ダダイズムから象徴的表現へ

   色濃いダダの手法

 中也19歳、見つめる先には何が存在したのか

 39番詩から筆跡が全集・研究篇の言う「第1群C型」となり、この筆跡のグループとされているものは、44番詩の『真夏晝思索』までの6篇であるが、このうち40,41番詩は落書きのような断片にすぎないので、実質的には前後の4篇が、この筆跡に相当するわけで、その内の3篇が題を持っている。同じ筆跡で、書かれた期間が「ノート1924」の中では、最も短いと思われるこのグループの詩篇が書かれた時期は、先のB型の推測から敷衍して、夏休み前後とみるのが妥当だろう。 C型に属する各作品では、ダダイズムの手法が色濃く盛り込まれてあり、その用語法は「破格」そのもので、意味不明の箇所もかなりある。39番詩の持っている雰囲気は、すぐ前の詩の内容とはかなり異なっており、両作品の書かれた時間のズレ、詩人の側の意識変化を感じさせる。抒情的な言い回しは姿を消し、暗示的で不可解な言葉づかいが増えている。

   58号の電車で女郎買に行つた男が
   梅毒になつた
   彼は12の如き沈黙の男であつたに     (第1聯)

  「58号」は電車の行く先を示す路線番号あるいは車両番号などであるとしても、3行目の「12の如き沈黙」は難解である。「12」の数字そのものからは、時計の時刻「0時」が連想されるが、「0時」――真夜中――静寂――沈黙、とでも解釈するほかないだろう。このように数字が象徴的な形容詞として使用された例は他になく、唯一のものであるが、二つの数字には中原にとって何か特別の意味が込められているのかも知れない。また「沈黙の男」と「梅毒」のつながりも突然で分りにくい。初聯では言葉と言葉のつながりが、故意に破壊されているように見える。

     
   交通巡査には煩悶はないのか
   自殺せぬ自殺の体験者は
   障子に手を突込んで裏側からみてゐました
   アカデミッシャンは予想の把持者なのに…
   今日天からウヅラ豆が
   畠の上に落ちてゐました     (第2聯)

 「電車」から詩人(の視線)が街の中に在ることが分るので、「腕」は当然、交通整理をしている交差点の警察官のものを指しているのだろう。規則的に警笛を吹きながら前後左右に腕を振り上げ、振り下ろしながら、まるでバネ仕掛けの人形のように動き回っている「交通巡査」の仕草を見ながら、中也は独り苛立ちを覚えている。中原は機械的な、規則正しい運動を、何のためらいもなく続けている人物の中に、社会の仕組みにどっぷりと浸かり、自己の本質を何処かに置き忘れてしまった存在の空しさを見ている。第4行は不思議な言い回しだが、もどかしさを描写したものかも知れない。(この言い回しは後にも出てくる。) 規則正しく、ひとつの物事の義務的な作業の遂行に精を出す人の動きは「アカデミッシャン」(芸術家にたいして、単なる物好きとでもいう意味)を中原に想起させ、好事家の未来を無意味な運動による無益なものと決め付けている。この時、中原の脳裏に富永の姿がよぎっていた可能性もあるだろう。4行目から5行目へのまたぎ方には少々無理なところも感じられるが、大意は機械的な日常生活、作業に対する反感ということである。

   三歳の記憶

 問題は最後の2行だが、詩句の内容をそのままに受け取れば、現実には起こり得ない、非現実的なイメージの表出ということになるが、前行からのつながりは絶たれている。外界の描写を進め、終わりの部分に詩人の側の心情、ないしは心象を表出する、という方法が中原の作品には多く見受けられるので、この2行も彼の心象スケッチであると考えられる。つまり、彼の想像の世界では、経験的な判断に基づいて「予想」することの出来ない現象が、或いは、それのみが起こっている、と言いたいのかも知れない。中原には『三歳の記憶』という作品があるが、その第4聯は、次のように終わる。

   隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
   隣家は空に 舞ひ去ってゐた!

