人物画像鏡阿蘇溶結凝灰岩が教えてくれる事                         「サイトの歩き方」も参照してください。

国宝の人物画像鏡を伝えてきた事で知られる和歌山県橋本市の隅田八幡神社は、京都の八幡市に鎮座している石清水(男山)八幡神社から八幡神を勧請して建てられたものだと社の案内板に記されています。その石清水社自体が、孝徳女帝が惹き起こした「道鏡事件」(769年)のほとぼりが冷めた九世紀半ば(859年)に宇佐から遷って来た、畿内では格段に新しい神様でした(社伝によれば、南都大安寺の僧行教が宇佐に籠って国家鎮護の託宣を感得したとされています)。宇佐神の遷座は翌貞観二年のことでしたが、神仏双方の加護を求めた朝廷に神様と仏様がこぞって協力した結果が男山八幡神社の建立だったと言えそうです。さて、その鏡については何度かオノコロ・シリーズで取り上げ、筆者なりの解説も披露してきましたが、隅田鏡そのものは大陸で製造され我が国に齎された舶載鏡ではなく、元々誰かが所有していた「元鏡」(の複製品)を後の時代にコピーした模造品だったと思われます。更に、それを行った職人や持ち主には外国の画像鏡に関する細かな知識も希薄であったため、複製自体も極めて粗雑な結果とならざるを得ませんでした。ただ、隅田鏡には「癸未年」「八月日十、大王年」「乎弟王」「意柴沙加宮」などの文言を含む銘文が刻まれているため、考古学者のみならず古代史に興味を持つ多くの人々の関心を早くから集めてきたのです。

石清水八幡神社  隅田八幡神社

今回の主題も画像鏡には大いに関わりがあるのですが、記事のきっかけを作ってくれたのは岡山での古墳巡りでした。古墳という古代人たちの埋葬文化そのものに「吉備」地方が大きな役割を果たしたと云う見方が専門家たちの間では支持を得ているようですが、神武帝に擬された天孫一族が九州から「東の美しい国」に移り住み一家を構え、更に、その後二世紀余りの時間差で再び九州を地盤に持つ天孫の後裔が東へ駒を進め、大和朝の首座の地位を踏襲した、のではないかと謂う「仮説」を持論とする筆者も、様々な古代氏族の系譜を漁り、近畿地方に散在する特殊な石棺材(阿蘇溶結凝灰岩、その一部が阿蘇ピンク石と呼ばれている)の幾つかをこの目で確かめ、石榑に指で触れてみた結果、未だ解明できない不透明な部分が其処ここに残ってはいるものの、応神大王家と吉備地方との縁が尋常のものではなかったと考えるようになったのです。話の舞台は、岡山赤磐市(旧、赤磐郡)に飛びます。

岡山市の東に隣接する同市は、旧備前国の国分寺も建てられていた古代山陽道の要衝で、研究者たちが想定している『古代の道』沿いには全長206mの規模を誇る両宮山古墳(方円墳、五世紀後半の築造、ただし葺石や埴輪無し)があります。その盟主の墓を取り囲むように幾つもの古墳が付きしたがっているのですが、今回の主役とも言える朱千駄古墳(方円墳、全長85m、五世紀末頃)と小山古墳(方円墳、全長54m、五世紀末頃)も両宮山古墳の倍塚或いは一族の物と考えることが出来るかも知れません。規模的に二回りほど大きい朱千駄古墳の石棺は現在、岡山県博物館に展示されていますが素材は播磨竜山石で王の棲家に相応しいものです、そして、この古墳からオノコロ・シリーズでもお馴染みの神人歌舞画像鏡(面径20.3㎝)が出土し、一方の小山古墳には九州の阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺が埋納されていたのです。両宮山古墳自体に葺石による装飾が施されず、吉備で発展したと考えられてきた特殊器台などを含む埴輪の存在が一切確認されていない点には眼を瞑るとしても、吉備と肥の国との繋がりは確かな様に見えます。このサイトでは石棺材及び画像鏡を主題にした記事をこれまでにも皆さんに提供してきましたが、阿蘇溶結凝灰岩の中でも阿蘇ピンク石と呼ばれる石材で造られた石棺から神人歌舞画像鏡が出土した珍しい例が大阪藤井寺に在った長持山古墳(円墳、墳径40m、五世紀後半頃)です。この古墳の墳丘は既に失われていますが、幸いなことに二つの石棺が保存されており、見学も自由に行えます(専門家によれば同墳は近接して造営された允恭陵[市野山]古墳の倍塚ではないかと見られています)。

