「解放」への間断なき願望             「サイトの歩き方」も参照してください

至高を求めて止まない精神

中也の詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』

 精神的にも物質的にもより高度で密度の濃い居場所を求め続けるためには、人一倍より多くのエネルギーを燃やし続けていなければならないが、往々にしてその努力が十二分に報われることは少ない。中原の希求が具体的には何であれ、究極のところ平凡な市井での暮らしではなく「高み」にあったことは否めない事実であろう。希求の度合いが強ければ強いほど、それが叶えられなかったときの反動、落胆は大きい。中原の詩集の中に、読んでいてぞっとするような底なしに暗い部分が、まま露呈しているのも、彼の至高を求めてやまない姿勢の反作用と考えられなくもない。

     (テンピにかけて)     22番詩

   テンピにかけて
   焼いたろか
   あんなヘナチヨコ詩人の詩

   百科辞典を引き廻し
   鳥の名や花の名や
   みたこともないそれなんか
   ひつぱり出して書いたつて

   ――だがそれ程想像力があればね――

   やい!
   いつたい何が表現出来ました?

   自棄のない詩は
   神の詩か
   凡人の詩か
   そのどつちかと僕が決めたげます     (全文引用)

 この当時(1924年後半、夏ごろか)に中原の身近にあった詩人として考えられる人物は富永太郎である。だが、富永がこの頃書き上げた『橋の上の自画像』(7月)、『Pantomime』(8月)の作品は、22番詩のいう内容とは合致しない。これらは、決して「百科辞典を引き廻し」て書いたようなものではなく、富永の私的な経験を半ば象徴的に表現したものである。富永を想定するよりも、不特定の「詩人」たちに対して発せられたものと解釈したほうが良いかもしれない。この22番詩に異文はなく、一気に書かれたものと想像され、中原は誰かと会い、詩についてのことで言い争った後、この作品を書いたとも考えられる。 認識以前」という遠大なテーマを核に詩作を進めて行こうとしている中原は、付け焼刃の知識や概念だけを主体とした「名辞」「修辞」の集合にすぎない詩作品を否定し、想像力の豊富さを問題として取り上げ、言葉にのみ頼りきって、表皮的イメージを作品に与えてしまうことを批難する。 神にとって「自棄」などあるべくもないが、第3聯の描写は、こう言っている中原自身の側にこそ「ヤケ」の部分があったことの現われだろう。それは現実に抗しきれない歯がゆさ、目立った進展をみせない詩作への苛立ち、故郷への心情的な傾斜など、様々の感情が複雑に交錯した結果生まれたものであり、空――至高天と現実の自己との関係も、中原の脳裏をかすめていたかも知れない。 20,21番詩と続いていた一般社会あるいは社会人に対する嘲笑的態度、批難の姿勢は、ここにきて中也本来のあり方を取り戻し、彼の注意は「詩」の方に振り向けられている。当時の彼の最も肝心な目標は「表現上の真理」の探究であり、一般人の生活(態度)を批難するのに割ける時間は多くなかったはずであり、攻撃の目標は名辞に満ち、表面的な修辞のまかり通っている「詩」の世界そのものでなければならなかった。 中原は他者との様々な衝突を繰り返しながら、自己の内部にある詩論のイメージに実体を与えてゆく。

   つきまとうサンチマンタル

23番詩(仮定はないぞよ!)には、中原の生の声が直接的な形で放出され、一般人に対する歪んだ角度からの視線がうかがえる。1聯の4行で「仮定」も「先天的観念」もない、何もない処から思惟を組み立て「先天的観念」に合致した、と彼は言う。これは,いわば無垢、純粋な存在としての自己主張であり「名辞以前」の考え方にもつながる、彼独特の思考形式である。第2聯では、意地の悪そうな視線がチラチラするが、中原の主題は次の箇所にある。

   サンチマンタリズムに迎合しなきや
   趣味の本質に叛くかしらつてのが
   まあまあ俺の問題といへば問題さ

 ダダイストであり、神の詩をも判別し得ると豪語する天才気取りの中原にも「迎合」しなければならない部分が存在していた。それは彼の内部の問題であり、一切を否定していても、なお消え去らない「サンチマンタリズム」であった。何気なく書かれたこの部分に、中也の未来は暗示されている。「趣味の本質」は彼の本貫であり、歌の出発点だと言えるだろう。いかに意識の上で自己の感傷、情緒的な傾向を否定し去ろうとしても、またダダイスト然と肩をいからせて構えていても、彼の本質は変わりようも無かった。「サンチマンタリズム」は、一生涯彼に影のようにつきまとうことになる。それは既に、どうしようもなく、中原の一部分になってしまっていた 彼の眼には自己の心情的な部分が、ダダイスト的な生活をしているにもかかわらず、消滅することなく内部に根強く残り、蠢いている有様が鮮明に映し出されていた。故郷の中学を落第し、半ば追われるように京都の学校へ転校し、放蕩を覚え、年上の女性と同棲生活を送っている中也の胸の内には、いつも故郷へ、そして肉親の方へ流れ込もうとする粘質的な心情が、常に静かに流れていた。

 この時期中原が「表現上の真理」探究という、謂わば表現手続き、表現方法の問題に加えて「抒情」という彼にとって半ば宿命的な表現そのものの本質についての再認識を行っていたことが、この23番詩によって明らかにされるが、この前後の数篇にわたって中原が展開している考え方は、彼が山口時代に表出してきた感情、主題と相通じる部分が多い。勿論この頃中原は,冨倉、富永、正岡といった年長の友人たちの間に交わって、自己の思想、理論に明確な肉付けを行っており、直観的な言い回しは、徐々に論理性を帯びてきている。 詩歌の創作活動の開始期において、早々と形而上的な色彩が濃厚な、言葉の本質にかかわる問題を抱え込んでいた中原にとって、文学と社会というような問題は、どちらかと言えば二義的なものとして意識されていた。彼の主精力は、表現上の問題に集中して費やされ、その傾向は「認識以前」というテーマの基で頂点に達し、彼の注意は益々言葉そのものへと傾斜したのである。

 「趣味の本質」という曖昧な言い方は、文学活動を客観的に把握、分析し、批判する人々の間に交じり合って話し合い、中原が自己の文学、詩歌に対するあり方を振り返ったときに生まれた本音であろう。彼は他者に対して様々な理屈を述べたりもしたが、詩という行為そのものと会社との関りについては独断的な解釈を行っており、彼にとって最も大切な事柄は、何よりも先ず「歌う」こと以外の何物でもなかった。魂の解放のために歌う、自己の内面的な欲求によって行う行為に、殊更の理由付けなどは不要と思われていたのである。「神の模倣」という考え方、発想を軸にすえれば、文学の社会的な役割、文学との関りなどについての分析的な見解も中々生まれにくい。「神」が理屈ぬきに存在するように、「うた」もまた論証抜きで中也の内部に在ったのである。 一生涯を通じてそうであったかも知れないが、当時の中原にとって詩作活動の場における「仮定」など存在しなかった。彼の行為、詩は、彼の存在を証明し、彼の魂を解放へと導くべきものであって、一切の仮定を拒否し葬り去るところから出発した、目的的な試みであった。彼がしなければならなかったことは、その行為に神にも等しい完全性を与え、より完璧で遺漏のない表現方法を得ることであった。その過程には迷いも生じたが、仮定はなく唯行為することのみが彼のすべてとなっていた。

