したものかどうか判然としないが、泰子をマキノ・プロダクションに世話したのは永井自身だったと言うから、まだこの時彼も京都に居たのかもしれない。もし、この揶揄された人物が永井であったとすれば、中原の表現は私的で「悪魔的」である。想像力を持ち出して「ヘナチヨコ詩人」を攻撃しているものに22番詩があるが、批難を受けている人物が同一人かどうかは分からない。

  一般に他者への攻撃は、自己防衛の具現化であり、中原の場合も又そうであるのだが、自己の正当性を誇示し、他人に認めさせなければ収まらないようなところが中也にはあったので、交友関係にも良くない結果を招くことになった。自らを愛する余り、他者にも同じような感覚で近づき、相手を、相手の心理を、その感情を不必要なまでに探り、分析し、そして、あからさまに語り、往々にして彼と彼の友人は傷つくことになる。見方を変えれば中原という人間は、恐らく人一倍誰よりも人を愛し、信じていたかったのではないかと思われる。例え、その為に傷つくことが分かっていたとしても。

  「蝶」は、後年の『一つのメルヘン』を思い起こさせるが、直接的なつながりを求めることは無理だろう。飛翔のイメージを内包する言葉を、落下物に仕立てているのは中原の作為だが、作品全体としては下降のイメージではない。むしろ、得恋者の自負が見えている。

 

    言葉の相対性と無意識領域

 

  この時期中原は、恋人との関係、その心理の分析、自己より劣る(と思われる)者への攻撃、嘲笑にのみ注力していた訳ではない。絶対者・神と対峙する存在意識とダダ的手法を身につけた中原は、より一層完全に近い表現の手段、方法を求めて模索を続けており、その思惟と試作の過程において無意識の領域の問題が、彼の内部で大きな、切実な存在となってきていた。それはつまり、一定の価値基準を内包し、それに基づいて行動する意識的な存在から、一切を在るがままに感じ得る純粋な存在への変身(イメージ或いは対象物との一体化と考えても良いし、中原に言わせれば認識以前の原型である)ということであり、イメージの原型と詩人の直観を直結して、物を想像物を、詩心を完全に把握し、言葉に置き換えるという作業が要求される。しかし、これは単純に考えても分かるように、中原も早くから知り、悩んでいたように、言葉のもつ相対的な性質、限りある表現性という面から、大きな矛盾を孕んだ命題である。もう少し、砕けた言い方をするなら、詩人が心に感じた、或いはイメージしたもの、そのものを完全に言葉に置き換えることは出来ないということである。

 

    原イメージの純粋持続

 

   評論『地上組織』において、自己の表現を論理的にある程度明確なするまでの間、中原は完全無欠な絶対的な表現方法を探し求めていたと言ってよい。また、この1924年当時の中原は「表現上の真理」を求める余り、表現の(特定の方法による言葉を使っての表現)絶対性を、ある程度信じていた、と言い換えても良いだろう。要するに中原が求めて止まなかったことは、詩心「原イメージ」の全部的な純粋把握とそれの純粋持続であった。

  だが半ば観念的で図式的に過ぎる理論と、試作による実践の結果とは、中々うまく結びつかず、試行の末、次のような作品が産み出される。

  季節と歌   

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      「古代土器の印象」      14番詩

 

    認識以前に書かれた詩――

    沙漠のたゞ中で

    私は土人に訊ねました

    「クリストの降誕した前日までに

    カラカネの

    歌を歌つて旅人が

    何人こゝを通りましたか」

    土人は何にも答へないで

    遠い沙丘の上の

    足跡をみてゐました

 

    泣くも笑ふも此の時ぞ

    此の時ぞ

    泣くも笑ふも

 

   出だしの逆説的な一行が残されたことによって、作品全体のイメージが壊されてしまっているのだが、中原が、謂わば極めて私的なイメージの世界から一歩踏み出し「認識以前」という重要な主題の基で詩作を始めた、という点に意義を認めたい。(註・最初の一行には異文があり、それは「認識以外に」となっている)

   あらゆる対象物に対して知識、予断、批判、分析を否応なく行ってしまう意識(的な存在)から解き放たれ、認識という価値判断、定義づけの作業を経ない、イメージの原型の全的把握と、その完全な表現を中原は目指している。つまり、概念として意識内に像を結ぶ以前の原初的な詩心、イメージそのものを、そのままの姿で言葉に置換しようとしている訳である。初め「以外」とされていたものが「以前」に書き換えられたことは、その意味で正しい。

    この「認識以前」の深化、徹底は34番詩にみられ、さらに評論『生と歌』(昭和3年10月、『スルヤ』第3輯に発表)の中で、彼は次のように言っている。

 

      即ち、それ(近代の諸主義)は叫びとそれの當の対象との関係 を認識 しようとしたことであつた。

  つまり近代は、表現方法の考究を生命自体だと何時の間にか思込んだことである。

      直覚と、行為とが世界を新しくする。そしてそれは、希望と嘆息 の間を上下する魂の或る能力、その能力にのみ関つている。

 

      認識ではない、認識し得る能力が問題なんだ。その能力を拡充するも のは希望なんだ。
 

    ――要するに、すべてその物自体でなく、それを表現することゝかなんだか副次的なこと での困難は、何時も命に座標軸を課することから起きるのだ。つまり「みることをみようとする」態度から起こるのだ。

 

   ここで彼が述べている言葉は、そのまま、4年前の自己の行為に対する回想、分析であると言っても良いだろう。題が示しているものは理想であり、彼は、自己の詩人としての直観を全面的に信頼し「歌う」という行為者であることによって存在価値を認められ「生命」を全うすることになる。中原にとって認識――概念的な把握、名辞化、価値判断――は二義的な問題に過ぎず、己の内部にある、希求する「直覚」こそが詩人の行為を保証する。そして、昭和9年の『芸術論覚え書』に至って中原は、次のように言う。