下に画像を紹介していますが、長持山出土の一号棺(右側)「小口側」(棺の短い方の辺)に見られる縄掛け突起の形状は、小山古墳の物に良く似ています。そして何より、これらの石棺は何れもが九州の阿蘇溶結凝灰岩製であって、長持山2号棺は畿内で初めて使われた阿蘇ピンク石として様々な文献でも紹介されてきました。また、吉備では最大規模を誇る造山古墳(方円墳、全長360m、五世紀中頃)からも阿蘇溶結凝灰岩製の長持形石棺(身)が出土していますから、五世紀半ば頃吉備と九州肥後そして畿内の三地域は実力者たちの埋葬儀礼に欠かすことのできない石棺材を「共有」する関係にあったことが分かります。

長持山石棺  小山古墳の石棺  

この事実だけをもって三つの地域の実力者たちが「同盟」して大和政権を運営していたと決めつけるのは早計ですが、帝室と吉備氏とのつながりは大和朝の初期から顕著であり、景行帝と稲日大郎女の婚姻が二つの勢力の合体を象徴しています。また、景行の九州遠征譚そのものが「神話的」であるとしても、彼が長期間に渡り九州の地に居を構えて勢力の拡大に努めたと云う記紀の主張は、大王と九州との深い縁を物語風に脚色した内容だと考えても可笑しくはありません、それはさておき。石棺の旅の続きです。ページの冒頭では石清水社の遷座を紹介しましたが、実は阿蘇産石材の使用例として最も早いものが社の近くに造営された八幡茶臼山古墳出土の船形石棺なのです(上右の画像)。この古墳も住宅地造成の過程で消滅しましたが四世紀後半~同末頃に造られた双方墳で全長は凡そ50m、石棺の産地は熊本氷川下流域と想定されています。つまり、古墳時代前期に山城の地で水運の管理者となった人物は「方円墳」を築造できる程の地位では無かったものの、恐らく彼の一族の出身地と関わりの深い阿蘇から態々石棺を取り寄せ、自らの寿陵を木津川流域一帯を見下ろす位置に営んだのではないか、と推理されるのです。景行帝の在位を「四世紀半ば」頃だと仮定するなら、記紀の云う九州巡幸につき従い或いは先導し、手柄を上げて帝室の覚えが目出度かった一族が山城に居たとしても不思議ではありません。

朱千駄古墳と長持山古墳をつなぐ画像鏡

若し、そのような想像が許されるのであれば「阿蘇の石で拵えた棺」という概念と現物を畿内に持ち込んだのは九州肥の国を故郷に持つ人(一族)だという事になりそうです。そして考古学の資料によれば、①氷川下流域、②菊池川下流域そして③宇土半島(馬門)などで切り出された石棺は、

  山城・八幡茶臼山古墳--播磨・御津町中島石棺--讃岐・長崎鼻古墳、丸山古墳--吉備・造山古墳前方部石棺、築山古墳

など明らかに「大和以外」の土地の実力者たちによって利用された後「河内・長持山1号石棺、唐櫃山古墳、長持山2号石棺、峰ケ塚古墳」などでの造営を経て、大和の領域でも使用されることになったと判断されます。この地域で最も早く造られた例が野神古墳だった確証はありませんが忍坂に近い金屋ミロク谷石棺、慶雲寺石棺と共に五世紀後半~五世紀末の築造時期を想定すると、野神の位置が和爾氏(春日氏)の勢力圏の只中にある点が関心を呼びます。何故なら、下でも述べているように垂仁皇子の石上神宮管理を「神託」を得て受け継いだとされる人物が春日氏の祖でもあるからです。さて残るのは画像鏡の解析だけですが、上で見てきた長持山古墳と小山古墳出土の石棺の特徴の類似性を重視すると、どちらが先行したのかは別として朱千駄古墳と長持山古墳は極めて近接した時期(五世紀後半~五世紀末頃?)に築造されたと考えて良さそうです。つまり、ほぼ同時期に吉備と河内の二つの地域で九州阿蘇産の石棺が実力者たちの終の棲家として用いられ、彼等は誰かから神人歌舞画像鏡を贈られていた訳です。本来ならここで、二つの古墳から出てきた鏡を対照すべきなのですが実は、それは叶いません。と云うのも長持山鏡は海外へ流出したとの噂があり所在不明で、朱千駄鏡も岡山県立博物館が管理している様なのですが画像は所有者の意向で一般に公表していないのです(注意:下で紹介している朱千駄古墳石棺の画像は岡山県立博物館の提供によるものです、許可なく転載することは出来ません。下右画像は両宮山古墳です)。