 完全性への希求と「認識以前」の主題については、すでに何度も述べたので繰返さないが、此処へ来て中原が他者の「意見」に対抗する構えを明確にしているのは、恐らく自己の行為を筋道立てて説明する、理論を備えた詩人(富永太郎に代表される)たちに対応するための必要性に駆られてのことであろう。また詩を文学を、主義や主張を基に展開する人々に対する言語武装という意味でも、中原は「物識り」にならなければならなかったと言える。今までに見てきた幾つかの作品で、中原が正面切って立ち向かっている相手は複数、多数のように見えてはいるが、その実、彼が本当に向かい合っていたのは、彼自身の直観であったのかも知れない。 詩作における進展の速度は、このノートに則して見る限り遅々としている。変則的にではあるが使用されていた定型も姿を消している。中原の直感的な創作活動は停滞し、意識的で観念的な思考の生活への傾斜が目立つ。中原に「理論」の時期が訪れていたのである。「理屈が免倒になつた」と言いながらも、彼は自分の行為を理知で推量しようとしている。が、その理屈をもってしても解明のしようがなかったものが「サンチマンタリズム」なのである。

   生活と文学とのかかわり

 24番詩(酒は誰でも酔はす)でも中原は、生活と文学との関り合いについて述べている。1聯で誰かとの言い争いのような言葉を述べた後、2聯で彼は次のように言う。

   自然が美しいといふことは
   自然がカンヴアスの上でも美しいといふことかい――
   そりや経験を否定したら
   インタレスチングな詩は出来まいがね

   ――だが
   「それを以つてそれを現わすべからず」つて言葉を覚えとけえ

 中原自身の詩作品、散文が彼の「経験を否定した」ものでないことは、今まで見てきた通りである。むしろ彼の場合、経験は過去の出来事、動かしがたい存在、不変のもの−として作品の中で重要な部分を占めている。此処にいう「インタレスチング」は、現実存在としての彼が「確かなもの」としての十分な条件を備えた時空――過去――に示す重大な関心であると解釈してもよい。 だが、彼の言いたいことは「事実」を、或いは特定の事象、経験を、そのまま安易に言葉に置換してはならない、したとしても詩作品として完成度の高いものには成り得ない、ということに他ならない。原体験は、言葉の世界よりもずっと深い、名辞交換の場所以外のところでなされるものであり、その原初的イメージは、本来、言葉とは相容れない性質のものである。直截な表現方法を採用し、数々の抒情詩を作った中原の像と、このような理詰めの言い回しは結びつきにくいものに見えはするが、彼の表現に対する試行錯誤は蜿蜒と続けられていたのであり、安易に経験を持ち出し「単なる情景の描写、事実の列記が詩になる」といったような誰かの発言に、中原は大いに反発したのである。
引用部分の最終一行には、象徴派風の感覚もうかがえる。このあたりの考え方は富永との交友、論争の中で育まれたものであるかも知れない。「それ」は、中原のインタレストの向かうところのものであり、方向でもある。
 中原の生涯を通して経験は、彼固有の思い出は、何物にも増して重要な存在であった。「いま」に生を享受している彼の背後には、常に暗黙のうちにつき従っている、長長しい過ぎし日の時があった。そして、その過去の出来事は、彼の内部で忘れがたい純粋な記憶となって温存され、何時、いかような場所でも、そのままの形で甦らせることが可能であった。後年の中原にとって「いま」とは、連綿とつらなる過去から伸びてきた時間の帯の一端にしか過ぎなかった。過去の経験は、その頃のまま真空状態で保存され、彼の情緒的で求心的なエネルギーは、現存する中也の眼に過去をありありと投射してみせた。
 増幅され、投射された「過去」は時として仮の現実存在までかき消してしまうほど肥大することもあり、その時中原は、疎ましい現実の時空間から解放されたように思われた。それは、安らぎの世界であるように思われた。中原は「せち辛い世の中」に積極的に「這入っ」て行こうとはせず、絶えず、ある一定の間隔を社会との間に置いて、直接的な関りを自ら進んで持とうとはしなかった。「世の中」は山口時代の彼を傷つけ、追いまわした張本人に他ならず、加害者の表情で中原の前に立っていた。この24番詩に表れた「自戒」の言葉は、世間によって傷つけられたとする中原の、基本的な対社会認識と心情の象徴だと言える。

   ダダの絶対性に対する信頼

 20番詩前後から集中して続けられていた対社会的な、あるいは文学的な中原の思惟は、次の25番詩に至って一つの結論を得る。それは、詩作の積み重ねと議論によって培われた、彼独自のダダ的価値観の文章化であったダダの表現方法と、その絶対性について、彼は次のように言う。

     (名詞の扱ひに)     25番詩

   名詞の扱ひに
   ロヂツクを忘れた象徴さ
   俺の詩は

   宣言と作品の関係は
   有機的抽象と無機的具象との関係だ
   物質名詞と印象との関係だ。     (中略)

   古い時代の紹介者は
   古代の棺はかういふ風だつた、なんて断り書きをする
   棺の形が如何に変らうと
   ダダイストが「棺」といへば
   何時の時代でも「棺」として通る所に
   ダダの永遠性がある
   だがダダイストは、永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ

 終わりの一行は、中原独自の「断り書き」であるが、当時の彼の詩に対する考え方は良く理解できる。第1聯でいう「名詞の扱い」は、取りも直さず「名辞交換の場」、文字化の過程であり、そこでの「ロジック」の欠如は、破格による表現に他ならない。また、彼の詩における「ロジック」は、中原の言うように、単に「忘れ」られていたのではなく、それは「格」として彼自身の内側に、より深い部分に潜んでいたに過ぎない。彼がダダを破格の方法、有効な表現の手段として捉えるとき、彼自身が内在している「格」が、その破格の姿を鮮明に映し出す鏡の役割を果していたはずだ。