 

      「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる、その手が深く感じられゐればよい。

 

      芸術といふのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交 渉である。

 

      生命の豊かさ熾烈さだけが芸術にとつて重要なので感情の豊かさ熾烈 さが重要なのではない。

 

     ――名辞以前だとて、光と影だけがあるのではない。寧ろ名辞以前にこそ全体性はあるのである。

 

  これは中原が10年余の詩作を経て得た実践的な結論なのだが、その論旨の萌芽は既に見たとおり、このノートの中に求めることが出来る。引用文の最後の部分で巧みに中原が述べているように「全体性」の把握と表現こそが彼の一大事であり、どうしても解決しなければならない事だったのである。14番詩に戻ろう。

  中原の思惟は「表現上の真理」を求めて、この時期大きく揺れ動いていたが、現実生活から生じる違和感、倦怠感は、自らの内にある無意識的な領域の描写という方法論を見つけ出すための促進剤となり得た。今となっては想像するより他ないが、中原の手元には多くの詩集や雑誌などがあったはずであり、それらに掲載されていた散文、詩歌も彼の詩作に少なからぬ作用を及ぼしていただろう。『ダダイスト新吉の詩』は、その中で現在判明している唯一の中原自身が認めていた当時の愛読書である。

  前述の部分と重複するかもしれないが、中原の言う「表現上の真理」とは、表現の絶対性あるいは完全性と言い換えてもよく、神を客観し得ると自負する彼の、表現上の理想であった。彼は、神を「見得た」己の直覚を最大限に信頼しており、その直観的把握は「認識以前」の領域の行為であると考え、とらえたものをすべて、いかなる方法で描写するか、という表現上の手続きが問題となっていたのである。

  ダダ的な錯綜と混乱の世界の中に、一つの道をみつけた彼であったが、実践を通じても満足な回答は得られず、中原の模索はずっと続けられていたと考えてよい。「破格」は彼の一生について回ることになるが『神曲』を通過する時に得た、唯一無比の完璧な理想郷の重圧から逃れようとする、半ば自棄の入り混じった行為のように見えなくもない。中原はダダの世界にあってもなお、言葉で考え、言葉で詩句を造り出している自らの姿勢を客観視し得たのであり、そこから導き出された結論が「認識以前」という主題であった。

 

    広がりを見せる認識以前

 

  「古代土器」は、それだけで時間を超越した有形の存在だと言えるが、それ以外にも無文字の文化・時間を象徴しているとも言えるだろう。中原は書き出しの一行を、やはり切り取っておくべきではなかったのか。

   沙漠、見渡す限りの砂の海、その中に独り腰をおろし膝を抱えて彼方を見詰めている「土人」がいる。この、砂の海では時間が消えている。「私」は普段と同様に「言葉」で尋ねてみるのだが返答はない。この土人もまた、言葉を解さない、言葉を必要としない存在であるのかもしれない。砂丘の上に残された足跡を見詰めている「土人」の後姿には「私」が持っているような、日常的現実的な時間の影は全く見られず、彼は無限に、そのまま、そこに居続けるのだろう。そして、詩空間そのものにも影が欠落している。

   キリスト降誕は西暦の始まりであり、我々が日常に使用している年代、月日、時間の根源を象徴している。ここで中原が意図的に「時間」を持ち出している事がわかる。現実を支配する時計の時間は、まさに我々の認識領域での問題なのである。「土人」には、そのような時間は不要だ。

  「カラカネ」は恐らく「唐鐘」「唐金」の音表示だと思われるが、この「旅人」が釈迦や、その弟子たちを意味するものかどうか判然としない。ただ、キリストと釈迦の組み合わせには前例があるので、これも同様のパターンだと言えなくもない。いずれにせよ、この件は紀元前(途方もなく昔という意味での)の時代における西洋と東洋の交流、文化の混交のようなものを表している。言葉による接触、混交ではなく、純粋な感性の交わりとでも言うべきだろうか。それは、中原が何処かの美術館で実際に「見た」古代土器の「印象」であったのかも知れない。

   第1聯の中で奇妙に欠落していた現実的な時間は、2聯の破格の転調によって一気に流れ出し、広がりつつあった詩のイメージ世界は、突然、現実世界と入れ替わる。意識を遮断した処から始まったこの作品のイメージは、中原の思ったように拡散してゆくのだが、そして時間の欠落した奇妙な創造空間は立体化し領域をもう一歩伸ばそうとしているにもかかわらず中也は、自らその広がりを拒否するように意識を呼び戻すのである。この過程、やり口は11番詩で見たものと同質である。詩癖と言えるのかどうか知らないが、中也詩は往々にして、このような終末部分を持ち、詩人の内部へ収斂し、自らイメージを求心的に追い込み、萎縮させてしまう。

   この、想像され、創造された「土人」の居る砂漠、茫洋とした空間に、時計の時間は作用しない。このひとコマ画のような世界は「かつて」そうであったように、いつまでも「その時のまま」に存在し続ける。『神曲』天堂篇の中で、各天に何人かの人物が、生前のままの姿で在る様に「そのまま」に在るのである。この14番詩の内部には、まだ「自展的」なエネルギーは存在していないが、中原の私的で高密度な回想が、この詩のような形態の中に組み込まれた時「在りし日」が現前し、一切のものから独立した時空間を有した宇宙として広がる。