 このように解釈をしてくれば、電車――道路――交通巡査――機械的動作(没個性、日常生活批判)――日常的連続性――意外性の欠如――単純な反復行為による未来予測――詩人の想像力の意外性と優位性、という具合にイメージは連鎖してゆき、初聯3行の内容も「不測の事態による、一般人の驚き」と解することができる。日常生活の、一定の決められたリズムの中で暮らし続けている人々に対する、やや嘲笑的な態度もうかがえるが、この「男」は、時として中原自身の一部分であった可能性もある。何故なら「恋」に関して言えば、彼は正に不意打ちを食っていたのである。 続く40,41番詩の二つは、それぞれ2行立て2聯だけしかなく、思いつきのスケッチといった印象を与える短いものに過ぎない。 「汽車が聞こえる」「内的な刺激で筆を取る」「ハイフェンの多い生活」など、帰省あるいは故郷を思わせる詩句がみられ、40番詩では、

   勿論サンチマンタルですよ。

が最終行になっている。 これまでの制作時期の推測からみて、二つの断片が書かれたのは、やはり夏休み前頃であろうと思われる。(註・30番詩では「センチメント」であった言葉が上のようにフランス語読み風の言い方に変わっているのは、富永らとの交際が反映していると考えられる) 中原は独り部屋にいる。夜である。どこからともなく夜汽車の汽笛が流れて、彼は山口時代の旅行、そして京都に来たときのことを、つい昨日の出来事のように思い出し、また、遠い故郷に思いを馳せている。
 幼い日「蓮華の上」を渡って聞こえてきた、物悲しい汽笛のイメージがふつふつと湧き上がり「悪」を抱え込む以前の、希望に胸ふくらませ、ひたすら明日を信じていた頃の自己が、暗い部屋の中に甦り、彼の眼前に現出する。その幻影に引きずられながら筆を取った中原の意識は、一瞬のうちにダダイストとしての自己に立ち戻り、サンチマンタルに浸っていた己を批判する。

   「時計の時間」からの脱

 「不随意筋のケンクワ」で始まる41番詩も、下宿での「ハイフェン」――単純な繰り返し、記号的要素の多い生活を主題として、日常の時計の時間にしたがった生活からの脱出を描こうとしているが

△が○を描いて
      あゝスイミツトーが欲しい

というようなイメージしか生まれず、作品は完成しないまま中途半端に終わり、ダダイスティックな破壊力も、なんら示されてはいない。故郷、家族のことを思う中原には、単に感傷的な思い出にのみ囚われている彼には、力強さが感じられない。また、若しかすると中原は、この時すでに帰省していたのかも知れない。そうであるとすれば「ハイフェンの多い生活」は、生家でのものということになり、その方が分りやすい。中原は退屈している。
 「ノート1924」は、この40番詩あたりから、そのページの使い方が変則気味になってくる。例えば「緋のいろに心はなごみ」で始まる『無題』は、39番詩の裏ページに書かれている。
  今までに取り上げてきた各作品は、すべてノートの表ページに書かれているが、41番詩は40番詩の裏ページを使って書かれており、しかも1行だけの空白のあと『秋の日』(かなりの異文が存在し、未定稿と思われる)が続けて書かれている。また、この『秋の日』は次ページ(ノートの第42葉)の表ページに、42番詩の『旅』と共に置かれている。
 
この『秋の日』を含む、ノート末尾の7篇(『無題(緋のいろに心はなごみ)』から『浮浪歌』まで)は、Gペンの使用と、正字体の「な」「に」の使用、およびその筆跡の分析などから、1926年を遡らない時期に書かれたものと、全集・研究篇によって推定されている。しかし、これら7篇の作品には、定稿と初稿が入り混じっており、異なる時期にそれぞれ別に書かれたものと考えることも出来るしまた、そのように解釈した方が、定稿と未定稿の併記を説明しやすいだろう。

 (註・全集・研究篇の「草稿細目」によれば、Gペン使用の最初の例は、書簡10正岡忠三郎宛(1926年9月14日付け)であり、「な」「に」の正字体が最初に表れるのは、書簡9正岡宛(1926年1月26日付け)である。また、先の7篇について同資料は、清書グループとして『無題(緋のいろに)』『無題(ああ雲は)』『涙語』『浮浪歌』の4編、初稿グループとして『秋の日』『(かつては私も)』『(秋の日を歩み疲れて)』の3篇を上げている。いずれにしても、作品の持つ雰囲気、主題、作風、用語法、季節感などの各点を十分に吟味してゆかなければ、これらの作品の製作時期は明らかにすることが出来ないが、筆跡だけで年次を決定してしまうことには危惧を感じる。特に、清書稿とみなされているグループについては注意すべきだと思われる)

   来てみれば此処も人の世

        中也に安住の地はあったのか?   