   イメージの純粋持続

中也   PR

 2聯に言う「宣言」が、『詩的履歴書』に出てくるそれと同一のものであるか、或いは時期的に接近した同種のものであるとすれば、この25番詩の書かれた時期の上限が求めやすくなるが、いずれとも決めがたい。(註・『詩的履歴書』大正13年の項には「秋詩の宣言を書く」とある)中原は、その宣言の中で、自らを「悲嘆者」だと形容しているが、この25番詩あたりの彼には、むしろ絶対的な決め付けの出来る自信家といった色彩が濃く、二つの像は重なりにくいように思われる。もっとも「政治的」になってしまった、名辞化の只中に生息する人間を「悲嘆」している、という意味では、この頃もそうであったろう。中原は自らを非政治的な存在、つまり精神的に純粋な存在であると想定していた。
 2聯の3行の内容を、そのまま順を追って次行の言葉に対応してゆくと「作品」と「印象」が対となって、つながることになるだろう。「印象」が「無機的具象」に相当するものとして対置されている点に疑問も残るが、前後のつながりから推して、非名辞世界の独立した固有の存在を、このように言い表したもので、中原にとって、それぞれの「印象」は、一つ一つ独立したものと考えられていたのかも知れない。いずれにせよ「印象」は、原体験で名辞化以前のものでなければならず、その意味で文法、格を有する有機的な言語体系とは対照的な存在であり、中原はイメージの純粋持続を考えている。
 3,4聯は引用していないが、各々3行立ての形をとっており、1聯から4聯まで3行立ての定型であるのは面白い。(繰返すが、ダンテの『神曲』が3行1聯である)中原はダダの破格を、定型の枠組みの中に書き込んで説明しようとしている。先に、最終部分の1行を彼独自の断り書きだとしたが、乱暴な言い方をすれば、この作品は定型を保っている第4聯までで終わるべきもので、行分けが崩れた後半の部分は付け足しかも知れない。
 この作品で中原の態度は高圧的だが、言葉の調子には自分自身に言い聞かせているような感があり、他人との議論の経験から得た考えを独りになってから、纏め上げたもののようだ。「宣言」の内容はともかくとして、この時期に、それに相当する性質の文章が書かれた可能性は強い。『迷つてゐます』から、この25番詩にかけて続けられた模索と思惟は「ダダの永遠性」――言語における一つの絶対的価値――を確認していたのである。また、富永らとの対話・議論のためにも、彼は自己の直感的な理論、考え方を整理して確認しておかなければならなかったのである。京都に「遁走」して来ていた富永が、友人の村井泰男に宛てて出した手紙の中で「ダダイストを訪ねてやり込められたり」(7月7日付け)と言っているのも、この作品に示されている中也の理論を指しているのかも知れない。

 4聯までの定型は、5聯に至って崩れ、散文風に変化している。5聯で殊更に「古い作品」と書いている裏には、自分の詩が誰のものにも増して「新しい」ものであるという意識があり、中原に迷いは見られない。歴史などは「問題にならぬ」と断言する自信の程がうかがわれる。 25番詩の内容を見ている限りにおいて、この作品が書かれた頃、中也の内部では「神」を意識する度合いが極めて低かったように見える。ダダイズムの破格が、時空を超越した表現方法であるとの認識から、中原は神の秩序ある世界の広大な領域を飛び越え得ると考えていたのかも知れない。(註・名辞の世界の否定と時空の無視は、この後も中原の主要な命題となり、このテーマは、やや錯綜した形で『』となって結実する。『骨』は正に、内的時間の追求による現実存在の空洞化であり、見詰めている自分と、見つめられている自分との対峙――更に、横から眺めている第3の眼も存在する――の表現といえるだろう。そこでは時計の「時間」はまったく欠落してしまい『春の夕暮』で見たような、不可思議な独立した時空間が創造されている)
 しかし、このようなダダイズム的な断定から、ほぼ1年で中原は神を絶対者として再び持ち出し、前に見た『地上組織』を書くことになる。ダダの永遠性と見えたものも、中原の旺盛な表現の自由に対する欲求を十二分に満たし得るものではなかった。彼はいつも、神と人の両極の間をさ迷いながら、得ることのない絶対という青い鳥を探し求めていたのである。
 25番詩での力強い断定口調も、すぐ次の26番詩では胡散霧消し、原因不明の焦燥が、作品の形をとる以前にイメージを潰してしまっている。4行立ての形式で書き始められた、この(酒)は、第2聯で次のように終わる。

   キセルを折れ
   キセルを折れ
   犬が骨を
   ヘン、如何です?

 1聯に出てくる「蜘蛛」が、中原自身の投影であるとすれば、彼はこの頃、何者かからの「逃げ場」を失っている自己を強く意識していたことになる。25番詩と比較したとき落差が余りにも大きいが、中原は既にこのとき「ダダの永遠性」について、ある程度の疑問を抱いていたのだろう。 ややニュアンスは異なるが、後年の中原は京都時代を回想して『ゆきてかへらぬ』(雑誌『四季』1936年11月号初出)の中で、次のように歌っている。

     林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にも
     にこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言葉を
     話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
     さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。

 「蜘蛛」といい「蜘蛛の巣」といい、連想されるものといえば「もがき」であるとか「ワナ」とかいったものであり、余り豊かなイメージではない。まる12年を経過した時点で、ほとんど同質ともいえる不安感が歌われていることは、京都時代の中原の心情を窺う上での手掛かりとなるだろう。放蕩、気ままな毎日と見える京都での生活の中で、中原は何から懸命に逃れようとしていたのか。自分自身の内にあるセンチメンタリスムか、あるいは神の意識、倫理観であったかも知れない。いずれにせよ、26番詩に表れた内容は、決して健康的なものではない。 2度書き連ねられた「キセル」には、中原にとって特別な意味が込められた名詞なのかもしれないが、「折る」――つまり破壊し、否定するというイメージしか、今となっては知ることも出来ない。また、キセルから「犬」へのつながりも非常に分りにくく、2聯の含む意味合いは不明である。
 27番詩(最も純粋に意地悪い奴)も、中原の詩に対する論理の展開を主旨としており、形式や内容、技巧が問題点として取り上げられている。

   やつぱり形式に於ても経験世界を肯定しなきや
   萬人の芸術品とは言えないのでせうか?