   第2聯の2行がルフランであることは言うまでもないが、このような形で結語を構成し、自らの情緒を表出しなければ居心地が良くなかった、というのが中原の偽らざる心境であったかもしれない。「足跡」が「あしあと」という名辞になる前の世界に在る、全体性を強調するためのルフランであるが、意識を排除したイメージの純粋持続は、長時間の質的に密度の高い、連続性をもったものからは程遠いものにしか過ぎなかった。14番詩に見られるイメージの広がりは、ノートに綴られた40を越す詩篇の中でも、より自由な、創造性に富んだものであるが、このような形での詩作は長続きせず、中原はまた、ダダ的な手法を真似て、極めて私的な心情を表出することになる。

 

揺れ続ける中原の心情

 

    15番詩は『初夏』と題された5行の断片である。扱われているものは抽象的な恋で、詩というより思いついた言葉を、そのままに書き連ねたようなもので、14番詩と比較してみると、その質的落差が余りにも大きい。時間的にも極めて近接して書かれたと思われる二つの作品の間に、ほとんど質的にも異なる大きな差が存在するのは当時の中原の心情が大きく揺れていた事情を暗示している。

  『古代土器の印象』において私的な心象の表出、分析の作業から一歩踏み出し、創造の世界を形成しつつあった中原だが、想像性に富み、外的な広がりを内包したイメージは、私生活における心情に抑圧されていた。彼の志向は再び「恋」に、また眼前の「性」の方向へと傾く。

 

      『情  欲』      16番詩

 

    昔からあつたものだのに

    今新たに起つたものだ 

    それを如何して呉れるい

    横から眺めてゐるな

    誰の罪でもない

    必要じやない

    欲しいだけだ      (第3聯)

 

  1聯、2聯と4行ずつに行分けされていた型は、第3聯に至って崩れ、引用した部分のような描写となる。ここで中原の視線は自己の内部にある「情欲」に集中し、その意識的な解析に懸命である。 

    引用しなかった前半の部分は、多分にダダ的表現であり、何物かを「取れない」もどかしさ、空しさを表出している。同居人との間に横たわる、何か越えがたいもの、うまく疎通できない部分に中也は苛立ちを感じ、同時に心の通わない性の空しさを感じ取っていたのかも知れない。

   そして又、中原自身、行為している自分と、それを「横から」見ている意識的な部分との間に、微妙な落差があることにも気づいており、文言は独り言の正格を帯びて、作品として完成するまでには至らず、私的な繰り言の表出にとどまってしまう。1聯にある、

 

    冬の野原を夏の風が行くに

 

は、彼の心象かもしれないが、知人の少ない京都にあって、泰子との生活は楽しいものではなかったのか、と疑問を抱きたくなる。一切を否定し、また一切を肯定するダダ的存在の中原ではあったが、二人の結びつきの脆さも実感しており、同居人に対して、もう一つしっくりと行かない、感情的な隔たりがあったのだろう。

   全体から受ける印象は、投げやりな荒っぽい言葉づかいとは裏腹に沈んだものがあり、虚無感とまでは行かないが、行為と思惟との落差から生じる脱力感のようなものが漂っている。この時期における中原の実生活は、少ない関係者の証言を頼りに憶測するしかないのだが、泰子との関係は、余り安定したものではなかった様である。

  中原の覚めた部分には「ブツカルものもなく――」という状況判断がありそれは次の作品の動機となる。

 

      『迷つてゐます』      17番詩

 

    筆が折れる

    それ程足りた心があるか

    だつて折れない筆がありますか?

 

    聖書の綱が

    性欲のコマを廻す

 

    原始人の礼儀は

    外界物に目も呉れないで

    目前のものだけを見ることでした

 

    だがだが

    現代文明が筆を生みました

    筆は外界物です

    現代人は目前のものに対するに

    その筆を用ひました

    発明して出来たものが不可なかつたのです

    だが好いとも言えますから――

    僕は筆を折りませうか?

    その儘にしときませうか?      (全文引用)

 

  「筆」は、先の『古代土器の印象』から類推して「認識以後−概念思考」の比喩だと考えられるが、芸術、つまり表現の形式のすべてを含んだ言葉かもしれない。「現代文明が筆を生」んだ、という部分に拘泥しなければ「筆」をそのまま字義通りに解釈しても良いだろう。(中原の考えでは、無文字と文字文化の連想から筆が出て来たのではないかと思われる。さらに、進んで考えれば表現上の修辞をも意味している可能性もある)

  この作品は、謂わば中原の芸術論、表現論の原型とも言うべきもので、この考えは後年の評論『生と歌』に至って、次のような断定を生む。

 

      かくて、表現は、経験によつて、叫びの当の対象と見ゆるものを、より 叫びに似るやうに    描いたものである。かゝる時生活は表現(芸術)と別れ勝ちになるのだつた。言い換えれ    ば叫びは無論活で、その生活に 近似せしめる習練――技の習得が芸術となるのだつ    た。そして芸術史上の折々に於て、殆んど技巧ばかりが芸術の全部かの如き有様を呈し    た。

 

      つまり、近代は、表現方法の考究を生命自体だと何時の間にか思込んだことである。

 

     この引用文は「叫び」そのものを忠実に再現したいという中原の願望が書かせたものだが、この認識は17番詩にも、そのまま適用できるだろう。「表現上の真理」を方法論に重点を置きながら求めていた彼は、認識以前という命題の前に立ち逡巡している。

   1聯の描写によって、当時の中原が「心」の充足を求めて詩作を行っていたことが分かるのだが、ダダという一つの筆も、彼の欲求を完全に満たすものではなかったし、この時点において彼は既にダダ的手法の絶対性について疑問を抱き始めている。常に満たされない心の渇きが中原を背後から押し続けており「聖書」に象徴された神、倫理的な認識も中也自身の行為を見詰めているのである。第2聯の描写は、当時の中原の心情に、まだ宗教的な倫理観が一定の座を占め、放埓な「性慾」と対峙していた事情を暗示している。