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 42番詩の題名は「旅」である。先の二つの断片の存在から推して、帰省の旅行を題材にしたものであろうと考えられる。また、中原にとって、山口から京都に移り住んだこと自体が「旅」として意識されていたことも十分考えられる。 異文は2箇所しかなく、その内の1箇所は格助詞の変更で、あとの一つも大きな変化ではない。語法、言葉づかいは異常であるが、一応、2行ずつに区切ってみることもできる。

   夕刊売
   来てみれば此処も人の世
   散水車があるから
   汽車の煙が麦食べた
   実用を忘れて
   歯ブラッシを買つてみた
   青い紙ばかり欲しくて
   それなのに唯物史観だつた
   砂袋
   スソがマクれます
   パラソルを倒さに持つものがありますか
   浮袋が湿りました

  第2行目の言葉に中原の実感が込められている。山口時代から現在までの出来事を、ゆっくりと振り返ってみる心の余裕が生まれた彼は「結局、山口の田舎から遠く離れた、大都会の京都も同じようなものだ」と呟く。そして「人の世」の内側で生活してゆかなければならないもどかしさ、憂鬱さ、といった感情が顕わになっている。「人の世」というような言い回しからすれば、いかにも世間づきあいの煩雑さを中也が疎ましく思っているようにも受け取れるが、中原のこの頃の交際範囲は決して広いものではなかったし、田舎に居る両親との関係、あるいは長谷川泰子その人との間柄について語ったものと考えるほうが良いと思われる。

   春の夕暮』に繋がるイメージ

 「散水車」が道路に水を撒きながら走る、そこに現れる霧状の水を汽車の「煙」に連想させたものらしく、煙が低く田の面を這うイメージを作り出しているが「麦」にこだわらなければ、書かれた時期を夏に近い頃に想定できる。各行がそれぞれ2行ずつの一対とすれば「あるから」という言葉の使い方が異様だが、つながるべき言葉と言葉を、意図的に断ち切るための語法だと理解しておく。また、そこに「散水車」「があるから」「汽車の煙」のイメージが生まれた、と解せなくもない。夕方の、もやった風景を表出した、この3〜4行目の手法、イメージは18番詩『春の夕暮』と似通ったものである。描かれた風景は霞がかかったように不透明で、平板な印象を強く与え中原の心象が沈んだものであったことを裏付けている。 次の5〜6行目の2行は、前部とのつながりが切れ、転調し、そのままでも文意は汲み取れる。「歯ブラッシ」は、のちに『ゆきてかへらぬ』(季刊誌『四季』1936年11月号)の中でも、

   歯刷子くらゐは持つてもゐたが

として出てくる。中原の生活感を示す言葉の一つであり、最も身近な品物としての、そして貧しさを表すものとしての意味が与えられているようだ。 しかし「煙」が地を這う前行のイメージと「歯ブラッシ」の間には大きな落差があり、中原の意図は「実用を忘れ」ている自己の表出にあるようだ。ここには「人の世」の常識や通念、日常活動の枠組みから逃れてしまいたい、という欲求が隠されている。したがって、6行目までの大意は「人の世」の中に在らねばならないという認識からくる、中原自身のイメージの希薄化、そして、そのような「実用」にのみ左右される生活からの逃避ということになるだろう。問題は、後半部分の解釈である。
 中原が逃げ込みたいと考える場所は追憶、回想の世界か、或いは認識以前をテーマとして創作活動に打ち込める場所であるから、7行目の「青い紙」は「青く広い空のような」自由な場所としての創作(発表の場、紙面)という風に解することが出来るが、次行の「唯物史観」に戸惑いを感じる。中原が、この言葉にどのような意味を込めて使用しているのかも測りかねるが「なのに…だつた」という語法を、そのままに受け取れば「青い紙」は手に入らなかったと見てよさそうだ。つまりは、自由な創作活動をするだけのイメージの豊かさ、心の落ち着き、物質と意識の一体化が得られなかった、ということになる。また、単純に「青い紙」を作品発表の場としての紙面と受け取れば「唯物史観」は左翼系の雑誌――アカ、とも解釈できる。中原自身「アカ」という書き方を『千葉寺雑記』の中で使用している例がある。
 外界と対立し、中原は幾分苛立っている。その苛立ちの原因が「此処も人の世」という意識に負うところが大きいことは言うまでもないが、その「人の世」の中でしか生きてゆくことの出来ない自分自身へのジレンマめいた感情も入り混じり「認識以前」へのイメージの広がりは極度に圧迫され、現実の空間の只中で中原は、四方八方からがんじがらめのような形に追い込まれ、重苦しい外気が彼の体中を蓋い尽くす。その外気は、地を這う「煙」よりもずっと陰湿で、不透明な存在である。