   内容価値と技巧価値は対立してゐませんよ。
   問題となるのは技巧だけです。
   内容は技巧以前のものです。
   技巧を考慮する男は吃度価値ある内容を持つてゐます。
   天才以外の仕事ではないのが此の芸術ですね。  (第3,4聯)

1,2聯で自己の現実を分析した中原は、先に述べたダダの問題を、ここでは「技巧」問題として取り上げ、表現方法と表現内容の関係について触れ、定型による表現と破格との対比を試みている。「技巧を考慮する男」とは、即ち中原自身であり、表現される内容は「技巧以前」に内包しているとしている。 第3聯にみえる自己への問いかけに対する答えは、恐らくこの時期では「否」であっただろうが、この種の自問自答は、この後も続けられたに違いない。また中原は、既に「経験世界」(既存の表現方法、或いは破格によらない表現そのもの)を肯定した、行分け聯立ての定型を用いたダダ詩を書いてきており、定型による破格語法の使用は、大きな抵抗を伴うものではなかったことが明らかである。要は、形式ではなく内容(直観、詩心と言い換えてもよい)にあり、表現方法――技巧にある、というのが中原の基本的な考え方だったのである。ここで中原が言う技巧とは「認識以前の原イメージを、いかに言葉によって完璧に像として定着させるか」ということに他ならない。 より完全な表現のためであれば、中原はダダイズムも取り入れたし、定型も内部保存していたのであり、その点について彼自身にとって「内容」は「技巧」と対立するものではない、との確信があった。彼は自己を「最も純粋に意地悪い奴」と決めつけながら、「天才」を自負している。この27番詩は、最初の1行を除けば、各聯2行立ての形式を採ったもので、例によって最終の一行は、彼独特の付け足しである。2行立ての形は、この後にも数篇に使用されている。

 理想の小説家バルザック  

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大岡昇平の言によれば、バルザックは「理想的な小説家」として中原の気に入りであったらしい。(『中原中也の思い出』雑『新文学』昭和24年2月号初出、その後単行本『在りし日の歌』に再録)28番詩は、そのバルザックから始まる。

   バルザック
   バルザック
   腹の皮が収縮する
   胃疲は明治時代の病気らしい
   そんな退屈は嫌で嫌で

   悟つたつて昴奮するさ
   同時性が実在してたまるものか

   空をみて
   涙と仁丹
   雨がまた降つて来る     (全文引用)

「バルザック」が実在の人物として、その業績を背景に、重々しい存在の象徴として扱われていることも事実だが、この場合、むしろ歌ったときの音そのものによる効果が、より大きいように思われる。2拍子のリズムで読めば、アクセントは2拍目にきて、力強さを感じさせるだろう。低い、ザック・ザック――という音に「腹の皮」も合わせて運動しているわけである。 「胃病」云々は、バルザック――小説家、からの連想で夏目漱石や尾崎紅葉などの存在が考えられるし、中原は、そのような「明治」を過ぎ去った時代としてとらえ、自分は新しい時代に生きていると主張しいてる。 第2聯での「同時性」については、当時「映画理論からの描写の同時性が論じられていた」(阪本越郎『日本の詩歌』第23巻、中央公論社刊)という意見があり、中也が泰子や舞台関係者との間で、このようなテーマについて話し合っていたことも十分に考えられる。中原にしてみれば、原初的なイメージは「認識以前」の段階にこそ存在し、彼はそれを言葉に置換する作業、表現を行う立場にある。したがって詩心の広がりと表現の間には、現実的な時間の流れが介在するわけで「実在してたまるか」となるのである。
(補註・この「同時性」については、この頃、高橋新吉がアインシュタインの相対性理論について「詩的冗談」を書き放っていた、という大岡昇平の文章が残っているのだが、その高橋の作品は未見なので、参考としてあげておく。大岡の文章は雑誌『群像』1956年1月号に載った『二詩人』である)
 これまでに見てきた、中原の時間に対する考え方からすれば、詩人の内的時間以外の時間は、空しい意味のないものであり、内的なエネルギーを持たない詩空間は、決して自展せず、終息してしまう性質のものに過ぎないのである。この意味で、詩が感じられたとき、すでに現実的な時間は流れ去っているわけで、詩人によって創造され、増幅された空間以外の場所における時間は、単に過去へ向けて正確に流れ込んでゆくだけのものでしかない。また、先の25番詩のダダ理論からすれば「永遠性」のあるダダ的表現の前では「同時性」も何も、必要なかったのかも知れない。
 第3聯には、お馴染みの「空」が出てきているが、それには高さも広さも感じられないし、「涙と仁丹」の安易な連想の提示は、小さく固まった領域としての空しか表していない。つまり空は狭く、低く「雨」も降ってくるわけである。中原が、この頃すでに「全生活をした」と悟っていたかどうか分らないが、彼には「昴奮」させる内的、外的な刺激が多くあったのだろう。 続く29番詩でも擬音が1聯にわたって使われているところを見ると、この頃、中原の側に「音による表現」が、テーマの一つとして在ったのかも知れない。

     (ダツク ドツク ダクン)     29番詩

   ダツク ドツク ダクン
   チエン ダン デン
   ピー ……
   フー ……
   ボドー……

   弁当箱がぬくもる
   工場の正午は
   鉄の先端で光が眠る     (全文引用)

 工場全体の動いている様子が、音だけで表現され、1聯最後の「ボドー」には、機械その他の動いているものが止まりつつある感じが込められている。朝から休まずに動き続けていた機器(生活)のリズムが一休みすると、どこからともなく「食べ物の匂い」が、ざわめきとともに流れ込んできて、読む側がほっとした気持ちになっていると、突然の転調で、詩人は安らぎとは対照的な、無機的な鉄の肌を我々に突きつける。 「弁当」という日常生活的な言葉と、お昼時の雰囲気に中原は何故か強く反発し、その視線を「鉄の先端」に送り、独り言しているようだ。それにしても、最後の1行に見られるイメージは鮮やかである。この29番詩には題が付されていないが、初聯の擬音には複数の異文もあり、特に後半の3行は、もともと1行に流して書かれていたものが推敲を経て3行に分けられているなど、中也も音による表現効果を認めていた作品のようである。中原には晩年の作品として『正午――丸ビル風景――』という嘲笑的な雰囲気のものがあるが、この29番詩の場合には、彼の嘲笑的な態度よりも、人々が休息をとっている真昼時にも「鉄の先端」で眠っている「光」と対峙していなければならない、中也の特異な感性が強く出ているように思う。
 この、市井の中に安住できないという中也の焦燥は『少年時』(季刊誌『四季』第2冊、1933年7月初出)に至って、次のような表現をとる。

   夏の日の午過ぎ時刻
   誰彼の午睡するとき、
   私は野原を走つた……

   私は希望を唇に噛みつぶして
   私はギロギロする目で諦めてゐた……
   噫、生きてゐた、私は生きてゐた!