     第3聯に出てくる「原始人」は14番詩に登場した「土人」と同質、同次元の存在であり「もの」に対して純粋な経験を成し得る理想像だといえる。それは我々のような概念思考、抽象的思惟などを行わない、本質的に言葉から解放された存在であり、外界と一体化できる存在である。そして、また「見る」ことは直観を指し、中原自身、自己の直観に疑問を抱いてはいない。在るがままに、見るのである。

    3聯までの調子は、純粋把握に対して肯定的なものになっているのだが、それが終聯に至って、曖昧な態度に変化している。有文字文化の中で概念、言葉を媒介として育った人間にとって「もの」との抽象の垣根を越えた完全な一体化は、遠い昔に失われた、永久に取り戻すことの出来ない行為である。中原が、いかに無意識の領域を拡大して、理想像に接近しようとしても「名辞」の壁を完全に打破することは不可能である。詩人に許された行為が、例え中原の言うように「神を感覚の範囲に於て歌う」ことであったにせよ、彼は常に「名辞」を道具として、媒介として表現するしか方法はない。終聯における、どっちつかずの迷いは、中原自身の内にある矛盾を、そのままに表している。

 

    ダダの手法による抒情

   しかし、この迷いは単なる戸惑い、足踏みにとどまらず、18番詩となって結実する。それは、ダダ的手法を用いた抒情表現であり、中原が短歌時代から色々と考え続けてきた表現方法の多くが、そこには取り入れられている。

 

      春の夕暮      18番詩

 

    塗板がセンベイ食べて

    春の日の夕暮は静かです

 

    アンダースロウされた灰が蒼ざめて

    春の日の夕暮は穏かです

 

    あゝ、案山子はなきか――あるまい

    馬嘶くか――嘶きもしまい

    ただただ青色の月の光のノメランとするまゝに

    従順なのは春の日の夕暮か

 

    ポトポトと臘涙に野の中に伽藍は赤く

    荷馬車の車輪  油を失ひ

    (現在と未来との間に我が風の夢はさ迷ひ――註・抹消された一行)

    私が歴史的現在の物を言へば

    嘲る嘲る空と山とが

 

    瓦が一枚はぐれました

    春の日の夕暮はこれから無言ながら

    前進します

    自らの静脈管の中へです                (全文引用)

 

   この作品の初出は雑誌『半仙戯』1932年6月号であり、所載のものと詩集『山羊の歌』との間には多少の異同がある。現在流布されている中原の詩集は、この『山羊の歌』をテキストにしているので、その詩句と引き比べてもらえば違いは分かるのだが、大きな異同を次にあげてみる。ただし、聯分けは定稿のものに従う。

  第1聯の4行立てが、ノートでは2行ずつの2聯となっており「静かです」と「穏やかです」の位置が逆になっている。2聯の「月の光」には「青色の」という修飾語がかかっており「ヌメラン」ではなく「ノメラン」である。3聯「ポトポトと」の後に「臘涙に」とあり、第2行の後にも引用した一行分の詩句が存在し、抹消されている。――空字その他にも違いはあるが、目立った違いは今述べた諸点である。

  定稿では1聯4行にまとめられている最初の4行は、ダダ的表現と叙事的表現の交錯であり、中原が意図的にルフランを使ったことを想像させる部分である。17番詩における「迷い」が、格と破格を同時にからませて使用する方向に中原を進ませた結果、このような形になったものと思われる。  この論の冒頭でも述べてきたように『春の夕暮』は、ある日突然、中原の眼前に現れたのではなく、ダダ的な手法を借りた抒情の積み重ねと、表現方法についての試行錯誤の繰返しを経た後に、当然の帰結として結晶したものなのであり、中原は、この作品を「成果」と見ていた。

  先に、中原の「回想」について述べた折、内的なエネルギーという言い回しを行ったが、この18番詩では正に、中原の内部的なエネルギーが(詩心と言っても良い)詩空間に流れ込み、自展(自転)しようとしている。「春の日」は中也の回想、想像の世界に属するものであって、彼の眼の前に広がる風景、外界のスケッチではない。初聯から終聯に至るまで自然、外界の描写がなされてはいるが、これは、謂わば「時」を喪失した静止形の空間であって、そこに流れているようにみえる時間は、あくまでも中原の創造した、彼の内部から流れ込んだ、自展し、かつ回転する時でなければならない。

   『春の夕暮』および17番詩の制作時期については、他に比較対照し得る文献資料も残されておらず、作品内容の分析による推測しか方法が残されていないのが実情であるが、中原の心の迷いが、単に彼の内部的なものだけに起因していたのかどうかが、判定の大きな要素になるだろう。それは、中原の表現に対する戸惑い、方法論的な懐疑と、富永太郎の京都への「遁走」(二人の交友)が関係しているのではないか、という憶測が私の中にあるからである。

 

    詩人・富永太郎と中也

 

  富永は、この年の4月『』『原始林の縁辺に於ける探検者』などの作品を物しているが、これらの作品を中原が17,18番詩を書く前に見ていたという確証は何もなく、ノートに書き付けられた中也の作品群との対比も可能ではない。(註・富永が京都に戻ったのは6月30日である)むしろ富永は、その性格から推して、これらの習作を中原には見せなかった、と考えた方が当を得ているかも知れないが、中原に起こった「迷い」と富永の来訪をあえて結びつけて考えるとすれば、この17,18番詩は7月頃の作品ということになるだろう。