負の部分」を垣間見る

 中也には「物」の本質が見えていたのか

 このような状況を、彼は重い「砂袋」、湿っぽい砂が腹いっぱいに詰め込まれた大きな袋に見立てているが、やがて彼はこの重圧に耐えかね、地面に押し付けられてしまう。「スソがマクレる」の「マクレる」は、恐らく『春の夕暮』のところで見た「瓦が一枚はぐれました」の「はぐれる」と、ほとんど同質なイメージが含まれており、現実と非現実との、文字として表現しがたい間隙の印象(名辞以前と言えばよいか)を定着させようとした言葉ではないかと思われる。「砂袋」そのものの「スソ」が「マクレ」れば、中に詰め込まれている砂は一挙に下方に落下する。その重く、質感のある物体が限られた空間に、と言うより平面に瞬時に落下し、堆積する一瞬、中原は何物かを垣間見ていたのだろう。この場合、落下する砂の一粒一粒が中原の現実意識の断片であったとしてもかまわない。この「マクレ」るという言葉には、元々平面でしかない物体を、想像世界の内部で無理やり裏返し、意識下では決して見ることの出来ない「物の負の部分」(影という意味ではなく、現実には見えない物の隠された素顔とでも言うべきもので、現実側をプラスの世界としたとき、その反対側マイナスの世界にあるもの)を垣間見る、といった理屈では解釈しようのない非現実感が込められている。また余りうまい言い方ではないが、この袋のスソが「マクレ」る時、中原と対象として存在している「砂袋」は一体化するのである。

 マクレた袋のスソの形状から、逆さにした「パラソル」の形を連想するのはたやすいが、最終の2行も、非現実的な存在としての自己の表象かと思われる。また「砂袋」と「浮袋」は明らかに対として用いられてはいるのだが、この使われ方では、余り「浮遊」のイメージは与えられていない。むしろ逆に、役立たずの道具といった意味合いのほうが強い。全体として中原の精神は下方向にうなだれ、傾いている。「旅」は、果てしなく続けられなければならない。「青い紙」を手に入れるまでは。
 「パラソル」を逆さにしたような、不安定で陰湿な中原の精神は、自らの境遇を次のような形で表出する。

   土橋の上で胸打つた
   股の下から右手みた
   黒い着物と痩せた腕
   縁側の板に尻つけて
   障子に手を突つ込んで裏側からみてゐる
   闇の中では鏡だけが舌を光らす
   一切が悲哀だつたが恋だけがまだ残された
   だが併し、女は遂に威厳に打たれることのないものでありました

 43番詩は『呪咀』と題され、奇妙な仕草が言葉に置き換えられており、当時の中原の心情が当たり前の状態ではなかったことを暗示している。全体としての雰囲気は、前に見た8番詩『自滅』のそれと似通っており、詩人の意識の対象として、極めて親しい人物が浮かび上がってくる。また8番詩との類似は、単に全体のイメージだけではなく、第1行目と2行目の言葉使いは、8番詩にも、そっくり用いられている。さらに、5行目の言い回しは、39番詩の第2聯第4行とほぼ同じ物である。
 これらの類似については、恐らく8番詩から43番詩までの作品の制作に費やした時間が長期間にわたるものではなかったことを示している。しかし、この43番詩が作られた時期が1924年の夏であり、中原が帰省していたとすれば、これらの言葉使いには、何か特別の意味が込められていたと考えたほうがよい。
 まず「土橋」だが、この言葉は、中原の散文『分らないもの』の中で、

   グランドに無造作につまれた材木
   ――小猫と土橋が話をしてゐた
   黄色い圧力!