 26番詩や、『ゆきてかへらぬ』でみた、明状しがたい焦燥感が、中原を間歇的に襲っていた。その原因が家、家族、故郷にあるのか、それとも彼自身にあるのかは、読む人ごとに種々な判断ができるだろうが、彼は背後から断続的に自分を押し続ける力を、半ば創作活動に転化、利用しながらも、焦燥感からの解放を望んでいたのである。誰彼の昼寝時、独り野原を走り、鉄の光と対話する中也の脚は、工場の前を通り過ぎて、また何処ともなく歩き始める。
 処女詩集『山羊の歌』に収められた、幾つかの詩篇にも、今見てきた中也の焦燥、苛立ちが溢れている。
 黄昏』の最終聯では「家」との関係が、

   ――竟に私は耕やさうとは思わない!
   じいつと茫然黄昏の中に立つて、
   なんだか父親の映像が気になりだすと1歩2歩歩みだすばかりです

と歌われ、『帰郷』の、締めくくりの言葉は、

   あゝ おまへはなにをして来たのだと……
   吹き来る風が私に云ふ

の2行であり、故郷との対峙が主題とされている。また、『悲しき朝』の後半部分には、

   知れざる炎、空にゆき!
   響の雨は、濡れ冠る!
   …………………………
   われかにかくに手を拍く……

の描写があり、詩人の苦しい息遣いが伝わってくる。 この他にも、まだ多くの詩が精神的な圧迫感、強迫間をテーマとしており、中也詩の特色を作り出している。これは、中原が文学を志し、詩的表現を手段として求めた時点で、彼がすでに背負い込んでいた「解放」への間断ない願望の、切実な一側面である、といったほうが良いのかも知れない。すべてから解き放たれた存在に昇華するためには、何が何でも、中也は歌わなければならなかった。

   古ぼけた一枚の絵葉書

 次の30番詩は、3行立ての形式で始まるが、3聯に至って定型は崩れ、心情スケッチ風の散文に変わる。作品は変色したような、古ぼけた一枚の絵葉書から展開されてゆく。この作品にも題はない。

   古る摺れた
   外国の絵葉書――
   唾液が余りに中性だ

   雨あがりの街道を
   歩いたが歩いたが
   飴屋がめつからない     (1,2聯)

 京都に居ようと、あるいは東京に住もうと、そこは中原にとって正に「外国」に等しい土地であったことは、彼の書簡、詩、日記などから明らかである。故郷の地以外の土地は、みな「よそ」であり、その意味で詩人の心の中には、自分が常に「よそ者」である、というひっかかりがあったはずだ。それは先に見た、京都時代を回想した詩のなかにも色濃く現れている。 半ば変色したような、古ぼけた絵葉書にある風景は、なじみのない見知らぬもので、この比喩は、窓から見えている京都の街並みであってもかまわない。その、余りにも存在感の乏しい風景が詩人の心理を圧迫し、緊張させる。とりとめのない感情にかられた中也は、部屋を出で街道へ、そして歩く、歩く。あてもなくさ迷っている中原の脳裏に、ふと故郷の街並みがよみがえり、街角のどこかにあった「飴屋」のことを思い出す。似たような、と彼が思い込んでいる街並みに沿って中也は歩く、歩いてゆくが、どこかにあるはずの「飴屋」は存在していない。喉の渇きは一層増すが、いやしてくれる物は何もない。 このような内容の2聯があった後、3聯での転調が続き詩句は散文の様相を帯びてくる。

   唯のセンチメントと思ひますか?
   ――額をみ給へ――
   一度は神も客観してやりました
   ――不合理にも存在価値はありませうよ
   だが不合理は僕につらい
   こんなに先端に速度のある
   自棄 々々 々々
   下駄の歯は
   僕の重力を何といつて土に訴へます
  「空は興味だが役に立たないことが淋しい――
   精神の除外例にも物理現象に変化ない」
   ガラスを舐めて
   縄を気にかけぬ

 ふと囚われた郷愁を、中原は素早く自己観察し、分析してしまう。そして、その結果は繰り言めいたものに変質し、作品は中途半端に終わってしまう。「唯のセンチメント」ではないと否定しても、彼の心情は「外国」の地を遠く離れて、故郷に飛んでいる。その「額」は、殉教者のように痛々しく歪んでいたかも知れない。その歪んだ口元から、傲慢な言葉が漏らされる。

   不合理」はつらい

         春は訪れたものの…   

中原中也全詩集 (角川ソフィア文庫 360)

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 神を「客観」した――という言葉は、これまで、京都におけるダダ時代の経過を指すものだという解釈がなされているが、これは当然、山口における見神と、山口時代から培われていたキリスト教的な資質、合わせて『神曲』世界の分析も加えた、一連の倫理的で論理的な中原の思想を表していると考えたほうがよい。中原が、ダダの渦中にあって、このように呟いたとき「神」は視野の最も果ての、遠い所に居たようだが、実は、その遠さにもかかわらず、ある程度近しい、親しい者として詩人の眼には映っていたのかも知れない。確かに言えることは『タバコとマントの恋』に出て来た「神」とは幾分性格が異なった、詩人にとって切実な意識対象となって出現している、ということだ。
 ダダの絶対性、断言に「不合理」など入り込む余地はないはずだが「センチメント」に侵食され、時たま客観視した、一対象物であるはずの「神」の存在について思いをはせる自分自身が、いかにも「不合理」な存在だと、中原は分析していたのである。一切を否定し、一切が可能であるべきダダイストの彼は、心情的に、また倫理的に捨てきれない部分を(神に関して、故郷に関して、自分に関して――そして、あらゆる面に関して)余りにも多く持ちすぎていたために「つらい」と言う。京都時代の自己、青春の毎日を「先端に速度のある」「自棄」だと彼は分析しているが、立身出世の野望を胸に秘め、故郷の鋭い視線を意識しながらの毎日は、正にその通りの暮らしであったのだろう。
 自棄」(やけ)は、中原の書いたものの中に散見されるが、結局、彼は徹底して崩れて、何もかも棄ててしまう、という風にはならない。落第、失恋、肉親の死――など、彼には事件と呼べる出来事が幾つもあったが、その度に、半ば狂ったようになりながら、中也はその激情を、苦痛を創作の面に生かしている。中原には、何もかも棄てて詩作に没頭した詩人というようなイメージが重なり合うのはそのためであり、彼は、いつも作品を、そして自己を大切にしたのである。「自棄」は、時として彼のポーズに過ぎなかった。
 力を込めて踏みしめた「下駄の歯」が、雨にぬかるんだ土くれの中に、抵抗もなく埋まる。剥き出しのままの土間は、彼の体重を無視したかのように黙々と、そこに在る。中也は目線を上方に向けて呟く。空――過去、回想、故郷――も無気力になった彼には、何の感慨ももたらさない、単なる自然の一部分でしかない。中原の想像力はエネルギーを失い、視線は再び下方に落ちてゆく。
 萎えた感情のうちにも彼は自己を「精神の除外例」と規定して、勢いづけようとするが、余り効果はなく、感情のあり方、働きも「物理現象」の一部だとして片付けてしまい、中原の情緒は「ガラスを舐め」るような、不安定で不自然な方向に傾いてしまう。この最終2行は、初聯にある「中性」な「唾液」に対応させてあるのかも知れないが、豊かなイメージというには程遠く、陰鬱で無気力な印象を強く与える。
 センチメントを極力分析し、自己に正当性を持たせようとする意気込みも失敗に終わった、この30番詩は、中原の暗い部分を表したものだと言えるだろう。
 31番詩は、作者によって『一度』と題が附けられている。19番詩以降では、この作品が題をもっている最初のもので、全集の筆跡分類第1群B型では、この他に題を付されているものはない。この題字の筆跡は、本文のものと異なり、全集・研究篇の分類では第1群D型と判定されており、時期的には1924年末から1926年以前の間と推定されている。
 (註・この分類は筆跡、インク、変体平仮名の有無、Gペン使用の有無などの判断基準によるもので、今まで見てきた『自滅』『春の夕暮』及び『(ダダイストが大砲だのに)』『(過程に興味が存するばかりです)』などの推敲の筆跡も、これと同じD型である)
 また、31番詩には、数箇所にわたって推敲、書き直しの跡がみられ、中原がこの作品を重視していたことが分る。
 この作品は4,2,4,2という行分けの変わった定型が用いられており、初聯において「翻訳の悲哀」が、「結果から結果を作」ったものとして片付けられ、第2聯以後は次のように書かれている。