  このような推測を積極的に裏づけ資料は皆無に近いのだが、20番詩以降、42番詩に至るまでの作品で、題を持っているのは二つしかなく、この時期(筆跡分類でいえば第1群のB型)中原の内部に何か重要な変化が起こり、題を有した(明確なイメージのもとに独立した詩世界を創り上げるという意味で)作品を完成させ得ない事情があったのではないか、という推理は成り立つだろう。『初夏』のところでも述べたように、性急な時期の断定は慎まなければならないが、『春の夕暮』の制作は、早くても5月以降であると考えたい。お互いの作品群の相関関係は別にして、当時中原は富倉を介して知り合った富永や正岡などとの交友から、多くのものを吸収していたはずである。

   1行の2聯と、2聯の2行との間に、1行の空きがあることは引用の通りであるが、終聯を除いた他の聯でも2行ずつの対句に分けられなくもない。1聯2行立ての形式は、時期的に近いところでは『春の夜』があるし、第二詩集『在りし日の歌』に収められている作品にも使用例が多い。『春日狂想』『冬の長門峡』『村の時計』『月の光 その一、その二』などがそうである。この形式はソネットとともに中原のお気に入りだったようだ。ノートの方でも幾つかの作品に2行立ての形は採用されている。また、2行立て1聯の形を『ダダイスト新吉の詩』でも一部で使っているが、一つの作品となっているものはない。スタイルに関しては、訳詩集あたりからの転用と考えても良かろう。とにかく、終聯の変則的な部分をのぞいて18番詩は整った形式を備えており、中原は表現上の迷いを「形式」という格を借りて打ち消そうとしたのかも知れない。

   1聯と2聯の描写が近景だとすれば3聯は中景で、4聯は遠景であり、終聯に至って遠景は一転して詩人の内部へと変化してゆく。それは中原自身にとっての時間の経過をも含んでいると解してよい。近い過去、遠い過去――という風に。

  初めの4行で平板な、極めて不確かな情景が写し出され、破格の語法と通常の語法は奇妙に溶け合い、物憂いイメージを作り出している。殆ど同じ言葉の繰返しが1行置いて行われているのだが、余り強い違和感も感じさせない。

    「トタン」「センベイ」「灰」と、それぞれの言葉に込められた意味を詳しく分析してみるのも一つの方法だが、これらすべての名辞が厚みのない、詩人に興味を抱かせない世界の比喩であると理解してもよい。また、これらの情景は、現実世界にあるものであっても、このように表現されたのは彼の想像の世界に属するもので、それは迷いから創作への情熱を失いかけている自己の心象の投影である。あくまでも平板な、地を這うような、高み・厚みのないイメージである。

    3聯における二つの「問い」は、既にある評家が指摘しているように最初から否定の答えを予想した上での問いかけであり、1,2聯のイメージと交錯して無力感、脱力感を暗示する。カカシは立っていないだろうし、田植え前であれば、そこには田を鋤き返す馬も未だ入っていないだろう。「あゝ」は感嘆詞だが、悲痛な響きはこもっていないし、無益な問いかけを後ろに控えて、この語の中身は空ろである。

 ノメランと佇む空間   

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  「青色の月の光」が差し込むことによって、この詩空間は垂直方向に広がりを持つように思われるが、この光は余り立体的な効果をもたらさず、むしろ「ノメラン」という言葉の響きの方が印象的で、何かのっぺりとした感じを与えてしまう。この「ノメラン」という言葉については吉田X生が雑誌『文法』に発表した論文『山羊の歌・私注』の中で詳しく検討しているが、言葉の意味だけを追うよりも、言葉の響きを重視したほうが理解しやすいように思う。「ノメラン」の表現を中原が詩集の定稿で「ヌメラン」に変えたのも語感、音からくるイメージを大切にしたかったからではないか。

   3聯の全体的なイメージは、凹凸のない平板な地面を、無機的な青い月の光が這いまわる、物憂い静的な世界であり、春の生き生きとした草の息吹などは感じられない、佇んだ空間である。このような空間は中原に積極的に働きかけてくる性質のものではなく、また心情を乱すものでもない。朦朧とした世界の中で、彼はやっと心の平衡を保っている。「従順」という言葉は、中原自身に対する意味と受け取れる。

    そして4聯にきて、今まで幾つも例を見てきたように転調となり、展開部へ入る。中原の視線が遠景に向けて少し上向いた、その時『倦怠者の持つ意志』の終聯で「夏の日の海」が現れたように「伽藍」が出現する。この転調には「夏の日の海」のような唐突さ、意外性といったものはなく、視線の移動によって広がった視野の高さを示すのに適切なものと言えるだろう。「ポトポト」の擬音とともに「臘涙」は「蝋涙」(ロウソクの垂れたもの)の誤りだろうから、この赤い伽藍は視野の中に複数、多数点在しているのだろう。

  伽藍、僧坊は千年の伝統ある文化の象徴であるか、それとも千年の「時」そのものの象徴かもしれない。虚無的で青い平板な空間は次第に立体化してゆくが、次行の極めて現実的で日常的な音によって、空間の持つべき高さは制限される。又中原が詩空間の全景として、俯瞰可能な場所(たとえば空)を想定したとすれば、別様な解釈も可能である。(中原が、空の高みから俯瞰するように描写を始めていたのなら「車輪」以降が地上での描写となる)

  寺院の塔を頂点とした空間の静寂は「荷馬車の車輪」が発する音によって破られ、空への高みは絶たれてしまい、中原の心情は詩と現実の世界の間で揺れ動く。この間の推移を示す一行分の詩句を彼が抹消したのは、その内容が余りにも個人的な印象を与えすぎると判断したためで、次行の「私」との重複も避けたかったからであろう。無論、この4聯の3行目がそのまま残されていれば、他の詩句、行の構成を変えない限り2行ずつの対句スタイルも崩れてしまうことになる。この抹消された一行を含まない、現在の定稿でも詩句の解釈が出来ないわけではないが、行と行とのまたぎが何となくぎこちなく、不自然に感じられるのも事実だ。