という『夏の晝』の一部分として表れ、実弟の中原思郎はその著書『兄中原中也と祖先たち』(審美社1970年刊)の中で、

   吉敷の中心を流れる水無川にかかる土橋の上までくると、
   すっかり吉敷に入ったと言う感じになる。     (16ページ)

と、幼い頃「乳母車」で通った小径の風景を思い出して書いている。二つの「土橋」は、決して同質のイメージを有している訳ではないが、中原の側には「土橋」のある風景が、故郷の象徴の一部として存在していたのではないかと考えられる。この「土橋」(向こう側とこちら側を結ぶ接点としてのイメージも含まれている。その場合、向こう側が非現実の世界となる)は、京都に移り住んでからは「木橋」へと変化するのだが、それは『ゆきてかへらぬ』のなかで、次のように歌われる。

     木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、
     風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。

 中原は、幼い日日を家族たちと遊んで過ごした故郷のイメージを「土橋」に託し、希望に燃えていた頃の自己を懐かしんでいる。第1行目の意味は「何になろうか」と考えていた中也の姿勢そのものの表現であり、視線は遠くを指し、彼は自由を満喫していた。しかし、見方を変えれば、この「胸を打つ」という行為は、彼自身の抱える苦しみを表しているものでもあり、長兄としての彼に家族から寄せられた期待の重さを反映したものであるとも解釈できるだろう。いずれにしても、中原の心情は故郷に飛んでいる。悪を抱え込む以前の自分自身には、何物にも束縛されない自由が、あらゆる可能性があった――と。

 2行目に描かれている行為は「呪咀」という題から関連づけて考えれば「後手」(しりで・古代の風習で相手に対して何かを呪うときの行為とされている)が思い浮かぶ。この「後手」は『古事記』の海幸彦・山幸彦の件にも出てくる表現なので、当然、中原も知っていたと思われるのだが、そこまで比較するのは行き過ぎかもしれない。先の「マクレ」ると同様、言葉にうまく置き換えられない、もどかしさを感じる部分である。 第3行目から5行目までの描写も、中原自身のことを表しており「黒い着物」「痩せた腕」の言葉と相まって暗い、そして不健康なイメージを読む者に強く与える。特に、5行目に表された、一見とてもぎこちない動作は、中原の情緒が病的な一面を内包していたのではないかとさえ思わせる。夕暮れ時の縁側に独り座し、中原が呪っていた相手は一体誰なのか?あるいは彼自身の現存そのものを呪っていたかも知れないのだが。

 障子の紙に浮かび上がった手の影絵は、それだけで不気味だが、それをじっと見詰めている中原の眼の表情はもっと異様さを秘めた、非現実的なものに思われてならない。多分、そこにある「」の影は、現実存在のものとしてではなく、別の世界からの来訪者の姿として中原に意識されていた。そして彼には、その影が持つ重みまで感じられていたに違いない。 もっと想像を逞しくすれば、中原にとって真に存在する(永遠性を秘めたという意味で)「手」は、自分の肩の先に着いている、肉体の一部としての手ではなく、障子の裏側にある隠れた陰の手に象徴される何物かであったのだと思われてくる。後に詩人は「手」という名辞が浮かぶ以前に感じられる「手」のことについて述べているが、恐らく、このように中原が言うときの「手」は、43番詩の中に出できている「手」と同質なもののはずである。しかし、この作品では名辞以前、認識以前の世界の広がりは生まれ得ず、暗い「闇」の内側へ中原のイメージは吸い込まれてしまう。

   闇の中に出現する鏡

 「闇」の中に出現する「鏡」は、中原の過去と現在を照らし出す冷静な意識そのもので、彼の大切な想い出の表出も次第に繰り言めいた呟きとなり、その饒舌さを彼自信持て余し気味だ。しかし、この5行目の転調が、それまでの4行とは異なる世界への広がりを生み得るイメージを内包しているのも事実で、中原の視線が「鏡」を真正面に見すえ「鏡」の奥にあるものを、もっと見詰めていれば、詩は、より形を整えることが出来ただろう。中原は、そのような作業に集中できるだけの力を、その時持っていなかった、としか理解できない。