   再び巡る道は
   「過去」と「現在」との沈黙の対座です

   一度別れた恋人と
   またあたらしく恋を始めたが
   思ひ出と未来での思ひ出が
   ヲリと享楽との乱舞となりました

   一度といふことの
  嬉しさよ

 初聯からの詩句のつながりを追ってゆけば、いわゆる翻訳詩に対する攻撃が主眼となっているようだが、第2聯第2行目の異文は、

   「過去」が常に「現在」です

となっており、3聯の内容を含めて考えると、単なる翻訳作業のみを云々しているのではなさそうだ。 翻訳といえば、富永太郎のボードレールが思い起こされる。富永は1920年以降、数多くのボードレール作品を翻訳しているが、京都の下鴨にあった彼の手許に、東京の小林秀雄から『』(ランボオ『地獄の一季節』の一部分)が送り届けられ(1924年9月頃)、その内容に共鳴した富永は以後ランボオの翻訳に手を染めることになる。31番詩の口調には、特定の人物を揶揄しているような節もみられるが、この頃の中原にはフランス語など、ほとんど理解できなかったであろうから、富永の翻訳の内容について、あれこれと批判する立場にはなかったはずだ。
 さらに、上で見た異文と第3聯の内容は、明らかに中原自身のことであると思われるので、「一度」の題と合わせて考えれば、中原自身の「過去」、回想を翻訳作業に託して表現したものであるとも言えるのではないか。また、30番詩とのつながりを重視すれば、異文の内容も、そのまま中也のセンチメンタリズム批判として理解が可能であるし、「一度別れた恋人」には「神」を当てはめることも出来る。いずれにせよ中原の志向は、明らかに「過去」へ急傾斜しており、その心情は「思ひ出と未来の思ひ出」が乱舞するような、混乱した不自然なものであったことは間違いない。中原にとって現在は不満足で不安定なものであり、過ぎ去ってしまった時空は如何にも安定した憩いの場と考えられていたのだろう。
 翻訳に則して言えば「名辞以前」の世界の原初的イメージを至高とする中原にとって、一端文字化された「作品」を、さらに重複して別の言葉に「文字化」する置換作業などは、さして重要なものとは考えられていなかったはずである。中原の詩作は、単なる過去の再生ではなく、過去そのものに何かを語らせようとする作業を伴ったが、原体験は一度きりのものである以上、彼にとって「一度」きりであることは重要なことだったのである。また、後半の部分は、中原の人生を知る者にとって、妙に暗示的な言葉である。
 32番詩以降の数篇にわたって、詩人の興味は「女」に向かっており、理解を超えた女性のあり方に不満の意を表している。同棲はしていたものの、当時の二人の関係は、決して安定したものではなかったようだし、お互いに野心を胸に秘めた若者たちは、些細なことで口論を交えることもあっただろう。次に引用する32番詩も2,3,2,3,3という変わった行分けを用いている。

   対象の知れぬ寂しみ
   神様はつまらぬものゝのみをつくつた

 初聯で「女」が出てゆく様子を描写した後、ダダ的な表現が続き、その次に上の2行があり、またその次には、意味不明の2行が連なる、という直截な表出と暗示の交錯という手法を中原は使っている。 若い中原には、女優として大成することを夢見る年上の女性の心情を、深く忖度することなど不可能であったのかも知れない。訳の分らぬまま後姿を見送った彼の心の中に、不透明な淋しさが漂い「神様」への不平が口をつく。

   盥の底の残り水
   古いゴムマリ
   十能が棄てられました

   雀の声は何といふ生唾液だ!
   雨はまだ降るだらうか
   インキ壷をのぞいてニブリ加減をみよう   (第3,4聯)

 ここにある言葉一つ一つが各々何を指しているのか、具体的に憶測してみるのも良いが、全体としての虚脱感と、物憂い暗さを見て取れば、個々の解釈はさして重要にはならない。第3聯の持つイメージは「不要物」「放棄されたもの」によって構成され、中原の「出て行った」女性に対する心情を表出したものと考えられるし、また4聯は、出たきり中々戻ってこない女性に対する苛立ちと、滅入った彼の気持ちを比喩したものとみることが出来る。この「出て行った」女を、前の31番詩の内容と重ね合わせてみれば辻褄が合うようだが、短絡は避けたい。 続けて書かれたと思われる33番詩にも「出て行った」女が登場し、中原は口論の内容を振り返って嘆息している。持て余し気味の彼は最終行で、

   女は男より偉いのです

と茶化しているが、作品全体から受けるイメージは、中原の一方的な見方からすれば、理解を超えた女性心理に対する不安の方が色濃く出ているようだ。ここで多分に詩人は苛立っている。また、33番詩でも直截な表現と破格的な語彙が、交互に用いられており、1聯と2聯は難解である。

   
   吹取紙を早くかせ
   恵まれぬものが何処にある?
   マッチの軸を小さく折つた

   
   自分は道草かしら
   女は摘草といふも勿体ないといつた
   俺は女の目的を知らないのださうだ
   原因なしの涙なんか出さないと自称する女から言はれた

   飛行機の分裂
   目的が山の端をとぶ
   織物
   秘密がどんなに織り込まれたかしら     (1〜3聯)