  さて4聯後半の2行だが、此れは難解である。河上徹太郎始め、幾人かの論評がすでにあるのだが「歴史的現在」の字義、意味合いの分析が問題となる。

  車輪の音を一つの契機として中原の意識は現実の側に引き戻されつつあり、そこで彼はダダ的な「一切」の理論を独り言する。手法上の迷いを払拭するためにも――。時も文化も表現も、一切を超越したダダイズムの信憑性、絶対性を求め、時が移り、場所が変わっても「一切が私のために在る」「一切は可能だ」と。

  しかし、この断言には力強さはない。動揺し、挑戦的な気力を喪失した中原の言葉は、彼を遠くから取り囲んでいる大自然に突き当たり、粉砕されてしまう。別な見方をすれば現実に存在している「空と山」こそが時空に頼らない、普遍の命を秘めた世界そのものであり、その前に立ち尽くした中原は、今や意識的存在となり、それに対峙し得る能力を失ってしまっている。回想され、想像された無機的で従順な『春の夕暮』は現実の自然の姿の前でかすんでいる。中原が創り上げた詩空間を見て「空と山」が嘲笑う――なんだ、そんな貧弱なものは――と。「嘲る空と山」は、山口時代に親しんだ故郷の象徴であってもよい。

  終聯に至って中原は「前進」を強調して、不自然な改行まで行っているが、沈みきった意識は内部へ回帰してゆき、外界との対決から逃れようとしている。「静脈管」の中へ「前進」する「春の日の夕暮」は、疲れきった心情の赴くところであり、それは感傷的な回想の世界にほかならない。 

   この「前進」は先に見た「思惟と體」が一体となって進むものとは異なり、むしろ後退を意味している。この聯に至って詩のイメージは、また平板なものへと逆戻りして、中原の内部へ急速に収束されてゆく。終聯の前2行は、1聯でみせた形の繰返しを狙ったものだが、「前進します」を改行したため、変則的なものとなり、終行は1行だけで孤立してしまっている。終行は当然、破格的な一行であって、次行の対句をまって完結すべきなのだが、1聯から続いていた2行ずつの対句形式は、ここまできて崩れてしまう。前聯において終息しかかっているイメージを「瓦」の一行で無理にまたがせたために、このような結果になったのだろう。

  だが、この18番詩『春の夕暮』は、ダダイスト中原が、定型を使って創造した作品として重要である。自らの深部に存在する神による「格」、規範、秩序からの脱却を願い、表現の自由を追い求めた彼が、この時点で整った形の詩形を示したことは、中原の秩序に対する志向、意識がいかに強固なものであったかを物語っている。彼のダダによる習作は、定型による表現を求めるエネルギーに転化し得たのかもしれない。

  ともかく「迷い」は、格の内部での破格的展開、回想による独自の空間創造と時間の停止、無意識下における名辞以前の世界の徹底と直覚、というような方法によって少なからず払拭され、ごく消極的にではあるが中原の「前進」は行われつつある、と言ってもよいだろうし、また、形式に対する志向は持続され、この後の二つの作品において、4行立て、3行立ての聯構成が、それぞれ採用されている。

 

詩集の巻頭に置かれた18番詩

 

  中原が、この作品を処女詩集の巻頭に置いた事実は、彼の自己の作品に対する思いやりを示しており、苦悩の末、試行錯誤の連続から生まれた、この18番詩を、出発点として認めていた証左ともなるだろう。ダダ時代の習作の代表に、定型の作品を持ち出したところは、いかにも中原らしい。彼の本格的な詩作活動は「迷い」を内在する自己を強く意識した時点から始まったと考えてよい。

  この作品に見える定型の採用は、破格表現による限界が反作用として働き、かつて慣れ親しんだ「型」(フォーム)への回帰という結果を生んだ。その場合、母型となるものは山口時代の短歌であり『神曲』の秩序の世界観と行分けであることは言うまでもない。中原は、この自己の回帰的傾向に気づいていただろうか?それとも、そのような忖度などは不要か――。『朝の歌』は1926年に生まれるが、そこに見る定型の素地は、この頃から培われていた。

 

      『幼き恋の回顧』      19番詩

 

    アルコールのやうな夕暮に

    二人は再びあひました――

    圧搾酸素でもてゝゐる

    恋とはどんなものですか

    その実今は平凡ですが

    たつたこなひだ燃えた日の

    印象が二人を一緒に引きずつています      (第3聯より)

 

    「静脈管」の内側へと退行した中原の意識は、自然との対決から一転して「現実の恋」に関心を向ける。引用の部分は第3聯からのものだが、1,2聯では18番詩と同様に、4行立ての形式が採用されている。作品は不安定な「二人」の生活ぶりを主題としているのだが、恋は過去形で語り始められており、過去の「印象」によって二人は又、ひとつに結ばれる。

    18番詩で見てきた平面的で希薄な「春の夕暮」のイメージは、この作品まで持続されており、それは「アルコールのやうな」と形容されている。今すぐにでも揮発してしまいそうな頼りなさが、このような言い回しになったのだろう。「幼き恋」は極度に貧弱で、陰画的である。中原の回想による恣意的で一方的な「印象」は、果たして二人に共通する内容のものであったのかどうかは疑わしい。だが、ここでみる限り中原は、不確実な現実の進行状況に対して意識的ではあるが、焦燥感は見られない。最終部分の4行には、多分に性的なイメージがうかがえるが、中原は満足げである。