 彼は「闇の中」の「鏡」と対峙することを避けるように現実生活の場へ立ち返り、「恋」を持ち出してくる。「一切が悲哀だつた」の表現『ゆきてかへらぬ』の、

   僕は此の世の果てにゐた

の部分と正確に呼応しているが、後者ほどの切実感もなく、詩的な高まりや広がりにも欠け、中原の精神が落ち着きを失っていた事情を示している。
 「まだ残された」の言い回しには、彼の恋(恋人)に対する自信も窺えるが「女」に「威厳」を示そうとする詩人の背伸びした姿は、こっけいに見えてならない。中原が彼女に求めていたものと、女が中原に与えていた役割との間には、途方もなく大きなズレがあったのだが、中原は未だ気付いていない、気付こうとしていない。「砲弾」は自己を正しく表現し、相手を圧倒してゆく中原の言葉、理論そのものだが、自己の未来にのみ焦点を合わせている「女」にはそれも通用せず、彼は説明し説得することを諦め、静かに見守る立場へと変化してゆく。

 「呪咀」の対象は「女」だったのか、また肉親であるのか、それとも詩人自身であったのかも知れないが、中原がこの時期に、このような精神状態にあったことは、しっかり掴まえておかねばならない。干渉のない、親許を遠く離れ、恋人にも恵まれ、創作の自由をも得ていたはずの中原が、このようなテーマを詩作の中に持ち出したことは、彼が創作について方法的な矛盾に陥っていたのではないかと思わせるのに十分な材料となる。 もはやダダイズムの手法は「絶対」的な価値を失いつつあったのではないか。そして又、富永の出現は、彼の東京行きの早期実現に対する思いを、より切実なものとした。さらに、富永たちを通じて知った、多くの詩人たちの作品も「表現上の真理」を求める中原にとって、大きな刺激となったことは容易に想像できる。

 「ノート1924」の他にも当時の習作を書き連ねたノート類が在ったのかも知れないが、ダダ詩の創作は、この後2篇を残して中止される。そして、ダダ詩に代わって中原の関心の的となったものは多分に自伝的な要素の濃い散文であった。ほぼ1年余にわたって続けられたダダイスティツクな表現の試行錯誤も、結局、中原に十分な詩作品を書かせることは出来なかった。44番詩『真夏晝思索』のあと途切れたダダ詩制作の背景には、中原の作詩に対する方法的な矛盾の意識があったのであり、更には富永太郎という人物の存在が在ったのだと考えられる。
 44番詩の内容も、ダダ的な色彩が濃いが、彼の内部には、

   物識りになつたダダイスト

という反省も生まれており、自己の思惟、創作が十分な必然性を持たずに行なわれてきていた、という認識が芽生えている。また一方では「天才」を自負しながら、自己の内部に起きた矛盾については

   矛盾の存在が当然なんですよ

と逃げて「ヂラ以上の権威」は認めないと、はぐらかしてしまっている。(「ヂラ」はジレンマのこと)ダダの理論に不満を感じ、かつ不信感を抱いた時点で「ダダイスト中原」は当然、崩れ去るべき性格のものだが、彼はそのような自己の変質をも、あえて容認しようとしている。

  これは当時の中原がダダイズムの絶対、永遠性に代わり得る表現方法を見つけていなかった事情によるもので、「認識以前」の領域の深化も、さほど進められてはいない。繰返して言うが、この頃の中原には、まだ『地上組織』に見られるような神と自己との理論的な関係付け、存在の自己証明は明確に成立しておらず、ダダの絶対と神の完全性の間に立った、極めて精神的に中途半端な状態にあった。また宇宙と自己との位置関係の再認識も、彼の覚めた意識の部分にはのぼっていない。この時彼は、およそ純粋で断定的に外界を遮断し、内的イメージを詩世界として統一した形に表現できる存在ではなく、相対的な存在としての自己の実像と正面から向き合っていたのである。もっと言葉を変えて言うなら、当時の中原は実生活の次元で観察と思惟を重ね、イメージの広がりを得ようとして得られず、苛立っていたのである。しかし中原は種々の思い――ハエ――雑念を追い払いながら、歌うべき存在としての自己を見失わないように心掛けている。あらゆるジレンマの中に在りながらも、歌うことが彼の唯一の仕事であったのだから。