 18行におよぶ33番詩には、書き出し部分の感動助詞「よ」1字を除いて、ほとんど異文がなく、一気に書かれたものであることが分るし、異なる筆跡による推敲も加えられていない。初聯第1行で「女よ」と、優しい呼びかけの形でスタートしたこの作品だが、中原はすぐ思い直して「よ」の一字を削り取ってしまう。そうすることによってでも「女」に対する優位性を保ちたいほど、彼の心情はもろく傾いていたのかも知れない。しかし、口先とは裏腹に不安感はつのっている。
 32番詩に出ていた「インキ壷」から「吸取紙」への連想は不可能ではないが、いささか唐突すぎる第2行の解釈はむつかしいが、インキ壷を表現手段、創作のための道具と解釈すれば、詩作を側面から補助して欲しい、という願望の表現とも受け取れる。ただ、初聯での彼は「恵まれぬものが何処にある」――「あるまい」と言いながらも焦燥を禁じえないでいるし、その原因が、第2聯でみる女の言葉にあることは明らかだ。ここに出てくる「女」は、拘束されることを極度に嫌がっているが、中原にはそれが不満でならない。「女」が自分勝手な「目的」を持って行動することを、彼は望んでいない。中原には「自分と一緒に居るだけで十分じゃないか」という思いがあり、それを当然のことだと信じている。
 第3聯は恐らく「女の行動」の比喩であり「目的」が飛ぶ「山の端」は、中原が快く思わない人々の居る場所を示している。自由に空を駈けていたはずの中原にしてみれば、一心同体の二人の恋は空中で分裂し、女は自己を強く主張して、勝手気ままな方向へ、地上の一端(社会)を目指して、独り飛んでゆく。そして「女」は、自分の思い通りに夢の糸で織物を織ってゆくが、中原には、その夢(現実の行為も含め)には多くの「秘密」が隠されているように思えてならない。詩人は女の行動に嫉妬しているのである。彼にしてみれば、本当に「恵まれ」ない者は自分自身であった。そう思い直して、女は「偉いのです」と、お道化た1行で作品は終息する。
 「女」の存在、不可解さに悩まされながらも(多分にそれは中也の身勝手な見方ではあったが)彼が、それを主題に試作を続けていたことが、これらの詩によって分るが、中原は不安定な生活の中で、再び「認識以前の徹底」を命題として持ち出してくる。34番詩である。

     (頁  頁)

     
   歴史と習慣と社会意識
   名誉欲をくさして
   名誉を得た男もありました

   認識以前の徹底

   土台は何時も性慾みたいなもの
   上に築れたものゝ価値
   19世紀は土台だけみて物言ひました

   ○××× ○××× ○×××
   飴に皮がありますかい
   女よ
   ダダイストを愛せよ     (全文引用)

 34番詩には1字の異文も存在しない。初聯での社会(人)批判のあと、彼は自己のなすべきことを再確認して、自らに言い聞かせている。「頁」の手本は、先にも見てきた『ダダイスト新吉の詩』であろう。「頁  頁」時が移り、場面が変わるたびに、人々の「習慣」や「社会意識」(常識)も変質してゆくが、人間に本能として備わっている「欲望」は変化なく、いつまでもあり続けるように、詩人の内部にも欲望は常に存在する。しかし、詩人としての中原は、常にどのような状態にあろうとも「認識以前の徹底」を決して忘れては成らない、と自戒している。 続けて彼は言う、確かに人々の生活や意識など、すべての行為の根底には「性慾」に代表される本能的な欲望が横たわっており、そして人々の評価は欲望そのものと表面に現れた表皮的な現象のみを対象になされているが、それは違うと。
 また19世紀(現代の始まり)では、ことさら、その本能的な、動物的な欲望そのものが抽出され、表現もその点に重きが置かれていた、と。この辺りの考え方は、前に見た「宣言」の内容とも関連しているはずだ。中原は、人間の内部に存在し、潜在する欲望そのものを表現の対象とすることより、その欲望が現実存在としての人間をどのように動かし、何を結果として残したか――彼流儀に言えば、どのように行為し、歌い続けたか――を問題にすべきだと言っている訳で、魂をつき動かすものの正体を理解し分析するだけの暇があるのなら、魂をよりよく解き放つために歌うのが先だ、ということになるのだろう。したがって「何がなぜ」感じられるかではなく、何物もすべて「よりよく」感じるための「認識以前の徹底」が必要になるのである。加えて「よりよい」表現の方法も研究され続けていなければならない。また、中原にとって詩とは、単なる詩心という欲求の結果として文字化された小宇宙という意味だけでなく、神を客観し得る完全性を得るための、重要な行為としての意味をも有していた。その行為は、一つの作品が独自の時空を兼ね備えたものとして結実しなければならない。
 第4聯の意味は難解だが、中原が言いたいことは最後の1行である。33番詩での呼び捨ても「女よ」と軟化している。ダダ的手法の第1行は、『ダダイスト新吉の詩』の中に同種のものがある。(『Dは』、但し、この作品の中では「○」はローマ字のオーであり、伏字として意図的に使用されている)初聯第1行とともに、高橋の作品からヒントを得たものであろう。「飴」は30番詩の「飴屋」を思わせるが、この一行の意味も不明である。字面そのものを追えば、飴は、そのすべてが皮のない実質のかたまりであり、中身が詰まっている物(内容が優れたもの)としての自己をよく認識して欲しい、と言っているにもとれなくはない。
 ともかく「女」に理屈を並べ立てられ、きびしい言葉を浴びせ掛けられて意気消沈していた彼も、大命題の再認識によって、幾分回復していることは確かだ。元気づいてきた中原は、35番詩で、更に細かく自己を分析し、二人の間を観念的に定義づけようと試みる。

   ダダイストが大砲だのに
   女が電柱にもたれて泣いてゐました

   リゾール石鹸を用意なさい
   それでも遂に私は愛されません

   女はダダイストを
   普通の形式では愛し得ません
   私は如何せ恋なんかの上では
   概念の愛で結構だと思つてゐますに

   白状します
   だけど余りに多面体のダダイストは
   言葉が一面的なのでだから女に警戒されます

   理解は悲哀です
   概念形式を齎しません     (全文引用)