 

      (題を附けるのが無理です)      20番詩

 

    トランプの占ひで

    日が暮れました――

    オランダ時計の罪悪です

 

    喩へ話の上に出来た喩へ話――

    誰です

    法律ばかり研究してるのは

 

    林檎の皮に灯が光る

    そればかりみてゐても

    金の時計が真鍮になりますぞ

 

    寺院の壁にトンボがとまつた

    それは好いが

    あんまりいたづらは不可ません

 

    法則とともに歩く男

    君のステツキは

    何といふ緊張しすぎた物笑ひです      (全文引用)

 

   題に付されている丸カッコは中原が附けたもので、何とも難解な作品である。3行立て5聯の形式を採用していることが、余計に厄介にも思われてくるが、ともかく定型を保った上でのダダ的表出であり、18番詩からの夕暮のイメージは、ここでも持続されているし、「寺院」云々も同様に引き継がれたイメージかもしれない。

     全篇を見れば、明らかに第三者に対する嘲笑の表情がうかがえるのだが、この中で云々されている「男」が、具体的に誰を指しているのか定かではない。2度使われている「時計」の文字から、中原の義理の従兄弟にあたる人物かとも思われるが、その人は理科系学科を卒業した人物であり「法律ばかり研究している」の描写と合致しない。また、正岡も当時は経済学部の学生であり、この作中の人物像とは一致しない。

  (補註・実在の人物を想定してかかる方法に無理があるのかも知れないが、中原がこの調子で書くときには必ずといって良い位モデルになる「相手」がいるので、どうしても勘ぐりたくなる。当時の中原の下宿には、多くの大学生もいたようだから、その内の一人かもしれない)

  全聯を通じて中原の関心は「時間」と「法則」に向けられている。これは言い換えれば「日常生活における様々な約束事」と考えても良いかもしれない。 

  1聯では「占い」が出てくるが、この行為には格別な意味合いは込められていないようである。無意味な行為・遊びの連続で1日という時間が流れ去ったことを暗示したものか。それを中原は「オランダ時計の罪悪」と決め付けているのだが、「時間」の概念そのものは時計の普及以前から存在していた処から考えても、この1行は不可解である。無論、日常生活での「日暮れ」は、時計の時間とともに巡ってくるのだから、中原の意志と関りなくやってくる「時」に対する反発と解釈して良いかもしれない。つまり1聯は、内的な時間と日常生活を支配する時間との対峙を示したのである。

   第2聯では、内的時間を保有する者の立場で、一般人の日常生活が描写され、その「虚構性」が指摘される。現実生活の虚構性、不確実性について、当時の中原がどのような解釈をし、理解していたかは憶測の域を出ないが、虚構は当時の「恋」にも見ることは可能であっただろうし、他者としての泰子の心情、態度あるいはまた、彼と同じ下宿に住む他の隣人たちの生活にも垣間見ることが出来たであろう。そして更には「喩え話」は、出世への野心を抱く彼自身の生活でもあったはずだ。「法律」は文化的な社会生活の「秩序」を維持するための枠組みであり、規範である。当然中原は一般の中学生とは異なった生活を行っているのだから、異端者としての視線で一般人を見ることになる。

    2聯で中原は、現実生活の空虚な事実−恋そのものに対する分析かも知れないが−を指摘して、常識・通念・約束事の世界にのみ生きている存在に対して挑戦的になっている。そして他者への批判は第3聯に続いてゆく。

  「皮」は「実」に対する言葉であり、虚構性のイメージとつながり、外面・表皮的なという意味が込められていると思われ、更には不要なものという意味も含まれているかもしれない。この第3聯でも本質をわきまえず表面的な現象だけを見て、全ての物事を判断し、断定してしまう(と中也には思われる)種類の人間に対する批判の色が濃く出で居る。「金の時計」は、何となく初期散文の中に出てくる「恩賜の時計」を想起させるが、ここでは権威や名誉の象徴として使われている。それが「真鍮に」なると言うのは、ぞくに言う「メッキがはげる」と同意義であろう。内部的なものを重視し、真理を追究する者として、中原の自負は高い。また「林檎の皮」に灯が映っているのは、日暮れと相呼応して時間の経過を示しているのかも知れない。この3聯まで、中原の視線は、詩空間は部屋の内側にあり、第4聯にいたって視線は窓の外側に向けられる。

  この3聯から4聯にかけての移り方は破格である。3聯まで、曲がりなりにも底流として存在していたイメージがなくなり脈絡は突然途絶えてしまう。トンボの不恰好なまでに大きく、詳細には対象を識別することの出来ない複眼を、人の掛ける眼鏡の喩えにしたのかも知れないが、初めの「寺院の壁」は唐突であり、理解に苦しむ。「トンボ」が人物に対する揶揄であれば「寺院」にも意味を持たせたと考えるべきであるだろうが、ことさらに宗教、倫理を問題にしているとも思えない。権威としての宗教というように解釈すれば、この登場人物が永井叔だとする可能性もある。その場合、キリスト教の教義そのものが「法則」と表現されたと考えられる。

   「トンボ」は字義通りに解釈して、壁にとまっている姿の描写ととれば、それでは前聯との関りがまったく途切れ、イメージ的にも連続し得なくなる。やはり「トンボ」は形式的な価値基準にのみ頼って生活する、深みに欠けた人物への皮肉と解釈したほうがよさそうだ。俗に言う「極楽トンボ」の連想かもしれない。それにしても「いたづら」は不可解である。法律ばかり研究している、世の中を規範どおり、杓子定規に生きているような人物が、宗教あるいは信仰心について何事かを語ったのを捕えて、このように戯画化したものか。ともかく、この第4聯は破格の転調である。