朱千駄古墳  朱千駄古墳石棺  

野神古墳  慶雲寺石仏   PR

隅田鏡に関わる細かな分析は別のページに譲りますが「八幡神」を重要な補助線と考えて四世紀~五世紀の倭国を眺めてみたいと思います。父親(仲哀)は「神の意向に副わなかった」ため長寿を得られなかったが、神の加護を得た母親(神功皇后、息長帯姫命)は海外遠征で華々しい成果を上げ、その子供であるホムタワケ(応神)は母の胎内に在る時から大王の位を約束された偉大な存在であった。その大王は「九州」で生を享け母親と共に大和を目指しますが、途中、先帝の遺児たちに行く手を阻まれます。この難敵を謀り事をもって打ち破った功臣が和爾臣の祖・武振熊だったと日本書紀は伝えています。神功の系譜上の祖先は彦坐王と袁祁都媛(和爾氏)ですから、応神帝を中核に据えた和爾氏と息長氏の二重の血縁の垣根が帝室を取り巻いて守っていることが分かります。応神の即位を「四世紀末」頃に想定するなら、山城の八幡茶臼山古墳の主が大王の出現と無関係であったとは考えられません。また、応神は初期ヤマト朝が吉備の協力のもとに作り上げた方円墳による大王権の象徴化という埋葬文化を継承しているので、前王朝とも何らかの繋がりを持つ人物だったと思われます(崇神から始まる大和朝との間に断絶は無かった)。

大王として特に顕著な実績を持たない応神帝が帝室で重きを為すに至った背景には、母親の大活躍という「神話」の存在もありますが、ほぼ一世紀近くの時間を置いて、再び大王位を巡って後継者争いが起こり、応神の血を引く人物(継体帝)が実力で大王の座に就いたと云う事実が在ると言えるでしょう。時代は既に六世紀に入っていましたが、未だ和爾氏も健在であり息長氏ともども「胎中天皇」としての応神を文字通り「神」に祀り上げたに違いありません。邪馬台国の卑弥呼を例に上げるまでもなく、古代の指導者にとって「鏡」は祭祀に不可欠でした。そして三種の神器を構成する「剱と玉」の内、権力の象徴とも云うべき「(スサノオに関わる)剱」が吉備の国から大和に齎されたという伝承は、帝室にとって重要な人物が吉備の国(を経由して?)から大和に入った事実を暗喩しているのかも知れません。更に推理を進めるなら、垂仁の皇子、五十瓊敷入彦命が造った「一千口の剱=強大な実戦部隊?」を一旦、忍坂邑に収めた後、石上神宮で管理し、和爾氏の市河が実務を担当したという書紀の記述も、垂仁帝の治世において武器庫の取扱い(指揮権)に変化があった証左と云えなくもありません。

垂仁帝に絡んで、もう一つ興味深い事実があります。このページ冒頭で紹介した「道鏡事件」で活躍し、九州の宇佐神宮から「正しい」神託を持ちかえった奈良朝の忠臣・和気清麻呂の名前はご存知だと思いますが、彼の出た和気臣は垂仁帝と妃・渟葉田瓊入媛の子、鐸石別命(ぬでしわけ)を遠祖に持つ旧家で、元の姓を「磐梨別(石生別、いわなしわけ)」と称していた氏族です。つまり備前の和気、磐梨、赤坂などを地盤に持つ地方豪族だったのですが、今回の舞台となった石上布都神社が建つ旧赤坂郡石上村は正に清麻呂の地元と言って差し支えありません。また「新撰姓氏録」は、

  神功皇后征伐新羅凱帰。明年車駕還都。于時忍熊別皇子等。窃搆逆謀。於明石堺。備兵待之。皇后鑑識。遣弟彦王於針間吉備堺。造関防之。所謂和気関是也。太平之後。
  録従駕勲。酬以封地。仍被吉備磐梨県。始家之焉。光仁天皇宝亀五年。改賜和気朝臣姓也