 34,35,36の各作品は一連のもので、短い時間内に続けて書かれたものだろう。ノートを直接見て見なければ何とも言えないが、前作品の最終行と次作品の第1行が、それぞれ呼応しあっていることでも、それは明らかで、三つはほとんど同時に書かれたとも考えられる。 フロイト流精神分析、解釈の手法を持ち込めば、さしずめこの初聯などは、格好の分析対象になるのだろうが、「大砲」は一切を否定し、既成のものを粉砕するダダイストの立場と力の表明であるだろうし、「電柱」は文明社会、都市生活の象徴であると思われる。つまりは、中也の女に対する不満の表示である。
 「リゾール石鹸」は、消毒のイメージから、女に無垢な眼で自分をよく見て欲しいと望んでいるのだが、なお「愛されない」と中原は告白している。彼自身が「多面体」であるという自己分析が正しいかどうか、「女」は先ずその点から疑ったであろうし、彼女は「普通の形式」(どこにでもある平凡な男女の恋愛という意味で)で、中原を愛そうとはしていなかっただろう。事実、後年に至って泰子は「全然、恋愛なんていう感じではなかった」という意味の発言をしている。彼女にとっての京都住まいは、あくまでも一時凌ぎの仮の宿であり、中原との同居も、生活上の必要性が優先していただけのことだったのかも知れない。彼女の目標は、上京して「大女優」になることに変わりはない。
 結局、中原が一方的に「愛し合っている」と深く思い込んでいたのであり、その意味で彼の言い分、繰り言が多くなる訳である。若い中原は、とにかく「女」を手許に轢きつけてきたかったし、彼女は自由に歩き回りたかった。「理解は悲哀」だと言いながらも、詩人は努めて理解しようとしていたに違いない。ただ、彼にとって理解するということは、相手を拘束し、常に自分の目の届く所に彼女を居させることに他ならなかった。 「概念の愛で結構」だと言っていた彼は、次の36番詩で、その「概念」を分析し、女を「馬鹿な美人」と決め付けている。中原は自分の言うとおりにならない女を相手に、自棄気味になっているが、後半の2聯で次のように訴えている。

   反省は詠嘆を生むばかりです
   自分と過去とを忘れて
   他人と描ける自分との
   恋をみつめて進むんだ

   上手者なのに
   何故結果が下手者になるのでせう
   女よそれを追及して呉れ

 ここで中原は、正確に自分の立場というものを理解しているし、充分に妥協的でさえある。彼が「自分と過去」を決して忘れることが出来なかったことは明らかだが、彼自身の内部で「過去」が相当の部分を占め、現実生活の中で勝手に動き回っていたことがよく分る。中原が、このような形で率直に「他人と描ける」部分の存在を自ら認め、そこへ進もうとしたことは、余り例を見ない。下卑た言い回しをすれば、惚れた弱味ということになるのだろうが、中也は36番詩で、理屈を言うのは止めて、自己の感情に従おうとしている。彼は「女」に、どうにもならない部分が確かにあることを認めた。他者がそこにあった。
 中原は決して「上手者」などではなかった。この言い方が、自己嫌悪から出たものであることも十分考えられるが、中原としいう人間は「上手」に立ち振る舞おうととても、決して世間で言う世渡り上手な八方美人的な交際をするようなことが出来なかったし、そのような生き方を選択しようとも思っていなかった。その意味で、人(他者)との付き合いの「結果」は、常にまずいものにならざるを得なかった。
 36番詩の哀願調は、次の37番詩で「悲哀」へとトーンを高め、女性との間柄がかなりこじれてしまった雰囲気を伝えている。この数篇にわたる「私」と「女」に関する私的な内容の各作品が書かれた時期については、憶測するにも決め手となる判断材料がなさすぎるが、極めて大雑把な上限を区切るとすれば「夏休み前」であるだろう。26番詩に出てきている「五月雨」を、そのままに受け取り、その後の作品に出てくる「雨」と、37番詩の「蛙」を合わせて考えると、大体6〜8月頃ということになる。
 中也が、この夏の休みに帰省したかどうか、という点については、家族もはっきりとは記憶していないが、彼の後年の姿勢からみても、帰省していた可能性が強い。したがって、8月には既に山口に帰っていたと考えれば、7月までの作ということになってくる。以上の推測は、42番詩から44番詩までが「夏」に書かれたものだと認められれば、あながち的外れなものではない。
 (補註・この時期、中原の周辺では、おおよそ次のような出来事があった)

     6月30日 富永、京都に着き、正岡の下宿へ。

     7月       富永『橋の上の自画像』を作る

                 富永、7日付けで村井康男宛に書簡「ダダイスト云々」

     7月31日 富永、点呼のため帰京

  8月 6日 富永、家に無断で、再び京都に。

     8月16日 富永、点呼のため一旦帰京し、23日に京都にもどる。

                 この月、富永『Pantomime』を創る。

    9月 3日 この日以前に富永は下鴨宮崎町に移転、中也も泰子と共に石薬師上ルに転居する。

 中原は37番詩を、

   蛙が鳴いて
   一切がオーダンの悲哀だ

と締めくくっているが、この調子は43番詩の『呪咀』まで引き継がれている。主張を持ち、「夢」を持った一個人としての他者は、彼にとって外界と同様、意のままにならない大きな存在だったのだろう。しかも中也は、その夢を不当なものとして粉砕しようと試みていた訳であるから、二人の間がおかしくなるのは当たり前であった。

38番詩の冒頭の一行、

   過程に興味が存在するばかりです

は、31番詩の、

   尊崇はただ
   道中にありました

の部分に呼応し、中原の詩作に対する態度を明らかにしたものであり、歌うという行為そのものに、深い意義を認めていた彼の自己主張である。さらに、ここで言われている「過程」は、取りも直さずイメージを文字化するプロセスそのものを表す言葉であり、彼の内部に生じる直観された「認識以前」の原初的な像、完全性を備え調和され、統一された全体像、宇宙を、どのようにして言葉に置き換え、作品として定着させゐ行くかに、中原が最大限の努力を払っていた事実を示す言葉でもある。加えて彼の「恋」も、現実生活の「過程」の中にあり、揺れ動いていた。

   有限の中の無限は
   最も有限なそれでした     (第2聯)

 ダダイズムの絶対の内側にあったはずの中原がこのように言うとき、彼の言語表現に対する冷静な判断は「有限」の側に急傾斜しており、文字による表現は「最も有限」な方法として意識されているはずだ。しかし、彼自身の行為は「頭髪」を一本一本数えてゆくような、単純な作業の繰り返しでは決してなく、頭髪の例で言うなら「数える」という行為そのものが意味を持っている、という自負が中也にはある。このような認識のもとに36番詩は、次のような詩句で結ばれる。

   テーマが先に立つといふ逆論は
   アルファベットの芸術です

   集積よりも流動が
   魂は集積ではありません

 「頭髪を数える」――というようなテーマ設定が、創作に先立って取り決められた場合、認識以前を捧持する中原にとって、それは正に「逆論」であり、まったく記号的な文字の羅列に寄りかかってしまった、意識下の作業に従事することに他ならない訳で、作品の内容は「何本の毛があった」といった類の答えしか導き出せない結果に終わってしまう。これは詩人にしてみれば、単なる「集積」行為に過ぎず「流動」する「魂」とは、全くかけ離れた問題だということになる。この2聯には、自問自答のような調子も感じられ、中原が自己の詩作行為を改めて振り返ってみた結果として生まれた作品、のように思われる。

 その4 終わり



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