  そして終聯に至って中原は、再度、皮肉っぽい調子で「男」を揶揄する。まるでゼンマイ仕掛けの人形のように規則正しく、同じような歩調であるく「男」は、地位も名誉もある社会人の一人かも知れない。この男を見詰めている中原の瞳には、嘲笑と羨望が会い半ばして交錯した複雑な光と影がみられる。「笑って」いる中原の心の片隅には、まだ「出世したい」野心が確実に残り、くすぶり続けていたはずだ。

  中原は自らの内部にもある人並な出世への期待や、将来への夢について十分に意識していた。詩人としての高みを拠り所として出発した、この作品ではあったが、彼自身の内部矛盾が「題」の言葉となって現れた。遅々として自分の思うような方向に進まない現実に、中原は焦燥していたのだろう。

   一般社会人への嘲笑的な分析は、自己の現状直視をうながすことにもなり、現実の解析と思想の堅持を、中原は再確認しようとする。

 

      (何と物酷いのです)      21番詩

 

    何と物酷いのです

    此の夜の海は

    ――天才の眉毛――

    いくら原稿が売れなくとも

    燈台番にはなり給ふな

 

    あの白ツ、黒い空の空――

    卓の上がせめてもです

    読書くらい障げられても好いが

    書くだけは許してください

 

    実質ばかりの世の中は淋しからうが

    あまりにプロパガンダプロパガンダ……

    だから御覧なさい

    あんなに空は白黒くとも

    あんなに海は黒くとも

    そして――岩、岩、岩

    だが中間が空虚です      (全文引用)

 

  20番詩でみられた攻撃的な態度は一変して口調は弱弱しくなり、被害者的な立場に立った描写となり、夕暮のイメージは、さらに暗い方向に発展して「夜の海」が現れ「白黒」い空が不気味な広がりをもって、中原の眼前に現れる。

 

    異様な「」の出現

 

   中原の持っていた被害者意識について、ここでまた殊更に取り上げるまでもないが、凡人とは異なる高みにある詩人、という自負から発している、一般人に対する嘲笑的な態度は、彼の現実認識と交錯することによって自嘲へと変化し、退行的な雰囲気が作品にも反映される。20番詩から、この21番詩への変わり方は、その典型といえる。

   この作品の細部については特に解釈の必要もないが、当時の中原が「原稿」を売る意識を明確に持っていたことが分かる。そして、1聯でいう「燈台番」とは、物酷さを秘めた、果てしなく暗い空−世界、外界、世間−に隷属した人物を表している。中原の自負心は、やはり自己が「世間並み」の人間とてあることを拒否したのである。だが、市井の片隅で生きている、市民としての存在に対する興味も他方では残っている。中原は、ややもすれば崩れそうになる心情に対して、詩人の孤高で対抗する。−彼の苦しさは、心情的な部分を、完全に振り切れないところにあった。

  第2聯で描かれた「空」は異様である。「白ツ」と一度彩色されたすぐ後で、それは「黒」に変化する。卓の前に座っている彼の眼には、一体どのような「空」が見えていたのだろうか?空は暗い海と交錯し一体となってしまい、その境の見分けさえつかない。中原にとってみれば、思うようにはかどらない詩作活動の原因が、外部からの抑圧や妨害にあるように見えたのかもしれない。「白い空」は、天堂にまで通じていたのかも知れないのだが、その空も今は変質してしまっている。そして、その変質が中原自身に起因することに気づいた彼は、誰かに対して哀願の姿勢をとる。理想の空を取り戻すためにも、彼は書き(歌い)続けなければならなかった。

  第3聯に至って中原は譲歩して現実を認めようとするが「あまりにプロパガンダ」という認識が、真の意味での「実質」のない日常生活への深入りをかたくなに拒否する。そして結局、中原は自己の基本的な姿勢を崩そうとはせず、彼の眼からみれば実質のない「空虚」な現実を批判し続けてゆくことになる。

    彼の内部には常に自己の居場所、外界に対応した精神的なあり方を正確に掴んでおきたい、という欲求が存在していたのかも知れない。海と空の間に広がる空間、一般社会、それらは彼にとって「黒」く不気味である。中原は、この「黒い空」を突き抜けた、もう一段高い部分を志向し、空虚な現実に対して再び高圧的になっている。

   この時期、中原の内面に純粋な「祈り」は存在し得なかったと考えてもよいだろう。詩人としての自負、絶対者と対峙する存在としての奢りは、他者への攻撃・批難となって現れ22番詩を生む。そして中原は、これ以後の説明的な詩句の中で、ダダの持論を展開することになる。

  第2聯の哀願調は、他のダダ詩には余り見られないトーンのものであり、常にダダイスト然としていなければならなかった当時の中原の最も弱い面を象徴している。この哀願が、特定の他者に向けてなされたものであるのか判然としないが、その過半は自己を慰めるために行われたものであるだろう。他者、一般社会への攻撃は、中原自身の内部にあった「迷い」を完全に払拭し切れる程効果的なものではなかったし、彼自身の側にも不透明で「空虚」な部分が存在していた。中原は自らの弱さを露呈しないためにも、他者に対して威圧的な姿勢を示さざるを得なかったのである。

  モノクロのネガフィルムのようなこの作品は、抗しきれない現実に空手で立ち向かおうとする若い中原の心情を、彼の思惑以上によく伝えているように思える。ここに出てくる「黒」い空を『曇天』(『在りし日の歌』所載)の「黒い旗」と短絡的に結び付けて考えることは無理かもしれないが、中原の側に外界を「黒」く写し出す、特殊なフィルターのような部分があったことは認めてもよいだろう。

 

 その3 終わり

 

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