と「故事」を語り、和爾氏と同じ様に神功・応神親子の大和凱旋に「勲(功)」が認められ磐梨県を領することになったのだと主張しています。応神大王の即位に「勲(功)」を挙げたとする吉備の有力氏族が、その祖先を垂仁帝に求めているのには、それなりの理由が存在していたのではないか?つまり、垂仁帝その人が応神の出現に深く関わっていたのではないか、と云うのが筆者の結論です。細かい氏族分析などは「応神帝の父親は稲背入彦命か?」などを参照してください。


石上布都魂神社は和気清麻呂の地元に在る社

ここからのお話しは付け足しです。大和の石上神宮には一つの伝承があります。「先代旧事本紀」によれば、

  磯城瑞垣宮御宇天皇(崇神)の御世、大臣であった伊香色雄命に詔を出し、建布都大神社を大倭国山辺郡石上邑に遷して斎祀った

と云う内容なのですが、勿論、記紀は全くそのような事績を伝えていません。そして、本紀の云う「建布都大神社」とは、今も岡山県赤磐市に在る石上布都魂神社(いそのかみふつみたま)のことで祭神は素戔嗚(明治以前は十握剣)です。旧事本紀が書かれた歴史的な背景を思えば、この「主張」が、物部氏の存在そのものに関わる事柄であったと推察出来ますが、日本書紀は確かに崇神紀七年で『すなわち物部連の祖、伊香色雄をして、神班物者』にしたとは伝えてはいますが、石上神宮の祭祀には全く触れていません。また、垂仁紀三十九年冬十月条には、

  五十瓊敷命、茅渟の菟砥川上宮に居しまして、剱一千口を作る。(中略)石上神宮に蔵む。この後に、五十瓊敷命に命せて石上神宮の神宝を主らしむ。

とあり、更に八十七年春二月条に『而して遂に大中姫命(五十瓊敷入彦の妹、母親は皇后日葉酢姫)、物部十千根大連に(神宝の管理を)授けた』と記録していますから、旧事本紀の著者にしてみれば「神宮の祭祀と神宝の管理を大王家から初めに任されたのが物部である」という自負があり、それが上の文脈となって表出したと想像できます。また、隅田鏡にある銘文の文言も、五十瓊敷入彦命が「剱一千口」を初め「忍坂邑」に蔵め、後、石上神宮に移して管理したとの伝承を当然意識した内容になっていると思われます。ただ、石上神宮の性質が複雑で中々一筋縄では解釈しにくいのは「新撰姓氏録」(大和国、皇別)に次のような氏族が載せられているからです。

  布留宿禰 柿本朝臣と同祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。(中略)大鷦鷯天皇の御世、倭に至り、布都努斯神社を石上布瑠村高庭の地に賀い賜う。
         男市川臣を以て神主とす。四世孫額田臣、武蔵臣、斉明天皇の御世、蘇我蝦夷大臣、武蔵臣物部首並びに神主首と号う。

「新撰姓氏録」(布留宿禰)  「書紀」垂仁39年条より  石上神宮

これが、日本書紀自身が註文で記した「春日臣の族、名を市河をして(石上を)治めしめよ」(三十九年条)に対応しているものであることは明らかですが、その系譜は物部ではなく、孝昭帝を源に持つ和爾氏の一流で、所謂「春日和邇」と呼ばれる氏族に他なりません。ただ、朝廷内で祭祀を執り行う氏族に消長があったにせよ「旧事本紀」にある『建布都大神社を大倭国山辺郡石上邑に遷して斎祀った』の文言が、書紀の垂仁紀に現れる『剱一千口を初め「忍坂邑」に蔵め、後、石上神宮に移して管理した』という弐段構えの修飾文よりも「古い」形の伝承であると思われますから、その意味でも『大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に至り』の一文が大変注目されます。また「神主」という言葉から我々は「神職」のイメージを思い浮かべますが、古代においては社のような大きな建物(庫=くら)が、有力氏族の武器庫でもあった訳ですから、その兵器類の管理も当然職務に含まれていたと考えるべきです。景行帝に妹が嫁いでいる物部五十琴の息子は「伊莒弗(いこふつ)」の名前で知られ、彼と倭国造の娘・玉彦媛との間に産まれた物部の嫡男は「布都久留(ふつくる)」と云う名前の持ち主でした。石上神宮の管理者として誠に相応しい命名だと言えます(註:倭国造の祖先は神武帝の東征で功のあった珍彦[うずひこ]で、和爾氏とも近い海人族です。従って物部と和爾一族の縁は古くから継続していた事になりそうです)。

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