 この44番詩をもって、筆跡分類「第1群C型」のグループは終わる。中原のダダ詩作成の意欲は、ここにきて急速に冷えてゆき、44番詩と次の作品の間には、内容的にも時間的にも大きな隔たりが感じられる。45番詩は題も持たない6行のみの断片だが、その言葉づかいはダダ的と言うよりも、象徴詩的な色合いの方が濃い。また、一応、1聯2行立ての形式を取り入れている。

          空は中也の好きな言葉だ   

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   人々は空を仰いだ

の書き出しには、何か長い時間考え抜いてきたというような感慨が感じられ、中原の振り仰いだ「空」は、恐らく「至高天」に通じていたのだろう。中原の季節に対する感情を重視して、次の『冬と孤独と』を実際に冬に作られたものと仮定するなら、夏から冬までの数ヶ月間に書かれた作品は『或る心の一季節』を含めて、僅か3篇ということになり、他の散文の存在を考慮しても、余りにも空白感は大きい。

 したがって、第2行目の、

   堀が長く続いていたため

は中原が詩作について相当の期間、考え続けていた事情を指すものと考えられる。勿論、京都に在った富永との交際も、この秋には相当突っ込んだものになっており、当の富永は1924年11月15日付の村井康男宛書簡の中で

     ダダイスとの嫌悪に満ちた友情に淫して40日を徒費した

と述べて中也との付き合いが相当激しいものであったことを裏付けている。中原は、この年の9月、京都石薬師上ルに移転しており、富永とは毎日のように会い、詩についての考え方を富永にぶつけ、独りになっては又考え続けていたものと思われる。この二人の間が最も親密であった頃、東京に居た小林秀雄はランボオ『地獄の一季節』の一節を書き送り、富永は10月頃、散文詩『秋の悲歎』を物している。

富永が示した象徴的表現

  教養ある年上の詩人富永太郎に対し、中原はダダイズムの絶対の理論で対抗しようとしていたのであろうが、この期間にダダ詩が書かれていない事実は、中原がダダ詩そのものに対する評価を既に変えていた事を意味している。中原の内部に潜んでいた「言語の相対性」に関する根源的な懐疑、そして表現の完全性への欲求は、富永の示した象徴的表現によって、或る程度の手掛かりを与えられた。また「認識以前」のイメージを追い続けていた中原にとって、破壊的なダダの表現よりも、洗練された象徴的表現は魅力のあるものに見えただろう。そうした中で、再び中原は「空」を見、その存在を改めて強く意識したのである。
 肉親や女、そしてまた将来のことなどに頭を悩ませ、十分な詩作の出来ない中原にとって、富永の示した次のような表現は新鮮なものと映ったはずだ。

     私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる
     直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない

「私は私自身を救助しよう」という締めくくりには、中原がどのような反応を示したのか分らないが、45番詩の中で彼は自分の生活がそして思想が、

    悲劇の因子に充ち満ちてゐる

と自覚するだけの余裕を取り戻している。『詩の宣言』(『詩的履歴書』より)が書かれたのは、このような時期であった。

     人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を
    政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。
   私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。

  内容、字句の細部については12年間という時間も経過しており、多少の覚え違いはあるにせよ、中原は先の40番詩でみせた矛盾への対応を正確に描写している。彼にとって「最初の反省」は、西光寺から戻った頃に生まれたもので、それは自己内部の悪の自覚であり「悪魔心」の認識に他ならなかった。上の宣言は、彼の詩作に対するものと言うよりは、文中にもあるように「政治的」な存在(人との付き合いにおいて、自己の真の姿をさらけださない、世間ズレした純真ではないと言うほどの意味)に成らざるを得なかった人間、そして中原自身の自己弁護であり、純粋さを歌い続ける「悲嘆者」という役割を負うことによって、自己の存在を正当化し、意味付けようとするものである。彼は確かに表現の完全性、絶対性を意識して言葉と格闘する受難者であったのかも知れない。「悲劇の因子」は外界にも彼の内部にも充満していたのであり、彼は歌うことによって、歌を意識することによって、かろうじて精神の平衡を保持していたのである。

 ノート最終の詩『冬と孤独と』は、未来に不安と期待を同時に抱いた中原の、やや落ち着きのない視線が感じられる。

       新聞紙の焦げる匂ひ
       黒い雪と火事の半鐘
   私が路次の角に立つた時子犬が走つた

    「これを行つたらどんなごみためがめつかるだらう」

        いろはにほへと……

  中原の精神的な不安に、一層拍車を掛けるような出来事が起こった。富永が、同人誌『山繭』に詩を発表したのである。この雑誌は12月1日付けで発刊され、3日には富永自身も東京へ帰った。富永は、この年の10月11日に喀血していたが、自己の健康に極度の不安を感じていたにもかかわらず、その事実を正岡や冨倉には勿論、中原にも知らせてはいなかった。『秋の悲歎』に出て来る、

   私は私自身を救助しよう

という、さり気ない口振りの背後で富永は自分の「死」を間近に感じ取っていたに違いない。その富永の心情などおかまいなしに、自己を強引に主張し続ける中原の存在が、次第に疎ましくなったとしてもおかしくはないだろう。 富永が置き土産のような形で残した、同人誌への作品発表は、中原にとって、一つの事件であった。この1924年の11月から12月という時期に、中原には詩人として立つ、という確たる自信はまだ無かった。それは、富永が村井に宛てて「40日を徒費した」と書き送った直後から、第2期の散文制作が始まっていることに明らかである。 中原は、この年、11月21日『耕二のこと』、同月25日『』、12月29日『蜻蛉』、翌1925年1月13日『鉄拳を喰らつた少年』と、立て続けに4つの散文を書いており、この時期に書かれたと推測される詩作品は、先の45,46番詩の2篇しか残されていない。彼の目標の一つが小説家であったことは間違いない。中原には、富永の散文詩に匹敵するだけの詩作品がなかった。中也が富永の後を追うように上京するのは、1925年の3月中旬のことである。
  東京での創作活動も、先ず散文から始めらたと見られる節がある。

  ダダ詩の絶対による表現の過程で中原は、名辞以前のイメージ世界、認識以前の世界を表出することによって、言葉による表現の相対性を乗り越えられると考えていた。神の絶対はダダの絶対と対峙し、これを自らの内部で二元的に捉えることによって中原は、精神の平衡をも維持し、詩作は続けられたといえる。 山口時代の「見神」は、彼に悪を強く自覚させ、倫理的に中原を強く規制したが、その「悪」をも含めて、あらゆる束縛から自らの魂を全的に解放したいと願い続ける彼は、一時期ダダイズムの「一切は可能だ」「一切は私のためにある」という独断に立って、自らの行動の全てを正当化しようとしていた。しかし「神」は、ダダの人形に取って代わられることはなく、彼の内部の奥底で常に一定のエネルギーを持って保持され、倫理および価値観の基盤としての地位を占めていたのだといえる。彼の行動が日常的ではなく、一般人の通念からすれば、かけ離れていると思われる反面、中原の詩作品の中に倫理的な価値観が散見するのは、そのためである。また、これまでにのべて来たように「神」の絶対性、統一された秩序ある世界という確かな思想的価値観が中原の側にあったからこそ、ダダの破格に異質の自由を「発見」し、再び「」の論理へと彼は回帰し得たのである。

 今となってみれば、中原が弟の死や、肉親の愛に対して、どのような思いを抱いていたかというようなことは、凡そ想像の域を出ない。然し、彼が、彼の肉親に対して抱いていた深い情念は、田舎の長男意識として片付けるには、余りあるものが在ったのではないかと言えるだろう。詩人の帰るべき場所は、故郷以外には無かったのである。
 中原中也が、生来の詩人であり、詩人となるために生を受けたとは決して思わない。彼は、ただ、すべての束縛から解放されたいと真剣に、心の底から望んだ。そして、歌うことが、心の自由さを増すことに気付いた時から、彼は、より自由に歌う方法を求める努力を始めたのだと言える。その意味で京都時代は、正に『或る心の一季節』であったに違いない。

 中原が、自分には「詩しかない」と切実に感じるのは、もう少し先の事になる。東京には小林秀雄が居た。そして、1925年11月12日、富永太郎は他界する。

                                                                     (終わり)

 以上で、この小論は終わりである。文章は、今(2001)から20数年以上も前に書いた、そのままを忠実に再現した。自分で書いた文章なのだが、解説文も、そして論理そのものにも不十分なところがそこかしこにあるのだが、それも致し仕方がない。これを書いた当時の自分が、そう感じて、そう意識していたのだから(2001年4月)。


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